LUZの熊野古道案内

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2009年 06月 30日

熊野の旅 増えてきた こんな風景

 昨日は少なくなってきた丸木橋などを取り上げました。
 今日はそうした道の先に増えてきている光景を取り上げます。

 マスコミでも「限界集落」と言う言葉が時々出てきています。
 平成の大合併で3300あった市町村が1000ほど減りました。
 政府の策略で、限界集落だらけで、『限界自治体』になってきていた村や町が統計上はほとんど消えました。
 『市』とは何か?と考えさせられるような、過疎と老齢化とでどんどん『廃集落』が出てきている山の中も平成の新市の中に組み込まれているのです。
 二つあわせても、二万人ほどしかいない『熊野市』もそうしたところを抱え込んでいます。
 典型的な過疎・老齢化の進んだ「紀和町」を抱き込んで三年ほどになりますが、その時、見かけだけ増えた人口もすでに使い果たして合併前の熊野市に戻っています。
 抱かなきゃあ仕方ないわけですが、膨大なお金を使って形だけ整えても・・・
 さらに、合併のご褒美で国から出る金で、有効活用など出来るはずの無い『箱物』を作って得意になっている・・・
 いや、こんなのは熊野市だけではありません。
 日本国中で国の借金を増やしながら推し進められています。

 で・・・
 その一方で・・・
 下のような光景が一杯見かけられるようになりました。
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 杉林に埋もれてしまった「納屋」です。
 周りには農地があったようです。
 植えられた杉の樹齢は20年ほどでしょうか・・・よく育っています。
 木が植えられる前には大切な建物だったのでしょうが、今ではここに建物がある理由も存在しません。
 昔なら、要らなくなったらきちんと取り壊すなりされたと思いますが、今ではこうして放置して朽ちるに任せることが増えています。
 これは「納屋」だけですが、『母屋』や『倉』までも、朽ちるに任せられている物が増えています。

 昔は家を取り壊したら、その廃材で新しい建物や納屋を作った物です。
 要らない廃材はかまどで薪にしました。
 更に要らない分は、積み上げて野焼きしました。
 そして、取り壊し作業などは集落の出合いでやりました。
 今は廃材の野焼きなどやっていると消防にしかられます。更に、下手すると廃棄物処理の方でも叱られます。
 集落出合での作業もなくなっています。
 だいたい、屋根に登ったり、壁を引っ剥がすことの出来る男衆が居ません。危なくて手伝って貰えない状態ですからね。
 取り壊すには田舎でも『解体業者』に頼むことになるのです。
 ちょいとした家でも数十万とか百万とかになってきます。
 取り壊した跡地より取り壊し賃のほうが高いなんてことになります。
 だから、放置して朽ちさせることになるのです。
 寂しい光景ですが仕方ないとも言えますね。
 子供たちがよそに出てしまい、不在地主化した家は当然ですが、跡を継ぐことの無い家では老齢化した持ち主が、もはや管理できなくなり・・・管理する気力が無くなり、建物が、農地がどんどん荒れて行きます。
 それが、獣の領域を広げ、夜ともなると物騒で外にも出られないところも出てきています。
 江戸時代の山里より寂しいかもしれませんね。

 こうした場所には、時々、都会から「文化人」が流れてきます。
 マスコミなどで取り上げる時は、それによって集落が生き返ったようになっていますが、なかなかそうは行かないようです。
 流れ込む「文化人」自体が当代限りの人がほとんどですからね。
 せいぜい、30年ほどの間借り人ということです。
 その先は、持ち主の子孫さえ分からない不動産が残って・・・だと思います。
 何かするときに、行政が泣くことになるのですけどねえ・・・
 そこまで考える人は居ないでしょうね。
 それに、「文化人」ってあまり税金は払わないようにも思えます。
 何で食っているか分からない人も多いですからね。
 こんなこと言ったら叱られますね。

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by je2luz | 2009-06-30 10:00 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 06月 29日

