人気ブログランキング |

LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ

<   2011年 11月 ( 31 )   > この月の画像一覧


2011年 11月 30日

熊野の旅 たえだえに…

 冬になってきました。
 南国と言っても朝晩の山間部は冷え込んで、「霜」まで降りる季節なんです。
 暖かすぎて伸びすぎた冬野菜の葉が「しもやけ」になって縮んできました。
 この霜が降りて味がますのが「ネギ」なんですが、我が家の庭には霜は降りませんがら味が出ないんでしょうね。
 でも、よく育ちます。

 冬になると…
  あさぼらけ うじのかはぎり たえだえに あらはれわたる せぜのあじろぎ
 なんてのが何となく浮かんできます。
 私は宇治川の朝霧が立ち登るのは見たことがありません。
 でも、この辺でも寒い朝は水面の温度と空気の温度の差からきりが立ち登ることがあります。
d0045383_9465897.jpg

 七色ダムの川霧ですが、気温の落ち込みが少なくてもやもやしたものですね。
 それに、こんなに日が昇ってからではねえ…
 もっと真冬だと、熊野灘から霧が立ち上ります。
 朝が苦手…
 余程のことが無い限りカメラを持ち出して…なんて考えません。

 こんなのを見ると、「やっぱり冬なんだなあ…」と思いますね。
 夏だって、霧は一杯立ち上るし…
 秋だって…
  むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ
 なんてのがあるくらい風情のある霧が立ち上るんですよね。

 やまぎわに くものたなびきたる …
 なんてのも「霧」なんでしょうね。
 「いとおかしい」かどうか分りませんが、蛇のように高い山の中腹をうねる霧も見事ですよ。
 スカイツリーよりは紀州の峰峰の方が風情があります。
 高さはよく似たものなんですが…
 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-30 09:59 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 29日

久々の写真展示

 古道通り・熊野市の元メインストリート・木本町本町通りの中ほどに、「お休み処 おかもと」というのがあります。
 普通のお宅なのですが、「古道通りの会」なんてのが借り上げて色んなものの展示と休憩所を兼ねた場所にしています。
 私の写真も何度かここに展示させて貰っています。
 普段か近所のおばちゃんのたまり場になって賑やかそうです。

 ここを管理している「古道の会」なるものは、当然のように「熊野古道世界遺産指定」に付随して出来てきたものです。
 投書は三重県が随分後押ししていたようですが、いつもの事ながら役所の方も段々熱が冷めてきます。
 今では三重県のキャッチフレーズは「『美し国おこし・三重』なんてのに変わっています。
 「美し」は「うまし」と読むんだそうです。
 県ともなると、市と予算レベルが違うので作るポスターも桁が違います。
 立派なポスターも作って大々的に動き出していますが、何年間の計画なんでしょうね、
 もちろん、この辺も三重県ですからこの『美し国』に入っていますが、「熊野古道」のキャンペーンに比べれば極端に重要性が下がります。
 「伊勢神宮」いや、「神宮」の「式年遷宮」を控えていますから、当然のように重きはそちらになります。

 と、言うことで、熊野古道の会に下ろされてくる補助金も激減しているようです。
 このような会はそうした補助金が無いと動きが取れなくなってしまうことが多いです。
 今式で言えば「NPO」みたいな活動で運営では「NGO」の反対みたいなものですからね。
 
 今回のは「作品展」ではなく、皆さんの愉しみ用に…という中味です。
 「2011木本町敬老会」の写真です。
 二・三人ずつの顔写真の羅列です。
 サイズは2L判…ほぼ全員のお顔が並ぶはずです。
 12月9日から1月8日までかな?
 終わればモデルさん達が持って帰って良いことになっています。
d0045383_954833.jpg

 最高齢の出席者は「102歳」のこのおばあさんです。
 息子さんもこの敬老会に出ておられます。
 「橋の渡り初め」は三代そろえますが、親子で敬老会なんてこっちの方が珍しいでしょう。
 なにしろ、敬老会に出てこられるくらい元気と言うことですからね。
 これはめでたいことですね。
 私もこのようにで行くならまだまだ「若い衆」でしょう。

