LUZの熊野古道案内

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2018年 11月 09日

「四季の里」が「むすびの里」に

 熊野市飛鳥町本郷にあった「四季の里」が生まれ変わったようです。
 昔はこの「四季の里」で色んな行事がありました。
 熊野無線クラブでも「鮎祭り」なんてのをやりました。
 大又川のそばに吉野熊野新聞社さんが作った、憩いの場所、研修の場所で前は大又川後ろは杉山という静かで良いところでした。
 レジャーブームとやらも消えるし、近年ではあまり利用されなかったようで、私も車を回す時に行くくらいでした。
 こんど、新しい施設になると言うことを聞いたので、11月3日飛鳥神社のお祭りの日に覗き気に入ってきました。
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 建物は以前と同じですね。
 当日は若い人茶地が周囲の草刈りとか頑張っていました。
 敷地も広いし建物もまだ傷んでいないようです。
 吉熊さんがずっと管理していたのでしょう。
 何棟もある施設を保全するのって大変ですよね。

 今度の「むすびの里」は秋田出身の元自衛官の方が主宰する団体で・・・
 「素晴らしい自然と伝統文化を礎に、世界の人々が共に未来を築ける共同体創り」を目指すのだそうです。
 ちょっと取っつきにくい感じもしますが、新しい団体、組織が動き出したのやうれしいことです。
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by je2luz | 2018-11-09 04:20 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 04日

祭のはしご 二段目 五郷・飛鳥神社

 去年、小坂の飛鳥神社から五郷の飛鳥神社に向かい着いたのが11時過ぎ…
 なんと、みんな帰ってしまって絵にもなりませんでした。
 と言うことで、今年は早めに飛鳥町を出て五郷へ…
 10時15分に着きました。
 今はカメラのデータで時間が解るので便利です。
 
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 これは五郷の「飛鳥神社」です。
 ここの看板には「流谷飛鳥神社総社」とやら書いてあったように思います。
 こっちの方が飛鳥のより格が上???

 五郷の方が飛鳥より少し面積も狭く、五つの里の距離は近いです。
 寺谷・和田・桃崎・湯ノ谷・湯谷???大井谷・平・東郷などはどうなるのかな???
 飛鳥の場合、小坂の神社から一番遠い川下の滑地(なべらじ)までは歩いたら一時間では着かないでしょう。
 それでも、祭に集まってくる人は減る一方のようです。
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 ここでも呼び物は「もちほり」ですね。
 餅を撒き始めたのは10時58分です。
 これが終わると人が居なくなります。
 この写真に写っているのでほぼ全員です。
 広う人が減って居るのに撒かれる餅やお菓子は減りませんから、すごい量を拾っています。
 行儀良く据わって餅拾いして居ますね。
 でも、ここでも昔の熱気は消え始めています。
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 ここではまだ「浦安の舞」が残って居ます。
 二人になっていますけどね。
 一人は同級生のお孫さん…
 飛鳥の方はまだ4人です。
 舞姫を確保するのも大変でしょう。
 だから、「氏子」では無い娘も踊ることになるでしょうね。


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by je2luz | 2017-11-04 04:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 06日

熊野の旅 祭 今昔

 飛鳥神社というのはあちこちにあります。
 字の違う「阿須賀」とか「明日香」なんてのもありますが、同じなんでしょうね。
 ここ熊野市でも、飛鳥村の飛鳥神社と五郷村の飛鳥神社があります。
 祭の日も同じです。
 この飛鳥の飛鳥神社のお祭りは、私が子供の頃は12月1日でした。
 秋の農作業が終わるのが遅かったですから、秋祭りも遅かったのでしょう。
 稲刈りが全部終わる頃は毎朝霜が降りる位でしたからね。
 私が子供の頃は今より季候も寒めでした。
 祭の明日は寒くて神社の周りではたき火があちこちで焚かれていましたし、吐く息が白かったこともあります。
 
 今でも飛鳥の各地区では、朝早く集まって、簡単な神事と宴会を行って居るようですが、私は近年、大又の集会に出席しています。
 朝、7時半過ぎから神事など始まります。
 前々日くらいには集まって餅をついたり準備に忙しいようです。
 今は仕出し屋さんの料理ですが、昔は全部手づくりだったのです。
 今と違い、嫁さん方も多かったですから人手はあったでしょう。
 でも、当日集まる人も多かったので大変だったでしょう。
 その「大変さ」が「祭らしさ」でもあったのでしょう。
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 各地区での出立ちの集まりの後、隊列を組んで小坂の「飛鳥神社」まで「伊勢音頭」など唄いながら歩いてきたのです。
 大又・小又・佐渡・野口・神山・・・
 神山からだと1時間ほど掛かったのでしょうね。
 私は小坂の子どもなのでそうした隊列がやってくるのを眺めていましたが、一杯気分で楽しそうにやってきました。
 野口の親戚のおじさんなどは音頭を取りながら上機嫌でしたね。