熊野の旅 減ってしまった こんな風景

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 熊野市井戸町大馬、大馬神社(おおま)のすぐ下流にある橋です。
 「丸木橋」よりはほんの少し渡りよいように上に板を打ちつけてはありますが、谷に丸太を渡しただけの簡単な橋です。
 昔はこんな橋が一杯あったのです。
 そもそも、家々の前に「道路」なんて無く、「道」があっただけですから、お役所がお金を掛けて作る橋なんてあまり無かったのです。
 自分の家に行く道、自分たちの集落へ行く道、自分の田んぼへ行く道・・・それぞれ自分たちで橋を掛けたのです。

 家のそばには小さな谷川があるほうが便利なので、そんな場所に建つ家が多かったです。
 水道の無かった頃には、洗い物は川や谷でするのが当たり前でしたからね。
 でも、谷川があれば渡らなくてはなりません。
 水の少ない時は、飛び渡り出来るように岩をすえたりしてありましたが、水が出れば危険ですから橋は必要です。
 さすがに、丸木一本と言う物はありませんが、丸太を二本並べただけと言うのが多かったですね。 
 だから、私が子供の頃だと、こんな橋は珍しくもなんとも無いし、たとえ、丸太2本の橋で、歩くとふわふわ揺れてもちっとも怖くなかったものです。
 自転車の時、そんな橋では、ちょいと自転車を担いで渡った物です。
 高所恐怖症なんて言っていたら遊べる範囲がうんと狭くなってしまいますからね。
 そりゃあ、そんなところをうろうろすれば、たまには落っこちますよ。
 でも、昔の田舎の子供も、酔っ払いの大人もそんなことではめげなかったのです。
 まして、そんなことでお役所を訴えるなんてありませんでしたね。

 日本中、何処の田舎でも見られた景色で消えた行ったもののひとつがこうした橋ですね。
 この橋は、「大馬神社」におまいりして、駐車場から150mほど道路沿いに下れば見られます。
 少し痛みかけていますし、個人の方が掛けた自家用の橋のはずですから、そのつもりで渡ってください。
 落っこちても、落ちた人の責任と言う事で・・・
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by je2luz | 2009-06-29 09:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 06月 28日

熊野の旅 生活を支える 移動販売車

 過疎老齢化によって、田舎では「お店屋さん」がどんどん消えてゆきました。
 何処の田舎にも「田舎の百貨店」と「農協の購買部」があって、そこそこ生活必需品と食料は確保できた物です。
 そして、そうしたお店屋さんのある場所まで自転車や徒歩で買い物に行ったものです。
 世の中が車の時代になり、小さな集落も「市道」や「農道」で結ばれ車が入るようになると、『移動販売車』が回るようになりました。
 1トントラックくらいの物に棚を作りつけ、食料品を中心に満載して走り回りました。
 今から40年ほど前からの流行でしたね。
 これは全国で見られ、一時期は大手のチェーンも出現し、マイクロバスでまさに「動くお店」まで走ったところもあります。
 その頃はまだ田舎の人も若かったです。
 子供を育てている家も沢山あったわけですから、結構売り上げもあったようです。

 10年経ち、20年経ち、30年経ち・・・
 車の周りに集まってきて、5人分の食料と子供のおやつを買った人も、3人前になり、2人前になり、1人前になり・・・
 肉や魚の量の減り・・・おやつも買わなくなり・・・
 移動販売車の人自身も、やる気満々で30代で始めた人も、40代、50代、60代・・・ほとんど引退してしまいました。
 一時は回ってくる・・・回ってきてくれる車がなくなってしまったものです。
 そうなってきた時に、町まで出かけようにもバス代は高いし・・・父ちゃん連中はどんどん死んじゃうし、生きていても「枯葉マーク」のドライバーですしね。
 非常に怖い買出しツアーになります。
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 最近は、毎日ではなく、決まった曜日だけ回ってきてくれる車に頼っているようです。
 決まった曜日のほぼ決まった時間に決まった場所に停まってくれます。
 そして、数人ずつ集まってきて買い物をするのです。
 