 こうした写真がずらりと並んだ展示です。
 地元の人なら「あのばあちゃん元気なんだ!」とか「老けたのう…」などという話題にはなるでしょう。
 私としては同じ時の写真なら、「木本高校・吹奏楽部」の女の子の写真の方を展示したいくらいなんですが…
 敬老会に呼んで貰えるのが77歳から…高校二年生と三年生が17歳から18歳…
 敬老会新入りとこの子達は同じ年回り?
 ん! 102歳も???
 占いではよく似た性格????
 それよりも・・・
 「沙羅双樹の花の色…」
 「命短し恋せよ乙女 赤き唇あせぬまに…」
 でしょうね。
d0045383_1034054.jpg


by je2luz | 2011-11-29 10:09 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 28日

熊野の旅 集落再結集へ 波田須 11月

 熊野市内でも高齢化が一歩前を進んでいる波田須地区では、集落を再結集させようと色んな試みがなされています。
 官主導の物や民主導の物…まさに色々です。
 あっちが出っ張ればこっちが引っ込む…なんて事もあるようです。
 それでも、何もしないままで過疎と高齢化が進んでいる地区よりは良いでしょう。

 先月に引き続き波田須を蘇らせようというグループの集会に顔を出しました。
 今回は消防署と新鹿の開業医井本先生の協力を得て「救急救命処置」の講習会でした。
 出席者は30名ほど…
 急峻で隣に行くのも考えるような波田須ではこれだけ集まってくるのは大変なことでしょう。
 老若男女…と言っても若い方は二歳の女の子からいきなりそのお母さんまで飛んでしまいましたけどね。
 たしか、波田須にも高校生の女の子も居るとは思うのですけどね。
d0045383_9284484.jpg

 先月の末頃にも書きましたが、このグループと言うか会というかは何かを決めなくてはならない集まりではありません。
 みんなが集まって色んなことやっていれば集落が段々まとまってくるだろう…と言う物です。
 これで、二回目…
 一回目から色々言われたこともあるようですが、こんな事は雑音に耳を貸さずにやるしか無いでしょう。
 押しつぶされても駄目、対決しても駄目…
 「それなら!」なんて気色ばんだら初期の目的から離れてしまうでしょう。
 下手なたとえをすると叱られますからたとえ話はやめておきますが、FM波の雑音にはスケルチなんてのがよく効きますが、世間の雑音には即効性のある物は無いようです。
 根気強く地道に活動するのが一番でしょう。
 楽しくなくては人は来ない…楽しすぎると外から見ると面白くない…
 これからが大変でしょうね?

 波田須の集会場は国道311号線のすぐ下にある明るい建物なんですが、ほんの少しの国道からの道はお年寄りには向かない急坂なんです。
 最も旧波田須小学校だって今回使った旧児童館だって坂道です。
 平地なんて無い所ですからねえ…

 「救急救命講習会」という非常に真面目で時間も掛かるものにあれだけの人が来ると言うことは大きな出来事でしょうね。
 最後まで2時間あまりの講習を受ければ「資格証」?が交付されるのだそうです。
 どういう訳か期限が三年だそうです。
 期限まであると言うことは???
 今のところは市町村で出している証明書らしいです。
 波田須で30人ほど誕生すると人口比では最高かも知れません。
 なのに、今のところ波田須には「AED」が配備されていません。
 AEDって、自動体外式除細動器 (automated external defibrillator);なんて難しい名前なんですね。まあ、漢字だと意味が分りよいですが覚えにくい…
 波田須には小学校も保育所も無い…だから「AED」が無い…
 でも、波田須は高齢者が多い、消防署からは遠い…本当はAEDが最優先で配備されるべき所でしょう。
 この講習会が配備を早めるきっかけになれば良いのですがね。
 「自分で買え!」では…

 あったら困るのですがこの講習会が役に立って誰かが助かったら…
 会の活動も見直されるかも知れません。
 「非常事態」だと「おまえの世話にはならん!」なんてのが消えますからね。
 そして、「おまえに面倒は見やん!」とも言いませんから…
 これが即効薬だけど、使うようでは困りますね。

