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2014年 09月 21日

熊野の旅 熊野市駅の現状

 熊野市駅の駅前の記事を載せましたが、少し前、駅構内のキオスクがなくなったことも載せました。
 熊野市駅の待合室は大きくないです。
 今は連絡バスへの乗り換え乗客が居るでも無し、昔のように一時間も前に駅に来て待つ・・・なんて人も居ませんからね。
 乗降客が極端に少ないですし、列車の本数も少ないですからキオスクが維持できなくて当たり前です。
 駅前には一応コンビニと本屋がありますから、キオスクの商品とダブっていますしね。
 駅弁を置いて売れる駅ではありません。
 昔の一時期、新宮の駅弁がここに置いていたようにも思いますが、駄目だったのでしょうね。

 6月頃キオスクがなくなったのですが。今度は、「駅うどん」が無くなるそうです。
 この経営も新宮の駅弁屋「丸新」さんだったはずです。
 今でも看板には「丸新」のマークがあります。
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 「丸新」は新宮の駅前にある駅弁屋さんで、昔、東宝の映画「駅前シリーズ」でモデルになりました。
 森繁久弥、三木のり平・・・そして、丸新のお嬢さんが新玉三千代さんでした。
 実物の丸新にお嬢さんが居たかどうか、美人だったかどうかは知りません。
 映画は見ました。
 紀勢西線が蒸気機関車だった時代で、湯川の手前「夏山・なあさトンネル」が難所として扱われていました。
 新宮駅は紀勢西線と紀勢東線の連絡駅でしたから大きな駅でした。
 駅舎と駅前は昭和30年代に整備されて、今では中途半端に近代的なもので、味気ないですね。

 熊野市ではとても駅弁屋は出来ないし、うどん屋さんも地元で出せる・・・国鉄に食い込める・・・業者もなかったのでしょうね。
 私も何度か食べましたが、近年では地元の人が簡単に食べられるうどん屋として利用はしていましたが、繁盛はしていませんでした。
 座席数10個も無い小さなカウンターだけですし、ホームで食うような時代じゃないですしね。
 閉鎖もやむを得ないでしょうね。
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 熊野市駅のトイレはJR(国鉄)の許可を貰って、熊野市が設置しています。
 前回の工事も難物だったのですが、今回も結構手こずっての改築になって居ます。
 一応、男女別になって居ますが、非常に小さなものです。
 普段の駅の利用者数から言えばこんなものでしょう。
 それでも、狭いとか言われますね。
 隣の交流センター、図書館が開いている時はそちらのも自由に使えます。
 普通の駅で歩き回るより、そちらに行っても近い位です。
 とにかく、国鉄時代から駅とか線路に関わる工事の許可は大変なのです。
 ファミリー企業がついて回りますし、それ以外の業者がやるとなれば・・・
 一般には余り知られていない事情があります。
 なにしろ、汽車にはねられたら、はねられた人が弁償しなくてはならない世界なんです。
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 キオスクの消えた熊野市駅待合室です。
 今はコインロッカーも無いのかな?
 無人化できないから駅員が居るという感じで普通の時間は窓口が閉まっているほど暇なんです。
 確かに、大事な足なんですが、もはや「足」に過ぎなくなっています。
 盆正くらいしかこの駅を見ない人にとっては、サービスが悪いと言いたいでしょうが、営業できなければ消されちゃいます。
 そして、これがローカル線の現実です。
 線路を外されなかっただけ紀勢線は恵まれています。
 次に合理化の嵐が吹く時まで乗降客を残さなくては・・・
 高校を存続させないといけませんね。

      

  

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by je2luz | 2014-09-21 05:35 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2013年 12月 07日

