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LUZの熊野古道案内

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2016年 02月 29日

熊野の旅 一時の賑わい 小船梅祭り 2

 小船は小さな集落です。
 目の前を熊野川が流れ、川沿いにさほどの打ちも無い場所に出来た集落です。
 楊枝・小船・和気などの集落が集まって「上川村じょうせん)を作って居たのですが、昭和の大合併で西山村・入鹿村と合併し「紀和町」をつくり、平成の大合併で熊の市と合併したのです。
 山の中では無いけれど、目の前の川が大きくて急流なので意外と不便だったのです。
 今でも外に出るには山越えか橋で和歌山県側に渡る事になります。
 集落を結ぶ川沿いの道路は洪水の時には危なくて使えないでしょう。
 集落が危険なまでの洪水はそんなには無かったようですが、1889年明治21年の十津川大水害には、熊野川流域には大被害が出たようです、
 その時の経験でこの辺では、「ここからしたに住んではいけない」と言う言い伝えがあるとか・・・
 そして、この辺一帯を襲った12号台風関連の大洪水では同じくらいの水位まで水が上がったようです。
 その復旧にはボランティアの若い人が活躍し、その後も、「梅まつり」の実働部隊として活躍してくれています。

 小船の集落は人口13人と言われます。
 「梅まつり」には千人を越す人が来ると言われます。
 準備を含め数日の大賑わいですね。
 最早、集落ではおもてなしも出来ない様相です。
 その数650~700ほんと言われる梅林の手当も最早不能でしょう。
 難しいのは、「梅畑」で生活の維持が出来るのか・・・
 そして、もし、この集落をずっと維持するとすると、水道などの生活基盤維持にどれだけつぎ込めるか・・・
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 隣の楊枝も同様でしょう。
 「楊枝薬師」を維持するのも紺が大変になりますね。
 人気があっても、維持するだけの賽銭は集まらないでしょう。
 そして、戸数が減り続けると水道などの維持も困難になります。
 集落統合を考えないと無制限に税の投入も出来ないし、自己負担など出来る範囲を越すのです。
 社会はこうした問題をどんどん先送りします。
 旨く消えれば・・・と言うことなのでしょうね。
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 「手助けして祭をする」から「場所を借りて祭をする」に変化しつつあるのかも知れません。
 難しい問題ですね。
 
    

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by je2luz | 2016-02-29 04:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 28日

熊野の旅 過疎地とイベント 小船梅祭り 1

 木曽路は全て山の中・・・
 熊野は全て過疎高齢化・・・
 いや、日本中の田舎が同じです。
 国勢調査の中間発表でマスコミがゴチャゴチャ言っていますが、とうの昔に解っていたことでしょう。
 でも、東京圏の比率がこれだけ早く上昇したのは予想外かな?
 「大阪都」では解決出来ない流れでしょう。
 しかし、江戸時代じゃあるまいし、「入り鉄炮・出女」を禁ずるとかの規制も出来ませんね。

 昨日は「小船の梅まつり」でした。
 典型的な過疎高齢化の集落ですが、若い人のボランティアでイベントは盛大に行われます。
 水害復旧から始まったらしいこの祭はきちんと継続されています。
 立地条件からでしょう、出し物の出演者、来場者ともに新宮方面が多いようです。
 歴史的にもこの辺りは熊野川と共に生きてきたので、その川筋に沿って付き合いがつながっているのです。
 地元に残った子供、孫の居場所も新宮圏が多いのでしょうね。
 そして、紀和町全体でも高齢者が59%にもなるのですから、旧・上川村だけにすると又跳ね上がるでしょう。
 会場でも、ボランティアの若者と他所の人を除くと小船の人らしいのはちらほらです。
 梅林は獣害よけのネットに囲まれていますが、何とかしないともうすぐ維持出来なくなるでしょう。
d0045383_1928964.jpg

