LUZの熊野古道案内

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2010年 01月 31日

熊野の旅 明後日はお綱掛け・・・

 明日からは二月、「如月」です。そして、1日が今式の「初午だそうです。
 2日が「夫婦の日」と「花の窟神社春のお綱掛け神事」、3日が「節分」、4日が「立春」と、毎日毎日何かがある月です。
 春なんですねえ…
 この二月はじめの一連の「春」は、前景気をあおるような感じですね。
 実際は「寒」が明けても、寒さは今からと言う感じさえしますからね。
 それでも、冬至を過ぎて1ヵ月半ほどになっているので、日は随分長くなったし日差しも随分強くなりました。
 陽だまりでは春の準備の出来た草たちが新芽を出し始めています。
 季節風の少ない南紀では日向ぼっこが暑いくらいになってきました。
 それでも、「二月は寒い」と言う観念が強いらしく旅人はちっとも動きませんね。
 かく言いながら、私もちっとも行動しませんけどね。
 文章と言うものは、暦同様季節などは先取りするものです。
 この調子で動かないので、ますます書くことがなくなります。
 明後日は天気も大丈夫そうなので、「お綱掛け」に行って来ようと思っています。
 秋ほどは気候は良くありませんが、天気がよければ「七里御浜」ももう春ですからね。

 この間から、やっていた、「ブログのPDF化」がひと段落下と思ったのですが…
 DVDに焼くとかならこのままでいいのですが、ネットにアップしたら、一か月分を纏めたファイルが大きすぎて、消去されてしまうようです。
 貼り付けてある写真が多いのと。ブログにしては大きいのでサイズが引っかかりました。
 全体のサイズは問題ないのですが、写真の大きさを少し落としても追いつかないくらい見たいですから、1ヶ月をさらに分割するしかないようです。
 月によっては4つに分割するなんてことになるようです。
 厄介な作業です。
 そもそも、写真を一枚一枚ファイルサイズをダウンして貼りなおすなんて…2000枚くらいになるのでしょうかねえ…
 でも、何とかしなくてはなりません。
 リンクのバナーを貼っていたのですが駄目です。
 これをやっていると、夜更かしになって、『昼間の行動がますます鈍くなります。
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by je2luz | 2010-01-31 12:04 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 01月 30日

熊野の旅 やっぱり紀州藩

 昨日書いたように、ここは紀州藩で、隣は天領の十津川です。
 幕末辺りでは、領地の取り合いでは無く、イデオロギーの違い?で敵対関係みたいな形になっていたようですね。
 直接戦うわけではないので、しこりになることも無かったようですが、紀州藩は幕府の中核ですから、お殿様は長州征伐の大将をされたり、そのための兵・人足集めがこの辺の村までお触れが出たりしたようです。

 幕府転覆の直前の文久3年(1863)の夏には「天誅組」の騒動が起きていますが、その中には「十津川の郷士」も当然含まれていたようです。
 そして、吉野からこちらに落ちてきた「天誅組」の追っ手として飛鳥などからも人足などを出しているようです。
 郷士などに関しては、十津川村の古文書などにも名前など詳しいことはないかもしれませんね。少なくとも、表の書付の方ではややこしい政治情勢だったのでどうなっているのやら…
 そもそも、最終的には勝ち組の「尊皇派」なのに、「十津川郷士」と、一くくりで語られてしまうのですからね。

 私の周りでは、母方が檀家になっている、下北山村のお寺に「天誅組」が泊まったとかいう話を聞きました。
 殺気だった集団ですから泊めない訳にも行かず、おまけに隣の十津川の連中もいることだし…幕府と朝廷の両方から追討のお触れが出ているし…
 お寺も困ったでしょうし、母方の家も後で村長をするような家ですし、すぐ近所ですから困ったでしょうね。
 かわいそうだし、かといってかくまえるような人数でもないし…

 この事件がこの辺では一番大きな戦?みたいですね。
 日清・日露の戦争では戦死者も出ているようですが、一連の天誅組騒動では木本管内では死者は出ていないようです。
 桁違いに大きな被害を出したのは、「大東亜戦争」「太平洋戦争」でしょうね。
 これは、ここが重要とか何とか関係なく兵を集められましたからね。
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by je2luz | 2010-01-30 12:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 01月 29日

熊野の旅 竜馬は居ないし・・・

 日本の夜明け前…
 またまた人気沸騰の坂本竜馬が活躍した頃、この辺からは十津川村の郷士が京の都で活躍したのだとか…
 すぐそばとはいえ、向こうは天領でこちらは徳川御三家のお膝元、形の上では反対側ですね。
 薩摩や長州・土佐・肥後のように倒幕や明治維新政府で活躍した人の名前は浮かんできません。