熊野の旅 半世紀前 3

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 これは50年前の熊野市駅です。
 ほんの少し前まで「紀伊木本駅」だったのです。
 紀勢本線の全通と共に駅の名前が変わっちゃったのです。
 そして、紀勢西線の終点のここから紀勢東線の尾鷲までの鉄路の無い区間を結んでいた「国鉄紀南線」というバス路線も消えたのです。
 この写真を拡大すると、バス乗り場の看板が「紀伊小阪方面」と変えられています。
 熊野市の交通体制が大きく変わった時です。
 そして、駅前や木本・井戸松原などに在った旅館の衰退が始まった時です。
 尾鷲までが巡航船だった時代が一番旅館が流行った頃で、矢ノ川越え2時間40分のバスの時代も乗り継ぎの関係と体力の関係でここに泊る人も結構居たのですが、汽車を降りなくて済むようになって、当然のように降りる人は減るし、泊る人は激減しました。
 私の記憶にあるだけでも。亀齢館・御浜館・よし住旅館・日の出館・朝日館・淸玉旅館・一松旅館・酒甚・・・もっとありましたからね。
 紀勢線全通の前には、「交通の便が良くなって町が発展する」と言われたのですけどねえ・・・
 写真にもありますが、材木や薪などが貨車で東京送りできるようになったので、少し潤ったのですけどね。
 この少し後になり、我が家が製材所を再開した頃には貨車で材木を東京に出しました。
 大学の頃には恵比寿の貨物駅に家の製品が着いていたのです。
 そして、ほんの少しの間にトラック輸送に変わりました。
 紀勢線が華やかだった時代って在ったのでしょうかね?

 学生時代には寝台急行「那智号」で東京とを行ったり来たりしました。
 盆とか正月には予約しないと寝台には乗れませんでした。
 大きな荷物は「チッキ」で送りましたが、これはどうやら「チケット」の変化したもののようです。 
 「手荷物」という扱いでしたからね。
 手荷物なのに東京まで一週間掛かったり・・・
 春闘の頃には何時になるやら・・・
 これは貨車に積んだ材木も同じでしたから、道路が少し良くなったら貨物をトラックに取られて当たり前だったのです。

 でも、この写真の頃には夢の紀勢線全通で湧いたのです。
 ちょうちん行列も在ったはずです。
 まあ、高速道路ではしゃぐのも無理ないでしょうかね。

 寝台車は「ハネ」でしたね。
 そして切符もまだ三等だったかな?
 切符の三等が無くなっても車両区分の「ハ」「三等」は残ったようです。

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by je2luz | 2013-12-07 07:20 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2013年 02月 20日

熊野の旅 貨物列車廃止

 今度のダイヤ改正で紀勢本線の貨物列車が廃止になるそうです。
 ここにも何度か写真を掲載したジーゼル機関車DD51の引っ張る、製紙会社の荷物を積んだ専用貨物列車です。
 紀南高校の下校時に阿田和付近を走っていました。

 専用列車ですから途中での荷役があるでも無し…
 熊野市駅で時間調整していても待避線でおとなしく止まっているだけで、汽車好きの人以外は居るのも気付かないくらいでしょう。
 時間が来ると駅員の見送りも無く出て行きます。
 旅客列車と貨物では会社が違いますからね。

 かつてはここから出て行く材木も貨物で運んでいました。
 紀勢線が全通してからは貨物列車で東京の市場に出せるようになったからです。
 時間が掛かるのがやっかいなことで、「春闘」華やかなりし頃だと、春先には東京に着くのはいつの事やら…
 空の貨車が回されてくるのもいつの事やら・・・
 熊野市駅で積むと人力なので荷物は傷まないのですが、大泊で積むとクレーンになり当て物をしてくれない係に当たると荷物に傷が入るし…
 なんてことで、トラックの時代になると、製材所の荷物はごっそりトラックに変わりました。
 トラックだと製材工場から市場まで直接届くし。列車だとこちらでも貨車一杯になる分、何回もトラックで駅まで運ばなくてはならないし、東京でも恵比寿の貨物駅とかから市場まで日通なんて会社のトラックを使うし…
 ちっとも合理的では無かったのです。
 コンテナでは無く無蓋車でしたからね。

 この廃止される貨物列車の荷扱い駅は「鵜殿駅」です。
 これがあるので鵜殿駅は構内も広く線路も多いのです。
 JR東海では一番南の最後の駅なのですが、旅客の方はJR西日本の「新宮駅」が始発・終着になるので、鵜殿駅は途中駅になります。
 3月の廃止以降は保線用車両が置かれるくらいで線路も使われなくてさびて行くのでしょうね。

 貨物列車の肩代わりは船だそうです。
 コンテナですから船の荷役も簡単でしょう。

 「準急」が無くなり「急行」も「快速」も無くなりました。
 国鉄もJRなんてのになりました。
 貨物列車も消えます。
 まだ、紀勢線が消えないだけましなのでしょうね。
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熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2013-02-20 10:00 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 07月 01日

