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LUZの熊野古道案内

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2019年 04月 26日

熊野市史 上・下

 私の手元の「熊野市史」はどういう訳か「中巻」が欠けています。
 買おうかなと思いつつ欠けたままです。
 付属的な「熊野市史年表」はあるんですけどねえ・・・
 「中巻」は近世なので欲しいんですけど、今更買うのもと思っている内に年を食ってしまいました。
 熊野市史は昭和58年(1983)坪田市長当時に発行されました。
 全国的に村史・町史・市史などが編纂された頃ですね。
 1300ページとかが三巻ですから大きなものです。
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 ここから時々つまみ食いしています。
 視力が落ちてからは拾うのも面倒になってしまいました。
 ぼけるかな?

 上巻は江戸まで、下巻は民話や風習などですね。
 地形が複雑ですから、風習や民話なども入り組んでいるようです。
 例えば、今では「飛鳥」と一つの村扱いしていますが、古くは、大又・小又・大又・佐渡・野口・神山と、大字ごとに別の村だったようです。
 この調子で昭和の合併の8か町村半が細切れだったのですから色んなことが異なっていたのでしょうね。
 行き来も歩行の時代なので隣の集落も遠かったでしょう。
 しかし、以外と山の裏表の交流が多かったりもしたようです。
 川沿いの崖より山越えの方が安全で早かったりしたのでしょう。
 隣り合わせでも、言葉も少しずつ違うし、初盆の「水向け棚」なんかも小阪と隣の大又では逆向いてますからね。
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 昭和34年(1959)位の小阪本郷地内の道路です。
 自転車がやっとだったのです。
 私が子供の頃は青年団なども同じ飛鳥でも別組織でけんかしたりしたようです。
 さらに古く、じいさんの頃には同じ小阪でも集落間でけんかになったりしたみたいです。
 「火事とけんかは江戸の華」なんて言うように「けんか」も娯楽の一つだったのかも知れませんね。
 奥熊野代官所の記録の多くがそうした諍いに関するものが多いようです。
 お代官様や庄屋さんも簡易裁判所の裁判官を務めていたのでしょう。



by je2luz | 2019-04-26 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 23日

熊野の旅 江戸時代 観光旅行

 熊野市史には江戸時代などの観光旅行についても少し触れられています。
 私達は「蟻の熊野詣」などと言って、観光客は熊野を目指すように思わされていますが、熊野界隈の人も結構外に出かけています。
 人口が今同様少ない所ですから収支は入り込みの方が多かったのでしょうけどね。
 歴史の方で習ったように、その時に役立ったのが「講」だったようです。
 この辺から「熊野三山」「大峰山」なんて今の世界遺産・「紀伊山地の霊場とその参詣道」で一緒くたになっている所へお参りに行くのも日帰りなんてのでは無いですから、「講」などを組んで代表者が「代参」したりしたようです。
 「ちょっと那智山へ初詣に行こうか…」なんて事は無理ですよね。
 木本から那智山まで40Km・10里くらいですからね。一時間に一里半歩いても36時間…三日あまりなんです。
 結構な旅ですよね。野宿って訳にも行かないし…
 それでも、熊野三山や大峰山だけでは無く、信州「善光寺」、浪速に登って「芝居見物」までした記録があるようです。
 一時期は「農協」が団体を組んであちこちに連れて行きましたが、日本人は物見遊山が好きなようです。

 昔の熊野の旅となれば、「餞別・せんべつ」が付き物ですね。
 古文の方で「餞別・馬のはなむけ」などと言うのが出てきたのを思い出す方もおられるでしょうが、私が子供の頃には修学旅行に出かける子供に親戚や近所の人から「餞別」が来た物です。もちろん、新婚旅行や普段の家族旅行でも餞別が来ました。
 餞別が出ると言うことは、「土産」を買って帰らなくてはなりません。
 今でもおばちゃん連中に見かけられるのですが、旅行に行って観光地を見ないで、「まずは土産物を…」という事になってしまいますし、江戸時代ともなるとバスでは無し、別送の宅急便も無し…
 そのためにも、目的を「お参り」にしておけば「ありがたい御札」で済みますよね。
 それに、お殿様やお代官様にも「お参り」は止められませんからね。

