LUZの熊野古道案内

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タグ:紀勢西線 ( 61 ) タグの人気記事


2018年 06月 18日

県道木本停車場線 舗装工事

 「県道木本停車場線」などと言ってもピンと来ないでしょう。
 熊野市駅から市役所前を通り本町通りまで登り、そこから本町通りを通り二丁目和田松のところで右に曲がり木本神社前から脇浜に向かう道路です。
 この路線は元は駅から亀齢橋に向かい、川沿いに左折し馬留から新出町・本町に入ったのですが、新出町から駅に向かう道路が昭和30年代に作られてから路線変更になったのです。
 なぜこんなものが県道なのかというと、紀勢西線で紀伊木本まで来た旅人が尾鷲に向かうため脇の浜・木本港から「巡航船」に乗ったからです。
 矢ノ川越えの国鉄紀南線が走り出してからも、海岸沿いの村々・集落を繋いで走る巡航船は残って居ました。
 紀勢線が全通するまで「陸の孤島」なんて呼ばれて居ましたからね。
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 この路線の中で国道から新出町までの20m程は市道で舗装を直していたのですが駅までの区間のカラー舗装が劣化してぼろぼろだったのがようやく修復されます。
 今度は普通の黒いアスファルトだそうです。
 工事は7月8日日曜日8:00~19:00で雨天の場合には変更もありうるようです。
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 業者さんからのパンフレットが町内向けに来ましたので配りますが、ここにも載せておきます。
 最近は堤防工事、急傾斜工事、道路工事などに際してはこの様にパンフレットなど作って住民に説明してくれます。
 新出町は狭いし平坦なので私が全戸に配っています。
 階段の多い町内なら大変でしょうね。


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by je2luz | 2018-06-18 04:04 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 12日

熊野の旅 熊野市駅 がらんどうでは無くなりました。

 キオスクが無くなり、うどん屋も無くなって何も無いがらんどうの駅と化していた「熊野市駅」ですが、自販機が置かれました。
 飲み物とほんの少しの食い物は構内で確保出来るようになりました。
 何しろ、駅前にあったコンビニも土産物屋も写真屋も廃業するくらい寂れた駅前です。
 駅前大改装で噴水作ったり、電線地中化工事をやったり・・・
 5年ほどほっくり返していますが、その間に変化したのは、店舗の廃業だけです。
 敢行客誘致というのに、駅の待合室ががらんどうだったのです。
 まあ、現状の観光客の動向では駅構内でうどん屋をやる人も居ないし、売店をやる人も無いでしょう。
 それに、「西日本旅客鉄道」などと言う会社は国鉄時代から何かと厄介なところですから、素人が参入出来ないでしょう。
 この自販機・・・どこが設置したのかステッカーを見て来ませんでした。
 値段もみませんでしたが、昔のように「汽車の中は何でも高い・・・」と言う時代じゃ無いですから普通でしょうね。
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 このコーナーにあったキオスクも一時期は変な人気があったのです。
 キオスクは鉄道共済会なんてようなところがやって居ましたから、週刊誌の仕入れが早かったのです。
 「少年ジャンプ」「少年マガジン」などが全盛だった頃・・・
 町の本屋さんより一日早くは行ってくると言うので、子供が買いに走った時期もあります。
 左の壁を挟んだ位置の「うどん屋」は新宮の駅弁屋さんの支店だったと思います。
 言うなれば国鉄一家のような店ですね。

 この駅弁屋「丸新」は映画になったことあります。
 新東宝?
 「駅前シリーズ」で、森繁、三木のり平、加藤大介に駅弁屋のお嬢さんが新玉三千代さんだったかな?
 紀勢西線が上機器何社の時代なので、湯川の手前の「夏山・なあさトンネル」が難所で、機関手が気絶するなんて設定を覚えています。
 でも、新宮の駅前なのに「丸新」さんの娘さんが別嬪さんだったかどうかは確かめに行っていません。
 東京時代の映画だし、あまり家に帰ってきませんでしたからね。
 その頃は彼女も居たし・・・
 今の人のように浮気者じゃ無いし・・・
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 1960年 紀勢西線 湯川駅
 この様に蒸気機関車だったのです。
 紀勢西線は最初、軽便鉄道で作られたのだと思います。
 そんな痕跡も宇久井ー佐野辺りにあったように思いますが・・・

