LUZの熊野古道案内

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2018年 09月 22日

川の呼び名

 土地とか川とかの呼び名はそれなりに謂われがあったり地元での愛着があったりするものです。
 町の名前とかは合併やら住宅表示やらで変えられたものも多くありますね。
 一悶着あったりもするようです。
 
 南紀で一番の大河は「熊野川」のはずです。
 北山川水系と十津川水系を合わせて新宮で海に注ぎます。
 これが「建設省」で名前が変えられて「新宮川」になっていました。
 いまから30年ほど前に吉野熊野総合開発によるダムが造られ、流域の様子がずいぶん変わってしまいました。
 その頃は「熊野川」と呼ばれていたのに、いつの間にか鵜殿の国道にたてられた看板が「新宮川」に変わっていました。
 私が議員になった頃、「なんで?」と聞いたところ、「川の名前は河口の町の名前になる」なんて説明でした。
 地元での了解もなしで建設省と国土地理院がが変えちゃったのです。
 折しもダムの水利権更新時期なので、熊野市議会に「熊野川水系対策特別委員会」を設置しました。
 すると、熊野市から「熊野川を名乗るのはやめてほしい」なんて申し出がありました。
 「冗談じゃない! あの川は昔から熊野川と呼んできているし熊野市議会の委員会の名称に使っていけないなんておかしい!」と、そのまま「熊野川水系対策特別委員会」を名乗りました。
 事のついでにm紀宝町・鵜殿村などに働きかけると、そうした町村も「あれは新宮川下はない。熊野川だ。」ということでした。
 新宮市も「新宮川はいささか違和感がある」ということで、建設省などに「地元で使われてきた由緒ある川の名前に戻してほしい」と申し入れ、しばらくすると、看板が「一級河川・熊野川(新宮川)」と新宮川というのが括弧書きに入りました。
 そうして経緯で、あの川が「熊野川」そして水系も「熊野川水系」になっていたのです。
d0045383_20172675.jpg
 ただ・・・
 ここに来て、またまた国の意向なのか「新宮川水系」という名称が表に出てきて、熊野市もそれを使っています。
 何だかなあ・・・
 「お国の意向」に迎合して異議を唱える人間もいなくなったようですね。
 あの頃の議員さんも市長さんも「あれは熊野川なんだ!」と、声高に叫んだのですけどね。
 たかが川の名前、されど先祖から慣れ親しんできたものなのに・・・
 これはこのことだけにとどまらない行政の自立性のなさを示しているように思います。


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by je2luz | 2018-09-22 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2016年 11月 21日

熊野の旅 七里御浜 有馬海岸松原は・・・

 熊野市木本から紀宝町鵜殿までの海岸は20Kmあまりにわたって緩やかに弧を描いた綺麗な砂利浜です。
 これは熊野川が太古から紀伊山地を切り崩し海まで押し流し、今度は黒潮流れる熊野灘の荒波が休み無く揺すり、運びながら角を丸めた石が積み重なったものです。
 この自然が作り上げた「七里御浜」が人間が自然に挑戦して作った「熊野川水系ダム群」によって、砂利の補給を絞り込まれて痩せています。
 ダムが出来て半世紀・・・
 さらに、ほんの少しの経済効果を狙って作った、突き出し港の「鵜殿港」がそれに拍車を掛けました。
 いま、砂利浜の保全対策が講じられているのは木本海岸600mほどだけです。
 
