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LUZの熊野古道案内

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2016年 01月 31日

熊野の旅 昭和まで少し残って居た昔 1

 私は戦争の記憶は無いですが「戦時中」の生まれです。
 さすがに二歳半の終戦の玉音放送は記憶にありません。
 空をB29が飛んで、ワラビ採りで野山(のさん)に行っていたおばさん達が怖がったのは覚えています。
 でも、あれは戦後、進駐軍の飛行機だったはずです。
 矢ノ川越えでジープや十輪車が来ると子供達は見に走りましたが、あのコッペパンのような帽子をかぶった兵隊さんの記憶はありませんね。
 それに、ガムやチョコレートを貰った記憶も無いです。
 私の記憶に残るのは戦後しばらく、まだ物が少なかった頃から、物があふれてくるまでです。

 私が子供の頃の田舎には「給食」なんてありませんでした。
 「給食」どころか「幼稚園」もありませんでした。
 そんな時代ですから、子供達はなんとか遊びを考え出さないと時間が余ります。
 まだ、「ガキ大将」時代です。
 上は中学生から下はおしめをしたようなのまで、ゴチャゴチャと遊んでいたのです。
 その頃のガキ大将は、ジャイアンなのように小人数の同年代を押さえるのでは無く、赤ん坊まで従える代わりに責任も重かったのです。
 遊びの仕方、喧嘩の仕方を教え、全員が無事に家に帰るまで見張らなくては「ガキ大将」の資格は無かったのです。
 腰に刀に見立てた竹の棒を指し、手には槍代わりの長い竹の棒か細い指揮棒・・・
 学校までそのスタイルで通っていた時代です。

 私が中学に入る前くらいから、「クラブ活動」が盛んになり、中学生が「ガキ大将」の座に座らなくなりましたね。
 その辺りから、子供の世界がおかしくなりかけたように思います。
 子供の国、独立国が消えて、「親」なんて依怙贔屓するのが干渉始めましたからね。
 親なんて、「喧嘩の作法」なんて教えませんからね。
 それに、すぐに「いじめる!」なんて学校にチクルし・・・

 ずっと伝えられてきた、集落内の「危ない場所」「うるさい家」「甘柿の場所」・・・
 もっと大事なのは、「物を持って喧嘩しない」「人に向かって石は投げない」「足で蹴ってはいけない」・・・喧嘩のイロハ、命の危険が伝えられなくなったのです。
 低学年で物を持って喧嘩すると、勝つまでに「上級生」「ガキ大将」にこっぴどくやっつけられ、痛い目に遭うのでしなくなったのです。
 子供なんてまだまだ動物並み・・・いや、人類の凶暴さは動物以上ですから、身にしみるほど教えないと解らないのが居るのです。
 教科書で教えてみんなが解るなら世話無いです。
 生徒会長よりガキ大将の方が役に立っていた時代もあるのです。
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 ここまで社会が変わってしまうと元には戻せませんね。
 よそでは、「子供天国」なんてやって居ますが、元生徒会長と現生徒会長が仕切っているような感じで私などは違和感を感じます。
 「ガキ大将」「生徒会長」・・・両方やりましたが「ガキ大将」の方がしんどかったです。
 私の頃は「おしめしたガキ」までの面倒は見なくて良くなった時代ですけどね。
 子分のしたことでも「ガキ大将」が叱られたり、でも、子分はかばわなくては・・・
 代わりに自首させるなんて「ガキ大将」はしない物だったのです。
 だから、悪いやつに身をもってしつけてもあまり問題にならなかったのです。
 でも、そんな子供天国時代も昭和30年頃に衰退していったのでしょう。
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 戻せないけど・・・
 そんな世界が遅くまで残って居たのが「田舎」なんです。
 日本人のどこかに残って居る「原風景」なのかも知れません。
 今の若いタレントなども、知るはずの無い世界を「なつかしい」などと言いますからね。
 それも、田舎が生きるヒントになりませんか?