 こうした移動販売の持ってくる魚は結構新しいです。
 スーパーより新しい物が多いですね。
 持ってくる物が日によって違いますけどね。
 地元で上がった近海物が中心です。
 昔から。『魚は山で買え』と言われるように、『持ち売り』とか『移動販売』は地場物を木本で仕入れてくるので、出荷センター経由でくるスーパーより新しいことが多いのです。
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 こうした田舎では「よねすけの隣の夕食」をやらなくても、「今夜のメニュー」も「明日のメニュー」も分かるのです。
 今の都会の奥さんだと嫌でしょうね。
 でも・・・
 大きすぎる魚は半分こ出来ますよ。

 郊外型店舗で中心部の小売店が閉鎖された都市部でもこうした移動販売に頼っているところが結構あるのですけどね。
 都会だって・・・
 千里ニュータウンでも高島平でも老齢化して、団地の外に出られない住民が1/3ほどいるとか・・・
 上下に広がった生活空間だけに、こうした田舎より、年よりはうんと住みにくいでしょうね。

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by je2luz | 2009-06-28 11:17 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 06月 27日

熊野の旅 熊野の民間信仰 山の神

 一昨日の「庚申様」より多分、沢山あると思われる民間信仰の対象は『山ノ神』です。
 山又山・・・そして、その山を生活の糧としてきたこの辺りでは、山の恵みなしでは生きて行けなかったからでしょう。
 ことに、江戸時代、明治、大正、昭和と時代が下るにつれて、紀州財が地域を支える大きな柱になっていったので、手厚く祀られるようになったようです。

 山ノ神はどう言う訳か、「神様」なのに、他の神様とは別扱いですね。
 何しろ、10月に日本中の神様が出雲に集まって、集会やら忘年会やら知らないけど国中が留守になると言う時にでも、「山ノ神」だけは地元に残るようですからね。
 「山ノ神」は女の神様だそうですが、それが理由ではないでしょう。
 「天照大神」も「弁天様」も女ですからね。
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 この小さな祠は熊野市飛鳥町小阪字平の「山ノ神」です。
 実に小さな祠ですが、今の時代では一番きれいに祭られている山の神といっても良いくらいです。
 この「山ノ神」も岩壁のへっこんだ所に祀られていますが、この辺りの山の神はこうした場所にあるものがほとんどです。
 洞穴とかのほとんど無い地域ですから、そうした神のよりしろを求めにくかったからでしょうね。

 「山ノ神」は女の神様で、他の八百万の神が出雲に出かけても留守を守るということで、「嫁さん」のことを「やまのかみ」と呼んだりしていましたね。
 神様なのに神様でもなさそうな「山ノ神」だからそういう風に使われても畏れ多いなんてことは無いでしょうね。

 古代信仰とか土着信仰というものには、性器崇拝が結構多く、これは世界共通のようです。
 多神教の国、インドではあちこちに男性器が立てられ、拝まれていると聞きますが、日本でも自然石でどちらに似た物も信仰の対象になっているようです。
 そして、非常に民衆の近くにある「女の神」・「山ノ神」では、男どもによって作られた「男根」が供えられていることが多かった物です。
 久々に訪れてみた「平の山ノ神」には「男根」の供え物はありませんでした。
 これも時代なのでしょうかね。
 私が子供の頃には、何本も供えられていましたけどね。
 手間隙掛けて削りだした実に立派な物が多かったです。
 男共の腕自慢でもあったようです。

 大体、その頃はおおらかと言うか・・・
 子供たちは並んでしょんべんの飛ばしっこをしたり、大人の男共も何かと言うと自分のを見せびらかしたり平気でしていましたからね。
 更にその少し前までは『夜這い』なんてのが存在したわけですからね。
 「浮気」とか「不倫」なんて不道徳っぽい響きのものではなく、もう少し緩やかなものだったようです。
 そんなおおらかな生活の中で祀られてきた「女神様」ですから、供え物に「男根」が並んでも当たり前だったのでしょうね。
 いまでも、地域や地方によっては供えられているようですからね。