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 大又の場合、7時40分くらいに神事を始め、続けて「一杯」です。
 しかし、神社へ向かう男衆はほとんど飲みません。
 「飲んだら載るな!」と集会場にも張り出していますからね。
 9時過ぎからは「餅ほり」があります。
 祭につきものなのですが、この餅ほりで餅を拾うと、おばあさん方はもう神社には行きません。
 歩ける距離じゃ無し、車の送り迎えをする機動力も無し・・・
 段々こうなってしまい、神社に行くのは「当屋」の人、神社や区の役員さん、など限られた人になってしまいます。
 これはどの区でも同じなんでしょうね。
 過疎高齢化の進行以上に神社の人での減少は大きいような感じです。
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 私は今年も五郷に向かいましたが、着いたのが11時半になってしまい、もう、餅ほりが終わり、人が居なくなっていました。
 一昨年の写真のデータを見たら、11時に餅撒きを始めていました。
 この辺の行事には「餅ほり」はつきもので、それが最大で「締めの行事」なんです。
 出店も無く、昔のように飲み倒すでも無し・・・
 時間の潰しようも無いので終わりも早くなったのかも知れません。
 それでも、祭があるうちは良い方なのかも・・・
 これも限界集落の一現象なのでしょう。

 「限界集落」などと言う言葉がマスコミで良く流れた頃には、「祭が消滅した村」なんてのが良く流されましたが、最早、ニュースの価値もないのか出て来ませんね。


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by je2luz | 2016-11-06 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 11日

熊野の旅 今年の土用の丑は一回

 19日は土用の入りです。
 暦を見たら・・・19日は「とら」です。
 「うし」のすぐ後ってことは・・・土用の丑の日は一回しか無いのでしょう。
 30日が「うし」です。
 丑の日が一回で済んだら、日本鰻も食われる数が減るのでしょうね。
 鰻は美味いですが近年食べていません。
 以前は夏場に大阪へ行くと「まむし」食っていました。
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 これ、戦前の大阪城だと思います。
 お袋が嫁入りに持って来たネガにあります。

 私の子供の頃はこの辺は大阪圏で親戚も大阪都か関西が多いし、関西の方が馴染みよかったのです。
 大きくなって都会へ出る時には迷わず「東京」でした。
 下北山の村長をやって居た叔父が早稲田で、若き日の角帽をかぶって大隈講堂をバックに写した写真を「格好良い!」と思ったので、そのまま、大きくなったら東京、そして大学は早稲田って思い込んじゃったのでしょうね。
 兄貴も同じだったようです。
 叔父が東大だったら???
 赤門の前の写真だったら???
 人生変わったのかなあ???
 今頃総理大臣だったかも!

 今でも大又川には細々とでも鰻が放流されているので鰻は捕れます。
 漁業権は設定されていませんから電気とか毒とか使わなければ自由に捕れます。
 放流ものでも瀬で育った鰻は美味しいですよ。
 鰻鶏は好きなんですが、わざわざ通って捕る気力は無いです。
 今の時期、大又川を見ると・・・
 「あそこの石にはおる!」などと思います。
 鮎なんかよりずっと面白いし美味しいです。

       
     
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by je2luz | 2016-07-11 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 04日

熊野の旅 昔の夏 川開き?

 私の子供の頃には、学校のプールなんてありませんでした。
 まあ、今でも飛鳥の学校にはプールはありませんけどね。
 プールが無いから水遊びは当然川・大又川でした。
 源流は矢ノ川と保色山系で、飛鳥からは近く、山から出てすぐです。。
 その分、水はそんなに暖まっていないので、真夏の渇水期以外は冷たい物です。
 でも、そんなことを気にする子供なんか居ませんでしたね。