    

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by je2luz | 2016-01-31 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 30日

熊野の旅 きみがため・・・

 もうすぐ節分、そして立春
 
 「きみがため 春の野にでて 若菜摘む 我が衣でに 雪は降りつつ」

 奈良盆地より少し南ですが、この辺の山間部は同じように寒い土地です。
 私は飛鳥町小阪で育ちました。
 だから、子供の頃は春が近づくと嬉しかったものです。

 寒い最中でも川原で遊び、魚を釣ろうとしましたが、大又川の水は冷たく、中々釣れませんでした。
 しかし、春がちが付くと魚が動き出し揺れ出すのです。
 今のように「アメノウオの解禁」なんてありませんでしたが、動き出したアメノウオもたまには突き上げました。
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 陸の上ではまだまだ寒い時にでも「ふきのとう」が顔お出し、次に土筆が顔を出します。
 そして、枯れ草の下に「ヨモギ」が・・・
 これらは子供が食べて美味しい物ではありませんが、採るのが面白くて採って遊びました。
 そして、山荘の主力の「ワラビ」・・・
 「草刈り場」と言われる野山(のさん)や若木の山には良いのが生えます。
 どこが早く生えるか、どこが太くて良いのか・・・
 それはそれぞれ内緒でした。
 大きめの巾着を作って貰って集落中を駆け回りました。
 そっして、もう一段暖かくなると「ぜんまい」です。
 これは水気のある場所なんですが、太くて良いのが生えるところと、細くて惨めなのが生える場所があるのです。
 簡単なのは探ボンボ石垣ですが、本当に良いのはやっぱり山に入らないと・・・
 ゼンマイは保存が利くけど茹でて揉んで乾かさないといけないので面倒です。
 でも、保存食になるので取って帰ると家の人が後はやってくれましたね。
 初夏になって「田植え」になると、このゼンマイが出て来ました。

 その次は「ゴンパチ」(いたどり)です。
 「いたどり」なんて名前は大きくなってから知ったのです。
 食料にするのは「ゴンパチ」でなくては美味しそうに聞こえません。
 
 この「ゴンパチ」・・・
 一時期は「蓚酸が含まれて発がん性がある」なんて言われました。
 そんな事言う連中が「サッカリン」「AF2」「赤色何号」なんてのを私達に食わせていたんですよね。
 私達の頃の子供はその「有害なゴンパチ」の皮を剥いで生でむしゃむしゃと・・・
 美味しいおやつでしたが、誰も癌で死ぬ子は居ませんでしたよ。

 食用にはさっと湯がいて水にさらすのです。
 でも、その蓚酸があるので下手すると酸っぱくなります。
 それを防ぐのに私は「重炭酸ナトリウム・重曹」を使います。
 そうすれば中和出来るし、少し茹ですぎてもベトベトに溶けると言うことが無くなります。
 湯がいたものを水にさらして毎日水を替えながらしばらく食べられましたが、今だとさらしたら密閉容器に入れて冷蔵保存すると結構保ちます。
 「ゴンパチ」は味噌汁・煮物になります。
 見場は良くないですが、平天とか竹輪などと似れば立派なおかずです。
 他所ではあまり食べなかったようですが、近年は「山菜料理」なんて高級部って出す所も出て来たようです。
 この辺では、これも、「お客に出す物じゃ無い」と思われているようです。
 立派な郷土食です。

 他には「ヨメナ」「タラの芽」「甘草」なんてのがどこでも手に入ります。
 「柿の新芽」なんてのも天麩羅に出来るし・・・
 「杉」「桧」は美味しくなかったです。
 サツキの葉っぱの「虫の瘤」・・・
 「柳の虫」「蜂の子」・・・秋なら「イナゴ」
 およそなんでも食べました。
 自前でおやつを確保するのが遊びと実利を兼ねていましたからね。
 溝では「ごじな・かわにな」を獲って塩ゆでに・・・
 一山越えて磯にでて、嫁皿貝やら巻き貝を捕ってきて塩ゆでに・・・
 ついでに「うつぼ」まで釣ってきたり・・・

 これが熊野です。
 熊野で育てばサバイバル術は身につきますが「野蛮人」になります。
 でも、南朝の人や落人も入って来ていますから、少しは「文化人」の血も入っているようです。


    

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by je2luz | 2016-01-30 04:35 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 29日

熊野の旅 寿司好き文化

 随分薄れてきたようですが、やたらと寿司を食べるのがこの辺の習慣でした。
 年の初めは雑煮と寿司で始まったものです。
 「屠蘇」なんて臭い酒はあまり飲まれないで、御神酒は普通の酒の家が多かったようです。
 
 正月と言えば、寿司が毎日でました。
 お節もありましたが、主食は寿司でしたね。
 「サイレの寿司」は「もろぶた」に一杯作ったものです。
 家族が多いとか以前の問題で、とにかくたくさん作ったのです。
 一人何匹もなんです。
 そして、海苔巻き・昆布巻き・あげの寿司(お稲荷さん)・伊達巻き・・・
 これレモ寿司箱何段も作ったのです。