 梅って結構栽培管理が大変らしいです。
 南部へ視察に行った時、「梅農家から嫁貰うと大変ですよ。収穫期には絶対呼び戻されるし・・・」と言う説明と・・・
 「年中無休くらい働かないと良い梅は出来なく、手を抜くとクズになっちゃいます」という話を聞かされました。
 旧熊野市の農協さんも梅の苗を斡旋し、あちこち一杯梅が植えられてことがあります。
 パイロットみかん園も国の「ミカン伐採・転植政策」の時、梅に植え替えた畑もありました。
 個人の梅畑もパイロットも大失敗・・・
 農協の梅加工場も「梅干し」を漬けるところまで行かず、「梅エキス」?が精一杯でした。
 南部や南部川では「梅御殿」が建っているのに・・・
 小船の梅林は昔見た熊野の梅の木と違い「梅林」の様相を呈しています。
 しかし、70歳を超すような人が主力では大変でしょうね。
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 観賞用梅林では古木になると風格はあるのですが、栽培林ではどうなのでしょう?
 単純に住むだけなら良いところですが・・・
 飲料水の問題も少しありますが、これは解決の道はあります。
 熊野川の氾濫と氾濫時の外部との交通手段・・・ こっちの方が難しいかも・・・
 小船・楊枝・楊枝川・和気・・・
 全部残すのは大変そうです。

    

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by je2luz | 2016-02-28 04:26 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 27日

熊野の旅 ひな人形

 今年も始まりました。
 ひな人形の展示です。
 「熊野市文化交流センター」「おもてなし館」「ツアーデザインセンター」をはじめ、お店屋さんや個人のお家まで色んな所に展示されます。
 この辺は「お雛様」も月遅れです。
 新暦でやると、「桃の節句」には早すぎます。
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 これは文化交流センターで飾り付け途中だったものです。
 「寝殿飾り」の一種でしょうね。
 色合いとかから見て、少しだけ古そうです。
 戦前までは登らないのかな?
 ちょっと良い感じのお雛様です。

 飾り方にはちょっと間違い的なところが・・・
 大きめの稚児人形?・・・はこの飾りの列から外すべきでしょう。
 「橘」と「桜」は階段の左右に・・・
 私もよく知らないのですが、こうした建物の「右近の桜」「左近の橘」は御殿の登り口の左右ですよね。
 お雛様と内裏様の左右はどちらもありだとか・・・
d0045383_20455581.jpg

 賑やかな雛様軍団です。
 毎年なのですが、比較的新しいお雛様が多いのでもの凄くきらびやかです。
 田舎なので「段飾り」が結構多いようです。
 都会のアパートやマンションで7段飾りなんて出したら、寝る場所も無くなりますね。
 田舎でも、若夫婦のところに飾れないので実家に飾るなんてのも聞きます。
 「立ち雛」などは今の性格に合うでしょうね。
 ケース入りなどなら毎年出してあげられますが、5段・7段となると中々飾ってあげられません。
 出すのはそこそこ面白いですが、4月にしまうのが・・・
 ちゃんと考えて納めないと元の箱に収まらないし・・・
 おまけに、早くし舞わないと「嫁に行きそびれる」なんて言われたし・・・

 私の娘は、もう嫁に行ったし、子供も居るからしまう方はいい加減で良いのでしょうけど、見る人も居ないから出しません。
 娘が家に居なくなってから一回だけ気分で出して飾りましたけどね。

 昔のお雛様って、頭が米粉混じりの練り物だったようで、ちゃんとしないとネズミに囓られたとか・・・
 漫画の世界でもネズミに囓られるものでした。
 今はプラスチックが多い? それにネズミが出る家も減ったし・・・

 このひな人形は3月いっぱいは市内あちこちで見られると思います。
 我が家は出していませんから・・・
 名月じゃあ無いですから、飾っている家でもお菓子は呉れませんよ。

    

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by je2luz | 2016-02-27 04:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 26日