 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-28 09:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 27日

熊野の旅 台風12号はまだ…

 台風12号からもうすぐ3ヶ月になります。
 日常生活は普通に戻ったように見えますが、被災した場所は事実上何も回復はしていません。
 「とりあえず」という応急処置はされて居る場所が増えただけです。
 先日、七里御浜の堤防破損箇所で載せた写真のような巨大な土嚢がそれこそ無数に使われているのです。
 復旧に向けては、前回も巨額な補正予算を計上しましたが、12月定例会のも30億円にのぼる補正を計上します。
 併せて50億にもなる災害復旧費…
 年度内どころか来年度でも使い切れるはずがありません。
 これは、災害が起きてすぐから私などが言ってきたことです。

 やられた所は気の毒なんですが、もはや「土建屋」も激減しているし、臨時の人夫を引き受けていた百姓のおじさんおばさんも高齢者で使えません。
 いや、「土方の手間取り人夫」にも出られないくらいですから、集落出会いでの「水路復旧」「農地回復」も出来ないのです。
 むかしなら、「材料支給」で直ったはずの割と小規模な被災箇所も全部役所の仕事になっていますから、とてもじゃないが土建屋が足りません。
d0045383_101695.jpg

 この端正な姿のダムは『七色ダム』です。
 このダムと下流の『小森ダム』の放水が流域の水害を大きくしたと言われていますが、立証など出来るはずも無く…
 「七色ダム」は流域のでの山崩れが少なく、洪水で濁っても割合と早く水が澄む物です。
 今回は上流でものすごい数の山崩れが起き、細かい赤土の粒が流れ込んだので三ヶ月ほど経っても「黄土色」に濁ったままです。
 このダムに流れ込む川の水はすぐに澄んで居るのですがダム本体は変わりません。
 流木もまだ浮いたまま片付けるのが何時やら変わりません。
 自分所だけさっさと片付ければ下流の手つかずの被災地の神経を逆なでしますからやらないのかも知れません。
 何しろ、差し出した義援金の500万円の受け取りが保留されているくらいですからね。(熊野市はさっさと受け取りましたが…)

 このダムも築後40年を超えたはずです。
 どう見ても老朽化しています。
 でも、30年の更新期を50年に延ばして居ますから、法的にはまだ40年間は「電源開発」の好いたようにすれば良いのです。
 おまけに、その時の法改正で、「更新期」でさえ地元は意見すら言え無くされているのです。
 ある意味では「原発」以上に怖い改正がされた代物です。

 戦後の復興に故郷の山川、果ては海岸線まで犠牲にして協力した吉野熊野の先人達…山間の墓地の中で悔やんでいるかも知れませんね。
 一部は「無縁様」になって居いるし、墓ごと都会に持って行かれた人も多いでしょう。

 「熊野川総合開発」はダムを造るだけでは無く、この流域を振興させるという国家プロジェクトだったはずなんですが…
 今ではこのダムを管理するために有馬町に駐在した大勢の「電源職員」もほとんど居ません。
 「合理化」で人が居なくなり、儲かるのはそのシステムを納めている業者だけです。

 いつの世も田舎はお国のために積極的に協力し、後で泣きを見るのかも・・・
 大昔は百姓が戦にかり出され、米は略奪され、近代に入ってはお国のために夫や息子を戦地に送りお寺の鐘まで供出し、戦後はお国の復興と都会の繁栄のためにダムを作らせ故郷を壊し、はては子供達を働き手として全部輸出し…
 限界集落から廃村になっても「ダム」はのこり、お国のために働き続けます。

 
熊野市周辺地図です
 


 

by je2luz | 2011-11-27 10:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 26日