 昔から、台風の高波に襲われ続けた沿岸では海辺には人家がほとんど無く、緩衝地帯に松原が作られていました。
 この見事な松原も、戦後輸入したパルプ材にくっついてきたと言われる「松食い虫」によって、ほぼ壊滅状態です。
 松食い虫の正体は、目に付く「甲虫」ではなく、そいつが運ぶ「線虫」だそうです。
 若い松は根っこに線虫が付いても枯れないのですが、中年以降だと根を再生出来ずに枯れるのだそうです。
 補充で植えた松も少し大きくなると葉が赤くなり枯れてしまいます。
 初夏に立ち入り禁止にして消毒をしても、「線虫」は土の中ですからほとんど効き目が無いのだとか・・・
 松食い虫に耐性のある品種を作るという研究も随分なされたようですが、出来ていないのか、出来ても使って貰う予算が無いのか・・・
 今では「松原」では無く「雑木林」ですね。
 松のように高く育つ木も少ないので、「防風林」の役目はすこし下がるでしょうね。
 かくして、「白砂青松」という日本の海岸風景がほとんど消えたのです。
d0045383_22253728.jpg
 七里御浜は松原が消えかけても、まだ、テトラポッドを積み上げた海岸までは落ちぶれていませんが、日本中がそんな海岸になって来ましたね。
 テトラでは浜は守れません。
 潜堤なら少し守れますが、もの凄く高いので・・・
 こうした台船で工事するのはテトラと同じ様ですが、テトラはドボンドボンと投げ込んで積み上げるだけですが、木本海岸の「潜堤」は潜水夫の誘導できちんと組み合わせて積み上げてあります。
 だから、隙間だらけで足元の砂利を減らすテトラとは効果が違うのです。


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by je2luz | 2016-11-21 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 04日

熊野の旅 動脈バイパス手術 国道169号 2 奥瀞

 昨日は「叔母峰トンネル」でしたが、今日のはもう一箇所の大動脈バイパス手術です。
 車の流れに関しての影響はこちらの方が大きくなる可能性が大きいです。
 「トンネルは言われてみれば狭いけど・・・」と言うもので、普通車にとって確かに少し狭めで暗いですが、大型との大綱が不能というものでも無いのです。
 大型車の通行は年々減る一方・・・
 将来も産業車両が復活することはないでしょう。

 今日、取り上げるのは、昨年開通した169号線奥瀞区間で、未改修の北山村大沼から先の部分を全く違うルートで作るというものです。
 未改修の区間は急峻・切り立った崖の連続で斜面を切り取って広げるのが不可能に近いところです。
 この部分を橋で三重県側、熊野市小森に渡り、北山川の渓谷を避けて通ろうという作戦です。
 このルートだとあの下気には近づかずにすみますからね。
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 合理的ですが、以前の発想ではこうした変更はなかったでしょう。
 小森に関わる工区はたった3.4Kmみたいです。
 橋二本、短いトンネル二本と残りは開削でしょう。
 差ほど難工事では無いようです。

 これが出来れば169号線を使う京阪神の車は画期的に楽に速く本宮に行けるでしょう。
 そして、今でも「不動峠越え」が近道ですが、今の桑原から五郷桃崎経由神川ダムサイトへの169号線は走らなくなりますね。
 再び、169号線の経路変更かな?
 何しろ30年ほど前に突然169号線は桃崎で曲げられてダムサイト電源道路を使い、北山村経由宮井行きに変えられた経緯があるんです。
 そして。169だった五郷から飛鳥町佐田までは一応国道ですが309号線になったのです。
 経路変更して以降、和歌山県北山村村内などの改修は行われてきましたが、熊野市内ダムサイト部分などは手が付けられていません。
 和歌山県と奈良県との間には今般表面化したルートが話し合われてきたのでしょうね。
 今の両県には総務大臣や自民党の大物も居ます。
 以前は三重県の方に大物が居て、和歌山県・奈良県は道路など遅れているなんて言われたこともあるんです。
 やっぱり、力関係で変わるんでしょうね。
 「国家百年の計」なんて片隅に追いやられるのかも知れません。

 道がよくなり便利になるのと、地域のためになるのとは少し違う面もあります。
 そして、熊野・吉野の山地が開けるのでは無く、誰も気が付かないままに通過するところになるかも知れません。
 小森地区ではバイパスから集落に入れるようにはなる様です。
 隠れ里が剥き出しになる様な通り方では無いのかと思いますが、その「隠れ里」を生かす方法を考えれば、熊野市内で一番観光に向く土地になるかも知れませんね。
 湯ノ口より有利かも知れません。
 「奥瀞温泉」があるのですから、多分温泉も出るでしょう。
 今では少し有名になった、北山川が円形に流れる光景が見られる対岸までロープウエーを架ける???