 その点では「熊野の御札」はものすごく御利益があることになって、吉原の女郎さんにものすごく人気があったとか…
 この「熊野誓紙」でどれだけの江戸の男が騙されたやら…
 これを売り歩く「熊野ごぜ」なんてのが江戸をうろついて…
 果ては目の開いた「ごぜ」がいて「ござ」を持って…
 まあ意味の分る人だけ分れば良い話ですね。
 この「熊野ごぜ」はけっして熊野出身という訳では無く、女一人が江戸で食いつなぐために身を落としたのも多かったようです。
 何しろ「人類最古の職業」と言われるくらいですからね。

  江戸時代の旅の費用の多くは「宿代」です。
 江戸中期の記録では北山方面の宿が結構高く、米に換算すると三升にもなったようです。
 夕飯と朝飯、お弁当を入れても三合から四合ですからねえ…
 京都より高かったとか…米が採れない所だから無理も無いのかなあ・・・
 それでも山賊に身ぐるみ剥がれるよりは…

 そして、そうした旅の経路では、木本から紀伊長島までを船で…というのが出てきます。
 これは昭和30年代終わりまでの「木本ー尾鷲」の巡航船と同じ事ですね。
 松本峠・大吹峠・逢神峠・・・八鬼山峠・馬越峠…平地がほとんど無く登ったり下りたり…おまけの遠回り…
 船賃が掛かっても海路の方が…でしょうね。
 これも磯伝いでもすぐ外は熊野灘…瀬戸内とは違いますけどねえ…

 この辺りにも「巡礼の碑」だとか「無塩さんの地蔵」なんて道ばたにあります。
 「旅に病みて…」って事でしょうね。
 命がけでお参りに来た「熊野三山」もすいすいと来られるようにありました。
 その分こちらからもすいすいと「USJ」とか「TDS」だとかに行けます。
 熊野古道歩きの人はお金を落としません。まさか今の時代、「伊勢の古市」をやることも出来ませんしね。
 こちらから出かける人は一杯お金を使います。
 と言って、こっちの人がお金持ちって事では無いですよ。
 観光の構造が違うんです。
 せめて、お賽銭とか御札代をうんと弾んでください。
 ??? 宗教法人はほとんど納税無し???
 まあ、熊野市には「熊野三山」はありません。
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熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-23 09:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 22日

熊野の旅 江戸時代の飛鳥の行事 後半

 さて、江戸時代の大又村坪田家の年中行事も秋以降になります。

 8月 1日は「八朔の祝賀」てえのがあったようです。
 これは、「たのみの朔日」「秋の祝」などと言って餅の贈答があったようです。その餅も「一重」と書いてあるのですから、私達がお礼に行く時同様、重箱で持って行ったようです。
 8日から彼岸に入ったようです。もちろん旧暦ですけどね。
 11日は彼岸の中日…当然のように先祖の供養を行います。そして、「ここでも「餅」を搗いて配っています。このときは本家の方から配ったようですが、村内からは「牡丹餅」「松茸」などがお礼に届いたようです。
 「松茸」は旬の物ですが、今のような超・高級品では無かったはずです。
 14日は「田の神の祭り」
 15にとは日待と言って村中休みだったそうです。

 9月は稲刈りの季節で農繁期です。
 坪田家では文久三年には8月27日から稲を刈ったんだそうです。旧暦ですから今なら9月の中頃・・・当時としては早かったでしょう。
 この時代でも9月9日の「重陽の節句」とか「氏神様へのお参り」にはお休みになって餅や赤飯で祝い節句の祝儀の贈答があったと記されています。

 十月は取り入れが終わりそのお礼や祝いの行事が多かったようです。
 2日には「玄猪の御祝」と言って夜にはかない一同で「善哉餅」で祝ったそうです。
 これって、「私達の頃の「猪子」でしょうかね?
 「いのこ餅」は塩味の粒あんを餅の外に塗りつけた不思議な物です。
 そして3日にはその餅を村の衆が持ってきたそうです。

 十一月になると、1日に「飛鳥神社の祭り」があったようです。
 この祭り、新暦になってからの私が子供の頃には12月1日になっていました。季節的には旧暦の11月1日頃と同じで、うんと寒くなり完全に稲刈りや後片付けが終わっていたのです。
 今ではこれが11月3日の文化に日になっています。
 稲の刈り入れが早くなりその頃にはもう農閑期に入りますからね。そして、日にち制では勤め人がお祭りに出られませんし、勤め人が居なかったら、神楽もなにも出来ませんからね。
 江戸時代のこの祭、二日の日に「山車」が練り歩いた…らしいのですが、私が子供の頃には「山車」なんてのはありませんでしたね。
 今のような道路がある訳では無いですから、たいそうなものでは無かったはずですけどね。
 そして、「年貢の納め時」がこの時期だったようです。
 当たり前ですよね。元々年貢は米だったのですし、今と違いお役所の年度も暦通りだったのですからね。