 今でも6月末頃に集落の人が出て、川に降りる道の草刈りや清掃をしてくれているようです。
 昔は子どもも多いし、あちこちから川に降りるので随分色んな所の草刈りがされていましたね。
 普段から川遊びに降りるので踏みしめた道も多かったです。
 魚釣りなどは年中やって居ましたからね。
 初夏からは鰻釣りも子どもの好きな遊びでしたしね。
 テレビもゲームも無いのですから、山でのチャンバラ、木登り、校庭での缶蹴り、陣取り、かくれんぼ、相撲などの他は川で遊ぶくらいしか無かったのです。
 そして、夏になると朝から夕方まで川で泳いだり魚を突いたり・・・
 ところで、あの頃の女の子ってなにして遊んでいたのでしょう?
 ゴム飛び・まりつき・ケンケンパ・・・男の子はそれにも混じってたけど・・・

 昨日、新鹿と大泊では「海開き」していましたね。
 子供の頃の大又川でも、「川開き」は無いけど、「水泳解禁日」はありました。
 「今日からは泳いでも良いぞ!」と言うことです。
 それまでに泳ぐと職員室に呼ばれて怒られました。
 大又川は隠れて泳ぐ場所が無いのですぐにばれましたね。
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   大又川 チェコ製フレクサレットIV TRI=X
 ばれて怒られると・・・
 「泳いだんじゃ無いんじゃよ! はまったんじゃ!」 なんて余計に怒られたり・・・
 果ては・・・
 「去年、もう泳いだらあかんと言う川仕舞いしてないさか、かまんじゃろ?」 などと屁理屈言ったり・・・
 でも、怒ったからって,「校則違反だ」なんて無粋な事言う先生は居ませんでしたね。
 ???
 いくら言っても聞かんので棒に引かれていたのかも・・・

 尾鷲の矢ノ川峠入り口は今でも子どもが沢山泳ぎに来ているようです。
 大又川は泳げるけど子どもが居ない・・・
 井戸川は台風12号水害以来川が荒れたまま、元の水浴び場が戻っていませんね。
 産田川はきちんと泳ぎ場が直されていますが,ここも泳ぐ子が減って居ます。
 大泊・宮川も遊ぶ子が激減ですね。
 新鹿・里川・湊川も魚獲って遊ぶ子は居ないし・・・
 久生屋の大前池などは「ミシシッピアカミミガメ・カミツキガメ」らしきなのがゴジャゴジャ居るようです。
 川と子供の距離がずいぶん遠くなったようですね。
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   2006年夏 井戸川 VITO II TRI=X
 昔のように、危ないことも知り抜いた「ガキ大将」が率いていればいいのですが、同級生だけの訳の分からないジャリンコが川に出るのは無理でしょうね。
 お母さん同伴のサークル活動より、本当は「ガキ大将復活」の方が日本の子供には良いと、思うのですが…
 今は、どづけば「いじめ」だと騒ぐし・・・
 ジャイアンを作るのは無理かな?
 どづかれたことのないやつがどづくと、痛さもわからず、加減がわからないのでおかしなことに・・・
 なんだかんだで、子供まで「触らぬ神に・・・」になっちゃったようです。

       
     
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by je2luz | 2016-07-04 04:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 20日

熊野の旅 居なくなった虫たち 2

 昨日は生活密着型の虫の話でした。
 今日のは季節の風物詩だった虫の話です。

 一般的に言われるのは「ほたる」ですね。
 田舎ならどこでも一杯飛んだ蛍が絶滅に近づき、わざわざ見に走る状況です。
 昔は気味が悪くなるほど、農業用水(みぞご)や谷川の岩場にぎっしり張り付いていた黒褐色の巻き貝、「ごじな」(かわにな)がほとんど見掛けなくなったのですから、蛍の幼虫が育つはず無いのです。
 恐ろしく農薬とかに弱いのでしょうね。
 今は、その「かわにな」を放流して蛍を戻そうとしているところが多いようです。
 普通の養殖と違い、「ごじな」を大切にして居るのではなく、「ごじな」を餌とさせ食い尽くして蛍になれ…という、考えてみると残酷な・・・

 次は「イナゴ」ですね。
 夏にはみどりの「イナゴ」が秋になり稲が黄色くなるとイナゴも黄色くなります。
 昔は田んぼの畦を歩くだけで、「ザワーッ」っとイナゴが飛んだものなんです。
 一時期はこのイナゴも農薬に追いやられ、川原の原っぱで、硬くてまずいススキなどを食べて生き延びて居たものですが、農薬の制限などで少しだけ田んぼに戻っているようです。
 このイナゴ・・・
 私が子供の頃にはおやつでした。
 学校帰りには、「肥後の守」を使って自分で作った竹串に「イナゴ」を串刺しにしながら帰り、醤油を付けて炭火で炙って食べたのです。
 すごく美味しかったのは、身体が「蛋白質」を欲しがっていたからかも知れません。
 今で言うなら「残留農薬」もあったはずです。
 シラミ駆除同様、私達の世代は「農薬耐性人間」になったのか、長生きです。
 このイナゴ・・・
 いまでは「珍味」でちょこっと串に刺した佃煮などがお高い値段で出て来ます。
 時代ですね。