 
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by je2luz | 2016-05-04 04:29 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 05日

熊野の旅  昭和まで少し残って居た昔 4

 この話題に戻ろうと思いますが・・・
 きちんとメモとか筋立てして書いているのではありませんから、少し間に違うのを挟むと考えが解らなくなります。
 あまり緻密な作業が好きな方じゃ無いようです。
 「随筆」なんてのは思うに任せて書く物だと思うのですが、世の中の「随筆家」はびっしりメモを取り、それに基づいて欠く人が多いのだとか・・・
 私にはそれは出来そうに無いですね。
 「硯に向かいて 心に移りゆく よしなしごとを・・・」 で行きます。
 兼好法師に叱られそうですけどね。

 川の方でも色んな遊びがされましたが、水泳は学校で解禁日が決められました。
 水温が低い大又川ですから学校の言うのも解ります。
 梅雨時は増水して危険と言えば危険ですからね。
 でも、釣りや水遊びは禁止されて居ませんでした。
 私のような悪ガキは解禁日前にもよく水にはまりました。
 用意周到に服まで脱いではまっちゃうのです。
 そんなことをチクル大人も居ませんし、たまたま見つけちゃった先生も「こらーっ!」と怒るだけで、職員室に呼び出すとか親を呼び出すなんて無粋なことはしませんでしたね。
 あくまでも、「泳いだ」にではなく、「はまっちゃったので夢中になって助かろうとしていただけ」なのですよね。
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 大又川は変化に富んだ流れを持っています。
 岩盤が剥き出しの「なべら」・・・大小の丸石が重なった「ごろ」・・・
 流れの急な「瀬」・・・緩やかな「どんぼ・淵」
 無いのは滝と砂地の川です。
 豪雨による大水が多いので砂はほんの一部、特定のところにたまるだけで流れちゃうようです。
 その砂のたまる場所は集落のセメント材料として大事にされていました。

 短い区間にこれが混在しますから、その場所その場所で遊び方が変わります。
 泳ぐのも、魚釣りも、魚突きも場所に応じて変化させないと駄目です。
 色んな形で遊べるので飽きませんね。
 幅は狭いけど、遊ぶ区間は長く使えます。
 後年になると「学校指定の水泳場」がかなり窮屈になったようですが、私達の頃は、集落の上から下までが遊び場で、どこまで行けるかは、餓鬼グループの勢力次第でした。
 川には手頃な「石つぶて」、凶器の「へし・かな突き」があるのですが、絶対にそれを行使することはありませんでした。
 水泳パンツを脱がせるなんていじめもありませんでした。
 ションベンの飛ばしっこなんてする時代ですから、いじめになりません。
 突き飛ばして水に落とすのはありましたが、泳いでいる時で、寒中にそんな事するのもありませんでした。

 大又川の水は冷たいことが多いので、少し泳ぐと川原の「なべら」に並んで張り付いて暖まりました。
 天気が良い日は岩が熱すぎて火傷しますから、水を掛けてから・・・
 寒くて唇が紫になりかけると、上級生、ガキ大将の命令で全員水から上がって甲羅干ししました。
 ここでも、年長者・ガキ大将の役目はあったのです。
 学校の中だけの児童会長より責任は重いでしょう。

 水泳パンツが出回るまでは、幼児、低学年は「フリチン」、その上は「パンツ」か「ふんどし」でしたが、さらしの長い正規のでは無く「黒猫・ねこ」と言われる簡易型でしたね。
 女の子も幼児は真っ裸で泳ぐ子が居たし、低学年はズロース、少し上からシミーズを着て居ました。
 当然透けますから、大きくなってくると女の子は泳がなくなりましたね。
 水着を買って貰える子なんて居ませんでしたし、自分だけ買って貰っても着てこられませんでしたからね。
 ものが出回る昭和30年代に入ると女の子の水着が少しずつ田舎にも入ってきましたね。

 「なべら」を滑って下るのは年令に応じて難易度の違う所を使えば良いので面白いのですが、パンツの時代は困りました。
 岩がコケ・ノリに覆われて居るのでよく滑るのですが、それをこすりつけるので緑色になって取れないのです。
 そして、普通の木綿のパンツですから破けちゃうのです。
 物の無い時代ですから、脱いじゃって遊ぶ子も多かったのですが、海水パンツになってからは脱いじゃう子は居なくなりました。
 人間の皮って丈夫なんですね。
 パンツが破けることはあってもお尻の皮は大丈夫なんですから・・・
 まあ、「本革」ですけどね。