 お節とかも縁起物という意味の他に、正月三が日とか料理しなくて良いようにと言う意味合いもあったようです。
 昔は、本家に行ったり、嫁の郷へ行ったり、親戚へ行ったり、やたらと他の家にお邪魔するものだったのです。
 子供にとっては「お年玉」というのがあるので結構嬉しかったものです。
 その前に「お礼」と言って、本家や嫁の郷などに鏡餅を持って挨拶に行くのですが、これも子供の仕事で「お年玉」を貰う絶好の機会でした。
 沢山年玉を呉れるところは、みんな行きたがりますが、年上には勝てないので私のような次男坊は少なくて遠い所が割り振られましたね。
 他所へ行ってもお節とお寿司・・・
 三日目には飽きちゃいますが、それでも続くんです。
 飽きたなんて言えば食うものは無いし・・・

 正月だけでは無く、何かあれば寿司を作って居ましたね。
 運動会もお弁当は重箱で「あげの寿司」「海苔巻き」「昆布巻き」など子供のD好きなもの・・・
 私が子供の頃は卵が高かったので「卵焼き」なんて贅沢でした。
 運動会になると巻き寿司の芯は子供向きに「桜でんぶ」が多くなります。
 運動会シーズンは春も秋も「サイレの寿司」ではありませんでしたね。

 遠足も寿司が多かったものです。
 子供の好きな「あげの寿司」を持ってくる子が多かったです。
 運動会や遠足の前になると「田舎の百貨店」みたいなお店には『あぶらげ・アゲ」が一杯並んだものです。
 一枚のアゲで二個作れますが、子供が100人居れば600個は食べますからね。
 親から爺婆まで・・・
 今のように料理屋の弁当なんて持って来ません。
 全員「愛情弁当」だったのです。
 貧しくったって、日本中、「愛情弁当」で育ててくれたのです。
 昔だって酒乱の旦那は居たし、母ちゃんも子供も泣く家もあったのですが、それでも「父ちゃんが好き」「母ちゃんが好き」だったのです。
 私の父ちゃんは大陸で戦死したので運動会などでは淋しかったですけどね。

 折に触れて前に書いたような寿司も作って食べる土地柄でしたが、握りを作る「寿司屋」も木本はやたらと多かったのです。
 「初音」という寿司屋を筆頭に一杯あるのですが、この辺の人は「シビの寿司」が好みでした。
 「シビ」=「マグロ」
 でも、本マグロはあまり好まれず・・・
 トロもあまり好まれず・・・
 ひたすら真っ赤なシビを食べるのでした。
 「初音」ではシビもタコもイカも「たれ」を塗ってありました。
 良いシビが無いと店を休む偏屈な親地でした。
 でも、あんな良いシビにたれを塗っちゃうって・・・関西なのかなあ???
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 そんなの寿司を好きな土地だったのに、30年ほど前から家庭では作らなくなってきたし、寿司屋も20年ほど前から減り始め、ほとんど無くなりました。
 「初音」「奴寿司」「くるま寿司」「東京寿司」「松屋」「千代寿司」「幸寿司」・・・もっとあったような・・・
 回転寿司は二軒進出していますが、そこの出すのは「マグロ」で「シビ」では無いですね。
 それに、ご多分に漏れず、ここでも「サーモン」を食べる人だらけです。
 「サーモン」ならまだしも、得体の知れない寿司が回っていますからね。
 寿司天国もどこかへ行っちゃったようです。
 それでも、スーパーでサンマの「すしな」が売っているのは、この辺らしいです。
 
 背開きにして、骨をそぎ落とし、小骨を取って酢で絞める・・・
 冷たい水しか使えないし、結構大変な下ごしらえです。
 スーパーでパックしたのを買ってきて、「寿司酢」で寿司飯を作ればインスタント的に「サンマ寿司」は出来ます。
 ほんの少し、ゆずとかを加えて作れば「サイレの寿司」を家でも作れますよ。
 残念ながら「小鰺」「うるめ」は「すしな」は売っていないようです。
 パックしてあるので「クール」でなら送れそうです。

    

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by je2luz | 2016-01-29 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 28日

熊野の旅 熊野の誇り 何でも寿司文化 2

 一つ前では、「サイレの寿司」と「こぶの寿司」など書きましたが。この辺では、新鮮な魚が手に入ったからでしょう・・・昔はよく寿司を作っていました。
 『握り』では無く、「姿寿司」「押し寿司」の系列です。
 「うるめ」でも「アジ」でも「カマス」でも、新しいのがあると酢で少し絞めて、寿司飯の上にので、竹の簾で「くっ」と形を整えます。
 これらの魚は神前じゃ無くては始まりません。
 そして、大きすぎてもいけません。