 ここの「山ノ神」は民家のすぐ脇にあり、隣の民家の人などがきちんと掃除をして祀り続けてくれているようです。
 山ノ神の祭りは同じ熊野でもずいぶんばらばらで、11月、12月、1月にあるようです。
 ここは1月7日だったのですが・・・ひょっとすると曜日制に変わったかもしれません。
 田舎も勤め人が増えたので「祭りの日」が動くように変わったところが多いですからね。
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 「山ノ神」も過疎・老齢化に加え「林業不振」「山村崩壊」などが追い討ちを掛けるので、どんどん信仰対象から外れていっているようです。
 民間信仰に支え照れてきただけに、住民がいなくなったのでは成り立ちません。
 もう少しすると、何処にあったのかさえ分からなくなる「山ノ神」が出てくるでしょうね。

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by je2luz | 2009-06-27 09:45 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 06月 26日

熊野の旅 大又川 堰

 熊野市の背骨部分の山の裏側を流れる大又川沿いは、河川敷と言うほどの平地はない物の、最上流から少しずつある平地ごとに集落があります。
 吉野山地ほど急ではないのでそれぞれの集落には田んぼがあります。
 水田を維持するには安定した水が確保されなくてはなりません。
 地形の関係で「谷」が意外と少ないのもこのあたりの特徴です。
 「大又川」の流域の山はさほど深くないのです。
 「大又川左岸」、国道42号線が走っている側は切り立った山が迫っていて、後ろには大きな山塊がありそうなのですが、実は一山越えれば海なのです。
 十重二十重に山がつながるのではなく。一重二重の山並みなのです。
 つまり、いくら雨の多いところでも、渇水期にも水の切れない、水田までまかなえるような「谷」はあまり出来ないと言うことです。
 山の襞は『峪・さこ』と呼ばれます。
 水の切れない「峪」も沢山ありますが、飲み水の確保程度ですね。

 「大又川」に沿って点在する集落の水田の水の多くは本川「大又川」から取水されています。
 急流ですから 当然勾配がきついです。
 結構深く落ち込んだ川からの取水でも、よその川よりは取水口が近くても上の段の水田に水を送れます。
 それでも、取水してから目的の集落までは1Kmとか離れていますし、よその集落を通してもらわなくてはならない物もあります。
 少ない平地に作られた限られた田んぼ用地によその水路が通るのです。
 人間の歩く道なら、迂回も出来るし、上がったり下がったりが許されますが、水の道はそうは行きませんから邪魔と言えば邪魔な物です。
 それでも、きちんと計画されて大昔に出来上がっています。
 教育テレビの歴史の時間などでやっているような「荘園時代に作られた水路」なんてのは全国では当たり前なのでしょうね。
 水勾配を計算し、延々と築いた水路を時代に応じた工法で改修を重ねて使い続けている物と思います。
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 写真は『平堰・だいらせぎ」と呼ばれる物です。
 「平部落の農業用水用堰」と言うことで、あるのはひとつ上流の集落「本郷」の一番上流(上・かみ)です。
 十年ほど前に大改修が行われ今ではコンクリートのしっかりした堰になっています。
 しかし、それ以前は、一部コンクリートの部分があるだけで、石垣と丸太と板を組み合わせて作られた物でした。
 豪雨地帯の急流の「大又川」ですから、大雨が降ると川が暴れ、堰が破壊されます。
 場合によっては1トンもあるような岩でも転がるような激流になるのですからね。
 梅雨時の集中豪雨、夏台風・・・田んぼに水のいる時に堰が壊れたら稲が全滅しますから、水が引く前に修理しなくてはならなかったのです。
 急流の中で、壊れた部分に岩を転がして少し穴をふさぎ、残りは「杉芝」などを詰め込んで水位を確保したのです。

 「平」の家の数は14戸でした。
 それだけの戸数で急流に入り、潜って岩を転がしたり、ものすごい水圧の中で「杉芝」を詰め込んだり出来る人間を確保するのは大変なことでした。
 この堰を「きちんとした物にしたい」というのが集落の夢でしたが、この場所は岩盤ではなく、ごろ石の川底だったので簡単には出来なかったのです。

