LUZの熊野古道案内

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2018年 05月 12日

時代ですね…富士フイルム

 私などには「富士写真フイルム」として馴染んできた会社ですが、少し前に社名から「写真」が消えて居ます。
 この会社は「フイルム」で「フィルム」ではありません。
 このたび、このフジから白黒フイルムが消えます。
 「NEOPAN SS」なんて時代が懐かしいです。
フジがやめてもまだ「ILFORD」「KODAK」「オリエンタル」「AGFA」などの白黒フィルムは残って居ます。
 私は長年…何十年もKODAK TRI-Xですし、何とか生きている間は大丈夫そうです。
 現像薬品なども生産中止が増えていますが、昔ながらのKODAK D76なんて現像液は1926年に発売されて以来まだ現役です。
 これも私は長年使って居ますし、配合が公開されているので大丈夫でしょう。
 私が写真を撮りだして60年を越しますが、白黒の世界はそんなに変わっていません。
 ただ、印画紙の方が変わっちゃいましたね。
 バライタ紙という良質パルプで作った紙に感光材料を塗っていた時代は紙に定着液などがしみ込むのできちんと水洗いしないと黄色く変色したのですが,今はプラスチックベースで土台に薬はしみ込まないので水洗い不足が無くなりました。
 と言うより…
 今は感光材料を塗った印画紙に引き伸し機で焼き付けて現像する手法を採らないことが増えたようです。
 デジタル化してプリンターで…
 若しくはモニター画面で…
 
 このところモノクロフィルムでの撮影をやって居ませんでしたが、やってみようかなと思います。
 カメラも保管庫で眠っていますしね。
 NIKON F ROLLEI FLEX IKOFLEX SPEED GLAPHIC …迷いますね。
 今私が使わないとこのカメラ達が日の目を見ることがないでしょう。
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 この手のカメラを検索すると私のHPと写真が出てくるって事はあまり生き残っていないのでしょうか?
 このスピグラは「ローマの休日」にでてくるのと同じ型式です。
 年寄りにが振り回すには重すぎますけど…
 勿論、レンズのコダック・エクターもシャッターのグラフレックス・スーパーマチックも健在です。
http://www.geocities.jp/je2luz/crowngraphic1.htm


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by je2luz | 2018-05-12 04:11 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2017年 05月 13日

熊野の旅 呼び方 呼ばれ方

 この辺りでは人の呼び方がかなりバラバラみたいに思えます。
 昔と今では変わってきては居ますけどね。

 古い呼び方は「屋号」でしょうね。
 油屋・笹九・角屋・笹広・角中・・・
 店の名前でも呼ばれますね。
 丸田・朝日屋・えびす屋・大黒屋・小松屋・和田松・てんぐ屋・布袋屋・酒甚・畑辰・畑駒・川重・・・
 こうしたものは店が無くなったりして使われなくなってきています。
 名字が店名になって居たのはそのままでしょう。
 天野屋・長嶋屋・前田屋・・・

 そして、個人の方では「ちゃん」がよく使われてきました。
 大人になっても「ちゃん」のままの人も多かったです。
 「かだすてのしょうちゃん」なんて大物は一代そう呼ばれていました。
 こうした呼び方は下の名前の一部を使う事が多いし、何人も同じになるので頭に名字や屋号が付くのです。
 「鈴木の・・・」「斉藤の・・・」「嶋の・・・」これを略すと通じなくなります。
 そしてうんと名前をはしょって・・・
 「とっちゃん」「やっちゃん」なんてもの使いました。
 「やん」が付くこともあります。
 「みのやん」「せいやん」・・・
 漁師町だけではなく以前は広く使って居たように思います。
 これが、子どもの時に始まるとずっと引っ張っちゃいます。
 「かだすてのしょうちゃん」同様一代続くことが多いですね。
 「しゃん」は漁場の訛りですね。
 「せいじしゃん」「まえがわしゃん」・・・

 私の場合、子どもの時には、「せー坊」が多かったのですが、その他大人に掛けては「せーちゃん」「せいじちゃん」「せーやん」と呼ばれました。
 最近は「せいじさん」が増えました。
 「ちゃん」を付けるほどかわいくなくなったのでしょうね。