熊野の旅 どぶろく祭 3 

 「どぶろく祭」に行って思うことなのですが、いかにも日本人らしい光景なんです。
 日本人って基本的に多神教民族ですし、神道でも仏教でも耶蘇教でも回教でも果てはオームでも…何でもござれです。
 最近は少しうるさくなって登録しにくいようですが、「教義」「教祖」「信者」が居れば『宗教法人』という、税法上もすごくありがたいお墨付きが貰える国ですからね。
 もちろん、そんな登録なしでも「宗教」を名乗るのは自由ですしね。
 と、言うことで、一般的に、何様へでもお参りするけど、取り立てて何様がありがたい訳でも無い人が増えています。
 江戸時代などなら戸籍が寺にあったようなものですから、所属だけは分っていたのですが、今では田舎から出て行って都会に暮らす人には自分の家が何宗なのか知らない人も多いようです。
 かと言って、「独立宣言」も無し…
 そのくせ、「葬式」はお寺でする物と決めてかかっています。
 適当に見繕って参ったことも無いお寺の聞いたことも無いお経に送られる…
 まあ、「お経」ってのはあげて貰うだけでありがたく、「成仏」出来るなんて「お経」の中に書いてありますから、それでも良いのでしょう。
d0045383_10324071.jpg

 『どぶろく祭』は『大森神社の祭』なんです。
 でも、ほとんどの外来者には『イベント・どぶろく祭』ですね。
 神社に立ち寄って拝む人は半分も居ませんね。
 まっすぐ、『神社横の広場へ直行です。
 地元の人はちゃんとお参りしてしているようですけどね。
 だって、「大森神社」は氏神さん・鎮守様ですからね。
 日本の風習ではここの人は自動的に「氏子」になっちゃうんですから…
 これも説が適当に分かれて…
 産まれた土地の氏神さんに所属するという説と、居ま住んで居る所の氏子なんだというのがあります。
 最近では、お祭りの主催者・実行委員などは後者の説を便利に使います。そうしないと祭が出来なくなりますからね。

 今日の写真のように中心ががらんどうの会場風景はテレビや新聞には載りません。
 カメラマンは結構神経を使いますからね。
 左手の木々の所が「大森神社の社叢です。この距離でもお参りに行かない人が居るんです。
 もっとも、氏神様って絵のは「何に効く」なんて無い物がほとんどですね。
 この「社叢」は私の手元の文化財リストにあったけど「どぶろく祭」は文化財では無かったような気がします。
 今はどうなのでしょう?

 来年もこのお祭りは11月23日です。
 必ず「お抱え運転手」を付けてお参りに来てください。
 お参りのついでに「どぶろく」を飲むのでしょうからね。
 「飲むなら乗るな!」の立て札が並びます。

 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-26 10:31 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 25日

熊野の旅 どぶろく祭 2 意外と

 今年のどぶろく祭…道は駄目だし、天気もおかしいし…人出は少なめがったのですが、その割に売店は賑わっていたようです。
 今年は「どぶろく」の飲み放題指定の湯飲みが値上がりしたそうで、1000円だったのですが、焼き物の湯飲みは早々と売り切れて紙コップが急遽売られていました。
 ここのどぶろくは神事ように認められた物で、酒税法がうるさかった頃でも作ることは許されていましたが、外へ持ち出すのは原則駄目なんらしいです。
 熊野市はこれを「特区」にして「どぶろく」を売り出す魂胆のようです。
 でも…
 「でも」がついちゃうのは「どぶろく祭」の焼酎では無く、酒造会社に委託して作る「どぶろく」を売るつもりらしいのです。
 育生のどぶろくは祭の「とうや」が今年の新米で仕込む物で、「杜氏」が居る訳ではありません。
 毎年この時期に一回だけ仕込むので、味の安定性もありません。
 そして、熊野市には「酒蔵」も無ければ「醸造所」もありません。
 なのに…
 「地ビール」ならぬ「地どぶろく」を作って売り出そうという計画なんですからね。
 もちろん、お役所主体で試作なども「酒税」ならぬ「血税」をつぎ込んでいます。
 で…
 誰を利するのでしょう???
 まあ、熊野市営で醸造所を作らないだけましでしょうかね。
 その「試作品のどぶろく」を去年の暮れに飲む機会がありましたが、片方は甘くて酒好きには好まれない。もう一方は辛くて「どぶろくらしい」ものですが、一般受けしない…て感じでした。
 どうせたくさんは売れないんですから、マニア好みの方が言い訳しよいかも…
d0045383_13383864.jpg