    

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by je2luz | 2016-02-12 04:39 | 熊野 | Trackback | Comments(3)
2015年 10月 21日

熊野の旅 紀勢本線 熊野市駅

 今は紀勢本線熊野市駅です。
 この駅が華やかだったのは、紀勢線がまだつながらず、紀勢西線の終着駅だった頃でしょう。
 高速道路と同様で、路線がつながると途中の町は通過ポイントになってしまいます。
 紀勢西線のころは、「紀伊木本駅」でした。
 終着駅と言うこともあり、大阪方面では結構名前が通っていたのです。
 終着駅ですからこの先乗り継ぐ汽車はありません。
 汽車が着くと駅前には国鉄バスが待っていました。
 国鉄バス・紀南線・熊野尾鷲連絡バスです。
 佐田坂・矢ノ川を越えて尾鷲まで、42Kmを二時間四十分掛けて走りました。
 汽車は当然、蒸気機関車が引っ張っていました。
 まさに、「旅」そのものでした。
 不便で時間は掛かったけど、人々は「旅」を楽しんだのです。
 観光地の駅前には、印半纏を来た旅館の男衆が客引きしていました。
 今のようにお高くとまった「女将」なんて居る旅館はほとんど無かったのです。
 フロントなんてのも無くて、部屋に通されると宿帳が出て来て・・・
 ドラマじゃ無いけど、女性同伴だと続柄の所に夫婦じゃ無くても「妻」なんて書いたものです。
 日本には身分証明書なんて持つ人が少なかったので「妻」がまかり通ったのです。
 その頃は、「女の一人旅」は泊めて貰えないことも多かったのですよ。

 そんな古き良き時代の「紀伊木本駅」の雰囲気はもうありませんね。
 紀勢線が全通したころにあった駅前旅館の一軒は「観光案内所」になってかろうじて残って居ます。
 うどん屋さんの「喜楽」さんは残って居ますが、三重交通の切符売り場や他の食堂は全部消えました。
 土産物屋さんの一軒、建物は残って居るのですが、おばあさんが高齢化して店は開いていません。
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 この角の大きなお店が土産物屋さんです。
 たばこ屋さんも兼ねていました。
 大きな建物なので、コーヒー豆売ってたこともあるし、旅行業者が入っていたこともあったように思います。
 今は看板が無いですよね。
 先日までは写真入りの「熊野市の観光看板」が掛かっていたのです。
 外したところをみると、今年の予算の「駅前修景工事」で新しい看板を揚げるのでしょう。
 前のが傷んでいたようにも思いませんが・・・
 駅前にはふんだんに金を突っ込みますからね。
 この古い建物、閉店状態の土産物屋に「看板」揚げるのって、少し違和感ありますね。
 どれに誰に見せる看板なのでしょう?

 隣のはコンビニですが、記念通りに有名チェーンのコンビニが出来て閉店に追い込まれました。
 駅前で営業して居るのは、先ほどの「喜楽」さん、「長嶋屋」さんと言う鯛焼き屋さん、「向井」さんというミカン屋さん、たての通りで「西書店」さん、果物屋さん、「丸山飯店」さん、駅と平行な通りの「産田堂」饅頭屋と「カネ久」の弁当屋、床屋とメガネ屋だけかな?
 塾が一軒、熊野市直営の土産物屋、熊野市の観光案内所・・・
 そうそう、市役所と熊野市文化交流センターや駐車場など市営のものは営業しています。
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 これがお客を運んでくる「特急南紀」です。
 観光が冷え込み、道路に客を奪われ、盆正と花火以外は淋しい汽車です。