熊野の旅 国境(くにざかい)確認

 以前にも書きましたが、私の住む木本町は紀州藩です。
 家から200m程南からは「新宮藩」です。
 元は同じ紀州藩ですが、江戸時代の終わり、安政二年(1855)に南牟婁の一部が新宮藩に編入されました。
 この村替えに、木本浦とか山間部の神川などが反対し、紀州藩の決定を覆して「紀州本藩」に残ったのです。
 その時に木本浦の人達の訴えを聞き届けてくれた和歌山藩士「吉田庄太夫」さんは責任を取って自害されたとか・・・
 その徳を忍ぶため木本神社には「吉田大明神」が祀られています。
 無理矢理村替えの変更で国境が出来たので、井戸川という解りよい区分があるのに、その当時の村境を国境にしたので不自然とも言える場所に線が引かれたようです。
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 この建物と建物の間の3尺に満たない小道が、藩と藩の間の境界線です。
 前方が海方向で市道・国道の向こうは七里御浜です。
 カメラ後方は小さな岩山で、そこに明治以降の村・町の境の小さな石塔が建てられています。
 「境界」「木本町」と刻まれています。
 間違いなくここが元の国境・村境です。
 あまりにも細い路地だし、今はそれをたどる道も途中で切れているので「知る人ぞ知る」と言う物です。
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 私が子供の頃・・・
 まだ、今の市役所の横、丸山町が沼だった頃、そして市役所前を県道が通るまでは、家から紀伊木本駅(現熊野市駅)へ行くのにこの細い道を通り、岩山の脇の細い小道で沼を回って行った記憶があるのでわかるのです。
 市道の古い「糸屋」の壁に付けられていた、世界遺産指定後に作られた国境の看板が、建物が取り壊されて今は保管されたままです。
 なんとか、建てようと頑張ってくれている人達が居ます。
 なにしろ、こんな細い国境なので建てる場所もままなりません。
 いかに無理矢理の村替え、無理矢理の変更だったか解る気がします。

 そうそう・・・
 この土曜日27日は紀和町小船の梅まつりです。
 新宮経由にしろ北山村経由にしろ、紀和町板屋経由にしろ、国道168号線三和大橋を使うのが解りよいでしょう。
 山道好きなら、紀和温泉湯ノ口からの山越えが楽しいですけどね。
 駐車場もありますから適当に行っても大丈夫でしょう。

    

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by je2luz | 2016-02-26 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 25日

熊野の旅 岩山・要害山ー万町・岩盤の町

 今、年度末の工期締め切り目前で急に急ぎだした道路掘削工事があります。
 前から時々取り上げて居る「電線地中化共同溝工事」の一部です。
 取り上げる度、書いていることに、この記念通り入り口に掛けての地盤があります。
 この辺りは、木本と井戸の町境です。
 昔で言えば紀州本藩と新宮藩の国境です。
 今の通称の町名は、木本町万町と井戸町万町らしいです。
 なぜ、「万町・よろずまち」と呼んでいるのか・・・
 これは下の写真の崖と関連があります。
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 この切り立った岩肌は人工的な崖なのです。
 元は我が家のある海の側の新出町から始まり、JRの線路の山側の小高い岩の部分に連なる一つの岩山の尻尾の部分だったのです。
 岩山は「要害山」と呼ばれ、今は津波の避難場所になっていますが、私の子供の頃には「公園」と呼ばれていました。
 一番最初に手を加えられたのは線路と道を通すために低い部分を切り取りました。
 その前に「高城川」を通す工事も井戸の森本さんによって行われたようですが、どれも、恐ろしく硬い「石英粗面岩」とやらを掘り崩す難工事だったようです。
 最後にこの岩山に挑んだのが、熊野一・二を争うお金持ちの「万熊・よろくま」さんでした。
 「万熊」は屋号です。
 切り取るまでは駅と木本の繁華街「記念通り」を結ぶ部分が一応二車線でも、片側は線路、海側は十数メートルの切り立った岩の壁でした。
 「万熊」さんは、この山を切り取り、町を造成して、駅と記念通りをちゃんとした町で繋ごうとしたのです。
 尾鷲や新宮でも町中に道を新設しましたが、土砂と石の混じった山を崩したわけですし、ここは全部「岩」の岩山を取りに掛かったのです。
 今の時代の削岩機のビットでさえすぐにすり減って工事が進まないのですから、昭和40年頃ではもっと大変な工事になりました。
 切り取りが終わって一等地を分譲し、一角には百五銀行も入りましたが、膨大な工事費の元を取ることが出来なかったようです。
 それでも、これによって、駅の側と木本が普通の町でつながり一時期は繁栄を見ました。
 個人の方の力で大きく町を替えたので「万熊」の一字を取って「万町・よろずまち」となったのですが、今ではこの功績も口にする人が居ないようです。

