LUZの熊野古道案内

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2012年 02月 29日

熊野の旅 懐かしい町並み…

 テレビでは、結構若い人でも古い町並みとか遊びとかを見ると、「なつかしい」と言わなくてはならないように言いますね。
 そして、番組の趣旨次第では、同じような物を「知らん!」と言って時代の断絶を見えるようにします。
 どうせ、やらせなのですけどね。
 でも、ある程度はドラマや写真などで見たことのある物から「原風景」という物が形成されているようです。
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 こんな町並み…
 大正から昭和にかけての町並みなんです。
 最初はひょっとすると「杉皮葺き」だったのかも知れません。
 と言うより、木本のこの家の規模だとそうだったでしょうね。
 
 こうしてみせると、「素敵な町並みですね」という人が多いです。
 人によっては、「宣伝すれば観光資源になりますよ…」なんてまで言います。
 でも、こうした町並みは「空襲」に合わなかった町ならどこにでもあります。
 それも、再開発とかに乗れなかった場末の路地裏にです。
 同じ町の人でも足を踏み入れる機会の無い所って一杯ありますからね。
 空襲で焼かれた東京でも燃えなかった一角とか、戦後すぐに再建された町ではゴロゴロしていますね。
 私が下宿していた高田馬場の裏通りなどは同じような木造の家やアパートが未だにひしめいていますからね。
 山手線で行ける都心にでも一杯ある光景を「観光資源」に仕立てるのは半分詐欺的な物かも知れません。
 渡海の人でも行ったことがないのですから、見れば「懐かしい」って事になるのでしょうけどね。

 こうした町並みは機銃掃射しか受けなかった木本には残されています。
 ことに、漁師町の親地町はそんな町ですね。
 でも、あまりにも玄関先を通るので、夏などは家の中が丸見えです。
 隣近所は親戚・家族みたいな生活を送ってきた町ですから、それでよかったのですけどね。
 紀伊長島の漁師町は観光で売り出していますが、やっぱりそうした問題は起きているようです。
 おじいちゃんおばあちゃんでも生活は見世物では無いですからね。
 私なら気楽に写真を撮らせて貰える人も沢山居ますが、あえて写真にはしていません。
 結構、「絵」になるんですけどね。

 
熊野市周辺地図です
 


 
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by je2luz | 2012-02-29 10:39 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 28日

熊野の旅 木本発祥の地 親地町

 木本は商業の町などと言われてきましたが、元々は漁場だったところです。
 漁師兼海賊みたいな物だったのでしょう。
 何しろ鬼伝説の本拠地、多蛾丸なんて悪いのが居たなんて言われるところですからね。
 でも、木本にとって大将多蛾丸は本当に悪い人だったのか???
 歴史って勝者が書く物ですからね。

 この木本はいつも書くように、下が砂利で井戸が掘りにくいです。
 そして地下水脈が深くてこれ又大変です。
 だから、川の近くにしか住めなかったところです。
 土地が乾くし、砂利のところは田んぼには成らないし…
 「サツマイモ」が入ってくるまでは作るものも無かったでしょう。

 そうしたところで集落が出来たのは木本の一番北の端、鬼ヶ城の磯にほんの少し守られた「脇の浜」とそこに流れ込む「西郷川・にぎごがわ」のところでした。
 今では「親地町」と呼ぶところ・「オヤイド」です。
 「オヤイド」は「親井戸」で木本の水の元になった所を表した物です。
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 このように擁壁でかためられた川が木本に人が住めるようになった元なのです。
 地質から言うと右側はずるずると勾配になった河川敷があったはずなのですが、狭い土地を有効利用するために昔から石垣を積んだりして狭めちゃったのでしょうね。
 どこの漁師町でも同じですが、町の中の道は狭く、屋敷も狭いです。
 今の建築基準法では家を建て直すことは不可能なところがほとんどです。
 それでも、築後20年とか30年とか言う家が建っていますね。
 柱や小屋物を運び込むのも大変なところに建てています。
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 ぶらりと路地裏に入って行き、歩き回ると面白いとは言えますが、住むのは大変だと思います。
 道幅1mほどで向かい合わせ、浦へは出られない…

 昔から木本では火事はないのです。
 今の人はさほど気にしていないようですが、昔の人は自分の家から火が出れば「木本が野になる」と、火の始末にはものすごく気を使った物なのです。