 下ごしらえと「酢加減」が腕の見せ所です。
 家によって、おばあちゃんによって酢加減が変わります。
 その酢も、米酢、穀物酢の他に「柚」「ミカン酢」など季節と好みで使い分けていたようです。
 昔は、山間部などでは柚の木が一杯植えられて居ました。
 大事な食材だったのです。
 でも、今では収穫された井で冬になっても黄色い実がなったままの柚の木が見られます。
 柚の木って棘だらけだし、ミカン農家じゃ無いから川原や山際みたいな足場の悪いところに植えられて居るので、お年寄りでは収穫しにくいのです。
 そして、いまでは家族も少ないし、ゆずを使って寿司を作ることも無くなって来たようです。
 持ち主に声を掛ければ。「取って行かんし・・・!」と言ってくれます。
 人シーズンに一戸カニ子は良いものですが、私もそんなに使いません。

 この辺の寿司のもう一つの代表格は、「高菜の寿司」です。
 これも、広い範囲で使われる、「めはり寿司」てえ呼び方をするようになりました。
 これも、昭和40年代くらいまでは、「高菜の寿司」「ばしょばの寿司」「高菜の握ったの」とか呼ばれていたのです。
 これも、格好付けたのか「めはり」を使うように役所主導みたいに変えられました。
 だから、「サンマ寿司」同様、広域の紀州の中に埋もれてしまいました。
 かと言って、紀州全体で協力して売り込むなんて無いんです。
 そして、生産量も高地なんかのようには多く出来ないのです。
 ならば、k「熊野市らしさ」を表に出すべきでは???
 「それ何?」って言わせるのも効果があるのですよ。
 そして、「高菜の漬け物は流谷じゃ無くては・・・」とアジも大切にしないといけないでしょう。
 
 高菜の寿司には漬け物の他に、採ったばかりの葉っぱをさっと湯がいて、酢味噌など塗って熱々のご飯と包むのもありました。
 これは買って作るものじゃあ無いですね。
 畑で採ってきてすぐに・・・
 湯がきすぎなければショップピリ辛見も残っていけますよ。

 さらに、寿司好きの地域ですから。「チシャ菜の寿司」もあります。
 「チシャ菜」・・・今はその一種のが「チマサンチェ」なんて呼ばれて出て居ますが。本来は「和種」のチシャ菜を使い。生のままで味噌か酢味噌を塗って左手に持ち。自分の茶碗から熱々のご飯を移して右手も添えて押さえつけてかぶりつくのです。
 おかずなしでままが進みますよ。
 夏の食べ物です。
 生の野菜が摂れるから良い・・・なんてのでは無く、何も無くても食べられるから重宝したのでしょう。
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 安い小魚、安い漬け物、畑のチシャ菜・・・
 すぐに作れて美味しくて安上がり・・・
 いかにも奥熊野らしい・・・
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 「お客様に出すのは恥ずかしい・・・」
 そんな気持ちがあるのでしょうね。
 料理やどころか民宿でもあまり出されてきませんでした。
 「昨日はトンカツ」「今夜はエビフライ」・・・
 熊野まで来てこんなの食べたくないでしょう?
 でも、田舎料理では・・・
 意識改革は難しいかな?
 と言うより・・・
 「民宿」が消えつつある?
 「民泊」をやれる人も居ないのかな?

    

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by je2luz | 2016-01-28 19:12 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 27日

熊野の旅 熊野の誇り 何でも寿司文化 1

 この辺り・・・
 寿司が好きなようです。
 正月に始まり何かあれば寿司を作ってきました。
 最近は唐揚げとかの入った弁当が主力のようですが、一昔前には学校の運動会のお弁当も「寿司」だったのです。

 小魚類は何でも寿司にしちゃいました。
 「さいれ」「うるめ」「いわし」「アジ」「かます」「きす」・・・(丸干しの方でアジを漏らしていました)
 「のりまき」「昆布巻き」「あげの寿司」「だてまき」・・・
 果ては「高菜の寿司・バショバの寿司」なんて、漬け物まで寿司にしちゃいます。