熊野の旅 私の知らない矢の川道

 私は紀勢線全通前の「矢の川越え」を知っている一人です。
 私が高校受験で東京に出たときは国鉄バスで2時間40分かけて矢の川峠越えをしました。
 尾鷲から蒸気機関車の引っ張る汽車で相可口(多気)まで紀勢東線、その先は参宮線、関西本線、東海道線と言った旅でした。
 この受験で落ちたので地元の木本高校に進学し、大学受験の時には紀勢本線で乗り換え無しに上京しました。
 まあ、楽に上京したのにやっぱり落ちて浪人し、三度目の正直で付属高校を落とされた大学に入ったものです。
 
 この国鉄バスでの矢の川越えですら、覚えていて…乗ったことのある人はもう少ないです。
 その頃は尾鷲まででも2時間40分掛かるのですし、全国でも一番険しいのではないかと言われる山道越えですから、よほど用事が無い限り乗ろうなんて思う人は少なかったのです。

 この「矢の川越え」は日本で最初にジーゼルエンジンバスが投入されました。
 高速回転は苦手でもトルクがあるジーゼルがこうした道には適しているのですが、まだ実用化が完全になっていなかったのです。
 ここと長野県の路線で実験をかねて投入されたのです。
 私の子供のとき、三重交通バスは「木炭エンジン」を積んでいました。
 これこそ覚えている人は少ないでしょうけど、大きなタンクをしょったもので名前の通り「木炭」を使って走りました。
 蒸気機関ではなく、木炭を不完全燃焼させ、発生する一酸化炭素ガスを使ってガソリンエンジンを回すものです。
 後のタクシーなどが使ったプロパンガスエンジンのものすごく馬力の無いバージョンです。
 それでも、これは「再生可能エネルギー」を使ったものなのです。
 この三重交通バスは飛鳥町小坂の「へり道」と呼ばれる小さな坂道すら登れなくて、途中で止まるとバックして惰力をつけたり、乗客が降りてお尻を押したりしていました。
 その時代でも、ジーゼルエンジンの国鉄バスが全く問題なく走っていましたから、ジーゼルの威力はすごかったのですね。

 今でこそ、鉄道も道路も利用者の少ないローカル路線ですが、かつては紀伊半島をぐるりと回る幹線が切れた区間で、「国鉄バス」は「国鉄紀南線」と言う重要な連絡バスだったのです。

 ところで、この矢の川峠越えの新道が出来てバスが走るまで…
 「念仏坂」なんてまで呼ばれる所のあるような難所の急斜面…
 どうしていたとお思いですか?

 なんと、今で言う「ケーブルカー」「空中ケーブル」で人を輸送したのです。
 と言っても、二人乗りの小さな箱が取り付けられたもので、かなり怖いものだったようです。
 地元では「索道」とか「野猿・やえん」と呼ばれました。
 この索道は「紀伊自動車」と言う会社が昭和2年から10年営業したもので、日本最初の旅客用索道とも言われています。
 と言うことで、私の生まれたときには「省営バス」が矢の川を越えていましたし、物心付いたときには「国鉄バス」になっていました。
 それでも、お年よりは「省営バス」と呼んでいましたね。
 決して古いのではなく、私が東京に出た頃でも、東京のお年よりは山手線などを「省線」と呼んでいましたよ。
 余談ですが…東武東上線などは「おわい電車」なんていわれましたね。

 と、言うことで…
 この索道による「矢の川道」はさすがに私は知りません。
 下北山に通じる道の一部にもあったやに聞きます。
 紀州鉱山の索道は鉱石用でしたが、内緒で人も乗ったようで、おちて死んだ人もいたと聞きますね。
 人間、なるべく楽が出来るようにがんばるようです。
 でも、ちいちゃな屋根も無い箱に乗って空中を行くなんて高所恐怖症の人には不可能な乗り物ですね。
 楽をとるか、恐怖から逃げるか…
 どっちにします? 
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by je2luz | 2012-07-01 11:37 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 01日