 ここは川があるし、海抜も低くなっているので予想される「東南海地震の津波」では危険地区になります。
 路地が入り組んでいるのは地元の人にとっては何ともないですが、建物が老朽化しているのと、人間も老齢化しているので避難する道と、人間が5分で高台まで走れるのか心配になります。
 若い人でもぎりぎりですからね。

 
熊野市周辺地図です
 
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by je2luz | 2012-02-28 10:05 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 27日

熊野の旅 居るんですよね

 今日は議会があったので現場を見ていませんが…
 浜に積み上げてある流木に放火したやつが居るとか…
 道のすぐ下にきれいな台形に積まれた白光りする流木の山…
 ダンプカーで100台分ほどでしょうか?
 ありゃあ魅力的でしょう。
 放火魔でなくても燃やしてみたくなる光景です。
 昔なら消防署の真ん前ですが、今は移転しちゃったし…

 あちこちでこうした流木でたき火をした跡がありますが、積み上げた物に火を付けたのは初めてみたいです。
 大火事には成らなかったようで我が家のすぐ傍なのにサイレンに気がつきませんでした。

 折しも昨日、知り合いが来て、「あんなに積み上げてどうするの?」と聞いてきたので…
 「行き先が中々決まらないようだよ。下手なところに寄せて火を付けられると怖いしね。」
 と、言ったばかりだったのですが…

 堤防の向こうの浜ですから大丈夫ですけどね。
 こんなの見ると必ずやるやつが居るんです。
 山の方の仮置き場なんてのだったら、もっと人目に付かないし、延焼して大火事に成るでしょう。
 こうした物の保管は文化人が言うほど簡単ではないのです。
 犯罪者の気持ちにならないとね。
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熊野市周辺地図です
 
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by je2luz | 2012-02-27 17:23 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 26日

熊野の旅 今昔物語 関西か東海か

 三重県というところは広域の行政連絡会議などでは、「関西」と「東海」の両方に顔を出します。
 公式の行政区分では、国の出先は「東海」と名のつくところが支配しています。
 私のアマチュア無線のコールサインも「JE2LUZ」で東海電波監理局…今では、東海総合通信局の管轄です。
 古くから、浪速や都とお伊勢さんとの交流もあったし、その関係でしかれたような近畿日本鉄道の便利さで名張など周辺は関西向きに生活してきたようです。
 そして、ここ熊野市などは鉄道がズッと大阪としか結ばれていなかったので、商売も人の動きも関西向けになっていました。
 そもそも、地形的にもそちら向きの方がスムーズなので、ここは「紀伊国・紀州藩」なのです。

 紀勢線が全通して半世紀…
 国鉄民営化で、紀勢線の東西の区分が変わって、熊野川が会社のテリトリー境界になりました。
 そうした流れの中で、熊野市を通る列車は名古屋へは乗り換え無しですが、大阪へは新宮乗り換えになっています。
 勝浦まではJR東海の特急は行っていますが、大阪・天王寺からの列車はこちらに来ていません。
 いや、来られません。
 JR西日本の紀勢線は電化され特急から普通列車まで全部電車です。
 JR東海の紀勢線は電化されずディーゼルです。
 だから、東海の列車は向こう側を走れても、向こうのは新宮駅を通り越すと熊野川に掛かるところのトンネルまでしか架線がないので来られません。
 電車って不便な物です。

 こうして、昔からの関西圏だった「木本」もどんどん東海化されて行きました。
 商店の仕入れも大阪だったのが名古屋になったり…
 就職先も名古屋方面が増えたり…
 それでも、電気だけは熊野の真ん中までは「関西電力」です。

 今の若い人からすれば熊野市は「東海」だと感じるのかも知れません。
 天王寺駅に降りたことのない人がほとんどですからね。
 私も名古屋駅に降りることはあってももう天王寺駅には降りません。
 松阪経由近鉄線鶴橋・上本町とかがせいぜいです。
 海外旅行も「中部国際空港・セントレア」からが多いようです。
 そして、お城と言えば「名古屋城」が浮かぶそうです。
 私などは未だに「大阪城」なんですけどね。
 それでも私は来るまでと会に出るときは無条件で大阪に出ますね。
 古いのでしょうけど、名古屋になじめません。
 そして、先般の地デジ化のときもCATVから関西系の放送が消えると言うことで大騒ぎしたのも年配の人が多かったです。
 騒いだ筆頭の私が高齢者ですしね。