 木本海岸から消えた虫・・・
 「オニヤンマ」です。
 ヤゴは井戸川・西郷川で育ったのかと思いますが、夏の夕方には浜の上空を覆い尽くすほど飛んだものです。
 これを捕るのは「タマ・捕虫ネット」では無く、30cm程の糸の両端に豆や小石をくっつけたものでした。
 こいつを空になれるとm「ヤンマ」は虫と間違え追いかけ、糸に絡まって落ちてくるのです。
 これは、捕ったからって食べるわけでも、飼うわけでも無かったですけど、何しろでかくて格好良かったです。

 大又川から消えた虫・・・
 「とびけら」です、
 幼虫の「がろじ」(ざざむし)が激減して居ますから、成虫も激減して居ます。
 これも夏の終わり頃かな? 一斉に羽化して川沿いを飛んだのです。
 夕方はぶつかってくるので橋など渡れないくらいだったのです。
 つまり、川から魚の餌の虫が居なくなってきたと言うことなのです。
 今の大又川で釣りをすると、かわいそうなくらい小さな「ウグイ」「ハイ」ばかり釣れます。

 家の周りから消えた虫・・・
 「蟻地獄」・・・
 「うすばかげろう」の幼虫だそうですが、小さなすり鉢状の巣を作り、蟻など落ちると底から身体の割りに大きな口を広げて捕まえました。
 面白いのでわざわざ「ありんこ」を落としたりしました。
 建築様式が変わって、家の周りの「犬走り」などがコンクリートになり、乾いた土の部分が無くなったので巣を作れなくなったのでしょう。
 もともと、ゴチャゴチャ居るものではありませんでしたけどね。

 私はそんなに虫が好きでも無いし、姫君では無いので虫をめずることも無かったです。
 まして、蜻蛉を見て日記を書くなんて思いも付きませんでした。

 やっぱり、印象的なのは、「イナゴ」ですね。
 なにしろ・・・
 「美味しかった」ですから…
 「イナゴ」は「蝗」で、虫の皇帝です。
 でも、味は、柳の虫の方が美味しいかな?
 「蜂の子」も旨いし・・・
 オーストラリアのありんこの蜜も飲んでみたいですね。
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 まだ田舎の生活がこんな風景だった時代の話です。
 だから、大きくなっても何でも食えます、どこの国だってこの頃の日本より豊かです。
 Made in Japan はまだまだまともじゃ無かったのです。
 半世紀ほど前のこと・・・
 なぜ忘れてしまうのでしょう?

    

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by je2luz | 2016-02-20 04:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 06日

熊野の旅 昭和に聞いた昔の話

 私が子供の頃にには、地元の昔話が普通に聞かれました。
 坊やー よい子だ ねんねしなーー なんて、昔話では無く、普通の話でしたね。

 飛鳥でも小阪だと、「平・だいら」ではキュウリを作りませんでした。
 その謂われは・・・
 今は水泳場になっている「くらもと」に「がろぼし・カッパ」が住んでいたのだそうです。
 そして、その「がろぼし」は悪いやつで、淵の下の瀬を渡ろうとする牛を引っ張り込んだりしてみんな困ったのだそうです。
 えらい坊さんに頼んで「がろぼし」退治をして貰ったら、捕まった「がろぼし」が言ったのだそうです。
 「これから平でキュウリを作らんといてくれたら、悪さはせん」
 と言うことで、平だけがキュウリを作らなくなったのだそうです。
 事実、私が子供の頃にはキュウリは作りませんでした。