 この万町・・・家を建てる時・・・下が岩・がんなので、基礎のレベルを揃えるのも削岩機が居るし、排水も浄化槽もまともに掘れないので苦労したのです。
 そのかわり、すぐそばの丸山町と違い地盤沈下など縁がありません。
 百五銀行があった当時、「あそこの金庫は地下からはどんなギャングでも襲えないね」などと冗談言ったものです。

 その恐ろしい岩盤を掘らなくてはならない工事・・・
 早くから、私を始め、木本の人などは解っていて注意もしたのに、まるで工事をしないで来たのは、どう見ても設計の甘さですよね。
 建設課の職員より木本の人が心配する・・・
 でも、耳は貸さない・・・
 今度の事件もよく似た構造・体質からでしょう。
 現場の根回しも同様です。
 全線に渡って役所の根回しなんて出来ていませんでしたからね。
 「ちゃんと説明会は開きました」・・・
 これが担当課の態度ですから・・・

 内規を見直すとか規則に格上げする・・・
 そんな時限じゃ無いのは市民や市内の業者が知っています。
 知らないのは内陣の人間と裸の王様くらいでしょう。
 にしても・・・
 誰も耳に入れないのでしょうかね?
 ブレーンとかご意見番とか話し相手も居ないのかなあ???
 淋しくないのかなあ・・・
 
    

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by je2luz | 2016-02-25 04:33 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 24日

熊野の旅 きのくに 木の国 紀の国 鬼の国

 「外国人」って、国籍の違う人を指すのでしょうね。
 「異人さん」って、毛色や肌の色の違う異人種?
 でも、少し西洋人のイメージがあります。

 私の子供の頃には外国人はほとんど目に付きませんでした。
 この辺には「進駐軍さん」もほとんど来ませんでしたから、外国籍の人は今で言う在日韓国人・在日朝鮮人???
 朝鮮戦争までは纏めて朝鮮人だったのかな?
 私が生まれた頃はあの人達も日本人だったのですよね。
 それに、見た目では解りません。

 ベトナム難民もこの辺には流れ着かなかったです。
 昔から一杯難破船が流れ着きましたがこれは来なかったようです。
 中国からの漂流密入国民は尾鷲のあたりに上陸したとか・・・
 
 そんな、外国人をあまり見掛けない所ですが、何時のまみやらぽつぽつ見掛けます。
 飲み屋さんでは無いところで働いているらしいベトナム人風とか中国人風の人、お嫁に来た人・・・
 大きな工場とかが無いからでしょうか? ほとんど全部女の人です。
 若い女の子が働く場所があるって事ですね。
 農業の方では「研修生」を入れるような農場もありませんし・・・
 林業の現場で一時期は外国人労働者が必要になると思われたこともあります。
 しかし、アジアから研修生を呼んで教えたり、労働者を雇ったりする力は今の林業ではありませんね。
 人手も無いけど金も無い・・・