 ほかには・・・
 「おじ」なんて付くのもありました。
 「こーきおじ」「はるきちおじ」なんて・・・
 「あに」が付くのもあり、「小西の兄」「かんじのあに」「節夫のあに」・・・
 次男坊には、「じー」なんてもの付けられたようです。

 女の人は「あね」「よめ」からはじまって「かかあ」になり「ばば」まで出世していたようです。

 呼び捨ても多かったです。
 同級生は勿論、下級生など片っ端から呼び捨てして居ましたね。
 先生は当然のように生徒を呼び捨てして居ました。
 時代が下って、学校で「君・さんを付けましょう」なんて指導し始めたころすごく違和感を感じたのを覚えています。
 語尾に「ね」を付けた「えせ標準語」が入って来た頃だったのでしょうね。
 定着するのに随分掛かったようです。
 でも、「にゃあ」「ぎゃあ」でも良いと思うのですけどね。

 ふるさとの なまりなつかし ていしゃばの ・・・
 そんなのも良いではありませんか。
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by je2luz | 2017-05-13 04:17 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 26日

熊野の旅 27・28日

 今週末。27日28日と二日続けて、熊野市議会第三班(私の所属する班)の「地域懇談会・語る会」があります。
 4月27日 19時から新田集会所
 こちらは、木本町を二分割した北側の親地町と新田を対象にした物です。
 地域からの要望としてはこの2地区のものをうかがっています。
 出席されるのはこの地区に限定している訳ではありませんから興味のある方はおいで下さい。
 熊野市の「平成29年度予算」などについても少しだけ説明する予定です・

 4月28日金曜日 19時から飛鳥町野口集会所
 こちらは飛鳥町の下三区(佐渡・野口・神山)が対象です。
 飛鳥町は広いので色んな事はこの下三区と小阪そして両又(大又・小又)の三つに分けて行う事が多いです。
 この区分けは、以前の小学校の校区なのです。
 飛鳥村は一村で三つの小学校を持っていたのです。
 今は児童数の減少で一つになって居ますが、行事関係は別々と言うことが多いですね。
 大人の行事も人口減と高齢化で維持しにくくなりつつあります。
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 この懇談会も大詰めです。
 今期の結果を踏まえて次期の懇談会のやり方などが決められるでしょう。
 前にも書いたように、「議会としての懇談会」に関しては私は少し疑問があります。
 「地域の要望を聞いて役所の答えを伝える」ことが主眼になってしまっているからです。
 これって、市長帯同なら分かるのですが、議会が役所の出前持ちするのって???
 党派でも会派でも無い議員の集団ですから、意見が固まる訳も無し・・・
 時間的にも質問が出ても個々の議員の見解や意見を述べることが出来ません。
 私たちの班は、山本・山田・久保・中田と割とうるさいのが揃っていますから、好きにやらせとけば一人で二時間でもやるでしょう。
 現に私は毎日ブログを二本ほど書き、一般質問は欠かさずやり、「清流」の発行も続けています。
 「議案質疑」から「予算・決算の特別委員会の審査」そして「常任委員会審査」・・・はては、たまに反対討論までやって、まだ少し足りない位ですから・・・
 選挙の時でも街頭でそこそこ演説打ちますし・・・
 私なりに・・・それなりに・・・
 市民の皆さんには解って貰えている方だと思っています。
 

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by je2luz | 2017-04-26 04:35 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 19日

熊野の旅 秦の徐福 波田須 済州島

 熊野市には「秦の徐福伝説」があります。
 波田須にある「徐福の宮」はその史跡だと言われ、その証拠に「古銭」が出土ぢているそうです。
 この「徐福」さんは日本各地だけでは無く韓国にもその足跡があるとされています。
 何しろ今から2200年ほど前の「秦の始皇帝」時代の話なのでよく分からないのが本当のところでしょう。
 神武天皇が紀元前600年ほど・・・2600年前ですね。
 その時代は神話の世界?
 2200年前は縄文から弥生への移行期だとか・・・
 徐福が始皇帝に預かった人員が3000人だったとか・・・
 空母カールビンソンには3000の兵士が乗っているそうですが、秦の時代にそれだけの人間を運ぶとは・・・
 だから、弥生時代を作ったのがこの徐福一行だという説もあるのでしょう。
 縄文人対当時の最先端の武装と農耕の種子まで持った3000人・・・
 太刀打ち出来ませんよね。
 で・・・
 波田須には土着の人は何人居たでしょう?
 流れ着いたにしても波田須には荷が重かったでしょう。