熊野の旅 一世紀あまりの歴史に幕 尾鷲ー須賀利巡航船

 この地方は元は「陸の孤島」と呼ばれていました。
 昭和36年に紀勢線が全通してようやく海岸沿いの大きな集落に陸上交通の便が出来たのです。更に道路が整備されたのはその後でした。
 なにしろ、リアス式海岸で険しい山がそのまま海に落ち込んでいるような所ですからね。
 三陸海岸ほど長くは無いですが40Kmほどの難所だったのです。

 紀勢本線が全通するまでは尾鷲ー木本間は「巡航船」で結ばれていて、途中の村や集落を順に寄港して居ました。
 波止場の無い港では「はしけ・伝馬船」でお客さんや荷物を積み卸ししました。

 こうして、大事な足だった「巡航船」は昭和30年代を最後に姿を消したのですが、一カ所残っていました。
 「尾鷲」と尾鷲市の飛び地の「須賀利」を結ぶ巡航船が残されていました。
 ここは地図の上では「海山町」に入っていて当たり前に見えますが、昭和の合併当時には陸上交通の道路も無く、外への通路は尾鷲と結ぶ巡航船だったので尾鷲市に入り飛び地になったのです。
 巡航船の就航は1915年・大正4年だそうです。
 100年を超す歴史があるのですね。
 陸路が通じたのは1982年昭和57年だそうです。
 
 私も何度かここを訪れたことがあります。
 もちろん、陸路ですけどね。
 こじんまりした漁村です。
 昭和60年代の前半ですが、のんびりしていて良い所でしたが、過疎化はもう進んでいましたね。
 そして、巡航船の利用者もどんどん減ったそうです。
 通学する子供も居なくなるし…

 と、言うことで…
 先日行われた住民投票で巡航船の廃止が決まったようです。
 深山の矢口まで入っている三重交通の路線に連絡するワゴン車が走るようです。
 一日4往復…
 海に比べれば「欠航」なんて回数は少し減るのでしょうね。
 巡航船より少し高くつくみたいですが、利用者のほとんどが行く「尾鷲市総合病院」へなら、波止場からのタクシー代が要らないので少し安くなるのだとか…
 町へ遊びに出るのでは無いのが悲しいですね。

 もし、この巡航船に乗っておきたいのなら早めに行かれた方が良いと思いますよ。
 航路の廃止の時期は新聞には出ていませんでしたけど…
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 これは1962年の木本ー尾鷲の巡航船が木本脇浜に入るところです。

 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2012-02-01 09:24 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2012年 01月 31日

熊野の旅 熊野のタクシー

 人口が少ないし、列車で降りる観光客もそんなに多くないのに、熊野市駅にはいつも客待ちタクシーが何台も並んでいます。
 もっとも「流し」なんてやっても手を挙げる客など居ませんし、市街地は10分もかからずに回ってしまいますからね。
 バスの本数は少ないし、足の無い人にとっては大事な交通手段なのでしょうが、どれくらいの利用があるのか心配になります。

 ここのタクシーは二系統あります。
 この二系統体制は私が子供の頃からの物です。
 私が子供の頃には「木本タクシー」と「双葉タクシー」というのがありました。
 「木本タクシー」は松原にあったと思います。
 「双葉タクシー」は水谷茶屋でしたね。
 木本タクシーの方が古いようでしたが、黒塗りのT型系統のセダンを使っていたりしました。
 私の祖父は、この木本タクシーの山本さんとか言う運転手がお気に入りでその人ばかり呼んでいましたね。

 紀勢線が全通し、紀伊半島の観光資源を狙って関西の私鉄が入り込んできた時、「木本タクシー」は「近鉄タクシー」になり、「双葉タクシー」は「南海タクシー」になりました。
 鬼ヶ城の売店や食堂は「南海電鉄」、入れなかった近鉄は外に「近鉄ロッジ」なんてのを作ったり…
 観光ホテルの「オレンジホテル」なんてのが出来たのは「高島屋日発」とか言う南海系列でした。
 尾鷲の「サンポートホテル」も同じ南海系列でしたね。
 しばらくして、国内の観光には先が無いと分った段階でこの大手二社は紀伊半島からどんどん撤退して行きました。
 国鉄紀勢線を近鉄に売却しようなんて動きもありましたが実現しませんでしたね。
 近鉄に売ってあったらもう少し客が居たかな?
 近鉄は伊勢線があるし紀伊半島一周となれば色んな戦略を考えたかも知れませんし、逆に不採算だからと言って廃線したかも知れませんね。