 脱いじゃう頃、ションベンの飛ばしっこした頃は「先輩のはでかい!」とか「あいつのより大きい!」なんて自然に解っていたものです。
 おおらかだった日本のそうした風俗も段々隠されていったようです。
 良くなったのか悪くなったのか・・・
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 これは昭和32年・・・女の子は町から来た子です。
 この頃には水着が入って来ていましたね。

    

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by je2luz | 2016-02-05 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 24日

熊野の旅 熊野市の名所・名勝 6 大又川 3

 今回もうちょっと大又川について書きます。

 大又川の河床は大きな岩盤で出来たところが多いのです。
 上にゴロ石があっても、その直ぐ下には岩盤が横たわっています。
 飛鳥町内は基本的には紀州御影の硬い岩です。
 こいつがこの一帯の山の骨組みで隙間は無いし、押しても崩れないし・・・
 海の側に降った雨はすんなり太平洋に落ちて行くけど裏側は行き場が無かったのです。
 かといって火口のようでも無いし、山崩れで堰き止められても居ないし・・・湖はありません。
 行き場を探して、海のすぐそばなのに紀伊山地をうろうろと・・・
 最初の大又の写真の辺りでも河床の海抜はせいぜい350m程でしょう。

 飛鳥町小阪のところなど、薄い山一つで真っ直ぐ大泊に出られるのに、何万年掛かっても崩せなかったのでしょうね。
 諦めたようにUターンして引っ返し、今度は山奥の五郷を目指します。
 その先で地質が変わりますが、だからと言って海には向かえず、大台ヶ原南斜面の水を集めた「北山川」に合流して、出口を探して尚更山奥へ・・・
 それでも湖にはならないで岩を砕いて下ったのでしょう。
 「瀞八丁」なんて渓谷を作って突破していますね。

 ここを通り抜けると、ようやく順当に川らしくなって、宮井でもう一本の大川「十津川」を一緒になって新宮に向かいます。
 蛇行する川、迷走する川・・・色々ありますが、この熊野川水系の北山川・大又川の道筋はこの川の太古からの苦労が目に見えるようなものです。
 一度一般国道42号線大又トンネルから熊野市に入り、飛鳥町大又ー飛鳥町小阪ー国道309号に入り・・・飛鳥町佐渡ー飛鳥町神山ー五郷町平ー五郷町寺谷ー五郷町桃崎ー国道169号線に入りー神川町七色ダムサイトー北山村大沼ー瀞峡ー玉置口ー宮井・・・国道168号線に入り・・・新宮市橋本・・・国道42号に戻り・・・紀宝町鵜殿河口まで川に付き合ってみて下さい。
 そうすれば飛鳥に降った雨が出口を探してさまよった苦労が解ります。
 大又十ネルを抜けた所で出会った水がそこまで下るのです。
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 この硬い紀州御影の岩盤部分を「なべら」と、呼んでいます。
 「滑らか」から来ているのでしょうね。
 流れ下るゴロ石に磨かれてツルツルです。
 ゴロ石も角が取れて丸まっているので足は痛くありません。
 コケも生えているのでツルツル滑り、小さな頃は「なべら」で滑って遊びました。
 そこには溝状にえぐれたところや、丸くへっこんだところがあります。
 これは氷河が削ったのでは無く、ゴロ石が洪水の度に転がるのでえぐれたという説を見たことがあります。
 臼のようにへっこんだのも、少しへっこんだところに石がはまり込み、洪水の度に押し出されもせず回転したので大きくくぼんだのだとか・・・
 この800m程川下でそんなのがありました。
 何しろ、時間単位が百年とかでは無いのでそんなことも起きるのでしょうね。
 天女の羽衣で岩をなぜて減るのを単位とする「劫」なんてのも仏法にはあるそうですから・・・
 私が子供の頃から60年・・・
 人工的にいじられたとか、堆積したゴロが変わったとかはありますが、「なべら」が変わったなんて無いですね。
d0045383_2237627.jpg