 新宮にも墓があるようですし、日本各地に伝説が残っているようですが、まだ、文字も無かった日本には記録は無いようですね。
 日本での徐福伝説のある所は・・・
〇日本海側
青森県 小泊村
秋田県 男鹿市
京都府 伊根町
山口県 豊浦郡 豊北郡 土井が浜
〇太平洋側
東京都 八丈島
東京都 青ヶ島
山梨県 富士吉田市
山梨県 河口湖町
山梨県 南都留郡 山中湖
静岡県 清水市 三保松原
愛知県 宝飯郡 小坂井町
愛知県 名古屋市
三重県 熊野市
和歌山県 新宮市
高知県 佐川町
宮崎県 宮崎市
宮崎県 延岡市
瀬戸内海
広島県 宮島町 厳島
山口県 上関町 祝島
〇東シナ海側
鹿児島県 種子島
鹿児島県 屋久島
鹿児島県 坊津町
鹿児島県 串木野市
佐賀県 杵島郡 山内町
佐賀県 武雄市
佐賀県 諸富町寺井津
佐賀県 富士町 古湯
佐賀県 神埼郡 吉野ヶ里遺跡
福岡県 八女市 山内
福岡県 筑紫野市 天山
 こんなにあるんだそうです。
 うーーーん・・・
 熊野市波田須がぬきんでている証拠は???

 この一行は韓国経由で日本に向かったとかで、韓国にもゆかりの所があるのだとか・・・
 済州島・海南島だそうです。
 熊野市では韓国に使節を送るそうです。
 中国にも送ったはずですが・・・
 どこまで韓国からの観光客を引っ張れるでしょう?
 大体、熊野市の人で国内30箇所ほどの徐福縁の所へ出掛ける木のある人は何人居るでしょう?
 徐福を利用するのはかなり難物のようです。
 今の時代、ドラマでも仕立てて波田須を「聖地」にでも祭り上げないと・・・
 
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 一時期この「波田須駅」がアニメの聖地になってマニアが来ていたんだそうです。


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by je2luz | 2017-04-19 04:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 02日

熊野の旅 農業と田舎の暮らし

 今日、7月2日夕方から、紀和丸山千枚田では「虫送り」があるようです。
 「あるようです」と書くのは、紀和の行事にはよく出掛ける私ですが、「虫送り」には行かないからです。
 「虫送り・虫追い」と言う行事は、日本中の田舎にあった農業の行事でした。
 紀和の千枚田ではこの時期ですが、昔はもう少し遅かったと思います。
 稲の作付けがうんと遅かったし、穂が出始めるのも当然遅かったですからです。
 この行事は、稲の害虫、「ウンカ」などが動き始める頃、夜、松明を焚きながら田の畦をめぐり、火に集まる虫を焼いて退治しようというものです。
 農薬の無い時代、せめてもの抵抗という感じですね。
 効果よりは祈りでしょうか?

 日本の田舎は「稲作」が主な産業でしたから、日常生活の中に農業に関係した行事が一杯入った生活をしていたようです。
 正月の門松飾りのようなものも田んぼ(門田)にも飾ったし、田植えが終わると「さなぶり」というのをやって田の神に豊作を祈りました。
 秋10月の「いのこ・猪の子」なんかも、豊作感謝の意味もあったのでしょう。
 大体、鎮守様の村祭りも秋の取り入れば終わって、労をねぎらい実りに感謝するものです。

 私が子供の頃・・・昭和20~30年代には、学校も百姓行事に振り回されていましたね。
 機械化になって居ない時代は子どもも大きな労働力でしたからね。
 小学生でも高学年になれば立派な働き手だったのです。
 今のテレビでアジアやアフリカの子どもが、水を運んだり、百姓手伝ったり、子守したりするのを見て珍しがりますが、その時代の日本では当たり前だったのです。
 戦争で疲弊し、敗戦でどん底に落ちた日本の生活は今の低開発国・後進国レベルだったのです。
 子どもだって4人も5人も・・・多ければ一ダースも・・・
 放課後の手伝いだけでは無く・・・
 「田植え休み」「さなぶりの運動会」「稲刈り休み」・・・
 授業が無くても「ゆとり」ではありません。
 「学校田」なんてのがある所も多かったのです。
 今のお遊びの体験学習では無く、まともに米を作ったり・・・