 観光部門から撤退してからもどうでも良い程度のタクシーはしばらく看板はそのままでしたが。今では「クリスタルタクシー」と「第一タクシー」になったようです。
 それでも二社体制ですね。
 基本的には流しをやらないので「ハイヤー」のように黒塗りです。
 夜中に人がうろつく町では無いのでタクシーという物は夜の12時を過ぎると駅にも居なくなるし走行しなくなるのです。
 最近は飲み歩かないので分りませんが、以前は12時になってくるとスナックのママさんが「タクシー呼びましょうか?」と必要そうなお客さんに声を掛けた物です。
 それを潮に客の半分くらいが帰るというパターンが多かったです。
 今は「運転代行」なんてのが田舎にもありますから様子は変わったでしょうね。
 でも、いまは飲み客ががた減りですから「代行運転手」も本業としては大変かと思います。
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by je2luz | 2012-01-31 09:48 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 11月 18日

熊野の旅 紀伊長島は 2

 紀伊長島町長島地区は典型的な漁師町とその商店街と言う作りです。
 こうした街を見慣れた人だと歩き回ってもさほど新しい発見はないかもしれませんが、今流の街に住んでいる人から見ると、別の世界のような物かもしれません。
 表通りこそ車が通れる広さですが、人々が生活しているのは、『路地』です。
 紀伊長島ではそうした道を、『あい』と呼んでいるようです。
 「隘路」のあいか「間」のあいか・・・どっちにしても、「狭い」ということでしょう。木本では「迫・せこ」と呼ぶのと同じでしょうね。
 木本の「せこ」は裏道的なものが多く、そこに向いて住んでいる家は少ないです。
 しかし、長島では「あい」は立派な道です。そこに向かって生活している家が多いのです。
 建築基準法なんてのを引っ張り出したら、建て替えも何も出来ない屋敷と言うことになります。
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 ワイドレンズを使っていますからすんなり収まっていますが、普通のレンズでは収まりにくいほどの路地ですが、これは広いほうです。
 立ち並ぶ家も、表に面した玄関や窓などはアルミサッシに換えられてしまって、絵としては収まりが悪くなってしまいましたが、ひしめき合うように立っている家は古いままです。
 そして、中の構造は木本などと同じで、土間の通路が裏まで通っていて、前と後にしか窓もない造りです。日本の古い街はすべてこんな物ですね。
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 明るい外から入ったときの家の中は左の写真のような物です。
 目が慣れてきても、右の写真のようには見えませんが、こんな風な作りが共通した物です。
 この家の方は、「かまんで…家の中も写さんせ…」といってくれました。
 昨日も書きましたが、こうした人たちが「紀伊長島」の一番大きな『観光資源』かも知れません。
 でも、ぞろぞろ観光客がうろついて、無断で人の家にまで踏み込んできたら…
 そうした観光客の悪いマナーで壊してしまった観光地もたくさんありますからね。
 こうした、町並みは、普通の生活の場であることを忘れたら、残るのは「迷惑」だけです。
 だって、こうしたところでも、観光客は一円の金も落としませんからね。
 町中にちょいと入れる食堂があるわけでもなし、喫茶店もない事はないですが、今の人は喫茶店で休むなんて習慣はないですしね。
 「食堂をやったら…」とか「土産物屋を…」などと、気楽に言いますが、慈善事業ではないのでそんな店は成り立ちませんしね。
 この街を維持するには、本業の漁業が生き延びることが最低条件でしょう。
 にしても…
 この式の家は、若い者にとっては住みにくいんですよね。
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 長島の良いところはこうした道々です。
 かといって、そこにあるのは人々の生活です。 映画のセットではありません。
 「通らせてもらう」、「見させてもらう」…という気持ちが観光客の側に無ければ、せっかくの長島の人の人懐っこさが消えてしまうかもしれません。
 観光資源だけど、「観光地」にしてしまってはいけない場所でしょうね。

カメラはソニーα350+シグマ10-20ズーム


紀北町紀伊長島周辺の地図です
 

by je2luz | 2009-11-18 11:36 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 11月 16日

熊野の旅 北牟婁・紀伊長島へ

 三重県北牟婁郡、今では「一郡一町」になっています。
 県などの思惑では「平成の大合併」で消滅するはずだったのですが、尾鷲市との合併がならず、紀伊長島町と海山町が合併して『紀北町』が出来ただけにとどまりました。
 