 こんな岩盤が続いている飛鳥地内の大又川ですが、途中で段差があり、あまり削られていないところもあります。
 いつ頃か地震でズレたのかな?
 私は地質にはあまり興味も無いし解りませんが、何かがあったには違いないでしょう。
 でも、次に動くのは千年先か一万年先か、もう動かないのか・・・

 飛鳥地内、五郷から先、下北方面、神川地内、瀞峡付近・・・
 背中合わせの海側では大泊方面、鬼ヶ城獅子岩、瀬戸方面・・・
 有馬以南の海岸沿いの断層・・・
 すぐ沖には東南海の震源地の断層・・・
 狭い範囲で地層、岩石がめまぐるしく変わります。
 つまり、あまり安定していない土地なのでしょう。
 鬼ヶ城や獅子岩も最近海から上がってきたのだそうですし・・・

 アトランティスだって沈んだそうです。
 北九州では100年ほど前に島が沈んだとか・・・
 日本列島が浮かんでいるうちに色んな所を見ておいて下さい。
 鬼ヶ城と獅子岩は一緒に浮かんできたのだとか・・・
 消える時は一緒に消えちゃいますよ。

    

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by je2luz | 2016-01-24 04:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 18日

熊野の旅 熊野市の名所・名勝 3 楊枝薬師

 熊野市内で御利益という面で一般受けしそうなのは、紀和町楊枝の「薬師堂」でしょうね。
 故事来歴も文句の無い重みがあります。
 歴代天皇、上皇、法皇の中でも知名度ではベストテンに入る「後白河法皇」が絡みます。
 後白河法皇の頭痛平癒のため、建立された京都三十三間堂の棟木として、楊枝にあった柳の大木が切り出された京に送られました。
 後白河法皇の頭痛も治ったのだそうです。
 その切り株の上にお堂を建て、柳の枝で彫った薬師仏を祀ったと言われる由緒正しき、霊験あらたかなる薬師堂です。
 「浄楽寺」と言うらしいですが、「頭痛山平癒寺」と言う寺号もあるとか・・・
 御利益信心の多い今の時代に向くお堂ですね。
 このお寺も無住のお堂です。
 つまり・・・
 御利益の欲しい人は自力でお参りし、お願いして下さいと言うことです。
 せいぜい、「お賽銭をはずんで下さい」位しか、観光には寄与しません。

 この方面は行政が直接売り出すには問題もありますが、文化財指定をしているのでもう少し売り出しても・・・
 しかし、この「楊枝」も過疎高齢化で観光客が来ても地元では何も出来ません。
 道筋も国道168号、和歌山側から三和大橋で三重に渡るのが安全になるのです。
 隣の小船の梅まつりも同様なのです。
 道路も自家用車には問題ないのですが、観光バスは・・・

 目の前を「熊野川」が流れ、もう大河になっているので空も広く、明るくて良い場所です。
 昭和30年頃までなら目の前を長い筏が下って行ったはずです。
 この川が交通手段だったので、この一帯の集落は三重県側にあっても、生活圏は新宮でした。
 いまでも、買い物は新宮に出る方が便利ですからね。

 「楊枝」という地名だし、三十三間堂の棟木の柳を切り出したというのに、柳が見当たりません。
 ネコヤナギでは無く柳の木で無くてはなりませんからね。
 一般で言う柳じゃ無いのかな?

 毎年三月十八日にはお祭りがあります。
 今年は金曜日です。
 この日には近隣どころは遠くからも信者の方も来られるようです。
 残念ながらこの祭に、私は今までお参りしたことがありません。

 頭痛だけでは無く首から上の病には効くのだとか・・・
 広義に解釈して髪の毛のことまで効くとも聞きます。
 ならば、受験も・・・
 ちょっと遅いかな???
 恋煩いは胸ですね。
 あそこまで行くのですから、何でも頼んでみた方が良いでしょう。
 道のそばですから行けば解ります。

    

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by je2luz | 2016-01-18 04:10 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 27日

熊野の旅 随分太ったね

 時々書きますが、七里御浜はこの50年ほどで痩せてきました。
 最上流の井田海岸などは。もう、浜がほとんどありません。
 昔を知る人からすれば恐ろしいことです。
 井田の人が住んでいるのが不思議なくらいです。
 でも、逃げ出すことも出来ないでしょう。