 百姓の子はこうして、中学を出る頃までには百姓仕事の入り口は学んだのですが・・・
 その頃から、中学を出た子どもの2割ほどが高校へ、残りのほとんど全部が都会などへ就職で出て行きました。
 「就職列車に 揺られて揺れて・・・」
 「国を出る時 持って来た 大きな夢を 盃に・・・」
 「かわいあの娘は おらを見捨てて 東京へ行っちゃった・・・」
 「包丁一本 さらしに巻いて・・・」
 こうして都会は発展し・・・
 百姓の子も百姓を忘れました。
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  昭和32年飛鳥中学校 OLYMPUS 35 S-C
 狭くて段々で効率の悪い農地・・・
 営業農家には向かないし。家庭菜園にしようとすると、年に1000頭獲っても減らない鹿に食い荒らされるし・・・この辺ではまだないですが山菜採りも命がけ・・・
 「ある日 森の中 熊さんに 出会った」・・・ 冗談じゃ無いです。
 日本オオカミが居なくなって100年を超えてきたようです。
 外来生物も害をバラ撒きだしたようです。
 生態系のバランスが完全に崩れたのでしょう。
 このままでは「共存」なんてきれい事を言えなくなりそうです。
 マタギ・猟師どころか遊猟者も居なくなりそうなんです。
 州兵・自衛隊では無いですが、ライフルを装備した「集落防衛隊」を常備して住民を守らなくてはならない事態になりそうです。
 トランプさんじゃ無いですが、「隣の県との境に電気柵を張り巡らせろ!」なんて勇ましいことになるのかも・・・
 月の輪熊の押しつけっこには限界がありますからね。

 
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by je2luz | 2016-07-02 04:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 09日

熊野の旅 昭和から平成へ 消えた物 2

 昭和は長かったです。
 そして、昭和が長かったから短いだろうと言われた平成も28年になります。
 一世代・one generationは30年と言われます。
 30歳くらいで子供を作ると考えれば、一世代が30年になるわけですし、長い目で見ればそうなるのでしょう。
 昭和が二世代分、平成が一世代・・・つまり、三世代分ですから世の中が移り変わって当たり前でしょうね。
 
 昭和は戦前と戦後に分けて丁度よい感じなのかも知れません。
 世の中の体制も生活様式も科学技術もその辺で大きく変わりましたからね。
 だから、私が子供の頃の戦後の復興期が一段落する頃からは、古いものが消える速度が速かったように思います。

 大家族も一気に減りました。
 戦時中の「生めよ増やせよ」が効いたのか、それに輪を掛けた戦後の復員兵士の増加で、私の前から少し後に掛けては、5人兄弟なんてざらでしたし、10人以上もびっくりする数ではありませんでした。
 「貧乏だから産めない・・・」は今の考えですね。
 世界中見ても、貧乏な国ほど子供が多いのです。
 日本でも、「貧乏人の子沢山」が普通の言葉だったのです。
 と言うことで、60年ほど前から「大家族」が消えて行きました。

 大家族が消えて、「おさがり」なんてのも減ってしまいましたね。
 子供の頃には服なんて「おさがり」が当たり前だったものです。
 長男でさえ、親戚の家からのお下がりだったり・・・
 「リサイクル」なんて感覚では無く「生きるための常識」だったわけです。
 そして・・・
 継ぎの当たった服や靴下もどんどん減りました。
 子供服を下に下ろすなら継ぎを当てないと着られませんが、その子だけならよほど暴れないと保つからです。
 それに、人絹だとか再生繊維を使った衣料が消えて行き、ナイロン、ビニロンなんてのが出てくると耐久性もよくなったし・・・