 熊野から消えた物・・・
 「オレンジホテル」「吉住」「亀齢館」「御浜館」「朝日館」「酒甚」「観海荘」「かんぽの宿」・・・他にも沢山の旅館が消えました。
 「駅のキオスク」「駅のうどん屋」「駅前食堂群」「パイロットのミカン狩り」「記念通りの商店群の多く」「本町商店街の多くの店」「スナック群」「割烹料理店」「一杯飲み屋」「町の薬局」「個人経営の魚屋のほとんど」「八百屋のほとんど」「写真屋のほとんど」「おもちゃ屋」「映画館」
 寿司屋まで減ってきました。
 「木本の寿司は美味い」と、新宮方面からまで食べに来た時代もあったのに・・・
 農協の購買部も壊滅ですね。
 金があってもおかずが買えないところが続出です。

 道の駅「熊野きのくに」の閉鎖であの周辺には店が無くなりました。
 いくら頼んでも、「移動販売」などには助成しないのが市長の方針ですからねえ・・・
 おかず買えなきゃ死んじゃいますよ。
 こちらへの助成は過疎地の常識なんですけどね。
 もう少しの間は、過疎地でも生きている人が居るのです。
 何とかしなきゃと思っていますが・・・
 熊野市はよそからの人には優しいんですけどねえ・・・
 後二年、熊野市民は耐えなくてはならないのでしょうか?

    

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by je2luz | 2015-10-21 04:10 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 05日

熊野の旅 紀勢西線 行き止まりの駅

 全通まで、紀勢西線の終点は紀伊木本駅でした。
 でも、木本駅から先にもトンネルは掘られていました。
 戦争で中断されるまでは、どんどん延長して紀勢東線と結ぶように頑張って居たようですからね。
 木本高校の所にある鉄橋も古いものです。
 紀勢線の工事が再開されて延長が始まると、新鹿まで一時的に旅客列車も入りました。
 高校の遠足で新鹿まで乗りましたが、客車が足りないので、無蓋車にクラス全員乗り込みました。
 買い出し列車でも引き上げ列車でもありませんよ。
 昭和34年くらいだったと思います。
 いまのJRなら乗せてくれませんよね。
 その延長前から、紀勢西線は大泊まで走っていました。
 貨物列車が「熊野川総合開発」のために国策で走ることになったのです。
 大泊から、「七色ダム」「池原ダム」の巨大なダムの資材を、運んだのです。
 国道42号佐田坂も出来ていたし、その先の国道169号の局所改良で池原へ・・・
 七色向きには、五郷桃崎で分かれて「電源道路」が作られたのです。
 それが今の国道169国道になったのです。

 日本一大きなアーチ式の池原ダムと同時に揚水ダム用の水溜を兼ねた七色ダムと二つのコンクリートと発電所の資材ですから膨大な量だったでしょう。
 補償と工事費で金がうなった時代です。
 山の中に、バーやらクラブやらいかがわしい店やら映画館やらが出来、ついでに殺人事件まで・・・
 木本の商売人も現場近くの神川・上下北山村などへの卸で潤った時代です。
 一時的なダム景気ですけどね。
 大泊の駅は貨物駅として結構繁盛して、「住友セメント」「小野田セメント」二つのプラントが並んだのです。
 ダムに続く戦後の建設時代・・・コンクリートの時代に入ったからでしょう。

 ダムが終わってもしばらくは貨物の扱いをやって居ましたから、私の家の材木もここから貨物に乗せられて、東京に向かいました。
 たき物(薪)なんてのも東京に向かいましたが、それは熊野市駅からでしたね。
 その頃の国鉄貨物は「丸通」という、得体の知れない国策会社が扱っていたのです。
 「丸通」が『有名になったのは「金の延べ棒事件」と言うやつで、役員が金の延べ棒を山分けしたのです。
 電力料金などと同じで「要るだけ請求」だったのですから・・・
 今は、日本郵便に一部吸収されたようですね。