 この原因の一つに熊野川水系に作られたダム群があります。
 徹底的に砂利の流下を止めてしまいました。
 この工事が動き出す時に、東京農大の先生が「これらのダムは七里御浜を痩せさせ将来に禍根を残す」と言うレポートを発表しました。
 しかし、国策で動き出した事業ですからそんな物は無視され、無かったことにされました。
 私がそのレポートの存在を知った時には何所のあるのかすら分かりませんでしたが、鵜殿村にだけ保存されていました。
 しかし、その恐れが現実になって来ても、建設省は因果関係など認めませんでした。
 その後、国も正式には「因果関係」は認めなくても「関連」は認めているようです。
 しかし、ダムを外すことも無し、対策は取られていませんね。
 アメリカではダムを外したりしていますけどね。

 そんな中で木本海岸には「潜堤」が作られ、理論通りに効果が現れています。
 設置されたのは井戸川河口のボックスカルバートの所から鬼ヶ城西口までです。
 完成と同時に浜は太り始めました。
 よそに良くある「養浜工事」の突き出し堤防ではその上流では太るけど下流は食われると言う物ですが、この「潜堤」では全面的に太ります。
 ボックスカルバートは一種の突き出し堤防ですが、その働きより潜堤のあるなしの方が大きく作用するらしく、潜堤のない上流の方が少し痩せて、潜堤のある下流が太っています。
 写真では少し分かりにくいですが、向こう側が上流で、そっちの方が波が大きく遡っています。
d0045383_212162.jpg

 そして、カルバートの排水口は陸のうんと上になっています。
 カルバートに当たる波の衝撃を吸収するために置かれたテトラポッドも今では陸の上になりました。
 現実はカルバートの排水効率が落ちるので困るところもあるのですが、浜としては良いことなのです。
 カルバートからこちらに掛けての浜は、太って、昔ほどでは無いですが、何段かの高さに盛り上がっています。
 残念ながら、昔のような大きな石の帯、中くらいの石の帯、小さな石の帯なんてのが繰り返される状態にはなりません。
 今では10cmも15cmもある石は流れてこないのです。
 鵜殿の河口を出てからこちらに来る間にすり減って小さくなるのですが、昔はそんな石も一杯来ていました。
 もう、阿田和辺りにもそんなのはほとんど無くなって居ますからね。

 来る量が減っている「御浜小石」を大切にため込むしかないのが今の七里御浜です。
 最下流の木本海岸が一番太って、一番安全なのですが、あと何十年保つでしょうか?
 頑張って「潜堤」を作って貰いましたが、その先に関しては私も手の打ちようがありません。
 鵜殿から井戸川河口まで20Kmに潜堤を作るには2000億円???
 年に10億円放り込んで200年・・・50億で40年・・・
 国土と生活を考えれば他の下らない土木をやめる価値はあるのですが、目に見えないので理解して貰えませんね。
 駄目になったからでは遅いのですがね。

 ???
 50年、100年経ったら住んでいる人がほとんど居ないのかも知れませんけどね。

   

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by je2luz | 2015-11-27 04:41 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 15日