 今では、特産品・名物に「サンマの寿司」をあげますが、あれは「サイレの寿司」なんです。
 「さんま」なんて北海道から四国まである陳腐なものでは無く、この沖で捕れる油の落ちた「さいれ」と呼ばれてきたもので作ったので無いと味が出ません・
 「サンマの寿司」なんて他所の媚びる名前を使う事が間違いなんです。
 もっと、自信を持って進まないと駄目でしょう。
 それをやれない熊野市・商工会議所・物産振興会・・・情けないですね。

 ここの「サイレの寿司」は背中の方から開く「背開き」で姿寿司になった時、腹の白いところが上にあってきれいに光ります。
 隣、尾鷲の「サンマ寿司」は「腹開き」で背中が上になり黒っぽいです。
 全然違うんです。
 それに、これに使う「さいれ・さんま」は「遊木港」で揚がったののが最高なのです。
 誇りを持って、地元古来の呼び方に戻しましょうよ。

 他の小魚も全部「姿寿司」です。
 ご飯多めの実用食なんです。
 でも、最近はこれを作る家庭が減ってしまいました。
 うるめ・アジ・かます・・・おいしいですよ。
 でも、いつでも作れるというものじゃないですね。
 旬の時、捕れたとき限定・・・
 それも良いでしょう?
 食べたきゃ熊野市へ通ってきなさいよ。
 料理屋ではなく「ばあちゃん」が作るの方が美味しいんですが・・・
 「認定制度」でも作って、「ばあちゃん」を保存しないといけませんね。

 「こぶのすし」・・・
 これは関西でしか手に入らない「寿司昆布」を戻して海苔巻きのように巻きます。
 芯はニンジン・かんぴょう・ほうれん草・玉子焼きなど好みのものになります。
 「寿司昆布」はバッテラに貼ってある昆布の薄いやつです。
 何しろ、「だし」である「昆布」で巻くのですからおいしいんですよ。
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 これは、サイレの寿司発祥の地と言われる「産田神社」の一月大祭・「奉飯」で出されるお膳で、この寿司には骨が付いています。
 まあ、食べるには向きませんね。
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 こちらは、同じ産田さんの祭でも、売られているものです。
 今流で頭も尻尾もありません。
 本来は頭がついて尻尾もあります。
 頭も尻尾もちょいと曲げて箱に納めるのです。
 昔は頭も尻尾も火鉢で炙って食べたのですが、今ではそんなことする人もいません。
 と言うより・・・
 炭火の入った火鉢も、隅のコタツも無いですからね。
 だから、「食べない部分」は切っちゃうようになったのでしょうね。
 でも、「さいれの寿司」らしくないです。
 好みで、七味唐辛子や醤油をつけて食べます。

 寿司の種類が多いので記事を分けます。
 私は作る方ではなく食べる方ですが、ずいぶん食べて育ちました。
 ものすごく好きというのではありませんが、少しは蘊蓄も傾けられる歳です。
 熊野から「寿司」を抜いてはいけないでしょう。

    

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by je2luz | 2016-01-27 04:29 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 26日

熊野の旅 熊野の誇り 丸干し文化

 この地方、ことに熊野市では、干物と言えば「丸干し」です。
 観光とか物産の方では「サンマの丸干し・サイレの丸干し」ばかり言われますが、この辺では小魚何でも丸のままで干しちゃいます。
 サンマ・いわし・うるめ・キス・カマス・・・
 勿論、全部、頭もはらわたもそのまま干します。
 好きな人は全部丸ごと食べちゃいます。

 開きの作ります。
 サンマ・イワシ・うるめ・カマス・うつぼ・鯖子・・・
 塩物と味醂干し・・・
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 何でも干しちゃうんですね。
 でも、大昔から漁場と言っても、まともな町など無いところです。
 生魚を食ってくれる人口が無ければ干すしか無いでしょう。
 山間部へ運べば売れると言っても、町じゃ無いから一杯売れはしなかったでしょう。

 昭和30年代になっても、下北山くらい山奥になると、日持ちしよい「シビ」でも「塩シビ」が当たり前がったくらいななのです。
 「丸干し文化」「干物産地」が形成されたのは、悲しい歴史からなのかも知れません。
 でも、長年培われてきた「生活必需品」ですから、食べ飽きない。美味しいものになって居ます。
 何しろ、冷蔵庫だとか保冷車などが普及するまでは、消費地の山間部の人は、明けても暮れても「丸干し」を食べていたのですからね。
 今でも、この辺の人は「干物」が好きですね。
 「安くて旨くて・・・」

    

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by je2luz | 2016-01-26 04:10 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 25日