 その幕末どん詰まりの慶応3年(1867)に面白いものを発見しました。
 秋の終わりの頃、歴史の教科書では見たことのある、「ええじゃないか」がこの木本でもあったそうです。
 今の「よさこいそーらん」よりも熱狂的に踊られたようですね。あんなふうに全体主義的は振り付けがあるわけではなかったようで、踊り狂ったようです。
 げに、流行り物と言うものはこんな「奥熊野」にも入ってくるものなのですね。
 そして、その年の記述には、「餅投げ」「銭投げ」があったことも出てきます。
 餅撒き文化はちゃんと江戸時代でも大きな行事だったようです。
 この年も飢饉だったそうですから、餅撒きなどは天の恵みに見えたでしょう。
 さらに、12月のはじめには「アメリカ人」が三人も木本にやってきたそうです。
 難破ではなく観光?のようです。
 一杯見物人が集まり、その当時は遠いところの代名詞に使われた「大又」の人も見受けられたと書かれています。
 ローカル新聞も無い時代でも、うわさの伝わるのは早かったんでしょうね。
 今のイベントでは「大又の人」を、見かけるほど近在の人は来てくれないのに…
 で…
 アメリカ人は赤鬼のよううだったそうです。
 私が子供の頃の「進駐軍」は大きいけど「赤鬼」には見えませんでしたね。 
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by je2luz | 2010-01-29 12:40 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 01月 28日

熊野の旅 御世は明治へ…熊野では…

 時代が江戸時代から近代政治体制に変わる「明治元年・慶応4年」にこの辺では何があったのかなあ…と、年表を見てみましたが、そんなにいい気な変化はなかったようですね。
 まあ、廃藩置県も後の話し出し、政権交代した去年の日本みたいなもので期待と不安が一杯って所だったのでしょうね。変化の大きさは今の政権交代とは比べ物にならないほど大きい代わり、情報は比べ物にならないほど少なかったですから、地方では何も分からないくらいだったのかもしれません。
 
 熊野三山にとってものすごく大きかったと思われるのは、この年の3月に発令された、『神仏分離令』でしょうね。
 熊野信仰は那智山に代表されるように、まさに『神仏混合』の典型的なものとして進化していましたから大変な出来事だったでしょう。
 まだ、熊野詣が続いていただけにかなりの影響があったものと思われます。

 元号が明治と改められたのが9月ですから、『神仏分離令』はものすごく早い発令だったのですね。堪能を中心とする「親政」…「天皇神格化」の流れがもう始まっていたのでしょうか?
 那智山の那智大社と青岸渡寺などは上へ下への大騒ぎだったのではないでしょうか?
 お寺と神社は建物も違うので宵にしても、信仰の対象になっている「那智の滝」の支配権もありますからね。

 世は目に字に変わっても、まだ「奥熊野代官所」はそのままだったようで、底お代官様の最低が不服だと言って代官所を襲う事件なども記録に残っています。
 何しろ親方の紀州藩のご威光、徳川家の権威がなくなったのですから、お代官様も大変だったでしょうね。

 木本にとって大きな変化は、『酒甚』、『喜田館』、『亀齢館』と言う三軒の旅館が創業したことかもしれません。
 私が子供の頃には三軒ともまだありました。
 そんなに大きな旅館ではありませんが、木造のいかにも旅館らしいものでしたね。
 一番先に廃業したのが「喜田館」でした。
 「亀齢館」ですが、ここは浜に面した別館を残し、本町に側の本館・玄関を新しくして「日観連」とか「政府指定」とかの看板が掲げられた次代にも営業していました。その後旅館と言うものが廃れていった時に天理教に買収され今では宿所になっています。
 そうなってからの建物には入っていませんが、その当時の昭和の改築の形は残っているのでしょうね。
 「酒甚」は何回か改装されたのかも分かりませんが、古い木造旅館の形のままで残されています。
 本町二丁目で熊野古道歩きの人たちのために看板が掲げられています。
 最初の頃は玄関も開けられていたのですが、最近は空いていないように思います。
 内部の写真を撮ろうと許可ももらっていたのですが撮っていません。
 入り口の土間なども風情のある立派なものですが、この、明治元年よりは新しいような気もします。