 写真の焼き物の湯飲みを買えば会場内で「どぶろく飲み放題」になります。
 お酒を好きな方なら、湯飲み代を含めて1000円ですからすぐに元は引けるでしょう。
 おつまみは持参するか会場で「おでん」などを買うことになります。
 おなかがすいた方は「サンマ寿司」「めはり寿司」の他に「ゐざさ寿司」なんてのが売っていますし、私が食べた「猪汁」なんてのもあります。
 そうそう、赤倉の「アマゴの塩焼き」もありますね。
 上天気で暑いより、寒い方が売れるようです。
 飲まなくても、何かを食べれば暖かくなりますからね。
d0045383_13512649.jpg

 このお祭りはそこそこ有名ですから、新聞社やテレビの取材が入っています。
 テレビという物は「絵になる」と言うことが優先しますし、カメラマンの好みがもっと優先します。
 甲子園の野球でも一杯いるスタンドの応援の中でカメラマン好みの娘が大写しになりますからね。
 大森神社でもなんだかそんな感じもしましたね。
 どちらの放送局かは知りませんけど…
 私はアマチュアですから「好みと偏見」で撮影します。
d0045383_13515065.jpg

 この左の人・・・
 地元の新聞社の人で、いつもこうした取材ではぶつかります。
 ほんの少しお酒の好きな方で、取材が終わると「一杯」というパターンなのですが…
 かわいそうに、この日はイベントも多いし家族も一緒に来てくれなかったとかで、せっかく湯飲みは買ったのにどぶろくを口に出来ないんだそうです。
 記念品代わりに湯飲みが千円ではちょっと高いですね。

 今年も大森神社と駐車場の間には・・・
 「飲んだら乗るな」 「乗るなら飲むな」 「飲酒運転厳禁」 と言った看板がずらりと立っていました。
 「どぶろく祭」でも「飲酒運転特区」は貰えませんからね。
 昔なら、他所からは来ないし、田んぼに落ちるのは自己責任で済んだでしょうけどね。
 普段は駐在さんしかいない所ですが、この日は本署から来たらしくお巡りさんが何人か居ましたね。
 これも昔なら、「村の駐在さん」もお酒を飲んで…だったはずなんですが、住みにくい時代になった物です。

 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-25 14:06 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 24日

熊野の旅 どぶろく祭 1 やっぱり…

 昨日は予定通り、育生町大森神社「どぶろく祭」に出かけました。
 もちろん、札立も一の水も通れないので五郷廻りです。
 天気は今にも降り出しそうな厚い雲…
 神社に着いた時には神事が始まる所でした、
 神社の中は地元の人たちですから取り立てて少ないなんて事はありません。
 少ないとすれば、「昔に比べて」でしょう。
d0045383_939287.jpg

 神事が始まる頃には少しずつ降り出した感じでした。
 うっそうとした釘木立の中ですから、少しくらいの雨では落ちてきませんけどね。

 一般客、育生以外の人のお目当ては、この神事でも、神事の後で拝殿で戴けるありがたい御神酒でもありません。
 横の広場で飲める「濁り酒」「どぶろく」なんです。
 ほとんどの人は神社に立ち寄ることも無く、駐車場から広場に向かいます。
 『大森神社の祭りに付随したどぶろく』では無く、『イベント・どぶろく祭の呼び物』になってしまった感じです。

 今年は、道路の関係で20~30分余計に掛かる…元々の時間の倍近くになると言うこともあり、予想通り市の中心部からの客は少なかったですね。
 去年はきれいに晴れたのに今年は降り出しそうな天気・・・人出が減って当たり前ですね。
 去年の半分??
 でも、寒いので「猪汁」「おでん」なんてのはよく売れていました。
 私はこうした場所ではなにも食べないのですが、今年は寒いし「猪汁」をいただきました。
 久しぶりに「いのしし」を食べましたが、精力がつくのかどうかは分りませんが、暖かい「豚汁」の親方のような「猪汁」はおいしかったです。
d0045383_9515877.jpg