 物の無い時代に横行した、「押し売り」なんてのは、警察が取り締まっても無くならなかったけど、ものが出回ると来なくなりました。
 「昨日ムショから出たばっかりなんだけど・・・」 と言うのが決まり文句だと漫才のネタになるほど普通のものだったのです。
 祭や夜店の「ゴム紐」「服地」の測り売りなんてのも、同じですね。
 実演販売の要領なので、2m買うと、目の前で物差しで測っておまけまでしてくれるのに、家に帰ると2mも無いのです。
 ゴム紐なんて伸びるのですから簡単にごまかせますが、キャラコだとかスフなんて生地は伸びないのに、手品のようにごまかしちゃうのです。
 その時代だと、「オレオレ詐欺」に掛かるほど金を持ったおばあちゃんなど居ませんでしたから、こうした小悪党が跋扈したのです。

 私鉄の三重交通より信頼されていた、「省営バス」・・・「国鉄バス」も、紀勢本線の全通で縮小され、国鉄民有化の流れの中で、この辺からは姿を消しました。
 私が物心着いた頃には、「日本国有鉄道」で、「鉄道省」が走らせている「省営バス」では無かったのですが、暫くは「省営・ショーエイ」と呼ばれていました。
 車体には誇らしげに「ツバメ」がついていました。
 プロ野球の国鉄球団も「スワローズ」でしたからね。
 なんと言っても、日本一の特急列車は「つばめ」でした。
 国鉄バスを「ショウエー」と呼んでいたのは、田舎だからじゃあ無いんですよ。
 東京でも昭和30年代終わりまで、山手線を「省線」と呼んでいる、生粋の東京爺ちゃんが随分居たものです。 
 ちなみに「山手線」は「やまのてせん」で「やまてせん」じゃあ無いってえのもその爺ちゃん達の口癖でした。
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 バスと言えば、この辺まで伸びてきていた「熊野交通」や「奈良交通」も路線が無くなってしまいました。
 そう言えば、東京池袋・大宮行きの夜行バス・・・
 三重交通と西武鉄道の共同運行で、三重交通のバスと西武のバスがあったのですが、最近「西武」のを見掛けませんね。
 朝霞の辺りの路線バスの車内放送で「南紀への旅は夜行バスで・・・」なんてやって居たのですが、今でもやって居るのかな?
 この夜行バス・・・一泊浮かせられるし、新幹線より安いし・・・
 若くて体力あれば旅に使えるのですが・・・
 東京ー大阪などのような各社競合路線よりは高目ですけどね。
 これも消えないで欲しいものです。

 何しろ、紀勢線利用でありがたかった、「夜行列車」がとうの昔に消えて居ますからね。
 「急行・那智号」・・・東京着時間の関係で実にのんびり走っていました。
 多気で鳥羽発の「伊勢号」と合流し、時代によっては名古屋で「能登」とか「出雲」と合流していました。
 寝台車を引っ張っていたので、それを利用しました。
 「ブルートレイン」なんて気の効いた呼び方はしませんでした。
 私の頃は「急行」ですし、寝台車は「ハネ」です。
 こんなのも消えちゃいましたね。 

    

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by je2luz | 2016-02-09 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 08日

熊野の旅 昭和から平成へ 消えた物 1

 このところ、きのもと・井戸などでお店などどんどん消えて居ます。
 どんな物が消えていったのか考えてみました。

 木本で言えば本町通りは江戸時代の地図にも一応出てくる町でした。
 水が無いので住宅には向かなかったようですが、少しずつお店が出来ていったようです。
 「記念通り」は都市計画で作られた通りで、昭和になり皇紀2600年の時に作られたものです。
 その裏側の栄町などは「新開地」と言われるほど新しいのです。

 井戸町松原は古くからの町で、明治期に井戸川に橋が架けられてから浜街道賭して栄始めたようです。
 その他の井戸町赤坂・井土なんてのは戦後昭和30年代後半から埋め立てられた新興地です。