 今では洪水のたびに直すと言う作業はなくなりました。
 これも、「圃場整備事業」のおかげでしょうか・・・
 前のままだと、もはや水に潜るなんてことの出来る人がいなくなったので水田放棄にならざるを得なかったでしょうね。
 うんと下流の、集落入り口での電動ポンプによる揚水を検討したこともあるのですけどね。
 維持管理などを考えるとそのほうが安いかもしれなかったのですが、水路を守るほうを選びました。

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by je2luz | 2009-06-26 10:48 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 06月 25日

熊野の旅 熊野の民間信仰 庚申様

 日本では色んな民間信仰があります。
 まさに多神教の国です。
 インドもヒンズー教などが土着の神々をどんどん抱き込んでいったのでやたらと色んな神様が居るそうですけどね。
 こうした民間信仰も場所によって祀られているものや人気度に差があるようです。
 奈良の街中などでは『お地蔵さん』なんてのがあちこちにあって、縁日だとかが盛んだったようです。
 このあたりにも『お地蔵さん』はありますが、墓地の入り口だとか、街道の山の中だったり・・・あまりお参りしたくないところばかりですね。
 山の中なんかのは、事故や行き倒れでなくなった方の供養の地蔵さんですからね。

 熊野の山間部では、昔から山で生活してきましたから、「山ノ神」は当然あちこちにあります。
 もうひとつ、結構あるらしいのが『庚申様』です。
 そもそも、『庚申』とは暦のほうから生まれたものらしく、元は「道教」だとか・・・
 いつくらいに日本に渡来し、いつ頃人気が出たのでしょうね。
 どうも、人間の体に巣食う虫みたいなものを退治してもらうのに「青面金剛」とやらを拝むらしいです。
 で・・・「金剛」って仏教にも出てくるような気もしますね。
 「南無大師遍照金剛」なんて弘法大師を拝むような気がします。
 まあ、そこが日本の良いところなのでしょう。

 『庚申様』は魔よけ、厄除け、家内安全・・・何でも聞いてくれるようです。
 何でも聞いてくれるから人気があって、あちこちに作られたようです。
 私が育った熊野市飛鳥町小阪でも本郷と言われる地区に『庚申様』があります。
 下の写真がそれですが、私の記憶と少し位置と向きが違うような気がします。
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 子供だったから高く感じたのかわかりませんが、もう少し狭いところでそびえていたような気がします。
 こんなに祠の周りが整備されていなかったような・・・

 この「庚申様」は時々荒縄でぐるぐる巻きになっていました。
 まるで、罪人扱いのようなものですが、これは『失せ物』を探してもらうときにやったのだそうです。
 『失せ物』『行方知れずの人間』を探す、まさに神頼みなのですが・・・
 どう見ても『頼む』と言う姿勢じゃないですね。
 『探してこなかったら自由にしてやらんぞ!』と言う、人間様優位の発想みたいです。

 こうした『庚申様』は飛鳥町内にもあちこちにあるようですが、神川町には一杯あるのだそうです。
 庚申様のことはしたのPDFページに少し解説されています。
  http://homepage3.nifty.com/kinan-tdc/tour_info_pages/tourguide/20070126koushin.pdf
 ここに乗っているようなツアーまで行われたりしたようです。
 無精者の私はそうしたものには参加しませんから良くわかりません。
 
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by je2luz | 2009-06-25 09:54 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 06月 24日