 この話がおかしいのは・・・
 「がろぼし」が普通のカッパならキュウリは大好物のはず・・・
 「キュウリを一杯作って供えてくれたら・・・」では無いんですよね。
 「平」以外の向かいの「佐田」や「相ヶ谷」上の「本郷」ではキュウリを作れるのだし・・・
 もう一つ・・・
 農協が「種キュウリ」の栽培をしたくなった時、組合長が平の人だったので本郷のお寺のお上人様に祈祷して貰ったら、キュウリを作れるようになったことです。
 なんだか、簡単な話ですね。
 でも、もう、牛を飼っている家が無くなって居たのでこの伝説の真意の確かめようがありません。
 多分、はじまりが江戸期でお終いが昭和という話ですね。
 今では、「くらもと」に「カッパの供養塔みたいなのが立っています。
 そして、私の頃でもそうでしたし、今でも「くらもと」は大又川一番の水泳場です。
 今では市営のトイレも水道も完備しています。
 丸木橋だった橋も、吊り橋になり、今では永久橋になっています。
 橋の名前は「浅見川橋」です。
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 ここが「くらもと」です。
 緑色の深い淵のところを「どんぼ」と呼びます。
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 そばには後の崖から剥がれ落ちた大きな岩が重なっています。
 「重なり岩」と呼んでいますが、とてつも無く大きな岩で、水面下には大きな空洞があり、「がろぼし」が隠れていてもおかしくないです。
 今はすぐ上に「新道・国道」が作られ、「へりみち」と呼ばれて明るくなっていますが、それまでは木が茂って暗かったはずです。
 この空洞は奥行きも深く、暗いので、潜るとウグイなどがぎらりと光って居ます。

 すぐ上はゴロ場の瀬ですし、この重なり岩はあるし、浅い「ナベラ」もあるし、流れの緩やかな「ドンボ」はあるし・・・
 その下の「瀬」のところは浅いので流される心配も無いし・・・
 これに「公衆トイレ」「水道」が完備なのですから、最高の川遊び場です。
 それでも、近年は遊びに来る人が減って居ます。
 駐車場は無いのですが、市道が少し広いので10台くらいは停められます。

 お店も自販機も無いですからものは持参すること。
 ゴミは必ず持って帰ること。
 民家が遠くても夜中には騒がないこと。
 雨が降ったら川原から待避すること。
 平にはほとんど居ないはずですが「ハンビ・まむし」には気をつけること。

    

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by je2luz | 2016-02-06 04:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 05日

熊野の旅  昭和まで少し残って居た昔 4

 この話題に戻ろうと思いますが・・・
 きちんとメモとか筋立てして書いているのではありませんから、少し間に違うのを挟むと考えが解らなくなります。
 あまり緻密な作業が好きな方じゃ無いようです。
 「随筆」なんてのは思うに任せて書く物だと思うのですが、世の中の「随筆家」はびっしりメモを取り、それに基づいて欠く人が多いのだとか・・・
 私にはそれは出来そうに無いですね。
 「硯に向かいて 心に移りゆく よしなしごとを・・・」 で行きます。
 兼好法師に叱られそうですけどね。

 川の方でも色んな遊びがされましたが、水泳は学校で解禁日が決められました。
 水温が低い大又川ですから学校の言うのも解ります。
 梅雨時は増水して危険と言えば危険ですからね。
 でも、釣りや水遊びは禁止されて居ませんでした。
 私のような悪ガキは解禁日前にもよく水にはまりました。
 用意周到に服まで脱いではまっちゃうのです。
 そんなことをチクル大人も居ませんし、たまたま見つけちゃった先生も「こらーっ!」と怒るだけで、職員室に呼び出すとか親を呼び出すなんて無粋なことはしませんでしたね。
 あくまでも、「泳いだ」にではなく、「はまっちゃったので夢中になって助かろうとしていただけ」なのですよね。
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 大又川は変化に富んだ流れを持っています。
 岩盤が剥き出しの「なべら」・・・大小の丸石が重なった「ごろ」・・・
 流れの急な「瀬」・・・緩やかな「どんぼ・淵」
 無いのは滝と砂地の川です。
 豪雨による大水が多いので砂はほんの一部、特定のところにたまるだけで流れちゃうようです。
 その砂のたまる場所は集落のセメント材料として大事にされていました。

 短い区間にこれが混在しますから、その場所その場所で遊び方が変わります。
 泳ぐのも、魚釣りも、魚突きも場所に応じて変化させないと駄目です。
 色んな形で遊べるので飽きませんね。
 幅は狭いけど、遊ぶ区間は長く使えます。
 後年になると「学校指定の水泳場」がかなり窮屈になったようですが、私達の頃は、集落の上から下までが遊び場で、どこまで行けるかは、餓鬼グループの勢力次第でした。
 川には手頃な「石つぶて」、凶器の「へし・かな突き」があるのですが、絶対にそれを行使することはありませんでした。
 水泳パンツを脱がせるなんていじめもありませんでした。
 ションベンの飛ばしっこなんてする時代ですから、いじめになりません。
 突き飛ばして水に落とすのはありましたが、泳いでいる時で、寒中にそんな事するのもありませんでした。