 そうして賑わった「大泊駅」の名残の貨物引き込み線も外されてしまうし、今の残って居るセメンのホッパーへの搬入は随分昔からトラックになっちゃいましたね。
 今は「保線区」の車両とか資材が置かれますが、人間は紀伊長島へ自動車で行っちゃうようです。
 時代ですね。
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 特急で通過する人とかは気がつかないでしょうけど。単線でホームも一本のの片側しか使っていないのに、何となく構内敷地は広いのです。
 高速道路側に線路二本分くらいの余裕が残されていますからね。
 使い道が無いので払い下げもされていません。
 このブログを始めた頃には、使わなくて錆びては居ましたが、線路が残って居たのですけどね。
 写真の整理が悪いので見つけられませんが、フィルムで撮った写真があるはずです。
 季節は春、桜の季節の写真の筈です。
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 草が生えているあたりは線路だったのです。
 ワイドレンズの関係で潰れて見えますが、トンネルは高規格・熊野尾鷲道路です。
 鉄道からも一気に客を奪っています。
 何しろ「ただの高速道路」ですからね。
 血はトンネルの出口は新鹿インターです。


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by je2luz | 2015-02-05 05:09 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2014年 10月 12日

熊野の旅 この地方の中核病院 紀南病院

 この紀南地区は昔は交通の便が悪く、「陸の孤島」などと呼ばれることもありました。
 今の熊野市の中心、木本町は戦前から町制を敷いて居ましたし、鉄道も比較的早くやって来ました。
 しかし、その先の海岸部は鉄道も道路もなく、巡航船に頼る時代が長く続きました。
 木本とて、鉄道が繋がっていたのは紀勢西線・天王寺で、東京に行く時は大阪経由か、矢ノ川峠を越える連絡バスで尾鷲に出て紀勢東線の汽車に乗らなくてはなりませんでした。
 こんな不便なところですから、「病院」なんてありませんでした。
 開業医は結構ありましたが、医院で出来る処置には限界があります。
 と言う事で、先人達が目一杯頑張って病院を作りました。
 木本一町で出来る代物ではないので、当時の南牟婁郡が協力して国からの助成も貰って作ったのが、「南牟婁郡民生病院」です。
 設立は昭和23年(1948)、当時の南牟婁郡は21か町村もあったのです。
 「国保直営南牟婁民生病院」なんてものです。
 昭和55年(1980)に名称をいまの「紀南病院」に改めました。
 改めた「紀南病院」という名前は。田辺にも在ります。そちらも中核的病院らしいです。
 「紀南」「南紀」なんてのは。田辺から紀伊長島までの海岸沿い、150Kmほどの和歌山県側と三重県側に適用されるので仕方ないですけど・・・
 大きな病院の名前が同じなんて、あまり好ましいことでは無いですね。
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 これが、紀南病院本館です。
 前にも取り上げましたが、今回取り壊して新しい本館が出来ることになりました。
 この建物は50年経って、老朽化してきたし、耐震的にも問題があるためらしいです。
 コンクリートの建物って意外と寿命が短いですね。
 この本館は「民生病院」からの物です。
 下の写真はスプリンクラー設備の標識ですが、昭和53年度国民年金特別融資 南牟婁民生病院 と書かれています。
 こんな所に証拠を見つけました。
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 割合と近年まで、お年寄りの人はこの病院を「民生病院」と呼んでいました。
 私など、JRを国鉄とすぐに呼びますからね。
 正式名でなくても通じれば良いでしょう。
 「紀南病院」だと、田辺白浜方面の人だと阿田和の病院だとは思わないでしょう。
 「民生病院」も昔は他にもあったのですが今でもあるのでしょうかね?
                                   続く
     

  

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by je2luz | 2014-10-12 05:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2013年 12月 12日

熊野の旅 熊野市と新宮市

 昔から新宮は熊野の兄貴分でした。
 新宮は旧制の「市」でしたから私が子供の頃にも新宮市でした。
 そして、商店街も駅からの丹鶴町・仲之町と繋がってすごく都会的でした。
 そして遊郭なども浮島なんてかなりのものだったようです。

 社会の教科書に「材木の集積地」として載るくらいですから、筏で熊野川を下ろしてくる材木で繁栄していたようです。
 川向こうの鵜殿村にも筏を引き込む貯木場があって製材が一杯ありましたからね。
 料亭はあるし芸者は一杯居るし・・・
 木本にだって遊郭はあったし芸者も居たし、製材もありましたが兄貴分には勝てませんでしたね。
 何しろまともな川が無いので丸太も牛車で運んでいましたから筏に勝てませんね。