 紀の国・木の国・鬼の国・・・
 なんなかの「木の国」が表すほど、ここは古くから材木の生産地でした。
 私が子供の頃の社会の教科書には、「新宮市は木材の集積地です」と、書いてありました。
 熊野川・北山川の筏下しの写真まで載っていたのです。
 今では新宮にも製材所がほんの少しだけ、熊野市も数軒だけ、雑木と端材を使うパルプ工場も鵜殿の一つを残すのみ・・・
 「木」と縁が切れてきました。
 そして、熊野市の物産振興のために生まれた「鬼の国物流協同組合」も消えました。
 スタートは木製品・・・そして道の駅・・・
 木製品は中国に敗れ、道の駅は高速道路に取り残されました。
 「民間には力を貸さない」と公言する、すごい町です。
 「株式会社熊野市役所」と自ら宣言する人がまだトップに座っていますからね。
 その会社は赤字垂れ流しでも潰れません。
 不祥事があっても責任は問われません。
 そんな会社の社長さんなら誰でも出来るでしょう。
 今では多くの熊野市民の方が知るようになりました。
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 さてさて・・・
 皆さん、熊野市に来て下さい。
 野球場・サッカー場もありますし。日帰り温泉もあるし、200人収容の市営宴会場もありますし、もっか温泉宿泊施設を大改装してますし、県が作ったリゾート施設もあります。
 熊野古道・花の窟神社・鬼ヶ城などの世界遺産があります。
 「おもてなし館」「お綱茶屋」なんてのもあるし・・・
 数十億の投資額の償却は出来なくても、運営赤字だけは出したくないです。
 粗利20%、一人消費金額2000円だと、あと、5万人くらい増えればランニング出来るかな?
 通過客にならないで、せめて、「熊野地鶏」たべて「サイレの丸干し」「新姫ジュース」買って帰って下さい。
 ふるさと納税も良いですが、来て貰って歩き回って貰う方が地元としてはありがたいです。
 木本なら500円でガイドが雇えますよ。勿論、グループ全部で500円です。
 お金落としてくれれば自動的に雇用も増えますから・・・

     
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by je2luz | 2016-02-24 04:11 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 23日

熊野の旅 田舎は明治以来・・・ そして、世界の田舎も・・・

 今日、2月23日は将来休日になる可能性があります。
 なぜ?
 「皇太子誕生日」だそうです。
 これが天井誕生日に変わる時には「平成」では無くなって居ますね。
 「元号廃止」なんて議論もあるようですけどね。

 昭和の中頃以降から平成へ・・・
 熊野市のような田舎の町はひたすら、過疎と高齢化の道を歩んできました。
 田舎でも団塊の世代はそこそこ子供は多かったのです。
 でも、金の卵と言われた中卒での就職時代・・・進学率の向上によって、県立木本高等学校だけだった旧南牟婁郡地域も「県立紀南高校」「近大・熊野高専」が出来、高校生の数だけ流出を遅らせはしましたが、やっぱり外へ・・・
 更に進学熱はもう一段上へ・・・専門学校・短大・四大へ・・・
 帰ってくるのは、市役所に入る数人、保母さん数人、先生が数人、銀行が数人・・・
 高学歴になると中小企業には来ませんし、跡継ぎも帰りません。

 前にも書きましたが、明治時代になり居住地が自由になると、田舎の親たちは、「立身出世」を子供達に教えました。
 出来が良ければ、「末は博士か代議士か・・・」
 丁稚奉公からでものれん分けで店の主人を目指すことが「男の甲斐性」と教えました。
 田地田畑を守る長男坊以外はそれが親の夢でした。
 「田舎へ帰って来いよ」なんて送り出す親は居なかったのです。

 「志を立て 郷関をいずれば 死すとも帰らず」

 貧乏だけど身体が強い次男坊以下は軍隊へ・・・
 軍功あげて出世せよと・・・
 その流れは明治ー大正ー昭和ー平成とほとんど変わりません。
 戦前だと行き先に満州とか南方とかが入りました。
 さらに、ハワイや南米も・・・
 敗戦が無ければまだまだ世界中に散っていったことでしょうね。
 私も次男坊で弥次馬ですから、満州に行ったやら南洋に行ったやら・・・

 田舎について一般論的に言えるのは、人口だけでは無く人材も不足すると言うことでしょう。
 ノンビリ出来る分、頭の中も段々ノンビリしてしまいがちなのでしょう。
 最初から外に出ない人、出たけど都会や近代社会に適合出来ない人、家庭の事情でしょうこと無く帰った人・・・
 私も東京が大好きだけど、都会で生き抜くだけのバイタリティーに欠けていたので戻って来ちゃった口です。
 少し歳になってから考えたのは・・・
 「ヴェトナムかインドネシアで暮らそうかな???」なんてことですからね。
 地球上どこででも生きて行ける自信はあるのですが、ややこしいのは嫌いみたいです。
 自分の周りに「理想郷」を作りたいのかも知れません。