 かわいい娘が売っているから買った訳ではありませんよ。
 他の売店だって、元かわいかった元娘なんかが一生懸命がんばっていました。
 この「猪汁」も今はまだ猟師がいるので口に入りますが、10年もすると、「猪なら毎晩庭先に来るけど…」と言うことになりまねません。
 もう。それに近い状態になってきていますからね。

 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-24 10:00 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2011年 11月 23日

熊野の旅 江戸時代 観光旅行

 熊野市史には江戸時代などの観光旅行についても少し触れられています。
 私達は「蟻の熊野詣」などと言って、観光客は熊野を目指すように思わされていますが、熊野界隈の人も結構外に出かけています。
 人口が今同様少ない所ですから収支は入り込みの方が多かったのでしょうけどね。
 歴史の方で習ったように、その時に役立ったのが「講」だったようです。
 この辺から「熊野三山」「大峰山」なんて今の世界遺産・「紀伊山地の霊場とその参詣道」で一緒くたになっている所へお参りに行くのも日帰りなんてのでは無いですから、「講」などを組んで代表者が「代参」したりしたようです。
 「ちょっと那智山へ初詣に行こうか…」なんて事は無理ですよね。
 木本から那智山まで40Km・10里くらいですからね。一時間に一里半歩いても36時間…三日あまりなんです。
 結構な旅ですよね。野宿って訳にも行かないし…
 それでも、熊野三山や大峰山だけでは無く、信州「善光寺」、浪速に登って「芝居見物」までした記録があるようです。
 一時期は「農協」が団体を組んであちこちに連れて行きましたが、日本人は物見遊山が好きなようです。

 昔の熊野の旅となれば、「餞別・せんべつ」が付き物ですね。
 古文の方で「餞別・馬のはなむけ」などと言うのが出てきたのを思い出す方もおられるでしょうが、私が子供の頃には修学旅行に出かける子供に親戚や近所の人から「餞別」が来た物です。もちろん、新婚旅行や普段の家族旅行でも餞別が来ました。
 餞別が出ると言うことは、「土産」を買って帰らなくてはなりません。
 今でもおばちゃん連中に見かけられるのですが、旅行に行って観光地を見ないで、「まずは土産物を…」という事になってしまいますし、江戸時代ともなるとバスでは無し、別送の宅急便も無し…
 そのためにも、目的を「お参り」にしておけば「ありがたい御札」で済みますよね。
 それに、お殿様やお代官様にも「お参り」は止められませんからね。

 その点では「熊野の御札」はものすごく御利益があることになって、吉原の女郎さんにものすごく人気があったとか…
 この「熊野誓紙」でどれだけの江戸の男が騙されたやら…
 これを売り歩く「熊野ごぜ」なんてのが江戸をうろついて…
 果ては目の開いた「ごぜ」がいて「ござ」を持って…
 まあ意味の分る人だけ分れば良い話ですね。
 この「熊野ごぜ」はけっして熊野出身という訳では無く、女一人が江戸で食いつなぐために身を落としたのも多かったようです。
 何しろ「人類最古の職業」と言われるくらいですからね。

  江戸時代の旅の費用の多くは「宿代」です。
 江戸中期の記録では北山方面の宿が結構高く、米に換算すると三升にもなったようです。
 夕飯と朝飯、お弁当を入れても三合から四合ですからねえ…
 京都より高かったとか…米が採れない所だから無理も無いのかなあ・・・
 それでも山賊に身ぐるみ剥がれるよりは…

 そして、そうした旅の経路では、木本から紀伊長島までを船で…というのが出てきます。
 これは昭和30年代終わりまでの「木本ー尾鷲」の巡航船と同じ事ですね。
 松本峠・大吹峠・逢神峠・・・八鬼山峠・馬越峠…平地がほとんど無く登ったり下りたり…おまけの遠回り…
 船賃が掛かっても海路の方が…でしょうね。
 これも磯伝いでもすぐ外は熊野灘…瀬戸内とは違いますけどねえ…