 この三軒が創業し、戦後まで営業を津図けるほど木本も賑わっていたわけです。
 そのほかにも、昭和34年の紀勢線全通くらいまでには、「よし住」「朝日館」「春風館」「清玉」「御浜館」…とても思い出せないくらいの数の旅館が営業していたのです。
 下は今ではガイドブックにも載る「酒甚旅館」です。
 残念ながら営業していませんから宿泊は出来ません。
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by je2luz | 2010-01-28 14:39 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 01月 27日

熊野の旅 十津川大洪水 本宮大社

 本宮大社は山の中腹にあり、急な階段を上って参拝します。
 会談もその周りもそれらしい雰囲気で、さも熊野三山の一つらしい雰囲気があります。
 社殿も古びていい雰囲気を保っています。
 しかし、その「本宮大社」は110年程前にはそこに無かったのです。

 明治22年9月20日(1889)に紀伊半島を襲った台風によって、十津川水系に大洪水が起きました。
 十津川から本宮に掛けて山が抜け、家は流され、そんなに人口も無いところで人家の流失360戸、死亡240人と言う大災害になりました。
 その洪水で熊野川の河原にあった「本宮大社」も流失しました。

 大体において、神社とかお寺とか旧家の屋敷とかは、災害に強い場所にあるものです。
 経験と伝承によって危険な場所は避けられてきているからです。
 だから、本宮大社も河の近くにあっても社殿がなくなるような水害にはあわない場所だったはずです。
 その本宮大社まで被害にあったのですからそれこそ何百年に一回と言う大水害だったのでしょうね。
 いまでは、元の場所には大鳥居と小さな祠しかありません。
 あの辺りにこんもりした森があり、立派な社殿もあったのでしょうね。
 たった100年ほどで引っ越したことなどすっかり忘れられてしまったようです。
 それにしても、引っ越すにしても、思い切って高台に上ってしまったものです。
 敷地を確保できるような「丘」なんて無い地形ですからああなったのかもしれませんけどね。

 その時の民家、農地などの被害が大きすぎて、再起不能と見た十津川村は住民の多くを、当時国策で募集されていた、「北海道開拓」に夢を託して村民を送り込みました。
 その移住団は600戸2489人と記録されているようです。
 そして、集団移住したところに「新十津川村」と作りました。
 その当時は「とっく原野」と呼ばれたようです。そこに出来た樺戸郡新十津川村は今では新十津川町になっています。本家は今でも「十津川村」ですから、分家の方が出世したようです。3000世帯7000人ほどらしいです。
 時は明治ですから「北海道」です。これが昭和なら、さしずめ「満蒙開拓団」として送り込まれて、行き先は「満州」になり、更なる悲劇を味あわせることになったことでしょうね。

 熊野川の堆積土砂、七里御浜の砂利のかなりの部分がこのときの災害が元になっているとさえ言われるものです。
 災害は忘れた頃にやってくるとかいいますが、「本宮大社」のように古からあるようなものがこうなるような災害は、まさに「有史以来」ってやつだったのでしょうね。
 でも、起きた事です。そして、又起きる可能性もあるわけです。
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by je2luz | 2010-01-27 12:50 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 01月 26日

熊野の旅 100年前

 100年前…まだ世は明治です。
 戸。言っても「、もう明治43年、終わりの頃です。
 
1910年にこの木本にも「電話」が入ってきたようです。
 2月21日に「木本郵便局電話通話事務開始」となっています。
 電話交換業務が始まったのは翌年の1911年3月1日だそうです。
 この頃の電話などと言うものは、役場、郵便局、警察などと言うところと、民間なら金持ちの新物食いのところしか引かなかったと思います。
 私の実家の電話番号は、「木本・59番」でした。古いほうでしょうね。
 大体、町で数本だとか数十本などと言う電話では市内で「電話が便利」なんて無かったでしょうね。
 掛ける相手も、掛かってくる相手もいないですからね。
 用もないのに見せびらかして掛けてみせる…なんてのもあったのでしょうね。
 子供の頃には、壁に掛かった木製の電話機がありました。
 映画に出てくる、受話器を耳に当てて機械から出ている送話口に向かってしゃべるやつです。
 機会には目玉のように見えるベルが二個付いていましたから、送話口を入れると顔に見えたものです。
 もちろん、ダイアルではなく横に付いたレバーをぐるぐる回して交換手を呼び出すやつです。
 この電話番号も、4桁になり、局番が付いて5桁になり、局番が増えて6桁になってきました。
 でも、光は局舎までの幹線の工事は終わっていますが、局舎から外へ出ようとしません。

 4月22日には「ホーキ星現れる」なんてのもあります。調べれば何彗星か分かるでしょうね。

 何よりもこの年には「大逆事件・幸徳秋水事件」がおきています。
 この大きな事件にはこんな田舎が絡んでいるようです。
 新宮の大石誠之助と言う人や下市木の崎久保誓一さんという人が検挙されています。
 よく分からない事件ですし、よくは知りませんが、文化人がいたってことでしょうね。