熊野の旅 熊野の誇り 餅ほり文化

 この地方では「餅ほり文化」と言える物があります。
 各地にもあるとは思いますが、熊野市はどこにも負けないでしょう。

 祭・初午・七五三・建前・厄払い・落成記念・晋山式・イベント・・・
 人が集まれば「餅撒き・餅ほり」・・・
 人を集める目玉に「餅撒き・餅ほり」・・・
 祭も村祭りから庚申様、地蔵さん、稲荷さん、天神さん、弁天さんなんでも「餅撒き・餅ほり」です。
 個人の家の建て前(棟上げ)は少し減ったようですが、校舎などの落成となると大変な量が用意されますね。
 七五三や厄払いとなると、『神社やお寺で撒くだけでは無く自宅でも・・・なんて家があります。
 そして、こうした餅撒きのニュースに関しては、実に皆さんよく知っています。
 「何日・何時・どこどこ」・・・
 町内は勿論、沢山撒かれるような大がかりなものは市内一円のを知っているなんて人も居ますね。
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 朔日、私は金山の「地蔵さんの餅ほり」に行ってきました。
 三時からと言うのを二時半がろ場所を探していると・・・
、数台の軽トラが止まっていて丘の上に段ボールが・・・
 「地蔵さんここかえ?」と声を掛けたら・・・
 「そうじゃで!」
 「来てくれたんかえ!」
 と、歓迎してくれました。
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 それから、徐々に人が集まってきました。
 七五三の家と厄年の家が撒くようです。
 撒き手も何軒もあるし、拾い手の方は始める時には120人ほどのなっていました。
 金山は新しい家もあるので、集まってくるご婦人が木本より若いですね。
 長年続いている行事なので、拾い手も上手に固まっているし、撒き手も上手らしく、皆さん沢山拾っていて、スカの人は居ません。
 
 拾うのは競争で・・・
 「こっちへ放って!」 などと賑やかです。
 それでも、立ち上がって人を踏みつける人も居ないし、終われば・・・
 「あんた、ようけ拾うたのう!」
 「上手いもんじゃろ!」
 などと、和気あいあいです。
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 他所からお嫁に来た人は最初恥ずかしいようです。
 何しろ、「撒いたものを拾う」のですからね。
 でも、拾い始めると夢中になっちゃうのです。
 そして、そのうちに「餅ほり」と聞くと血が騒ぐようになる様です。
 そうなると、「本物の熊野の女」になった証です。

 近年では役所の主催するイベントでも「人寄せ」に餅撒きをやることが多いのです。
 確かにその時間には人が集まってきます。
 それを持って「イベント成功」と言うのもねえ・・・

 これほど、熊野では餅ほりが生活に密着してきたのです。
 色んな習慣が消えて行きますが、せめてこれは残したいですね。
 「無形文化財」ですよね。
 地域の和を保ちますからね。

    

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by je2luz | 2016-01-25 04:21 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 24日

熊野の旅 熊野市の名所・名勝 6 大又川 3

 今回もうちょっと大又川について書きます。

 大又川の河床は大きな岩盤で出来たところが多いのです。
 上にゴロ石があっても、その直ぐ下には岩盤が横たわっています。
 飛鳥町内は基本的には紀州御影の硬い岩です。
 こいつがこの一帯の山の骨組みで隙間は無いし、押しても崩れないし・・・
 海の側に降った雨はすんなり太平洋に落ちて行くけど裏側は行き場が無かったのです。
 かといって火口のようでも無いし、山崩れで堰き止められても居ないし・・・湖はありません。
 行き場を探して、海のすぐそばなのに紀伊山地をうろうろと・・・
 最初の大又の写真の辺りでも河床の海抜はせいぜい350m程でしょう。

 飛鳥町小阪のところなど、薄い山一つで真っ直ぐ大泊に出られるのに、何万年掛かっても崩せなかったのでしょうね。
 諦めたようにUターンして引っ返し、今度は山奥の五郷を目指します。
 その先で地質が変わりますが、だからと言って海には向かえず、大台ヶ原南斜面の水を集めた「北山川」に合流して、出口を探して尚更山奥へ・・・
 それでも湖にはならないで岩を砕いて下ったのでしょう。
 「瀞八丁」なんて渓谷を作って突破していますね。