 新宮は熊野川の河口の小さな平野に出来た町で木本よりは大きくてもこぢんまり纏まっていました。
 今でこそ全域町ですが結構田んぼのある町でしたね。
 今の警察だとか県庁舎のある辺りは田舎でしたからね。
 海の方は製材所と製紙工場・・・
 その関係で町中にはそこそこの道がありました。
 だからでしょうね、私が子供の頃に「市内循環」なんてバスが走っていましたからね。
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 その市内循環が最近では「ふれあいバス」、「コミュニティバス」なんて名前で走っています。
 大阪が走らせた赤バスほど高級バスではありませんが走り回っています。
 本数は多くないですが、お年寄りなどは助かるでしょうね。
 熊野市もオンデマンドのタクシーが動き出しましたが、町の構造上巡回バス路線が組みにくいのが難点ですね。
 それと、道が狭いです。
 今のままでは利用が増えないようです。
 と言うより・・・
 知られていないんですね。
 定期巡回のように必ず通るというものでは無いですし、走っていても気がつかないほど地味な白い箱バンです。
 せめてイエローキャブくらいには目立たなくては・・・
 走らせたから事足れり・・・なんては思っていないとは思いますけどね。

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by je2luz | 2013-12-12 06:10 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 11月 24日

熊野の旅 井戸はまだ若い???

 井戸町は昭和の大合併までは「有馬」と一緒になって「有井村」でした。
 長尾山から花の窟につながる下り尾根で完全に分断されているのに同じ村になっていたのです。
 地形的にはくっついている木本と一緒になっていなかったのは、江戸時代に紀州藩の班分けで井戸は新宮藩になり、木本は紀州本藩に残ったと言う、国違いだったこともあるでしょうね。

 井戸は紀伊木本駅(熊野市駅)の裏に大きな沼のような水田と駅前の沼と井戸川対岸の沼水田が大部分で、民家は海岸沿いの松原と山の裾に張り付いた松田地とか馬の戸なんてところにしかないところだったのです。
 駅前が昭和30年代前半に埋められ、駅裏が後半に埋め立てられ、更に対岸も二回にわたって埋められて、新興住宅地、官庁街、学校用地になって行ったのです。
 つまり、戦後に開かれたニュータウンです。

 熊野市の都市計画で作られたもので、道路もそこそこ広く、路地裏の無い町です。
 分譲が始まったのは駅前の丸山町が伊勢湾台風の前、駅裏・赤坂が私が東京に出た頃です。
 安くは無かったですね。
 沼とはいえ、造成にはお金も掛かるし、熊野市には金が無かったので不動産業的に稼ごうとした節もあります。

 こんな風に戦後開かれて来ただけに、人が住み着いたのもその頃です。
 つまり、井戸町民の多くが一世か二世なんですね。
 未だに家が建っていない土地が多く見られるのが、「田舎らしい」ところです。
 「子供のため」といって買ったけど子供は他所に行っちゃった…
 「財産に」と買った土地も、課税不動産評価は高いけど、最早まともに買う人も無し…
 それでも、木本に比べれば人口も多いし、年齢も少し若いですね。

 と、言うことで…
 昨日の井戸の祭りを覗いて来ました。
 浦安の舞の舞姫の数も多いですね。
 境内で遊んでいる小さい子供の数も木本神社の時よりは少しだけ多いです。
 「新興住宅地」が高齢化するのはまとまって入植しているので一度に進むと言われますが、田舎の新興地では他所の町から働き盛りがどっと入ってきた訳ではないので、緩やかな進行状態のようです。
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熊野市周辺地図です
 
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by je2luz | 2012-11-24 11:00 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 10月 21日