 それと、時々書いています「木本小学校」の旧校舎・木造校舎もこの年に建設されたのだそうです。
 建坪609坪、校舎3棟、講堂・付属建物3棟だそうです。
 この時代の学校には「小使いさん」が居たはずですね。湯沸し室があってお昼のお茶を沸かしていて・・・
 私が学校に入った頃の田舎の小学校には居ませんでしたけどね。
 映画には学生服みたいなのを着た「小使いさん」がつき物でしたね。

 と言うのが、100年前のこの地方の出来事のようです。
 戦死した親父が生きていたら98歳ってことらしいです。
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by je2luz | 2010-01-26 13:26 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 01月 25日

熊野の旅 番外 悩んでいます・・・

 古い記事の整理・校正がかなり進んで、あと、一年分ほどで追いつくところまで来ました。
 やればきりが無いのですが、ものすごい数の誤変換もかなり改善されたと思うのですが、その先をどうするかで悩んでいます。
 PDF変換もうまく行くのは確認しました。
 しかし…
 このPDFファイルってどこででも預かってくれるとは限らないようですね。
 某場所などは、アップして最初は動いても、消されちゃいます。
 画像に変換すれば大丈夫と言いますが、PDFのままの方がすっきりするように思いますから・・・
 と、言うことで、頭がそっちに言っていますので、記事はお休みです。
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by je2luz | 2010-01-25 13:20 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 01月 24日

熊野の旅 初午???

 熊野の一大餅撒き日の「初午」って、不思議な日ですね。
 元々はお稲荷さんの誕生日だとか…
 由来は意外と新しく和銅4年(711)の2月の最初の午の日に、京都は伏見稲荷に神様が降臨された記念日なんだそうです。
 もちろん、旧暦ですよね。
 私の昔の記憶では、『立春を過ぎた最初の午の日』だったのですが、これも正しいらしいですが、少々古い決め方らしいです。
 今では、新暦を採用して単純に『2月最初の午の日』にしたのだそうです。
 だから、今年は2月1日なんてとんでもなく早いんですね。
 そりゃあ、この決め方は分かりよくてよいのかもしれませんが、なんともご都合主義ですね。
 これって、発祥が京都伏見稲荷ですが、伏見稲荷で変更したのでしょうかね?
 とにかく、暦までそうなっていますからね。
 
 「立春」を基準にすると、4日立春、13日初午、25日二の午です。
 「旧暦」を基準にすると、3月16日が2月1日なので3月21日が初午、4月2日が二の午です。
 いまは、旧暦と新暦の差が大きくなっていますからずれがものすごいです。

 と、言うことでこうした行事…「雑節」とやらも昔から言う、「〇〇の日だから…」ってのもかなりいい加減みたいです。
 そもそも、旧暦がきちんと統一されたこと自体がそんなに古くはないとか…
 されに、それにくっつくややこしいのはもっと後で統一されてきたようですからね。
 大きな「立春・お彼岸」も天文暦に合わせて変わって来ましたしね。とうとう3月22日まで早まっています。
 どこまで行けば気が済むのでしょう?
 
 信じるものは救われる…
 私のようなことを言っていたら信心なんて成り立ちませんね。
 だから、撮影に行ってもお賽銭を入れるのを忘れるんでしょう。

 それから…
 初午の餅撒き…
 たしか、「稲荷さん」だけではなく「鎮守様・木本神社」でも撒いたような気がします。
 ??木本神社にも「お稲荷さん」はいたかな?
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 初詣もお賽銭が減って、破魔矢だとかが売れなくなって…調子の良かったのは「おみくじ」だったとか、報道されていましたね。
 わたしは、受験の時以来「おみくじ」は引いていないように思います。
 いやいや…上野の大衆食堂で灰皿に付いたやつを引いたのは大学に入ってからです。


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by je2luz | 2010-01-24 11:53 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 01月 23日

熊野の旅 もうすぐ餅巻きですよ

 今年の初午はいつもより早めの2月1日だそうです。月曜日ですね。
 この初午をわくわくしながら待っている人がたくさんいます。
 ほとんど全員、「おばやん」です。
 「春物のバーゲン」を待つ「大阪のおばちゃん」のように、この辺りの「おばやん」は初午を楽しみにします。
 初午当日がウィークディになっていると、ずらして日曜日にする場合もあるし、二の午にするときもありますが、ばらばらになった方が、今日は三越、明後日は高島屋、次の日は大丸…と駆け回るように都合も良いのです。