 大又川の水は冷たいことが多いので、少し泳ぐと川原の「なべら」に並んで張り付いて暖まりました。
 天気が良い日は岩が熱すぎて火傷しますから、水を掛けてから・・・
 寒くて唇が紫になりかけると、上級生、ガキ大将の命令で全員水から上がって甲羅干ししました。
 ここでも、年長者・ガキ大将の役目はあったのです。
 学校の中だけの児童会長より責任は重いでしょう。

 水泳パンツが出回るまでは、幼児、低学年は「フリチン」、その上は「パンツ」か「ふんどし」でしたが、さらしの長い正規のでは無く「黒猫・ねこ」と言われる簡易型でしたね。
 女の子も幼児は真っ裸で泳ぐ子が居たし、低学年はズロース、少し上からシミーズを着て居ました。
 当然透けますから、大きくなってくると女の子は泳がなくなりましたね。
 水着を買って貰える子なんて居ませんでしたし、自分だけ買って貰っても着てこられませんでしたからね。
 ものが出回る昭和30年代に入ると女の子の水着が少しずつ田舎にも入ってきましたね。

 「なべら」を滑って下るのは年令に応じて難易度の違う所を使えば良いので面白いのですが、パンツの時代は困りました。
 岩がコケ・ノリに覆われて居るのでよく滑るのですが、それをこすりつけるので緑色になって取れないのです。
 そして、普通の木綿のパンツですから破けちゃうのです。
 物の無い時代ですから、脱いじゃって遊ぶ子も多かったのですが、海水パンツになってからは脱いじゃう子は居なくなりました。
 人間の皮って丈夫なんですね。
 パンツが破けることはあってもお尻の皮は大丈夫なんですから・・・
 まあ、「本革」ですけどね。

 脱いじゃう頃、ションベンの飛ばしっこした頃は「先輩のはでかい!」とか「あいつのより大きい!」なんて自然に解っていたものです。
 おおらかだった日本のそうした風俗も段々隠されていったようです。
 良くなったのか悪くなったのか・・・
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 これは昭和32年・・・女の子は町から来た子です。
 この頃には水着が入って来ていましたね。

    

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by je2luz | 2016-02-05 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 02日

熊野の旅  昭和まで少し残って居た昔 3

 昔の子供の遊びを書いています。

 今と違い、遊びにさほど元手が掛からないのです。
 日本全体が貧乏でしたから、田舎の子供はおもちゃなど買って貰えませんでしたからね。
 私は恵まれていた方なのですが、小さい時に買って貰ったおもちゃは「ブリキのジープ」だけ位です。
 あの頃のブリキのおもちゃは裏側に色んな模様がありました。
 なにしろ、アメリカから来る空き缶を再利用した物が多かったですからね。
 裏はアメリカの缶詰模様、表は日本で塗ったおもちゃ・・・それがもう一度アメリカに輸出されて・・・

 遊び道具が無くても、子供の空想力は何でも思った物に化けさせます。
 川原の竹は刀・槍・旗指物に見えるし、板切れは「戦艦ヤマト」にも「零戦」にも「ジープ」にも見えたのです。
 高学年になればノコギリで形を作り、釘でくっつけたり・・・
 その釘でも新しいのなんか使えませんから古釘を伸ばして・・・
 何しろ鉄くずを売って小遣い作った時代ですから、その古釘も貴重だったのです。

 そんな無限の空想力のある子供達が消えていったのは、戦後の復興期で物が出回った頃からでしょう。
 世の発明家なんてのも戦中戦後の物の無い時代を経験した人が多かったようです。

 こんな時代の男の子の大事な宝物・・・
 「肥後の守」です。
 折りたたみの小型ナイフ・・・
 上手に研げば恐ろしいくらい切れました。
 男の子はこれ一丁で遊び道具を作りだし、鉛筆も削り、自分の手も随分切ったものです。
 私の指にもこれの切り傷が残って居ます。
 この家のどこかにも「肥後の守」が一丁あるはずです。
 これを研げるようになれば一人前・・・
 その遺産として、私達の世代までの田舎育ちの男は包丁が研げます。
 「肥後の守」に比べれば包丁なんて研ぎよい物なのです。
 包丁も研げないのは日本男児じゃあ無かったのです。
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 この「肥後の守」も教育ママなんて種族が目を覚まし出すと禁止されました。
 「危ない」のだそうです。
 鉛筆削り用に出て来たのが折りたたみの片刃の安全がみそり・・・先がとっがって居ませんからね。
 でも、「優しいお母さん方」から見ると、やっぱり手を切るから「危ない」物に見えたようです。
 それまで禁止に・・・
 で・・・
 自分の指も切ったことが無い子供には「痛み」なんて実感出来ないから、人様を平気で切っちゃうのです。
 まっとうな喧嘩もしたことが無いので、物は持つ、足で蹴る、首を絞める・・・
 で・・・
 殺しちゃうのです。
 「優しいお母さん方」が凶暴な子供を作っちゃったのです。
 なんて言えば叱られるのでしょうね?
 「人には優しく」「人命は地球より思い」って、ちゃんと教えています! と、噛みつかれそうです。