 下の写真は、焼ける前の「大阪城」です。
 これもネガとして残っています。
 せんご、そっくりに再建したのでしょうが、なんだか少し違うような…
 木造と鉄筋コンクリートの違いでしょうか?
 私が初めて見たのは「大阪城」でしたが、これではなく。鉄筋コンクリートの方でした。
 「エレベーター」の付いた方って事です。
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熊野市周辺地図です
 
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by je2luz | 2012-02-26 10:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 25日

熊野の旅 昔の話 鉄道

 紀伊半島は地形的に複雑で険しいので交通網の整備が大変だったようです。
 険しくて簡単に来れないから、「熊野信仰」なんてのがこんな南国の海の傍に出来たのでしょう。
 簡単に行けたら、能勢の観音・紀三井寺なんて程度になっちゃったでしょう。
 極楽浄土なら「宇治の平等院」だってありますからね。

 何しろ鉄道がぐるっと一周したのが、戦後、昭和36年なんてところです。
 四国中村線、三陸なども手こずった訳ですが、大阪からも名古屋からもすぐだし、第一期の国立公園で「吉野熊野国立公園」が指定された観光地だし…熊野詣での聖地だし…材木の一大産出地だし…銅山はあるし…
 無いのは平野と人口くらいだったのに…

 最初は軽便鉄道などで地元資本が一生懸命作ったようです。
 だから色んな鉄道会社の名前があったようです。
 当時の小さなトンネルが残されているところもあります。
 確か、今はショッピングセンターになった巴川製紙の勝浦寄りのあたりにもあったように思います。
 そうした細切れの路線を「鉄道省」が接収?して整備していったのが、紀勢西線の歴史のようです。
 我が家の本家を探せばその時代の写真も出てくると思うのですが、私の手元にあるのはお袋がお嫁に来るときに持ってきた写真のネガとか親父が撮ったらしき写真のネガとか、ほんの一部です。
 昭和10年代前半とかの古い物で、セルロイドベースのフィルムです。
 取り立てて防湿に心がけていた訳ではないので結構傷んでいます。
 それでも、白黒写真だからスキャナーでちゃんと取り込める物もあります。
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 これはお袋が娘時代、原判は6×9・ブローニー判です。
 半分の大きさの窓、三等車、鉄道省…という物です。
 今の映画のロケ写真ばりにきれいに残されています。
 嫁に来る前…昭和10年から12年くらいまででしょう。
 行き先が『大阪』なので阪和鉄道や紀勢西線ではないのかなと思いますが、当時の列車の行き先駅名が分りません。
 お袋の女学校とか娘時代の行動範囲からするとせいぜい和歌山・堺・大阪・岡山までかと思います。

 車両区分が『十ハ』となっていて、「ハ」は戦後と同じ「三等車」ですが、前の「十」は少し違うようです。
 ハイカラな服を着て腕時計もしていますね。
 お嬢様だったようです。
 それに、戦前でも太平洋戦争中ではないですからね。

 この時代、新宮や木本はうんと元気だったのです。
 結構、「旦那衆」も居たようですからね。
 鉄道が全通し、道路もつながって…そして来年とかに高速道路もつながって…
 そうして便利になると共にどんどん落ち込んだのが田舎の中核都市の新宮や木本です。
 要するにストローをつっこんで吸い上げる役目を果たしたのが交通網ですから…

 汽車が遅く、のんびりした時代の方が、「旅」の楽しみは大きかったのです。
 ビュワーン…なんてすぐに着いちゃうと、時間が節約され便利ですが。「遠くに出かける」なんてのや「旅情」なんて無いですね。
 「時刻表」なんてのがベストセラーではなくなったし…
 「浴衣に下駄履き」なんて、観光地の定番光景もほとんど消えましたからね。
 
 
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by je2luz | 2012-02-25 10:40 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 24日