 取り立てて産業も無いこの辺が賑やかになったのはやはり鉄道が出来、「紀伊木本駅」から「天王寺」まで結ばれてからみたいです。
 この先は「巡航船」そして「省営バス」しか無いので、嫌でも泊まらなくてはならないとか・・・
 私の記憶にあるだけでも、宿屋は・・・
 「亀齢館」「酒甚」「吉住」「朝日館」「御浜館」「観海荘」「あさぎり」「春風館」「淸玉」「喜代館」・・・まだまだあったはずです。
 「紀南荘」「みはらし」「畑井」「平谷」「やまかど」「かんぽの宿」「かわかみ」「なみ」などは随分後みたいな気がします。
 しかし、今残って居るのは???
 入り込み客が増えても、「旅館」は成り立たないようです。
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 食い物屋では・・・
 「御浜食堂」「西山食堂」「熊野大食堂?」「喜楽」「まつや」「初音」「みはと食堂」「一休」「川口屋」「松田食堂」「はまゆう」「幸すし」「千代寿司」「くるま寿司」「田」「スマン屋」「竹林」「東京寿司」・・・覚えていないところも沢山

 饅頭屋・キャンデー屋・駄菓子屋では・・・
 「小松屋」「長嶋屋」「いわもと」「今源」「和田松」「さの」「やまと」「白玉屋」「清水製菓」・・・

 飲み屋・割烹では・・・
 「きよみ」「ひさご」「すぎむら」「タイガー」「きぬがわ」「キング」「みはらし」「はるさめ」「はまゆう」・・・

 映画館では・・・
 「明治座」「新明治座」「丸山映劇」三つも・・・
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 こんなのほんの一部なんですが、今残って居るのはほとんど無いように思います。
 町の中心が移って行くと言うのでは無く、消えて行くのですね。
 私も、飲みに出なくなったし、子供無い無くなってからは外食も無いし、買い物はスーパーか通販がほとんど・・・
 昔ほど「欲しいもの」が無くなって居るし・・・
 昔よりものの品質が上がって長持ちするし・・・
 クリーニング屋さんの頼まなくてもYシャツなど洗えるし・・・
 人口減だけでは無いようです。
 車だって、5万キロほどしか保たなかった国産車が軽でも10万キロ以上保つんですよね。
 私が最初に来るなを買った頃は二年ほどで買い換えるのが常識だったのです。
 今では私のVW UP!でももう三年です。次の車を買うことは無いでしょう。
 ものが売れないはずですね。

 この写真・・・
 三丁目に鉄塔があります。
 まだ警察が本町にあったのですね。
 百五銀行も紀南信用も電電公社も本町です。
 昭和34年(1959)年・要害山から・・・
 NIKON F 105mm f2.5

    

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by je2luz | 2016-02-08 04:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2015年 02月 06日

熊野の旅 熊が出た!

 ここは「熊野市」
 熊が居ても当たり前・・・
 でも、うろつかれると困りますね。
 
 熊野の名勝・「楯ヶ崎」周辺で熊の痕跡が見つかったようです。
 木に付けた傷がまだ生々しいとか・・・
 私の知り合い・・・ハム的に言うと、ローカル局からの伝言です。
 時々、足跡が見つかったり、木の皮を剥いだのが見つかったります。
 冬場は海岸線の方に引っ越してきます。
 一山越えた飛鳥などはチベットですが海岸線の磯の雑木林などはハワイですからね。
 あの子達には、所有権だとか関係ないですから、夏のすみかと冬のすみかを変えるのも簡単ですね。

 熊の居るのですが、私など町の住民になると、中々、痕跡に遭遇しませんが、近年でも木本高校のすぐ上の「評議道」で生々しい足跡を見たことあります。
 ミカンの箱に同梱する桧の葉っぱを採りに行った時で、一人なので少々気味が悪かったのでクラクションを鳴らしながら走って、枝を採り終わったらそそくさと帰りました。

 冬の磯には釣り人が結構行くんです。
 そして、そこそこ目撃するようです。
 襲われたという話は無いですけどね。
 ヒグマでは無く月の輪熊でも無効の機嫌が悪いと、長野などのように襲われますからね。
 CMの金太郎さんなら相撲も取れるでしょうけど、熊野の熊はどうなのでしょう?