熊野の旅 市木 緑橋

 久しぶりに「緑橋」に行きました。
 国道42号線を新宮方面に走れば必ずすぐそばを通るのですが、あまり立ち寄ることは無いです。
 ちょいと時間つぶしによったのですが、いつもながら良い建造物です。
 説明は下の写真の通りです。
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 打ち直すよりこれの方が確実ですね。
 大正時代に人力で作り上げたものですが、今でもしっかりしたものです。
 職人の腕が生きているものですね。
 下の写真の向こうに見えているのは、国鉄紀勢西線・今のJR東海紀勢本線の市木川に掛かる鉄橋です。
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 橋杭も欄干も全て紀州御影を加工して組み上げています。
 路面の水捌け口もこんな風に石を加工して並べてあります。
 欄干は御影を5寸ほどの丸棒に加工し、支柱にほぞを掘ってはめ込んであります。
 今やったら一体いくらかかるでしょうね?
 残念ながら、一部で、たぶん事故で壊されたのかと思いますが、石組みがなくなったところがあります。

 汐の逆流防止水門としても、いまだに現役です。
 電動モーターで…と言うわけには行きませんが、樋門は必要に応じて開閉されます。
 ほぼ100年…
 おそらくこれからも背後に農地がある間はこの樋門が守ってくれるでしょう。

 こんなブログもはじめました。
 ★★
   


熊野市周辺地図です
 
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by je2luz | 2010-10-21 13:17 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 12月 06日

熊野の旅 こんな列車も良いでしょう? 紀勢本線

 「紀勢本線」は最近では「本線」をつけないで呼ぶことが多くなっています。
 まあ、「東海道本線」でも「本線」を付けなくなっていますからね。
 こまかいローカル線が廃線になったり、第三セクターの鉄道になったりして、路線が減ってしまい、昔の本線ばかり残ったと言うのもあるでしょうね。
 「紀勢本線」も昭和34年に全通していたから廃線とか三セク移行しないで済んで居ますが、繋がっていなかったらどうだったでしょうね。
 繋がっていても国鉄の最後の頃には「廃線論」があったのです。
 『乗って残そう 紀勢線』などという運動があったくらいですからね。
 繋がっていなかったら、多分、三セク鉄道でずっと廃線がちらついているでしょう。
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 この「紀勢本線」、この写真は今はJR東海、旧国鉄『紀勢西線』の「神志山駅」と「紀伊市木駅」の間です。
 「年中みかんが採れる町」をキャッチフレーズにしている、三重県南牟婁郡御浜町です。
 このあたりでは山と海の間が紀勢線沿線では一番広いところです。
 紀州は紀伊国屋文左衛門の頃から、「みかん」の産地です。
 紀勢本線は紀州に入ってからは、基本的に海岸線に沿って走りますが、ずっと、みかん畑がついて回ります。
 国道42号線もみかん畑が続きますが、国道より「家の裏」を通る鉄道の方が昔ながらの風景をとどめています。
 ことにこのあたりでは、汽車の窓から見ると手が届きそうなところにみかんがなっています。
 現に、列車が通過するときには風圧でみかんが揺れるほど近くに枝が出ていますからね。
 
 本当の『本線』になると、線路の周りの柵が頑丈になって、『来るな!』と言っているみたいですが、「紀勢本線」のように、ローカル線的本線だとそんなに大層に分離はされていません。
 東南アジアの鉄道のようにどこが鉄道敷地かわからないなんてことは無いですけどね。

 こんなのんびりした光景の中を走る紀勢線なのですが、この区間は珍しく直線が続くので、特急列車は風を巻き上げて走り抜けてゆきます。
 早くて空調も整っていて快適なんですが、およそ情緒なんて無いですね。
 『旅情』なんてのは、汽車が無くなり、客車も消え、夜行列車も無い時代では探さないと見つからないでしょう。
 今では、温泉場などのロケで「旅情」を作り出していますからね。

 でも、こんなローカル本線を普通列車で熊野の旅を白と言っても、今の時代には流行らないでしょうね。
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 カメラはソニーA350+シグマ10-20ズーム

熊野市周辺地図です
 
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by je2luz | 2009-12-06 11:41 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 20日