 この辺りにも「巡礼の碑」だとか「無塩さんの地蔵」なんて道ばたにあります。
 「旅に病みて…」って事でしょうね。
 命がけでお参りに来た「熊野三山」もすいすいと来られるようにありました。
 その分こちらからもすいすいと「USJ」とか「TDS」だとかに行けます。
 熊野古道歩きの人はお金を落としません。まさか今の時代、「伊勢の古市」をやることも出来ませんしね。
 こちらから出かける人は一杯お金を使います。
 と言って、こっちの人がお金持ちって事では無いですよ。
 観光の構造が違うんです。
 せめて、お賽銭とか御札代をうんと弾んでください。
 ??? 宗教法人はほとんど納税無し???
 まあ、熊野市には「熊野三山」はありません。
d0045383_93239.jpg


 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-23 09:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 22日

熊野の旅 江戸時代の飛鳥の行事 後半

 さて、江戸時代の大又村坪田家の年中行事も秋以降になります。

 8月 1日は「八朔の祝賀」てえのがあったようです。
 これは、「たのみの朔日」「秋の祝」などと言って餅の贈答があったようです。その餅も「一重」と書いてあるのですから、私達がお礼に行く時同様、重箱で持って行ったようです。
 8日から彼岸に入ったようです。もちろん旧暦ですけどね。
 11日は彼岸の中日…当然のように先祖の供養を行います。そして、「ここでも「餅」を搗いて配っています。このときは本家の方から配ったようですが、村内からは「牡丹餅」「松茸」などがお礼に届いたようです。
 「松茸」は旬の物ですが、今のような超・高級品では無かったはずです。
 14日は「田の神の祭り」
 15にとは日待と言って村中休みだったそうです。

 9月は稲刈りの季節で農繁期です。
 坪田家では文久三年には8月27日から稲を刈ったんだそうです。旧暦ですから今なら9月の中頃・・・当時としては早かったでしょう。
 この時代でも9月9日の「重陽の節句」とか「氏神様へのお参り」にはお休みになって餅や赤飯で祝い節句の祝儀の贈答があったと記されています。

 十月は取り入れが終わりそのお礼や祝いの行事が多かったようです。
 2日には「玄猪の御祝」と言って夜にはかない一同で「善哉餅」で祝ったそうです。
 これって、「私達の頃の「猪子」でしょうかね?
 「いのこ餅」は塩味の粒あんを餅の外に塗りつけた不思議な物です。
 そして3日にはその餅を村の衆が持ってきたそうです。

 十一月になると、1日に「飛鳥神社の祭り」があったようです。
 この祭り、新暦になってからの私が子供の頃には12月1日になっていました。季節的には旧暦の11月1日頃と同じで、うんと寒くなり完全に稲刈りや後片付けが終わっていたのです。
 今ではこれが11月3日の文化に日になっています。
 稲の刈り入れが早くなりその頃にはもう農閑期に入りますからね。そして、日にち制では勤め人がお祭りに出られませんし、勤め人が居なかったら、神楽もなにも出来ませんからね。
 江戸時代のこの祭、二日の日に「山車」が練り歩いた…らしいのですが、私が子供の頃には「山車」なんてのはありませんでしたね。
 今のような道路がある訳では無いですから、たいそうなものでは無かったはずですけどね。
 そして、「年貢の納め時」がこの時期だったようです。
 当たり前ですよね。元々年貢は米だったのですし、今と違いお役所の年度も暦通りだったのですからね。

 十二月は一番最初に書いたように、もう正月準備の月なんです。

 こう書いてみると、何とも「餅」の好きな村ですね。
 年がら年中「餅」なんです。
 坪田家ほどの大農は分るにしても、村人が年中餅を搗いたり口にしたり…
 飢饉でも無い限り「紀州藩奥熊野大又村」の生活は意外と楽だったのかも知れませんね。
 それと、「お祭り」の時は庶民でも「米」を食べたりしても良いという特例があったりしましたから、政が多い方が何かと村人にも良かったのでしょう。
 いまでは、特例なんかはないし。行事の面倒くささが先に立ったりしますね。