 紀伊長島は熊野の地の端っこ、伊勢の国との国境です。
 深く切れ込んだ湾の奥にあり、天然の良港と言う事で古くから漁業と海運で栄えたところです。
 今でも、紀伊勝浦、尾鷲に並んで、紀州では指折りの漁師町です。
 近代に入って、紀勢東線の建設が進んでくると、東線側の機関区・保線区の基地などが置かれ、駅の作られた「東長島」は国鉄の町としても栄えました。
 さほど大きな物でなくても、職員の官舎が立ち並んで安定した収入のある国鉄マンが町を支えていたのです。
 もともとの長島の漁師町と、「赤羽川」を挟んだ東灘島とでは町の感じが随分違った物です。

 50年前の『紀勢線全通』と「ジーゼル化」によって、紀伊長島駅の様子が様変わりしました。
 列車の編成替えは、新宮駅や亀山に移ってしまい、水の補給などのいらない「ジーゼル機関車」は長島から国鉄職員の姿を消してゆきました。
 国鉄城下町の部分が「国替え」で消えたわけです。
 「保線区の基地」も国鉄民営化、合理化で大きく縮小されていったようですしね。
 いまでも紀勢線のJR東海側の保線基地はここにある感じですけどね。
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 そして、紀伊長島の町は元もとの漁場の町が主役になりました。
 町全体が漁師町、そして、その漁師を相手の商売人の店がひしめいていたのが昔の「長島」だったのです。
 私は30年程前には随分この町にもやってきました。
 道は狭いし、人とは多いし…
 人も声は大きいし…
 賑やか極まりない町でした。
 でも、その頃でも、すでにさびれて来た言われた物です。

 国道42号線が改良され、狭い長島から出て行って、少し山のほうをバイパスして、町は静かに、そして安全になりました。
 でも、何処の町でも起こるように、お店の一部はその国道に移って行きました。
 狭い町中より広くて駐車場もあり、明るくて新しい店がぽつぽつと国道沿いに出来ました。
 そして、スーパーマーケットの時代へ…
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 この流れが生まれていても、まだまだ町中が元気だった頃に比べ、久々に訪れた「長島の街」はびっくりするほど変わっていました。
 それも、写真にある、表通り、旧国道のメインストリートが一番変わっていました。
 一種、廃墟の町的な感じで、見受けたところでは一割ほどが空き地になり、残ったお店の建物も半数以上が廃業しているようです。

 そうでしょう・・・
 30年前に働き盛りだった50歳は80歳に…若造の30歳代でも60代になっているわけですからね。
 それでも、漁場の街でお金も動く所だったからでしょう、つい近年まで、廃業せずに頑張っていたと言う証があちこちに見られる店舗跡が並んでいます。
 もっと早く、町の中心が移って行って、商店街をあきらめた木本町の本町商店街とは雰囲気が随分違います。
 熊野古道歩きに来て木本の町を歩いた人の殆んどが、「本町」が立派な商店街だったなんて気づく人は殆んど居ないでしょうからね、
 長島の商店街は、住宅街に変身する隙も無く時代に押しつぶされたようです。

 これが、長島のメインストリートの現状ですが、観光客向きには、裏通りに立派な資源が残っています。
 そちらは明日にでも紹介します。

紀北町紀伊長島周辺の地図です
 

by je2luz | 2009-11-16 10:42 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 08月 26日

熊野の旅 専用列車らしい・・・紀勢本線貨物

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 一昨日書いた紀勢本線の貨物列車を反対側・山側から撮りました。
 夕方だとこちらの方が光の状態は良いです。
 カーブの向きはこっちより向こうの方が良いのですけどね。