熊野の旅 国道42号線 佐田坂 2

 国道42号線の難所佐田坂は、戦前から計画され工事に着手されていたのですが、国鉄紀勢本線同様戦争によって中断されていました。
 戦後割合と早く昭和24年くらいに工事が完成し、それまでの更なる難所の「評議峠」を越えるルートからこちらに移りました。
 評議峠越えは海抜10mくらいから400m上る難所でしたが、佐田坂は峠の下にトンネルを開けて300mちょっとまで頂点を下げました。
 それでも、出来た頃には砂利道で対向出来るのは退避場だけという道でした。
 それから20年ほど経って、日本中の幹線国道が改修されるとともに42号線も二桁国道ですから改良され、完全2車線舗装道路になりました。
 『モータリゼーション』なんて言葉が盛んに使われた頃で、長い距離の人の流れはまだ列車でしたが、物の流れは貨車からトラックに変わってゆく時代でした。
 日本人の所得も増え、田舎でも自家用車や自家用貨物自動車が増え続けた時代です。
 二車線になって、流れが抜群に良くなったはずなのに、貨物満載のトラックに頭を抑えられることが多くなりました。
 折から、日本中の道路が黄色のペンキで塗られる時代になり、田舎の国道もほとんど全線「追い越し禁止」の黄色い線が引かれました。
 佐田坂も例外ではなく、真黄色でした、
 そして、九十九折れの道が見渡せる場所でおまわりさんが立っていて、追い越し終わって鼻歌交じりで走っていると、突然止められ、大分前の追い越し違反の切符を切られる罰金稼ぎの場となりました。

 さすがに、そのままでは具合が悪いので、『登坂車線』が少しずつ作られ。3箇所になっていました。
 上り坂部分が8Kmほどですから、決して少ないわけでもないですし、トラックの数が減少してきているのでそこそこスムーズに走れるようになりました。
 それに、もう何年かすると、この佐田坂と矢の川を通らない、『高規格道路・尾鷲熊野道路』が出来る予定です。
 
 国もお金が余っているのでしょうね。
 ここにきて、この在来線の佐田坂に登坂車線の増設工事が着工されました。
 今まであった「丸山橋」下の登坂車線の延長で頂上の『小坂トンネル』まで作るらしいです。
 道路脇の電柱の移設の立会いで現場を見に行ってきましたが。二車線でも急斜面を削ってあるので足元は深いのですが、あと一車線増えるとものすごい絶壁になりますね。
 車も減り始め、もはや工場誘致なんてありえないし・・・紀伊半島は軍事的にも重層性は低いし・・・
 『なぜ、今頃??』と言う声は私だけではないです。
 でも、投資効果を抜きにすれば「佐田坂」はますます走りよくなります。
 どんどん増えている『枯葉マークドライバー』が邪魔にならないようにでしょうね。
 デモ。「枯葉マーク」は真ん中を走りたがるんですよ。

 そうそう・・・
 昔はいた、『峠族』も今は居ないようです。
 「族」をやる世代が居なくなったのでしょうかね?
 道が良くなりすぎたら面白くも無いでしょうしね。

 この工事も来年の春には出来上がると思います。
 町場の運転手でもらくらく走行できますから、ぜひおいでください。
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by je2luz | 2009-06-24 10:34 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 06月 23日

熊野の旅 国道42号線 佐田坂 1

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 紀伊半島を周遊するように走る国道42号線には昔から「難所」と言われるところが何箇所かあります。
 昭和40年代の大改修以前には全線難所のようなものでしたが、そんな中でも『荷阪峠』『鷲毛峠』『矢の川峠』『佐田坂』などの峠道は難所中の難所でした。
 道は狭い、急坂だ・・・そして、その時代のトラックは馬力が無い・・・大変なものでした。
 