 この週末に何か行事があるとか聞いたのですが・・・
 人が大勢居てガチャガチャしていると大丈夫ですけどね。
 熊はこの世で一番怖いのは人間だと言うことを知っているようですから・・・
d0045383_17152914.jpg

 熊野って「猪鹿蝶」も揃っているけど、「猿」「熊」「カモシカ」「狸」「狐」何でも居ますね。
 いないと言われる「カワウソ」「オオカミ」だって居るかも知れませんよ。
 昔、大又川で目撃したのが「カワウソ」なのか「テン」なのかは確認取れませんでした。

 で・・・
 熊野古道は岬越えの道です。
 熊さんが移動する時には横切ります。
 カウベルを付けろとは言いませんが、賑やかにした方が良いかも・・・
 山働きの人はラジオ持って入ったりしましたからね。
 スマホでは駄目ですよ。 


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by je2luz | 2015-02-06 17:18 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2014年 11月 21日

熊野の旅 木本海岸 堤防・高波・津波 経過 2

 着工寸前で表面化する・・・
 昔の公共事業では良くあったパターンです。
 今はある程度「事前住民説明会」をやるのですが、なんだか「ガス抜き」みたいな物もあります。
 「住民に説明した」と言う実績づくり見え見えの時も・・・

 木本堤防は問題があったので多くは無かったですが、住民も出席しました。
 問題提起しておかないと後で「そうした意見は無かった」「想定外」になります。
 しかし、空想のような設定での要望はすぐに消えてしまいます。
 過去の事例などを引用するのが一番ですが、役所ってそうしたことのデータは残していないことが多いです。
 新聞記事が発見できれば強いですよ。
 近年は2年5年などで積極的に書類を処分しますからね。

 当初計画からは少し改善された設計になっても、完成前に、私達の予想通りに高波が越えたので、運輸省の下請けで堤防を管理していた県土木は非常に困ったのです。
 その災害の明くる日に東京へ陳情に行きました。
 三重県も港湾の課長さんを帯同させてくれました。
 その人の嫁さんが飛鳥の人というのも良かったです。
 更なる幸運は、三重家の大物代議士、田村元さんは確か運輸大臣だったと思います。
 田村さんに呼ばれて陳情に応対してくれたのが、若い技官でしたが、学生時代に熊野に来て獅子岩の前の浜で一日遊んで帰ったのだそうです。
 当時は浜も大きく、何段にもうねっていた頃ですごく気に入ったそうです。
 でも、私達が持参した写真と砂利を見て、「うーーん・・・そこまで行っちゃいましたか・・・」
 「テトラ入れたら浜が死んじゃうし・・・  潜堤しか無いかなあ・・・」と言うことになりました。
 願っても無い「潜堤」という言葉が出て来たのです。
 まさに、「運が良かった」
 田村さんが居て、技官の人が木本海岸を知っていて呉れたのです。
 そして、大型台風でも無いのに災害が起き、国道はやられたけど人的被害など無しで済んだ・・・
 それに、この事態は私達が予測したとおりのことだった・・・
 あの波が越えていなかったら・・・
 導流堤の崩壊と国道の橋の落下が無かったら、潜堤は出来ていません。
 
 幸運が木本を救ったのです。
 そして、技官の発想通りに「潜堤」が出来たのです。
 少なくとも、何十年かは延命できました。
 こうした経緯はほとんど表に出ません。
 たった一回の陳情?でここまで行ったのですからね。

 巨額の工事なので年月もかかりました。
 熊野灘での作業だし、普通のように船からドボンドボンとテトラを投入するのでは無く、一個一個クレーンで降ろして積み上げるのですから、冬の凪の時しか工事も出来ません。
 この工事が進行している間、私は市議会議員の座には居ませんでした。
 
 そして、最後が近づいた時に問題が起きました。
 潜堤完成まで残されていた旧堤防の撤去と新堤防の後半分を完成させる工事が始まるからです。
 その時に、再び出番が来たので、問題点を提示しに三重県の紀南土木へ出向きました。
 最初の要望書提出から20年になろうかという時でしたが、私達が出した「有印の要望書」は引き継がれて保存されていました。
 これも非常に有難かったです。
 それ以降の話がスムーズになりますからね。
 それでも、まともに説明会無しで入札してあったので、「着工延期」・・・「住民説明会開催」と言うことになり、土建業者が冷や汗をかいたのです。
 しかし、これも、県土木の最大限の配慮により住民の意向(熊野市役所の意向では無い)が入れられたので、期日内に完成出来るタイミングでもゴーサインが出せました。
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 四半世紀にわたってこの木本海岸の安全対策に関わってきましたが、色んな面で幸運の女神がほほえんでくれました。
 あと、今年と来年で完成になります。
 細かい手直しなどがあるのですが、本体はなんとか出来上がります。