 この貨物列車、何を積んでいるのだろう・・・と思ったのですが、どうやら、鵜殿、今の紀宝町の『紀州製紙』の専用列車のようです。
 この列車は紀州製紙からこのままの形で出てきたものです。
 国道42号線で唯一つの踏み切りがこの「紀州製紙」に入ってゆく引込み線の物です。
 国道が改修されるまでは、あっちでもこっちでも本線を渡る踏切があった物です。ことに、記載東線側の三瀬谷だとか方面は多かったように思いますが、今では国道が線路に沿うように走って踏切がなくなっています。
 鵜殿の踏み切りは引込み線なので、随分昔に国道優先式に変わっています。
 いまでは、午前中に工場に引き込まれたこの編成の列車が夕方になったら出てくると言う往復だけですからね。
 たしかに、「紀州製紙専用列車」でなければ、昔のように貨物を扱うと言う駅は無いのですから列車が成り立ちませんね。
 鉄道につき物だった「〒」マークの入った郵便車両も今では無いですしね。もちろん、チッキなんて便利な制度も無いですし・・・
 「チッキ」なんて知らない・・・と言われそうですね。
 汽車に乗るのに切符を買えば、邪魔な手荷物は旅客便に連結してある貨車に積んで運んでくれると言うものです。運賃も安かったのです。呼び名は『手荷物便』だったかと思いますが、そこは器用な日本人ですから、ハイカラな「チケット」をいただいて「チッキ」になったようです。

 大昔、学生時代には上京する時の布団などもこれで送ったものです。宅急便なんて物はなかったですからね。
 駅で受け付けるのは『国鉄駅員』、向こうで配達してくるのは『丸通』でした。
 「日本通運」はがっちり「日本国有鉄道」に喰らい付いて居ましたからね。
 国鉄同様、『満鉄』の引揚者を大量に抱えて膨れ上がったとも聞いています。
 国鉄を食いつぶしながら、役員が金の延べ棒を山分けした事件も有名だったのですがね。
 すっかり勢いをなくした日通、今度は『日本郵便』と業務提携から合併を狙っているようですね。
 体質ですね。

 熊野の日通営業所は今建築中の「熊野市営文化会館」とやらでなくなったのかな?
 配達の方は通販で物を買うと時々日通さんが来てくれますけどね。
 『ペリカン便』が知らない間に『JPエキスプレス』なんてのに変わっていますしね。
 HPなどは完全に真っ赤かの郵便局のもので、日通の黄色なんかすっかりなくなっています。

 と、言うことで、朝夕の二回、国道42号を貨物列車が横切ります。
 出くわしたら運がよいほうでと思いますよ。

 カメラはソニーα350+ミノルタ28-85ズーム・85mmで使用


熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-08-26 10:30 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 08日

熊野の旅 伊勢路 川添

 今回の紀勢東線側の撮影は松阪駅まで早朝の近鉄線に乗る人を送っていった帰りに行ったものでしたが、三月はじめの時期で、日が昇るのが遅く、更に、当日は運悪く冷え込んだので徹夜明けのボケた頭では日が高くなるまで待機する気力も無く、どんどん走って帰ってしまいました。
 山あいまで明るくなったのは紀伊の国に入った紀伊長島からでした。
 こんな状態なので、飛び飛びでしか駅に立ち寄っていません。
 紀勢西線側は国道42号と駅が非常に接近しているのですが、東線側は旧国道がものすごく蛇行して集落の中を通っていた関係で、国道改修の時に集落から離れたところに新道が作られました。そのため、駅との連携が悪くなっています。
 おまけに、時代が時代なので、道路標識には『○○駅入り口』なんてのが出なくなっています。つい入りそびれてしまいます。
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 川添駅は当然のように無人駅です。駅のたたずまいはこじんまりしていますが、構内は上り下りの線路が分かれた対向列車行き違い駅です。
 東線側は各駅停車で旅をすることも少な買ったので、駅の並ぶ順番がもう一つピント来ません。
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 多気駅を出た列車が紀勢線に入って最初の駅は隣の相可駅なのです。元々、『多気駅』は昭和の合併で多気町が出来てからだと思います。元来の名前は『相可口』だったのです。
 そのほかに『さな』『栃原』『伊勢柏崎』などたくさんありますが、全部暗いうちに通過しました。
 こうした撮影はやはり暖かくて日の長い時期で無いとうまく行きません。うまく行かないのではなく、私には向きません。
 どの駅も駅前はにぎやかさとは程遠い様子です。
 元々さほど大きくなかった駅前が、国道から取り残されたので余計に寂しくなっていったのでしょうね。
 田舎の駅、ふるさとの駅・・・と言った感じのものが多いです。
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by je2luz | 2007-04-08 11:08 | 熊野 | Trackback | Comments(0)