熊野の旅 紀和町和気 先人の教え

 もう一本和気の記事を書きます。
 和気には「和気神社」があります。
 この「和気神社」って、岡山県和気郡和気町にある「和気神社」とつながっているのでしょうかね?
 そうなれば、ここの和気も「和気氏」と何らかの関係が?
 隣の楊枝薬師堂が後白河上皇の頭痛を治したので建てられたという風に、都にもつながっているのですから、この和気が豪族とのつながりがあってもおかしくないです。
 和気清麻呂が流されたのは鹿児島だとか・・・
 私は郷土史などは門外漢なのでよく分かりませんが、紀和の辺りには古い歴史が潜んでいるようです。
 和気神社に菊の御紋の幕が掛けられているのも何かあるのかな?
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 元はもっと格式のある建物だったのでしょうね。
 しかし、集落が小さくなって行くと維持が大変でしょう。
 我が町内の稲荷さんも次の建て替えは不可能と思っています。
 日本中で神社やお寺が消えて行きつつあるとか・・・
 地元の歴史を伝承する人も居なくなると言うことですね。
 一時期、「村史」「町史」「市史」などの編纂ブームがありましたが、当時と違い映像などは残し良くなっています。
 今が記録を残す最後のチャンスかも知れませんね。
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 明治22年(1889)に熊野川一帯が大洪水に襲われ、十津川村が壊滅し、村の半分ほどが北海道に移住して「新十津川村」を作ったことは有名です。
 未曾有の災害だったので、当然、下流の和気なども洪水に襲われたようです。
 写真の家は和気の旧家らしいですが、明治の災害の教訓で、「これから下に家を建てたらあかん」と言われたようです。
 しかし、古くからの「未曾有の大洪水」も地球温暖化と言う人間が引き起こしている天変地異によって書き換えられようとしているようです、
 先年の台風12号のような豪雨とダムの放水が重なるようだと、水位はうんと上がります。
 先人の教え同様、人間に力で押さえられる範囲のものでは無いので、「これから下には住んだらあかん」を後世に伝えるしか無いでしょう。
 悲しいですが、人知や人力って過信してはいけませんからね。
 これは和気の問題では無く、全ての地区の話ですね。

 土砂災害のハザードマップでもこの流域の全てがかぶされるほどなのですね。
 海岸線の津波の想定がいまだ住民に周知されて居らず混乱したままです。
 しかし、ハザードマップで色がつかなくてもそのそばは危険だと思うべきでしょう。
 誰も経験無いし、お役所は保証していません。
 一時避難で生き延びることが最優先です。
 何も無ければ幸いです。
 死んじゃってから「ハザードマップが違って居た」と文句言っても始まらんでしょう。
 逃げる場所を確保するのが行政の勤めかと思うのですが・・・

   

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by je2luz | 2015-11-15 04:30 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 12日

熊野の旅 熊野川か新宮川か

 私にとっては育った飛鳥を流れる「大又川」は途中で「北山川」を合流して名前が「北山川」になり、その先で「十津川」を合流して「熊野川」という名になり、新宮と鵜殿に挟まれて太平洋に注ぐのです。
 つまり、川としては「熊野川」なのです。
 国がこの水系をいじり回した時も「熊野川総合開発」としてスタートし、実施の時には「吉野熊野特定地域総合開発計画」なんてのにしましたが、空くまでも熊野川水系として事業は行われたものです。
 なのに・・・
 建設省などはこの川を「新宮川」と勝手に呼び変えてしまい、標識なども「新宮川」にしてしまいました。
d0045383_2259251.jpg

 私が一回目の議員当時にダムの水利権の更新が回って来、熊野市議会にその交渉のためもあって。特別委員会と組織しました。
 当然のように「熊野川水系対策特別委員会」を名乗りましたが、おかしな事に、建設省・国に遠慮したのか。市の方から「新宮川水系に直して貰えませんか?」なんて申し出がありました。
 特別委員会設置の言い出しっぺの私のみならず、全員が「新宮川なんて存在しないし、熊野市議会が設置する特別委員会の固有名詞をとかく言われる筋合いは無い」と、そんな申し出を一蹴して、議会での委員会設置条例も「熊野川水系対策特別委員会」でしました。
 この辺りで「新宮川」なんて呼ぶ人は居ませんからね。
 「新宮の川」という言い方はありましたけどね。
d0045383_22592560.jpg

 この橋をくぐっているのが「十津川」前方に流れるのが「北山川」
 この合流点から左へ河口までが「熊野川」
 近年では「十津川」は何時も濁っていますし、「北山川」は洪水が収まると水は澄みます。