 一昨日、テレビを見ていたら、1960年代の世界の流れや騒動が流れていました。
 私の思春期から青春時代の時期です。
 人間の連帯と理想主義・・・
 世の中若者は大人になると共に挫折したとか言いますが、私は未だに大人になれていませんね。
 そして、今でも「市民の力」を信じますからね。
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           ヴェトナム・古都・フエ
 昭和30年代の日本の姿を見るようなところです。
 ドイモイ政策で日本を目指した国で、まだまだ貧しいですが活気にあふれています。
 でも、若者はハノイへダナンへホーチミンへ・・・
 田舎の問題は既に起きているようです。
 声を掛けた若い子達、口を揃えて「日本に行きたい」・・・だそうです。
 すでに沢山の労働力がこうした国から入っています。
 日本の国と生産を維持するには、こうした人達と仲良く出来なくてはならないでしょう。

    

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by je2luz | 2016-02-23 04:20 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 22日

熊野の旅 ここに何があった?

 町という物はどんどん変わって行く物です。
 道などはさほど変わらなくても、周りの建物などで随分違ってしまいます。
 道路なんて、都市計画とは出変更されないとそんなに変わりようが無い物です。
 私は今でも東京都内の西よりはそこそこ車でなら走れます。
 「東京は変わった」と言いますが、道はそんなに変わっていません。
 建物が変わって風景が違うだけのところがほとんどです。
 だから、車で移動する分にはさほど不都合は無いわけです。

 尾鷲や新宮は町中に新しい道を付けていますが、熊野は木本では皇紀2600年に記念通りを通したし、井戸町駅裏は昭和30年代から埋め立て造成してので一応都市計で出来た町です。
 いま、土木業者が四苦八苦している「万町」が出来た時に大きく変化したのかな?

 でも、道の脇を見ると万町以外でも…
 記念通りに入って、すぐは「国鉄バスの車庫」向かいは「熊陸」というトラック屋と「万熊自動車」そして「郵便局」その先左は「木本農協」「関西電力」、向かいは「木本小学校」・・・
 で・・・
 残って居るのは「木本小学校」だけですね。
 でも、記念通りの道は同じなんです。
 こんな建物群なんて、木本の人出も忘れちゃったでしょう。
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 この建物とタワー・・・
 今では熊野市の目印的ですが、ここに「熊陸」があり、銀ねず色のボンネット型トラックが居たのです。
 この建物は電電公社の交換機室として作られたのだと思います。
 このどでかいタワーが作られたのは、電話回線がマイクロウェーブになった時、熊野市で一番ロケーションの良い「長尾山」の中継所を結ぶパラボラアンテナを載せるためでした。
 大きなパラボラが載っていたのですが、時代が光ケーブルになるとマイクロウェーブが使われなくなり、パラボラが取り払われました。
 今では、こんな立派なタワー出なくても良いはずの携帯電話のアンテナなどがちょこんと載っています。

 「熊野市のシンボルだ!」という人も居ますが、下の建物に対しタワーが大きすぎるので私などは嫌な物です。
 勿論、「免震」ではありませんから、十分な耐震構造にはなって居るのでしょうけどね。
 力学的には不安定そう・・・
 タワーの撤去には巨費が掛かるのでしょうね。
 直下型は起きないでしょうけど・・・

 横の会館のところに郵便局があった頃・・・
 郵便物は汽車で来ました。
 時間になると郵便局の人達がリアカーを引っ張って駅まで・・・
 郵便は客車に繋いだ「郵便車」で付くのですが、停車時間が少ないし、もの凄い勢いでホームに投げ出され、その「郵袋」の上に乗っかって次のを引っ張り出す・・・
 その頃の小包ってぼろぼろになって当たり前でしたね。
 おまけに、「春闘」が始まると、「全逓」だけで無く「国労」「動労」なんてのもストをやりますから、いつ着くのかなんて、誰に聞いても解らなかったのです。
 こればっかりは「古き良き時代」とは言えませんね。
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         1959(昭和34年)熊野市駅
 この辺の製材所の製品も「貨車」で東京送りだったのですが、昭和30年代から40年代には熊野市駅か「大泊駅から東京恵比寿貨物駅まで早くて一週間・・・春闘だと当てにならない・・・
 だから、まだ、42号線も矢ノ川越え、全線砂利道、東海道も一部地道の時代にトラック便に切り換えていったのです。
 当時の8トン車10トン車と貨車では積載量は全く違ったのですが、時間の読めるトラックに負けて行きましたね。
 上手に運用すれば、大量輸送、省エネ輸送には鉄道の方が向いていたのですけどね。