 写真はその中のひとつ、『佐田坂』の頂上の「小坂トンネル」の大泊側入り口です。
 今はこうした材木を積んだトラックの数も減ってしまいましたが、以前は沢山走っていて、砂利道の一車線道路を時速20Km以下で登っていたものです。
 上るのがやっとですから、退避場に入って後続車を前に出すのも大変だったのです。
 急坂部分で車を停止させてしまうと、「サイド発進」「一速発進」を併用してもぎりぎりと言うこともありました。
 昭和30年代までのトラックでは、『ローギア』と『セカンドギア』とのシフトアップのところでは『シンクロメッシュ』が働かない車がほとんどでした。
 今の人には理解できないでしょうね。
 バスでもトラックでも、ギアを変えるときには、クラッチを切ってギアを抜き・・・クラッチをつけてアクセルを空吹かししてクラッチ板の回転をあげておき・・・もう一度クラッチを切ってギアを手早く入れてクラッチを戻す・・・
ダブルクラッチと言うテクニックを使ったものです。
 私たちの時代の子供の自動車遊びの擬音は。『ぶーぶー・・・・ブン・ブブン・・・・ぶーぶーぶー』でした。
 『ブン・ブブン』の部分がダブルクラッチなのです。
 今のトラックではよほどのことが無い限りローギアの必要も無いようですけどね。
 私が運転した6トン車は、いすゞのボンネットの物で、このあたりではボンネット最後のトラックになるまで現役でしたからダブルクラッチの必要がありました。
 今の4トン社より粘りはあっても馬力の無いエンジンでしたから、佐田坂を材木満載で登るのは疲れる仕事でした。
 後続車に迷惑を掛けるのも疲れる原因のひとつでしたね。

 このトラックには後ろに重機がついていて、道端にある集積場の材木をひっ捕まえて荷台に積むことができます。
 今の運転手は『鳶口』や『鶴』と言った、材木を操る道具を使うこともなくなってきています。
 単純な道具だけに、かなりコツが要ります。
 こつを覚えれば、てこの原理などを応用して力を何倍にもして使えるすばらしいものなのですが、消えてゆくのでしょうね。
 私も見よう見まねで少しだけ使えるように覚えたものでした。
 さほどの力持ちでもない私が丸太をトラックに積むには覚えないと出来ませんからね。
 『鶴・つる』を使えば200Kgを越す丸太でも少しずつ場所を変え所定の位置にすえられるのです。
 不定形の丸太でもきちんと積み込まないと荷崩れを起こし、走行不能になったり、悪路の場所では場合によってはトラックをひっくり返しますから結構大変なものだったのです。
 昔は、トラックの運転手と言えば力持ちの代名詞だったのですが、今ではパワーハンドル、パワーゲート、ユニック、フォークリフト・・・色んなものが用意されていて、女の子が長距離便に乗る時代ですからね。
 昔だったら、トラックの箱の扉・あおりを上げることすら出来なかったでしょうね。自分のトラックのあおりを上げられないようでは雇ってもらえませんからね。

   カメラは

 レンズはカール・ツァイス・イエナ ゾナー135mm f4 東ドイツ
 
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by je2luz | 2009-06-23 10:56 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 06月 22日

熊野の旅 夏 大又川 鮎 2

 ようやく解禁なった『大又川の鮎つり』ですが、昨日の日曜日、天気は悪くなかったのにお昼頃の川には釣り人の影がありませんでした。
 鮎つりは渇水になるとだめです。
 渇水になってくると、水温も上がるし、石の苔も変質しますから、鮎は「瀬」から「淵」に移って固まってしまいます。
 『友釣り』は縄張り争いを利用するものですから、淵に落ちて集団生活するようになった鮎は釣れませんからね。
 逆に、大雨の後は瀬がきつくなりすぎて、「おとり」をうまく泳がせられません。それに、釣り人自身の身も危なくなりますからね。
 釣り人は、適当な間隔で少し多めの雨が降り、川底のごろ石が一部ひっくり返って白くなるのを喜びます。
 石が返ると苔が減って鮎の縄張り争いが激しくなるからです。

 そういう意味からすると、今の大又川の状態は決して悪くないのですけどねえ・・・
 少し川底の苔の生育状態が良くないように見えますけどね。
 と言うより、少し苔が変質したかな?と言う感じです。
 おそらく、鮎の育ちは良くないと思います。