熊野の旅 昔の話 ラジオ…情報僻地

 私が小さな頃…
 今の天皇陛下と皇后様のご成婚式までは日本中がそんな物だったのでしょうが、テレビなんてありませんでした。
 テレビという物を見るのは「映画のニュース」なんて事でしたかられね。
 そう言う時代は家で手軽にニュースから娯楽まで接しられるのはラジオでした。
 さすがに私は「愛宕山」からの第一声の時代ではありません。
 それに、「耐えがたきを耐え…」という放送は記憶にありません。
 私が覚えているのは、「鐘の鳴る丘」とかその後に続いた「新諸国物語」なんて物です。
 「鐘の鳴る丘」では子供は泣きませんでしたが大人は涙した物らしいです。
 「笛吹童子」なんてのでは画像もないのに子供が夢中になり見たこともない「笛吹童子」のまねをしたものです。
 浪速千栄子と花菱アチャコの「アチャコ青春物語」「アチャコほろにが物語」なんてシリーズはさしずめ「寅さんシリーズ」みたいな物でしょう。
 クイズ番組のはしり「二十の扉」とか、うんちく物の「話の泉」、未だに続く「NHKのど自慢」とか司会者を国会議員にまで押し上げた「三つの歌」・・・民放が動き出すまでは日本放送協会が元気でした。
 もちろん、大相撲もラジオでした。野球もそうでした。
 ラジオのスポーツ中継は賑やかなのでこれ又、絵もないのに夢中になりました。
 プロ野球中継は「日本短波放送」が試合終了まで中継してくれるので、中波しかないラジオにチューナーを付けて受信しました。
 今の地デジを無理矢理チューナーで古いテレビで見るような物です。

 そんな昔は、こんな田舎にラジオの中継所がある訳も無し…
 民放など受信したかったらアンテナを張らないときれいに入りませんでした。
 私も部屋から裏山に向かって針金を張って居ました。
 まだアマチュア無線家では無いので詳しく分らないまま試行錯誤しましたね。
 東京の文化放送・新日本放送なんてのから、RKB毎日なんて確か九州の放送まで受信できました。
 季節により、時間により伝搬状況が変わるので困りましたし、今なら分る「フェージング」という波打つ電波の強さで苦労しました。
 我が家は「5球スーパー」…「マジックアイ付」という最新型があったので一杯入りました。
 大人になって分ったのは「スーパー」とは「スーパヘテロダイン方式」だったようです。
 テレビも中継所がないので高い山の上で電波を探し回って延々とケーブルを引っ張っていたのですし、電波も僻地でしたね。
 交通も「陸の孤島」なんて呼ばれたし…
 時代が下っても、「ADSL」の入ったのもうんと後だし、中心部以外は未だにADSLは使えません。
 「光ファイバー」などはとうの昔に熊野のNTT局舎まで来ているのに、外には出てきません。
 これ又未だに「情報僻地」のままです。
 なんとか、CATV網だけは行政の補助があり市内全域に張り巡らされているのでNETだけはなんとはどこでも繋げますけどね。

 もちろん、「Wi-Fi」だとか「フリースポット」なんて便利な物はありませんし、役所も理解していないという後進地です。
 過疎だし老人が多いし…見込み客が増える見込みも少ないし…
 行政でも力を入れないと営利団体は逃げますね。

 ラジオとかに熱中していた時代は、町中での「共通の話題」なんてのもあったのですが、段々「情報」とやらが多様化してしまったので、そんなのもなくなりましたね。
 歌だって、みんなが知っている「流行歌」なんてほとんど無いですからね。
 寂しい世の中になってしまったのかも知れません。
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by je2luz | 2012-02-24 11:17 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 23日

熊野の旅 昔の話

 昔は娯楽が少なく映画なんてのはものすごく人気のある物でした。
 テレビなんて無いのですから、動いて喋るのは芝居か映画でした。
 田舎では歌舞伎だとか新国劇なんてのが見られるはずも無し…
 たまには回ってきましたが、「旅芸人一座」でした。
 幟には「市川〇〇右衛門」「中村××之丞」なんて書いてはありましたけどね。
 小さな一座でも、時代劇も現代劇も歌謡曲も手品も何でもこなしていましたね。
 この辺は九州ほど熱心ではないので毎年来るなんてことも無かったです。

 映画に関しては、木本には戦前からの伝統ある小屋が一軒ありました。
 私が子供の頃には「明治座」と名乗っていました。後には「東映」になったのかな?
 そして、戦後の映画全盛時代には「新明治座」…「新名」がその近くに出来、さらには埋め立てを完了した駅前の丸山町に「丸山映劇」が出来ました。
 なんと、三軒もあったのです。
 明治座は時代劇が多かったように思います。
 丸山映劇は洋画と日活でしたかね?
 日本の映画会社だけでも「五社体制」と言われる時代でしたから、三軒だと足りないくらいだったのですね。
 新鹿にもあったし、ダム工事時代は神川にもあったようです。