 こんなことがあったので、当時の熊野市議会はこの川の名前を本来の「熊野川に戻そう」と思うようになりました。
 時の坪田市長にも、「熊野川と呼ぶように働きかけて」とお願いしたり、近隣の町長などにも「熊野川に戻すように動いて下さいよ」とお願いしたりしました。
 建設省などは「川の名前は河口の町の名前にするのが通例です」などと、おかしな説明をしていましたが。国土地理院の方が考えが柔らかでした。
 「周辺住民の意識・呼び名が正しいと思います」と言う常識的なものでした。
 新宮市でも「新宮川」に違和感を感じる市民が多かったのですからね。
 そんなことを言っているうちに、立て看板が、正式表示「新宮川」括弧書き(熊野川)だったのが、逆転し、括弧書きの方が(新宮川)の変わりました。
 大きな運動もしなかったのですが、熊野市・紀宝町・鵜殿村・新宮市が古来の呼び方を希望したのでなし崩しにこうなって行ったようです。
 たかが看板、されど看板です。
 地元で慣れ親しんできた大河の名前を、お役人などが勝手にいじって良い物では無いですよね。
 でも、気がつかないうちにそうなっちゃってるなんてのが一杯あるのでしょうね。
 私は馬鹿がつくほど素直なのか、気になると相手が誰でも言っちゃいます。
 そして、幾つになっても大人になれません。

   

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by je2luz | 2015-11-12 04:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 11日

熊野の旅 大河熊野川 運んだもの

 熊野川が運んだもの・・・ 
 一つ前に「筏」に触れました。
 私が小さな頃、北山川にはまだ筏流しのための積(せぎ)がありました。
 小さくて水量の少なく、筏を流す力の足りない上流部、下北山村などには川を堰き止めて水を溜める木製のダムがありました。
 筏を浮かべ、堰き止めた水が一杯になったら堰を切るのです・・・
 まさに「堰を切った勢い」で水と一緒に筏が駆け下るのです。
 今だったら、労働基準局に禁止される荒技ですね。
 そんな風な苦労をしながら丸太を河口の新宮まで下したのです。
 そんな筏乗りさん達は帰る時は陸路歩いたのです。
 その道筋として色んな山越えの道が開かれたようです。
 そして、この筏流しを通して上流から下流までの交流が生まれ姻戚関係も出来た様です。
 その名残か、紀和町の人達は新宮に向いて生活していますし、和歌山県の飛び地として東牟婁郡北山村が運と上流に存在するのです。
d0045383_216040.jpg

 熊野川が運んだものとしてもっと大きいのは、七里御浜を作った砂利ですね。
 新宮の平地は出来てしまえば完成でしたが、七里御浜は前の太平洋にどんどん砂利が落ちて行きます。
 それを補充し続けて何千年も何万年も陸地を守ってきたのです。
 途中では陸地がうんと低くて今の七里御浜などは海深くだった頃もあるようです。
 木本周辺の山の上や紀宝町の山の方にも海食の跡の残る岩がありますし、御浜町の陸地深く、神木(こうのぎ)なども浜砂利です、
 隆起しても沈んでもずっと砂利を補充してきたのがたった一つの大河、「熊野川」です。
 一体どれだけの量を運んだのでしょう?
 紀伊山地の南斜面の川・谷の形が出来た時に書き出された土砂はそっくり流れて今の新宮の所から太平洋に出たはずです。
d0045383_2185114.jpg

 この様に、時を越えて熊野川が運んで作った少しの平地に新宮・鵜殿・井田・阿田和・市木・神志山・有馬・井戸・木本が出来たのです。
 そのバランスを崩したのが「熊野川総合開発」のダム群と突き出し港の「鵜殿港」でしょう。
 何万年とかの長さで考えれば、自然の状態でも「浜の真砂」もつきるかも知れませんけどね。
 でも、大した力は無いのに、変な細工をしたばっかりに60年ほどで七里御浜が死にかけました。
 60億円掛けて、木本海岸は潜堤で今は守られていますが。そんなの遠くない時に砂利の補給が聞かなくなるでしょう。

 熊野川が運んでくれたのは砂利では無く「生活圏」だったのです。
 こんな犠牲を払っても、「原子力発電所」よりはましでしょうね。
 熊野にはこれに加えて「熊野原発」まで作られ掛けたのです。
 私が市議会議員になったのは・・・
 「原発を止めるため」でした。
 原発は止まったけど、ダムは残ります。
 耐用年数が切れた時・・・
 さて、日本はどうするやら・・・
 治水をやれば海岸浸食は止められない・・・
 でも、紀伊半島に住む人も居なくなるから・・・
 
   

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by je2luz | 2015-11-11 04:27 | 熊野 | Trackback | Comments(0)