 水辺の方でも昔の子供は一杯遊びを工夫していました。
 「水泳」なんて、小さな子供は「フリチン」でした。
 女の子も小さい時は真っ裸・・・
 そして、木綿のズロース・・・「あま」がブラの付いた水着なんてありませんでした。
 小さい時はイモリのように手をついてごそごそと・・・
 大きな兄ちゃんに手を引かれて少しバタ足やって、つぎは放り込まれて自動的に泳げるように・・・
 
 小さい時は、手拭いでメダカやガブ(かわはぜ)をすくって遊びました。
 ガブなんてヨモギの根っこにガロジの切ったのを縛っただけで釣れましたしね。
 ちょっと大きくなれば「へし・かなつき・モリ」を買って貰って、魚を追いかけ回します。
 息が長く続き、魚突きが上手いことも「ガキ大将」の条件でしたね。
 だから人知れず努力したんですよ。
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 魚を捕るのも、釣り以外に、竹を割って朝顔状にした「逆もどり」なんてのを作り、川の浅瀬を石を並べて魚の進路を制限して水の落ち口におびき寄せて獲るのもありましたし、そうした石のバリケードの中で魚を追いかけると岩陰に入って隠れたつもりの「赤バイ」や「たいしょうバイ・オイカワ」なんてのを掴まえました。こいつ等は少し馬鹿なのですぐに隠れたつもりになし、身体が滑らないので素手でも掴みよいのですが、「うぐい」は馬鹿じゃ無いし滑るので掴まえにくかったです。
 他には寒い時期は「石こづき」と言って、川岸の岩の上に自分が持ち上げられるだけの大きな石を叩き付け、ショックで魚が脳しんとうを起こして浮いてくるのを掴まえたり・・・
 つまり、川があればサバイバル生活が出来る技は身につけていたのです。
 そんな遊び・狩猟方法も伝承されなくなっていますね。

 大又川は砂地の大川と違うので流れにバリエーションが多く、遊びも多様化していました。
 いまでも、この川でなら、自生している竹で竿を作ってあり合わせのテグスと針で魚くらい釣れますし、何も無ければ岩に手を突っ込むとか、いしこづきで魚は捕れます。
 ただ「石こづき」は足が怖いです。
 昔の子供の怪我するのが居ましたからね。
 やれば骨を砕く重傷です・・・
 一応、これは学校では無く大人から禁止されて居ました。
 だから、餓鬼どもを引き連れている時にはやりませんでした。

 まだ続きますね。

    

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by je2luz | 2016-02-02 04:30 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 01日

熊野の旅 昭和まで少し残って居た昔 2

 さて、ガキ大将が健在だった頃の田舎のガキやアマ(女の子)どもはどうしていたのでしょう。

 普段はその時その時の遊びがありました。
 私は飛鳥村小阪で物心つき、小学校の高学年になる頃に合併で熊野市飛鳥町小阪になりました。
 低学年・・・小学3年生頃までは比較的ひ弱で温和しい子だったのですが、三年の時に戦後の認定で教員になった先生が「講習」とかで三重大などへ学年途中で行ってしまい、繋ぎは校長先生。担任は3人交代したのかな?
 そんな環境で真面目に温和しくするのが馬鹿らしくなり、「餓鬼魂」が目覚めて、暴れ出しました。
 図体はでかい方でしたから、寝覚めちゃうと、やってみれば喧嘩もそこそこ強いし・・・
 昭和の中頃まででしたから、学級崩壊だとかにはならずに、猿山の地位入れ替えで済んだのです。
 勿論、その頃の先生は担任じゃ無くても怒り飛ばしましたし、下手するとどづき倒されましたからね。
 作法通り、喧嘩で登って行くわけです。
 こっちが悪くて先生にどづかれるのは納得出来ましたが、濡れ衣とか気分で怒るのは許せませんでした。
 日本はずっと批准しませんでしたが、国連で「児童憲章」が採択されたのは低学年だったのですが、意味も無く怒った校長を掴まえて、「児童憲章知らんのか!」などとたてついたのを覚えています。
 まあ、ややこしい餓鬼だったのでしょうね。