 しかし、この堤防は基本的には「高潮対策堤防」です。
 海抜15m程を誇るのですが、「南海トラフ連動地震」の最大予想津波では心細いのです。
                         ー続くー

     

  

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by je2luz | 2014-11-21 05:02 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2014年 10月 13日

先が見えました 台風19号

 台風19号は一日でスーパー台風に成長したと思ったら、九州の手前で一気に勢いを無くしました。
 あの辺の海冷たかったのかな?
 枕崎に上陸し、次に宿毛の上陸・・・土佐湾をかすめたら高知から紀伊水道・紀淡海峡へ・・・
 そして。夜中までには本土上陸・・・

 この台風は九州に上がる時には雲がさばけちゃって、台風本体の厚い雨雲がほとんど無いみたいです。
 横も後も手薄ですから、風は別にして、台風のピークは早く過ぎちゃいますね。
 この辺りにとっては、潮岬をかすめて直撃するコースじゃ無いので波も大して強くなりません。
 あと3時間もすれば近くに居るのに終わっちゃいそうです。

 しかし、一昨日辺りから、雨も降らないのに波がそこそこ荒かったので、井戸川のカルバートもつまり気味・・・
 志原川とか他の川も河口閉塞気味のようです。
 大した雨量でも無いのに田んぼなど冠水してきたようです。
 これがあるので、志原川や市木川の河口には樋門付きの立派な橋を架けたのです。
 井戸川もカルバートになる前には亀齢橋は樋門付きだったのです。
 この河口閉塞は台風直撃と関係ない時でも起きてきたのです。
 昔の稲作は10月11月まで掛かったので、梅雨時から刈り入れま そしてで、ずっと心配ばかりしてきたのでしょう。
 「川口切り」は命がけだったらしいですが、やらなければ稲が駄目になる・・・
 この海岸に住む百姓の宿命だったのでしょう。
d0045383_1624695.jpg

 少し前、井戸川カルバートの出口部分の砂利を排除していました。
 志原尻もやって居たと思います。
 ユンボで何日もかかって・・・
 ユンボが砂利を動かすのは昼間だけで休憩も入ります。
 それに引き替え波の方は24時間休み無しです。

 木本脇の浜、木本漁港など一晩波が荒れ、流れの向きが悪いと埋まっちゃいます。
 ダンプカーに何百杯もの砂利をしんどいなんて言わないで一粒ずつ寄せて埋めちゃいます。
 そんな波の力が河口に砂利を積み上げてダムを造っちゃうのです。
 砂利ですから通常の量の水は通します。
 でも、雨が降ると抜ける量より、流れてくる水の方が多いので段々上流に遡っちゃうのです。
 雨が先で波が遅れると閉塞は起きにくいのです。
 今回は順番が悪いです。

 もともと、自然がそういう仕組みなので、この、七里御浜に出てくる川の河口付近は全部沼地だったのです。
 その湿地を利用して水田が出来たのでしょう。
 有馬、産田神社さんの辺りは古代から人が住み着いたようです。
 そんな自然を手なずけては来たのですが、人力・人知より自然は上ですね。
 今回の河口閉塞は稲作が終わってからなので被害は少ないでしょう。

 私が若かった頃、熊野市駅(紀伊木本駅)の裏は、沼地の田んぼでした。
 台風や大雨の度に井戸川の河口が詰まって水に浸かっていました。
 だから、私が無線を始めた頃、関西方面のお年寄りなどは・・・
 「木本駅の裏には湖がありましたね」などと言う人が結構居ました。
 カルバートなんて考えられないし、ユンボだブルだ無かったし・・・
 それでも、お百姓さんは負けずに稲作を続けていたのです。
 昔には「水稲共済」なんて無かったでしょうね。
 そんな景色を知っている私は化石みたいですね。

     

  

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by je2luz | 2014-10-13 16:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)