 不思議なことに「寿司」が熊野市史の中には取り上げられていません。
 それと、「餅ほり」もありませんね。
 私が子供の頃の経験からすると、「寿司」と「餅放り」が大好きな土地柄なんですがねえ…
 残念ながら、この「晴雨日記」をわざわざ調べるほどの興味も無いし、例え見せて貰ってもミミズが這い回った続け字では読めません。せめて楷書にしてくれないと…
 寺子屋の子供が書いた絵日記でもあれば…
 その当時の寺子屋には夏休みの宿題なんて無かったでしょうしね。
 多分、寺子屋は「大義院」にはあったと思います。
d0045383_10234861.jpg


 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-22 10:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 21日

熊野の旅 お盆・正月以外には…前半年分

 ちょっと気になるのは、「熊野市史」には大農家で庄屋筋の坪田家の年中行事などを「庶民生活」として扱っていることです。
 たしかに、公家でも武家でも無いのですが、いくら田舎の大又といえども「坪田家」は小作人などの庶民とはいささか違ったのでは無いかと思いますが…
 この「晴雨日記」に書かれたことから、行事や本当の庶民の生活も推し量れるでしょうけどね。

 お盆・正月…と来れば、「彼岸」など他のがどうなっていたかも書かないといけませんね。

 彼岸は2月(旧暦)で、三日彼岸の中日には今と同じように「墓参り」と先祖の供養をしたようです。
 ・・・では無く、今でも続いていると言うことですね。
 そして、この彼岸にも村内の百姓から「彼岸の餅」や「お茶の子」を貰ったようです。
 この風習も昭和の中頃までは生きていました、
 それに、この辺でおやつ・休憩を「茶の子」というのはこの日記で言う「お茶の子」お茶受けのお菓子と同じ意味なのですね。

 三月には桃の節句があり、このときにも近村の百姓から「白酒」「祝餅」を貰っています。
 この桃の節句の習慣も私が子供の頃には残っていて、三色の菱餅をお寺や本家筋に持って行きました。
 そして、この節句が終わると4日から本格的な農作業に入ったそうです。

 四月は初夏になり苗代仕事など水田が忙しくなるようです。
 なんと8日の「釈迦誕生会」…「花祭り」にお茶の子を供えるのは良いのですが、このときにも村内の百姓から「お茶の子」を貰っています。
 まあ、色んな面で面倒を見ている大百姓・庄屋さんなどには普通の百姓や小作人はきちんとしなくてはならなかったのでしょうし、日記には書いていませんがお礼に来た人にはそれなりの返礼をしたでしょう。
 私が子供の頃。こうした「お礼廻り」に行くことは大切な「小遣い稼ぎ」でした。

 五月は「端午の節句」です。
 お祝いを貰っていますが、これも今同様「おさすり」「粽・ちまき」ですね。
 前にも書きましたが、「おさすり」は関東などの「柏餅」みたいな物で茨の一種の葉っぱで作ります。
 「粽」は男のシンボルで「おさすり」は女性のシンボルだと聞きました。
 形と言い、名前と言い…多分本当でしょうね。
 ???ちょっと食べるのに抵抗が出たかな???
 8日には「さなぶり」という田植えが終わったのを感謝する行事があります。
 これは結構全国であるし、今でもやっているようです。
 私が子供の頃には「さなぶりの運動会」てのがあって、小学校単位で集落主催の小運動会でした。
 時期が梅雨時なので雨の時が多かったです。

 六月になると百姓も一段落…
 「虫送り」があったようです。
 今では観光行事として「紀和町丸山千枚田」で復活させて行われていますが、私が子供の頃には飛鳥村では無くなっていて、祖父から話だけを聞きました。
 この頃にはお寺や神社でも「五穀成就」の祈願が行われたそうです。
 当然、農耕の民としては生活の中心、生命の源ですから行事の中心にあって当たり前ですね。
d0045383_10175013.jpg


 
熊野市周辺地図です
 

 

by je2luz | 2011-11-21 10:18 | 熊野 | Trackback | Comments(0)