 遊び・・・陸の上の分
 「ケン」=めんこ
  これの図柄は流行りがあり、野球選手だと「川上・青田・千葉・小鶴」なんてのが人気でした。「鞍馬天狗」なんてのもありました。「冒険団吉」「ハリマ王」「紫ずきん」なんてのもあったし、祭のテキ屋さんの売れ筋でしたね。
 新品は硬くて地面の沿わないのでわざと端をふやかしたり、蝋で加工して重くしたり・・・使う時に水を浸ませるのは御法度でした。

 「ビー玉」・・・まだそんな気の効いたのはほとんどありませんでした。
  「むくろじ」=椋の実・・・黒いはねつきの羽根の玉の部分
   これをビー玉代わりに使いました。採れるのは隣の佐渡の墓・・・そっちの子供の目を盗んで拾うのが大変でした。
   「三角」「ドボン」「目落とし」など色んな遊びがありました。

 「釘打ち」・・・4寸か5寸の釘を地面に投げて立て、迷路のように縄張りを広げ進めなくなったら負け。
  細かい事が出来るように二寸釘とかの先を細くとがらせたり・・・腕の見せ所でした。

 「将棋」・・・低学年ははさみ将棋、大きくなれば「本将棋」、昔の男の子はほとんど将棋が出来ましたね。

 「独楽」・・・この辺は「べーごま」はやりませんでした。 回る時間を競ったり、手に載せた状態での鬼ごっこなどしましたね。 低学年で直に手で受けられない子は缶の蓋が許されたり・・・ あとは紐に乗せる綱渡りとか・・・

 「缶蹴り」・・・今の公園だと隠れるところも少ないし、困るでしょうね。

 「竹馬」・・・高学年は自分で作りました。 高いのに乗れるのが自慢だったり、片方のを担いで片足で走ったり、鬼ごっこしたり、転んで擦り傷作るなど親は怒らない時代です。

 「缶から馬」・・・二つの空き缶に紐を付け、コッポンコッポン歩きます。

 「輪回し」・・・たらいのタガの針金、自転車のリムなどを転がしながら走り回ります。

 「陣取り」・・・色んなルールがありましたが、それをきちんと守らせるのもガキ大将の権限だし義務でした。

 「缶蹴り」・・・これも、その場所でローカルルールを決め危なくないようにして居ましたね。

 「縄跳び」・・・女の子が多かったですが、一緒に遊びたいと入れて貰いましたね。

 「ゴム跳び」・・・輪ゴムが出てくると流行りました。 ルールも色々、女の子の提灯ズロースが丸見え・・・高学年になるとスカートを挟んで隠したりしていましたね。  でも、低学年の子などは道端でおしっこしていた時代ですから・・・

 「かくれんぼ」「鬼ごっこ」なんてのも当然やって居ました。

 「戦争ごっこ」・・・鉄炮は木で自作、戦後すぐで戦争に関する物は進駐軍に禁止されても子供の世界で生きていましたね。 山の中に陣地を構え・・・小阪を上下に分け常時対戦して居ました。 おかげで、子供でも里山の地形は詳しかったです。

 「チャンバラ」・・・これも流行りがあり、「鞍馬天狗」が何人も居たり・・・

 「相撲」・・・冬が多かったですが。星取り表作ったり・・・東富士・照國・千代の山・三つ根山・・・
 雷電や谷風の時代ではありませんよ。

 「草野球」「三角野球」「板のラケットの簡易庭球」「ドッジボール」なんてのもあったし・・・

 まだまだあります。
 陸の上だけでも一杯ありますから、これらを5歳から12歳までの7年、2560日、その中の晴れの日にこなすのですから、変なこと考えて居る暇は無かったのでしょう。
 みんなと折り合い付けないと遊べないし、折り合いを付けさせないとガキ大将は大人に叱られるし・・・

 この記事は続きます。
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 この写真は昭和37年(1962) 五郷町東郷 七色ダムで沈む予定のところに住みついた人達です。
 「さざえさん」の世界ですよね。
 この頃は正真正銘の「昭和」なんですね。

    

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by je2luz | 2016-02-01 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)