 良くないと言っても、これだけ釣り人が少なかったら、釣りに出た人は瀬を好きなように移動しながらつれると思います。
 少しずつ蛇行して流れる「大又川」ですが、自分の見える範囲は独り占めということですからね。
 まあ、少なすぎるのも寂しいのでしょうけどね。
 なにしろ、『釣り天狗』などの種族は『釣果自慢』と『道具自慢』が楽しみの半分以上なのですからね。
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 この写真は熊野市飛鳥町小阪を流れる「大又川」の風景です。
 里川でさほど深くえぐれた川ではありません。
 簡単に川に降りられるし、大水のとき以外は流されるほどの川ではありません。
 普通の長さの竿と、川歩き用の地下足袋があれば十分です。
 本当なら『藁ぞうり』が一番なのですけどね。

 鮎つりは当然のように入漁許可が要ります。
 その鑑札や友鮎は国道472号線・国道309号線(169号)沿いのあちこちに看板が出ています。
 と、言っても、地元の釣り天狗が減ったので、取扱所も減っているようです。
 
 私は鮎釣りはしませんので、詳しくは大又川の漁業組合に問い合わせてください。
 下のバナーから入れます。


   カメラは

 レンズはカール・ツァイス・イエナ ゾナー135mm f4 東ドイツ
 
熊野市周辺地図です
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by je2luz | 2009-06-22 11:04 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 06月 21日

熊野の旅 夏 大又川 鮎 1

 夏が近づき、太公望とか言われる人たちが川辺に集まる時期です。
 日本人が非常に好む魚、『あゆ』の季節になるからです。
 『季節』、『旬』を大切にしてきた日本人には、一年魚でほんの一時期しか口に入らない『鮎』はその独特の風味とともに愛でるに適したものなのでしょう。
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 鮎という魚は河口で産卵し、海に入ってから遡上し初夏には最上流部の渓流にまでたどり着くものです。
 その間に、川底の石に生えている水苔を食べて急速に大きくなります。
 たった半年で7寸、8寸まで育ち、又、海に下るのですからまさに日に日に大きくらると言うくらいで成長します。
 
 ものすごく大きくなるのが早いということは、食欲がものすごいということにもなります。
 その食料を確保するために、縄張り競争が激しく、自分の縄張りに他のが入ることを嫌い、追い払いにかかります。
 その習性を使ったのが『友釣り』という方法です。
 『おとり・友鮎』と言われる生きた鮎を「鼻かん」と言われる輪を鼻に通して釣り糸につけます。その体のすぐ後ろには『釣り針』が仕掛けられています。
 この『おとり』を鮎の居そうな『瀬』に入れて泳がすと、元々その場所に住みついていた『鮎』が体当たりで追い払いに来ます。
 かなりしつこく追い掛け回しますから、その勢いで釣り針に引っかかります。
 これが『友釣り』です。
 『友』なんてとんでもない話です。
 その習性を利用した最初の人はたいしたものです。
 日本では『鮎つり』=『友釣り』くらいのものですからね。

 紀伊半島の南の水を集めて下る、『熊野川』にも、昔から鮎が住んでいました。
 そして、新宮で産卵し、それぞれ親が育った支流を目指して遡上したものです。
 しかし、昭和30年代にこの清流が『熊野川総合開発』によってダムが作られ寸断されてしまいました。
 巨大ダムで、魚道なんてありませんから、『鮎』と『鰻』は遡上できなくなりました。
 今では、琵琶湖から運んだ「稚鮎」を毎年放流しています。
 これは日本中の川で言えることです。
 同じDNAを持つ『湖産』と言われる鮎ばかりになってしまったのです。
 それでも、川によって水が違い、苔が違うので味が違うものです。

 熊野市の『大又川』の鮎漁も解禁なっています。
 大又川は水が冷たく、生育が遅いので解禁が6月中ごろになります。
 ようやく、鮎つりのシーズンに入ったのですが、平日には釣り人の姿がほとんど見なくなりました。
 地元の『釣りきち』達も川に入らない年になってきたようです。
 昔なら、瀬の中に立ってつっている人が多かったのですが、今では長い竿を使って岸から釣っています。
 釣果の方はどんなものなのでしょうね。

熊野市周辺地図です
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by je2luz | 2009-06-21 10:48 | 熊野 | Trackback | Comments(0)