 十二月は一番最初に書いたように、もう正月準備の月なんです。

 こう書いてみると、何とも「餅」の好きな村ですね。
 年がら年中「餅」なんです。
 坪田家ほどの大農は分るにしても、村人が年中餅を搗いたり口にしたり…
 飢饉でも無い限り「紀州藩奥熊野大又村」の生活は意外と楽だったのかも知れませんね。
 それと、「お祭り」の時は庶民でも「米」を食べたりしても良いという特例があったりしましたから、政が多い方が何かと村人にも良かったのでしょう。
 いまでは、特例なんかはないし。行事の面倒くささが先に立ったりしますね。

 不思議なことに「寿司」が熊野市史の中には取り上げられていません。
 それと、「餅ほり」もありませんね。
 私が子供の頃の経験からすると、「寿司」と「餅放り」が大好きな土地柄なんですがねえ…
 残念ながら、この「晴雨日記」をわざわざ調べるほどの興味も無いし、例え見せて貰ってもミミズが這い回った続け字では読めません。せめて楷書にしてくれないと…
 寺子屋の子供が書いた絵日記でもあれば…
 その当時の寺子屋には夏休みの宿題なんて無かったでしょうしね。
 多分、寺子屋は「大義院」にはあったと思います。
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熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-22 10:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 17日

熊野の旅 正月飾り

 今年の正月にも書きましたが、木本で見かける正月の飾りが実にバラバラなのです。
 しめ縄だって、実に色々、向きだって左右ごちゃごちゃ…
 それなら、「ここではこうなんだ!」などとぐたぐた言うほどのことは無い訳です。

 「熊野市史」をの説と言うことで、もうすぐスーパーの店先に並ぶ正月飾りについて同乗っているのか見てみました。
 「熊野市史」に乗るくらいなのがこの辺のしきたりかなあと思った次第です。

 それがまあ…
 熊野市史でもバラバラなんです。
 招待性的の集めた資料では無いようですが、編集委員の方々が知っている範囲でも実にバラバラ…
 私が書いたように、家々で違うてえのが現実なのかも知れません。
 お殿様も圧倒的に支配したお寺も神社も無い所ですから押しつける物も教えられる物も無かったのかも知れません。

 なんだか場所によってはしめ縄についているお相撲の「下がり」のような飾りの藁の本数が飾る場所で違っていたなんてのが乗っています。
 いかにも日本人らしく、「言葉遊び」感覚で、なるほどという物です。

 「門松」などには「七五三」
 「便所」には「四五三」…よごさん
 「井戸」などの水回りには「二五三」…にごさん
 なんてのがあったそうです。
 確かに縁起物ですから分らないことは無いですね。
 今のスーパーやホームセンターでこれを売ろうとすると説明が大変ですね。
 でも、袋に入れて「さもさもらしい説明書き」を添えれば意外と全国レベルで売れるかも知れません。
 今の日本人は縁起担ぎが好きですからね。
 病院だと「四七三」…しなさん  なんてのはどうでしょう。

 しめ縄だけでは無く、「門松」もそれこそ「七浦」あればその分違いがあるという感じだったようです。
 むしろ、今の方がスーパー、ホームセンター、八百屋などで買ってくるので統一されているかも知れません。
 何しろ正月前の商工会議所のイベントでは「門松作り」なんてのがあって、「東京風」のあのすぱっと切った三本の竹を芯にした置き飾りを作らせるんですからね。
 「グローバル化」てえ物でしょうかね?