 ここを通り抜けると、ようやく順当に川らしくなって、宮井でもう一本の大川「十津川」を一緒になって新宮に向かいます。
 蛇行する川、迷走する川・・・色々ありますが、この熊野川水系の北山川・大又川の道筋はこの川の太古からの苦労が目に見えるようなものです。
 一度一般国道42号線大又トンネルから熊野市に入り、飛鳥町大又ー飛鳥町小阪ー国道309号に入り・・・飛鳥町佐渡ー飛鳥町神山ー五郷町平ー五郷町寺谷ー五郷町桃崎ー国道169号線に入りー神川町七色ダムサイトー北山村大沼ー瀞峡ー玉置口ー宮井・・・国道168号線に入り・・・新宮市橋本・・・国道42号に戻り・・・紀宝町鵜殿河口まで川に付き合ってみて下さい。
 そうすれば飛鳥に降った雨が出口を探してさまよった苦労が解ります。
 大又十ネルを抜けた所で出会った水がそこまで下るのです。
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 この硬い紀州御影の岩盤部分を「なべら」と、呼んでいます。
 「滑らか」から来ているのでしょうね。
 流れ下るゴロ石に磨かれてツルツルです。
 ゴロ石も角が取れて丸まっているので足は痛くありません。
 コケも生えているのでツルツル滑り、小さな頃は「なべら」で滑って遊びました。
 そこには溝状にえぐれたところや、丸くへっこんだところがあります。
 これは氷河が削ったのでは無く、ゴロ石が洪水の度に転がるのでえぐれたという説を見たことがあります。
 臼のようにへっこんだのも、少しへっこんだところに石がはまり込み、洪水の度に押し出されもせず回転したので大きくくぼんだのだとか・・・
 この800m程川下でそんなのがありました。
 何しろ、時間単位が百年とかでは無いのでそんなことも起きるのでしょうね。
 天女の羽衣で岩をなぜて減るのを単位とする「劫」なんてのも仏法にはあるそうですから・・・
 私が子供の頃から60年・・・
 人工的にいじられたとか、堆積したゴロが変わったとかはありますが、「なべら」が変わったなんて無いですね。
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 こんな岩盤が続いている飛鳥地内の大又川ですが、途中で段差があり、あまり削られていないところもあります。
 いつ頃か地震でズレたのかな?
 私は地質にはあまり興味も無いし解りませんが、何かがあったには違いないでしょう。
 でも、次に動くのは千年先か一万年先か、もう動かないのか・・・

 飛鳥地内、五郷から先、下北方面、神川地内、瀞峡付近・・・
 背中合わせの海側では大泊方面、鬼ヶ城獅子岩、瀬戸方面・・・
 有馬以南の海岸沿いの断層・・・
 すぐ沖には東南海の震源地の断層・・・
 狭い範囲で地層、岩石がめまぐるしく変わります。
 つまり、あまり安定していない土地なのでしょう。
 鬼ヶ城や獅子岩も最近海から上がってきたのだそうですし・・・

 アトランティスだって沈んだそうです。
 北九州では100年ほど前に島が沈んだとか・・・
 日本列島が浮かんでいるうちに色んな所を見ておいて下さい。
 鬼ヶ城と獅子岩は一緒に浮かんできたのだとか・・・
 消える時は一緒に消えちゃいますよ。

    

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by je2luz | 2016-01-24 04:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 23日

熊野の旅 熊野市の名所・名勝 6 大又川 2

 長くなったので途中で切り離しました。

 「大又川」には放流された鮎がいます。
 河口から何十キロもあるのですが、ダムが出来るまでは鰻も鮎も新宮の河口から遡上していたのですが、昭和30年代のダム建設でズタズタにされ、魚道も作られなかったので、天然物は来なくなったのです。
 これは日本中の川で起きたことで、日本中が琵琶湖産の「湖産鮎」ばかりになっちゃったのです。
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 鮎釣りは漁業組合の「遊漁鑑札」を買って楽しむようになっています。
 川沿いのあちこちで「鑑札販売所」があったのですが、少し減ったようです。
 比較的、川原に降りよい川ですし、大きな川のように人間が流される危険も少ないです。
 今では、中京方面、京阪神方面からも日帰りで楽しめる川になりました。
 その割りに、お客さんが多くないですね。
 なぜでしょう?
 知名度も低そうです。
 何しろ、補助金が無いと稚鮎の放流も出来ない状況です。
 儲からなくても良いけど、現状は淋しいです。
d0045383_23414812.jpg