 それでも、山間部や海岸線の人は中々見に出てこられませんでしたから、移動上映がありました。
 映画などの出てくるやつですが、屋外ではなく、学校の講堂や青年倶楽部…今の集会場みたいなところでやりましたね。
 上映するのは少し古い作品で、フィルムが傷んでいるので、雨は降るし、途中で切れるし…
 それでも、お客さんはせいぜい催促の指笛を鳴らす程度で我慢していました。
 入りきれない人は窓から覗いていましたね。
 あの時代は映画館でもそうだったのですが。「鞍馬天狗」なんてのが杉作少年を救いに馬を走らせ出すと…
 「早く! 急いでーー!」
 何とか間に合うと・・・(当たり前なんですよね、まさにシナリオ通りなんですから…)
 「会場は大きな拍手で包まれました。
 古き良き時代ですね。
 悲恋物だと会場はすすり泣く声や嗚咽でうるさいくらいでしたしね。

 何時無くなったのか記憶にないですが、今では一軒もありません。
 建物は、記念通りの「東映プラザ」と栄町のヤマト酒店の傍の工場として残ってはいますけどね。
 これが映画館だったとは思わないでしょうね。
 今は、市民会館でたまに上映していますが、子供向けのアニメとかみたいです。
 新宮でも市内の映画館が消え、巴川製紙工場跡のショッピングセンターに三部屋かそこいらの映画館が出来ています。
 こちらは今流で新しい映画をやっています。
 デジタルらしいですけど…
 行ったこともありますが、昔のアートシアターよりも狭い物です。
 さらに、私が行ったときがたまたまそうだったのか、観客は私達一行三名でした。
 いくらコストダウンしているにしても…
 音響だけはなんチャンネルか知りませんがあちこちから聞こえましたね。

 今は、レンタルDVDで自分流に鑑賞するのでしょう。
 私などはワイドでもないモニターでPCの音源での鑑賞になるのですから、借りてくる気にもなりません。
 せいぜいテレビのアニメくらいしかまともに「鑑賞」など出来る環境ではないです。
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by je2luz | 2012-02-23 11:05 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2012年 02月 22日

熊野の旅 七里御浜で食べられそうな物

 七里御浜は元来松原です。
 今では・温帯帯性の雑木林になってしまっています。
 下は細かい砂利です。
 河口付近とかでほんの少しだけ砂に近いところがあるだけで、ものすごく水はけが良いところです。
 長年掛かって植物が自分たちで腐葉土などを作り出して少しずつ住み良くしてきたようです。
 植物で覆い尽くされた部分は天気が続いても少し掘れば濡れています。
 日照りになればどこまで乾くのやら…
 おそらく植物はうんと根を下ろしているのかと思います。
 でも、深く入って行けば潮気があるだろうし、大変なところですね。
 毎日潮風は吹くし…
 高波の時には波が来る場所もあるし…

 そんな七里御浜の防風林の中には色んな植物がありますから食べられそうな物も生えています。
 暖かいのですし東から南の開けているのだし…
 山草採りに向いている地形・気候なのですが、土がないというようなところで潮風も強いので野山のような訳には行きません。
 今の時期、足元を眺めながら歩いて目につくのは…
 「浜大根」「ヨモギ」「オオバコ」「つやブキ」位の物ですね。
 場所によっては「ワラビ」と「ゴンパチ」は出てきます。
 土筆とか蕗の薹はほとんど出ないでしょう。
 やっぱり山草は山の方が良いようです。
 同じ海岸でも砂利が積み上がったところと、陸が削られたところでは違いますからね。
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 こいつが「浜大根」と呼ばれている物ですが、どう見ても栽培種の大根が野生化した物みたいです。
 葉っぱの根元が紫っぽいのとか、葉っぱにとげとげが多いのとか色々あるようです。
 採って食べてみる気にはなりませんが、栄養分の多そうなゴミなどの多い場所では生き生き元気です。
 もうすぐ、普通通りの「大根の花」を咲かせます。

 ヨモギやオオバコを天ぷらにして…この大根で大根おろしを作って…
 メニューとしては成り立ちます。
 誰か作って食べてみてください。
 ことに「浜大根」の方をよろしくお願いいたします。

 
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by je2luz | 2012-02-22 10:02 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 21日