 何をそんなに楽しみにしているかと言うと、『餅撒き』です。この辺では『餅ほり』と言いますけどね。
 撒くのは『厄』の人です。
 女の人の「19の厄」「33の厄」… 男の「25の厄」「42の厄」…男女共通の「還暦」…
 こんな人が厄払いに神社や小寺さんにお参りし、その日に、厄落としに「餅」を撒くのです。
 基本的には『餅』なのですが、みかん・お菓子・小銭も撒かれることが多いです。
 42の厄だと、総額4200円とか数合わせしたりしているようです。お金は数を増やすのに10円玉や50円玉のおひねりが多いようですね。

 いまは景気も悪いし派手な人も聞きませんが、お餅の小袋に引換券が入っていて、「カラーテレビ」が拾えたなんてのも以前にはあったようです。
 南牟婁の方では俵に入ったお金とかを撒くところも合って、42だと42000円が一発勝負だとか…これは、「おばやん」の出る幕が無いようで、若い衆とかがものすごい剣幕で奪い合うようです。
 ラグビーボールなら「トライ」を決めれば終わりですが、この奪い合いにはゴールが無いので手に入った者は、ひたすら家に向かって走るとか聞きましたけど、今でもそこまでやるのでしょうかね?

 餅撒き文化はまだまだ廃れていませんから、この時期になるとあちこちの神社や個人の家の前がにぎやかになります。
 それにしても…
 この「おばやん」の「餅拾い軍団」の諜報機関はたいしたもので、町内はもちろん、近隣のところまでめぼしい家の餅撒きの場所と日にち・時間を把握しているんです。

 確定申告の期日は忘れても、だんなの誕生日を忘れても…初午と餅撒きは忘れません!
 それが「南紀のおばやん」の生きがいですから…
 なんて書いたら叱られるでしょうか?
 でも、もちを拾っているときにはいい顔していますよ。旦那なんかは、もう何十年も見たことの無いような「楽しげな顔」なんです。

 そういう時に通りかかったら、遠慮せずに参加してください。
 「厄払い」ですからたくさんの人に拾ってもらう方が良いのだそうです。
 下の写真は3年前、近所の稲荷さんです。
 
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by je2luz | 2010-01-23 13:40 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2010年 01月 22日

熊野の旅 散歩道 元・松原?

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 こんな道を歩くのも悪くないと思いますよ。

 人が歩いて気持ちのよいのは、土の道、林の中、日陰、日向・・・って様なものです。
 この道には全部揃っています。
 おまけに道は平坦です。

 この写真の場所は南牟婁郡御浜町神志山付近の防風林の中です。
 御浜町側の道は熊野市側より後で整備されたものです。 本来は防風林管理のための作業道なのですが、つくりは「遊歩道」です。 林は「国有地」元の営林署のものですが、この道も開放されています。
 長さから言うと、熊野市側の有馬松原の方が長いですが雰囲気は同じようなものです。
 昔々の「熊野古道・伊勢道・御浜街道」はこんなものだったはずです。違うのはこんな雑木林の中ではなくきれいな松林の中だったということでしょうね。
 私が高校生の頃にはまだまだ大きな松のたくさんある「松原」でしたからね。
 半世紀で消滅したのです。

 七里御浜沿いに散歩したり、熊野古道歩きの延長で歩いたりしている人は結構多いのですが、どういう訳かほとんどの人は「堤防」の上を歩きます。
 たしかに見晴らしは良いし舗装されているし…
 林の道は入り口が分かりにくいし進み具合も良くわからないし…ということみたいですが、行程の半分はこの林の中を歩いてもらいたいですね。
 すぐ脇を国道42号線が走っているし、幅の限られた防風林ですから迷子の心配もありません。

 7月頃かと思いますが、少しの間だけ立ち入り禁止の札が掛かります。
 これは「松くい虫防除の消毒」のためです。
 あまり効果が無いと言われつつほかに対策も無いので継続されているものです。
 かなりの数の昆虫や蜘蛛などが死ぬようで、しばらくは見かけなくなりますが、生き延びたのがしばらくすると巣を張ったり飛び回ったりします。
 それくらいしか効かないのですから、ふた雨も降れば普通には安全に戻ると思います。
 それでも殺虫剤を撒くのですからやっぱりそのときだけは入らないほうが良いでしょうね。
 効果があるのなら松が事実上の全滅するなんてありえませんよね。


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by je2luz | 2010-01-22 13:07 | 熊野 | Trackback | Comments(0)