熊野の旅 もうすぐ半世紀 紀勢本線全通

 昨日はがっかりしました。
 何しろ、同じものを二度と書けない方の物書きなので・・・
 一日経って、気を取り直してチャレンジします。

 昭和34年(1959)7月15日に戦前から進められていた紀伊半島をぐるっと回る『紀勢本線』が全通しました。
 この日で、『紀勢西線』『紀勢東線』な無くなって、一本の『紀勢本線』になったのです。
 そして、『国鉄紀南線』のバス路線は鉄路の無い部分の連絡バスの役割を終えたのです。
 もう一つ・・・『紀伊木本駅』が無くなって『熊野市駅』になってしまいました。

 紀勢線が全通すると同時に消えたものに、新宮から相可口までの区間で旅客列車を引っ張る『蒸気機関車』があります。
 それまでは紀勢線は東西共に蒸気機関車が客車を引っ張っていました。
 線路も細いし、鉄橋も弱いので『D51』なんて重量級の機関車は入ってきませんでした。『C』系列のものでしたね、

 その頃の旅行では、夏になると『扇子』が必需品でした。
 普通の平地を走っているときでも『煤煙』(石炭かす)が飛んできてひざに溜まるくらいですから、紀勢東線側の『尾鷲』-『大内山』区間など、トンネルが多いですから窓を閉めていても入ってきて服に積もりましたし、下手に払うとシャツなど真っ黒でしたからね。
 それに、その頃の客車には「冷房」なんてありませんでしたからまさに必需品でした。
 国鉄の技術陣も工夫して、煙突の上に蓋をつけて、トンネルと七では煙が出ないように・・・
 機関手たちも、トンネルの手前では目一杯石炭をたいて、蒸気圧を危険ゾーンのぎりぎりまで上げてトンネル内で石炭をくべないようにして・・・
 でも、トンネルの連続区間ではその対策にも限界があります。
 まして、紀伊長島から大内山に向かう区間のように、急勾配の上り坂でトンネルの連続・・・では、釜をたき続けないと止まってしまいますからね。

 その頃は客車に『一等』『二等』『三等』とありました。
 切符も「三等…赤」「二等…青」「一等…白」だったかの色分けがされていました。
 『一等』なんてのは東海道本線の特急『つばめ』『ふじ』なんてのにしか連結されていなかったものです。
 『二等車』はローカル線でも車両の半分、とかに作られたものが走っていました。
 
 私は小さな頃に祖父に連れられての家族旅行では『二等車』に乗せて貰いました。
 『三等車』は垂直な背もたれの、下手すると、背もたれが板の座席なのに対し、『二等車』は今の座席のように柔らかく、頭のところには洗ってアイロンを掛けたカバーがかかっていました。
 車掌もその列車で一番偉い『専務車掌』が白い手袋をはめて、敬語を使って応対していましたね。
 まさに、時代物に出てくる社会でした。
 
 大きくなって自分で切符を買って乗るようになってからはそんな切符は買うはずもなし・・・
 草しているうちに『三等』というイがなくなりましたね。
 全部が『二等』扱いになって、切符も『赤い切符』が消えました。
 赤い切符が無くなってからその日から車両が変わったと言うことはありません。
 ほとんど存在しない『一等』が廃止されたので、順に繰り上げになっただけです。
 そして、『差別はいかん』と、考えたのかどうかは知りませんが、階級制ではなく『グリーン車』なんてものを作り出し『区別』するようになりましたね。

 この「一等・二等・三等」の区分は今でも車両の識別富豪の中には生きていますね。
 電車のわき腹にかかれた、『モハ××』。ジーゼルの脇に書かれた『クハ○○』などの『ハ』は三等車両ということですからね。
 たしか『モハ』はモーター付き三等車両、『クハ』は駆動エンジン付き三等車両…だったように思います。
 もう半世紀も昔に覚えたものであまり定かではありません。
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カメラは

 レンズはカール・ツァイス・イエナ ゾナー135mm f4 東ドイツ

熊野市周辺地図です
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by je2luz | 2009-05-20 10:43 | 熊野 | Trackback | Comments(0)