    

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by je2luz | 2016-02-22 04:18 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 21日

熊野の旅 年度末が近づきます

 個人の年末は12月・・・お役所関係は3月・・・
 ずれていますが、お役所の年度末が近づいています。
 役所の年度末には二段階あって、普通の年度末の他に「会計閉鎖」という支払いの期日もあるのです。
 締め切り即、支払い期日では困るのは民間も同様で、「20日締めの月末払い」なんてやってますね。
 それで、5月に支払いを含めて会計を締め切るのです。
 工事などは基本的には3月末までに引き渡しと完成検査、だめ出し手直しを終えるのが建前です。
 でも、この締め日を有効利用?して、延期を認めたりします。
 何かがあって、どうしても出来上がらないと言う事情なら解りよいのですが、理解出来ない延期が近年見られます。
 何度かここにも載せましたけどね。

 年度末になってくると、建設現場が慌ただしくなります。
 何だか私達の確定申告みたいです。
 どう言う訳か、こうした動きが恒例化していますね。
 昔は年度末近くに予算使い切り工事が発注されて混乱したなんてありましたが、今はそうでも無いのに・・・
 災害復旧などから、資材不足・労働者不足も言われますね。
 それ以外に「現場を誤認している」?と思えることもあります。
 あと一ヶ月・・・
 余裕のある現場や無さそうな現場・・・
 役所の方では果たして解っているのやら・・・
 他の件でそれどころじゃ無いのやら・・・

 公共事業には地元のために役立つものと、迷惑だけ掛かるような物とがあります。
 地元の理解が得られないままに進行して立ち止まることもあるようです。
 「大丈夫かいな?」・・・と、役所に言っても、意に介さないで日にちが経つ例もあります。
 多少たりとも地元と関わりのある人間から見て「大丈夫かいな?」と、言っても・・・
 写真を載せるのもはばかられることもあります。
 どう見ても、担当部署の不熱心さが原因なのですけどねえ…
 完成検査までは知らんと言うことなのか、何度となく問題にしても、現場で役人の姿をほとんど見ないのはどうしてでしょう?
 作ってはならない書類を作るのに頭を取られた?
 まさか、「完成日」も日付変更???
 「期日」は何度も書き換えましたね。

 議員って「権限」はありませんからね。
 人事権も市長にあるし・・・
 不法行為以外は向こうに聞く気が無いと進みません。
 そんな体質にいつの間になっちゃったのでしょう???
 役人って、本来は「市民のため」に働くものなんですよ。
 現場の職員が頑張ろうにも、上が理解してやらないと駄目なんですけどね。
 理解しないのか、理解出来ないのか。それとも、裸の王様で下が見えないのか???
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 市役所界隈も空き地が増えて見通しが良くなりましたね。
 店が減り、人が減り、電信柱も減るそうです。
 長い年月と巨費を掛ける目的は???
 昔、社会で習いました・・・
 国などは「出るを図る」ものだとか・・・
 だから、こうしたことにも金を使えるのでしょう。

 良くなったこと?
 歩道を切り下げたので、歩道上が駐車しよくなったことかな?
 これも早くに指摘したことなんですけどね。
 いやいや・・・
 ドライバーが悪いんですね。
 「設計は悪くないんです。 悪いのは理解しない熊野市民なのです。」
 そう言いたいのかな?
 私はその悪い方なので予測も出来るのでしょう・・・

    

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by je2luz | 2016-02-21 04:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 20日