 この写真は飛鳥町小阪、飛鳥神社下です。
 大又川はこの様な滑らかな岩盤(なべら)と頃石の河床が交互にあり、無いのは砂地の川底だけです。
 つまり、すっと渓流で鮎の好きな環境なのです。
 近年は少しコケの質が悪くなって、歩いても滑りにくくなっちゃいました。
 それが魚、鮎が育ちにくい理由かも知れません。
 恐ろしいほどいた「ガロジ」(ざざむし)が激減したのもおかしな話です。
 夏の夕方など橋を渡れないほど「トビケラ」が飛んだのに・・・
 一見きれいになって来たのに・・・

 私は「鮎釣り人」ではありません。
 子供の時から相手にしてきたのは「鰻」「ウグイ」「はえ」などです。
 今でもこれらは鑑札は要りません。
 意外と簡単に捕れる物ですよ。
 農家民宿「やまもと」なんかだと教えてくれるのでは無いでしょうか?
 私達の世代、ガキの頃には川で魚捕るしか遊びが無かったのですから、名人だらけでした。

    

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by je2luz | 2016-01-23 04:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 22日

熊野の旅 熊野市の名所・名勝 6 大又川 1

 熊野市には何本か川があります。
 海の側の川は山に降った雨がすぐに海に出てしまうような短いものばかりです。 
 裏側に降った雨は、全部、熊野川に集められ新宮で海に出ます。
 随分遠回りするのです。
 その熊野川の支流の中で比較的長く近づきよいのが、「大又川」です。

 源流は尾鷲との境の「矢ノ川峠」、下北山との境の「備後の谷」などです。
 「矢ノ川峠」は旧国道42号線が越えていたところですから。こちらの谷のそばには「矢ノ川道」があるのですが、今は通れないはずです。
 国道42号線「大又トンネル」の熊野側で、道が分かれていますが、舗装道路で緩やかに右に曲がっているのが42号線で。ほぼ真っ直ぐな舗装道が旧矢ノ川峠越えの国道だったものです。
 UPの左手の橋を渡ると備後方面です。
d0045383_2201960.jpg

 国道改修で、「大又トンネル」「矢ノ川トンネル」が抜けてから、この道で808mの「矢ノ川峠」を越えることは無くなりました。
 確か、私が昭和44年(1969)に43年式コロナ1600Sで東京から帰ってきた時、暫定の形でこの新トンネルを通りました。
 その後暫くは峠道も通れたのですが、災害などで崩れても直して呉れなくて通れなくなっちゃったのです。
 矢ノ川峠でのアマチュア無線運用でこの道をジムニーで登っていたのですが、最後は崩れて道が半分しか無くなったところを無理矢理通って、細かい木をへし折りながら登りきって、頂上付近で仕事していた人に「あんた、どこから来たんじゃ!」とびっくりされました。
 ひょっとして、最後の峠越えを敢行したのは私なのかも・・・
 その崖下を写真の谷が遡っているのです。
d0045383_21293160.jpg

 この上流には民家も農地もありません。
 まさに「清流」なのです。
 この日は魚影はありませんでしたが、アマゴなどが居るはずです。
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 こちらが下流方向です。
 ここからは、飛鳥町小阪佐田までは国道42号線と共に下ります。
 そこからは国道309号線沿いに五郷町桃崎東郷までくだり、その先は「七色ダム湖水」になるのです。
 この区間は集落の間を流れますが、硬い山を削って進んだ川なので、川はかなり下がった所にあります。
 田畑や家は一段上で、ほとんどのところには「堤防」なんてありません。
 耕地面積もほんの少しです。
 それでも、一時期は農薬や生活排水で川が傷みました。
 中性洗剤、DDT、スミチオン、ボルドー液・・・日本中の川や湖を殺し掛けた時代ですね。
 その少し前、戦後すぐくらいまでは、この川を汚す人は居ませんでした。
 日本の田舎の普通の暮らし、洗い物も風呂水も川で汲んでいました。
 支流の谷では飲み水も・・・

 また、川は生き返りつつあります。
 住民の大きな意識の変革と、言うよりは、「過疎」のおかげの方が大きいように思います。
 人口はピーク時の半分も居ませんし、耕作面積も半分以下・・・
 悲しい話ですが、あと10年すれば人口も農地も更に半減???
 何はともあれ、川はきれいになっています。
 もともと、雨で増水した時以外は濁らない川なのです。
 濁っても雨が止んで少しすれば澄みます。
 石がひっくり返るほど水が出た後は、川底が真っ白で、澄み切った水が勢いよく流れ下ります。
 素晴らしいですよ。

    

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by je2luz | 2016-01-22 04:20 | 熊野 | Trackback | Comments(0)