 熊野市では飛鳥町野口地区などではしめ縄作りが地場産業になっています。
 でも、季節的な物ですし、「後継者」を入れるようなものでは無いですから先ではどうなるやら…
 「一年を十日で暮らすいい男」…なんて言われたお相撲さんでも六場所90日は本場所ですものね。
 一月ほどのしめ縄作りでは飯は食えないですね。
 毎年テレビには出られますが…
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熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-17 10:07 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 13日

熊野の旅 「熊野市史」と熊野の歴史

 熊野市にも熊野市が教育委員会の中に「熊野市史編纂委員会」という物を組織して編集、発行した『熊野市史』上・中・下巻があります。
 発行は昭和58年3月31日(1983年)で、二代目市長坪田誠氏の時です。
 その後で平成6年(1994年)に『熊野市史年表』というのも発行されています。
 この「熊野市史」というのが発行された頃は、各地で郷土歴史についてのこうした出版物が発行された頃です。
 戦後の復興も終わり一切りついたので精神的にも財政的にも余裕が出たのでしょうね。
 この頃の自治体数は3300ほどですから1000種類くらいは発行されたのでは無いでしょうか?

 「熊野市史」は紙や本がB列時代ですからですから当然B5版です。
 今見るとページが手狭ですね。
 分厚い1300ページとかの本ですが、詰め込む感じで活字も10.5ポイント?の小さな物です。
 編集された方々もこの本を手にされたとき老眼鏡無しではとても読めなかったと思います。
 発行当時の価格が印刷されていないし記憶にありませんが結構高かったと思います。
 
 この「熊野市史」を巡っては、当然のように色々な異論が出されています。
 古代にさかのぼると意見・学説の相違が大きくなりますしね。
 古文書の読み方、解釈にも違いが出るし…

 南北朝の舞台になった所なのですが、そのことでも「菩提寺」の住職さんと「市史編纂委員会」との意見が対立したままになり、後々まで抗議を受けましたが再発行など出来る予算も無し、説の併記すらの変更が出来ませんでした。
 住職さんの抗議は発行以来ずっと続いていますが、私が副議長当時の抗議の時には、「改訂版の発行があればその時に学説の併記をさせて貰えるように教育委員会に伝えます」という決着をし、教育長の方も了承したのですが、あれ以降、教育長も三人目…こういうことの引き継ぎは無いでしょうね。
 それに、改訂版の発行は何時の事やら…
 熊野市が無くなる前くらいに「記念誌」が出るかも知れませんけど…

 新しい所では1926年に木本隧道工事現場で起きた「木本事件」に関しての記述でも問題が発生しました。
 執筆したローカル新聞の主筆の人が格好良く講談調に書いてあり、地元側に非が無いような記述のままで載せられているからです。
 この事件に関しては以前に私も書いてありますが、事実は時代背景もあり、行き違い、デマ、群集心理がもたらした惨劇だったようです。
 事件と被害者の青年をよく知る私の祖父が、「良いやつだったのに…」「かわいそうだった」「止められなかった」と悔やんでいました。
 こうした出版物で配慮が足りなかったのは残念なことです。
 書いた人が地元マスコミの長だったので委員会の人が直すことを申し出ることも出来なかったのかも知れません。
 郷土史をやる方達は大体において頑固ですが、おとなしい人が多いですからね。

 以前に議員をしていた当時に遺族の方などに熊野市が抗議を受けた時、教育長に相談を受け、そうした事情を説明し、まだご存命だった執筆者の方に教育長から話を通してその不適切な部分の削除の許可も得ました。
 執筆者の方も「申し訳ない」と言う談話を出されたのですが、この部分も改訂版の発行までは出来ず、訂正文を印刷し、分っている範囲の購入者に配布するにとどまりました。
 慰霊碑の件でも少ないながらも行政と有志で捻出したお金を合法化する手段を講じて用意させて貰ったのですが、これも色々あったようでスムーズに行かなかったとか…
 この後で私も議員で無かった時代がありますので経緯が分らない立場になっていました。
 一介の議員としてはここまでしか出来なかったのですが、市民も熊野市も全く手を打たなかった訳ではありません。
 この経緯を知る人もほとんど居なくなってしまいましたね。

 他の部分でも色々あるのだと思います。
 執筆された方の多くがお亡くなりになられています。
 一人の方、「花尻薫」さんは「熊野古道の語り部」さんとして現役でがんばっておられますね。
 このブログに来られる方の中には花尻先生のガイドで熊野古道を歩かれた方もおられるのでは無いでしょうか?

 ネタ切れ気味ですから、又、熊野の歴史のつまみ食いでもします。
 少々著作権法違反気味になるでしょうが、公の文献・発行物・歴史ですから許して貰いましょう。
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熊野市周辺地図です
 

 

by je2luz | 2011-11-13 09:49 | 熊野 | Trackback | Comments(0)