熊野の旅 錦の御旗

 宮さん 宮さん お馬の前に
 ひらひらするのはなんじゃいな
 あれは朝敵征伐せよとの
 錦の御旗じゃないかいな
 とこ トンヤレトンヤレ トンヤレナ

 と言うことで、「錦の御旗」という物はものすごく大変な代物だったようです。

 この「錦の御旗」てえ物が、ここ熊野まで昔は来ていたのだとか…
 「紀伊続風土記」なんて書物には、春の花の窟神社の祭には毎年朝廷から「錦の御旗」が献上されていたなんて載っているのだそうです。
 それが、ある年の洪水で熊野川が増水し流されてしまったのだそうです。
 それ以来、「錦の御旗の献上」がなくなったのだとか…
 そして、今ではその名残で綱の途中に縄で作った旗らしき物を取り付けているのだそうです。

 一度流されたからって来なくなったと言うのも…
 同じ物をたらい回しにしていたの???
 出発地はどこなの???
 古文書などに触れることもないし、触れても読めませんから私には調べようがありません。

 この「錦の御旗献上」を復活させるイベントがあるようです。
 献上されていた当時の行列を再現するのだそうです。
 人数は120人だそうです。

 日時は10月21日(日)
 配役は 花の姫 花装束 御幡の使い お綱引き行列 など
 行列コース 産田神社ー歴史民俗資料館ー花の窟神社ー七里御浜
 公募人数約100人
 募集期間 2月1日 ~ 6月1日
 実施主体 花の窟錦の御幡献上行列実行委員会

 だそうです。
 連絡先など分りませんが、市役所の「観光スポーツ交流課」でも分ると思います。
 熊野市役所の代表電話は 0597-89-4111 です。
 主役級にはなれないかも知れませんけどね。
 「当時」とは何時なのかも聞いていません。
 熊野古道の貸衣装などは平安時代風の物があるようですがあんなのでしょうかね?
 何しろ下々のお遍路旅ではないですから…
 「かんとべえ」なんて関東の百姓ではなく、都人です。…それも朝廷につながる人たちだったのでしょうから…
 どういう訳か「花の窟神社秋のお綱掛神事」と日にちがずれています。
 神社とは別なのでしょう。
 お綱掛の方は10月2日です。
 毎年行われるかどうかも不明ですから、今年来ておいた方が良いかも知れません。


 
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by je2luz | 2012-02-21 12:12 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 20日

熊野の旅 春の光

 冬至を過ぎ、太陽が復活してからもう二ヶ月です。
 つまり、最盛期までの1/3を過ぎたと言うことです。
 寒波が次々やってくるので寒い日が多いですが。陽の光は随分強くなりました。
 日だまりではひなたぼっこが暑いくらいになっています。

 海水温が一定しないようで、寒い朝にはあちこちで湯気が昇ったりしています。
 太地の梶取岬のあたりが水面から浮いて見える現象も起きています。
 そんなのを見ると真冬なんですけどね。
 太陽が強くなってから、地球が暖まるまで少し時間差があるそうです。

 ミカンというやつは隣の「年中ミカンの採れる町・御浜町」でなくても、大体年中出回ります。
 一番食べよい「温州」が終わり、「ポンカン」に代わり。さらに「八朔」だとかの晩柑類が並んでいます。
 でも…
 昔なら春になると店に並んだミカンが近年は並びません。
 その名は『春光柑』という物です。
 なんだかこの辺だけで作られていた品種だとか…

 色は薄緑色
 大きさは夏みかんより小ぶりで少し平たい
 中の小袋は薄くて身が少なめ
 味は酸っぱくなく余り甘くない
 おいしいかと言われると少し首をかしげる物でした。
 だから、人気が出なくて出回らなくなったのでしょうね。
 今の若い人などは見たことも聞いたこともないミカンでしょう。
 多分、どこかの農家のミカン畑の片隅では生き延びているのでしょうけどね。

 一時期姿を消しかけていた「ネーブル」が復活しているし、リンゴの方でも「インドリンゴ」なんてのも見かけるようになってきましたが、この「春光柑」を食べる機会はもう無いかも知れません。
 これを覚えている人も、もう高齢者になっているはずですからね。
 と言うことで…
 当然のようにこのミカンの写真はありません。
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by je2luz | 2012-02-20 09:23 | 熊野 | Trackback | Comments(1)