熊野の旅 居なくなった虫たち 2

 昨日は生活密着型の虫の話でした。
 今日のは季節の風物詩だった虫の話です。

 一般的に言われるのは「ほたる」ですね。
 田舎ならどこでも一杯飛んだ蛍が絶滅に近づき、わざわざ見に走る状況です。
 昔は気味が悪くなるほど、農業用水(みぞご)や谷川の岩場にぎっしり張り付いていた黒褐色の巻き貝、「ごじな」(かわにな)がほとんど見掛けなくなったのですから、蛍の幼虫が育つはず無いのです。
 恐ろしく農薬とかに弱いのでしょうね。
 今は、その「かわにな」を放流して蛍を戻そうとしているところが多いようです。
 普通の養殖と違い、「ごじな」を大切にして居るのではなく、「ごじな」を餌とさせ食い尽くして蛍になれ…という、考えてみると残酷な・・・

 次は「イナゴ」ですね。
 夏にはみどりの「イナゴ」が秋になり稲が黄色くなるとイナゴも黄色くなります。
 昔は田んぼの畦を歩くだけで、「ザワーッ」っとイナゴが飛んだものなんです。
 一時期はこのイナゴも農薬に追いやられ、川原の原っぱで、硬くてまずいススキなどを食べて生き延びて居たものですが、農薬の制限などで少しだけ田んぼに戻っているようです。
 このイナゴ・・・
 私が子供の頃にはおやつでした。
 学校帰りには、「肥後の守」を使って自分で作った竹串に「イナゴ」を串刺しにしながら帰り、醤油を付けて炭火で炙って食べたのです。
 すごく美味しかったのは、身体が「蛋白質」を欲しがっていたからかも知れません。
 今で言うなら「残留農薬」もあったはずです。
 シラミ駆除同様、私達の世代は「農薬耐性人間」になったのか、長生きです。
 このイナゴ・・・
 いまでは「珍味」でちょこっと串に刺した佃煮などがお高い値段で出て来ます。
 時代ですね。

 木本海岸から消えた虫・・・
 「オニヤンマ」です。
 ヤゴは井戸川・西郷川で育ったのかと思いますが、夏の夕方には浜の上空を覆い尽くすほど飛んだものです。
 これを捕るのは「タマ・捕虫ネット」では無く、30cm程の糸の両端に豆や小石をくっつけたものでした。
 こいつを空になれるとm「ヤンマ」は虫と間違え追いかけ、糸に絡まって落ちてくるのです。
 これは、捕ったからって食べるわけでも、飼うわけでも無かったですけど、何しろでかくて格好良かったです。

 大又川から消えた虫・・・
 「とびけら」です、
 幼虫の「がろじ」(ざざむし)が激減して居ますから、成虫も激減して居ます。
 これも夏の終わり頃かな? 一斉に羽化して川沿いを飛んだのです。
 夕方はぶつかってくるので橋など渡れないくらいだったのです。
 つまり、川から魚の餌の虫が居なくなってきたと言うことなのです。
 今の大又川で釣りをすると、かわいそうなくらい小さな「ウグイ」「ハイ」ばかり釣れます。

 家の周りから消えた虫・・・
 「蟻地獄」・・・
 「うすばかげろう」の幼虫だそうですが、小さなすり鉢状の巣を作り、蟻など落ちると底から身体の割りに大きな口を広げて捕まえました。
 面白いのでわざわざ「ありんこ」を落としたりしました。
 建築様式が変わって、家の周りの「犬走り」などがコンクリートになり、乾いた土の部分が無くなったので巣を作れなくなったのでしょう。
 もともと、ゴチャゴチャ居るものではありませんでしたけどね。

 私はそんなに虫が好きでも無いし、姫君では無いので虫をめずることも無かったです。
 まして、蜻蛉を見て日記を書くなんて思いも付きませんでした。

 やっぱり、印象的なのは、「イナゴ」ですね。
 なにしろ・・・
 「美味しかった」ですから…
 「イナゴ」は「蝗」で、虫の皇帝です。
 でも、味は、柳の虫の方が美味しいかな?
 「蜂の子」も旨いし・・・
 オーストラリアのありんこの蜜も飲んでみたいですね。
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 まだ田舎の生活がこんな風景だった時代の話です。
 だから、大きくなっても何でも食えます、どこの国だってこの頃の日本より豊かです。
 Made in Japan はまだまだまともじゃ無かったのです。
 半世紀ほど前のこと・・・
 なぜ忘れてしまうのでしょう?

    

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by je2luz | 2016-02-20 04:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)