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LUZの熊野古道案内

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2009年 05月 31日

熊野の旅 石垣だらけの熊野 3 灰がま

 地形せいで石垣が多い熊野の山間部ですが、その石垣を利用した便利な工作物が使われてきました。
 『灰がま』と言われる焼却炉です。
 『がま』は『窯』なのだと思います。
 しかし、この辺では『穴』を『がま』と言いますしねえ・・・「肛門」は「尻穴」で『しんのがま』と言い、石垣のあなは『いしがきのがま』ですから・・・『穴』なのかもしれません。

 昔の家には少しはなれた畑や田圃の石垣を利用して、写真のような穴を作っていました。
 土の中に掘り込んだ穴をきちんと石垣で積んだもので、この中でゴミを焼きます。
 昔は家からはほとんどゴミは出ませんでしたが、家の周りを片付けた草や枝などもこの中で燃やしました。
 田圃や畑で野焼きすると火の始末も悪いし、せっかく出来た『灰』も風で飛んでしまったり、雨がかかったりします。
 灰は貴重な肥料ですし、主成分の『カリ』は水に溶けよいので雨に打たれると効き目が流れ出してしまいます。
 昔の人は『化学』なんて知らなかったのですが、経験でそれを学んでいたのでしょうね。
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 この写真の『灰がま』は家に登ってゆく道のそばにあり、その道がコンクリートで固められているので綺麗に見えています。
 『灰がま』の多くは防火の意味でも家から話されているので、休耕田や耕作放棄された畑などが増えてからは草に埋もれて存在自体が見えなくなり、忘れられてしまっています。
 今では山間部でも市のゴミ収集車が回りますからね。
 
 紙を焼いたら漂白剤の塩素分があって「ダイオキシン」が出来る・・・と、学校の焼却炉が全部使用停止になりました。
 そして・・・
 葉っぱを焼くと「葉緑素・クロロフィル」があり、塩素分があるので「ダイオキシン」だ発生する・・・
 と言う、魔女狩り的なところまで行っていますからね。
 「草木灰」を作って農地に帰すのもよく無い作業と言うことらしいです。

 田舎ではこうした「灰がま」で焼いた灰、薪をたく風呂釜から出た灰、かまどから出た灰・・・全部が貴重な肥料として農地に返されました。
 『灰』の大好きな『ネギ』はゆさゆさとよく育ったものです。
 自然に出来るダイオキシン程度では奇形児も生まれなかったようです。

 日本の田舎の風景から、あちこちで登る煙と言うものが消えていっています。
 秋に田圃で燃やす『モミガラ』の煙でさえ、後から来たノン百姓の住民に、「臭い」「煙い」と言われ、苦情が役所に行くので出来なくなってきているところまで出ているようです。

 田舎に旅行に来たのなら、あくせくとすごろくのコマのように点から点へ急ぐのではなく、ガイドブックにも無い場所を歩いて、『日本の田舎』の中に身をおいてみても良いのではないでしょうか?
 ヨーロッパでも路地裏や田舎に本物のその国の風景があるのですが、あまり覗きに行く人は居ないようですね。
 『はとバス観光』以来、日本人の観光は説明の出来るものしか見なくなってきたようです。
 『ヤジキタ』のように脱線しまくる旅を楽しんでみてはいかがでしょうか?

カメラは

 レンズはカール・ツァイス・イエナ ゾナー135mm f4 東ドイツ

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-31 10:46 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 30日

熊野の旅 石垣だらけの熊野 2

 熊野市の山間部の屋敷は少ない農地を少しでも減らさないように山際に、それも少し山に食い込んだように掘り込んで造成されています。
 比較的新しく作られた屋敷は完全な平地にありますが、江戸時代や明治の頃ではそんな恐ろしいことは出来なかったのでしょうね。
 山の中の田舎に行くと、屋敷と言うものは水田にならない場所を選んで作られていることが多いのですが、ここ大又川流域の屋敷は斜面が急で中腹に屋敷を作ったりしにくいので、平地の端っこに作ったのでしょうね。
 
 半分山に食い込むような配置ですから、家の後は山肌の崩壊を防ぐ石垣です。
 下の写真は、我が家の畑で「やしき」と呼ばれるものの石垣です。
 水田から一段上がっていて田圃にはならない場所です。
 地面にも人力で取り除けなかった岩が顔を覗かせている畑としてもさほどよくないものですが、この辺の屋敷としては広い方です。
 この石垣の高さは4mくらいで、後ろはすぐに切り立った山です。
 今は家が無く、日当たりの良い東南向きの石垣なので乾きますが、家があった頃は、横戸の旱魃で無い限り年中湿っていて水気たっぷりだったはずです。
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 自然石をうまく組み合わせた石垣で、あちこちに掘り込んでゆく時に出てきたらしき大きな岩を抱き込んでいます。
 今の工法でこんなことをやったら怖くて家が建てられないと思います。
 私が子供の時には隅っこに小さな家が一軒建っていただけですので、ここに家があったのかどうかは分かりませんが、「屋敷」と呼ばれるところを見るとそのために作ったものと思われます。
 この更に二段ほど上に『上の屋敷』と言われる畑がありそこへ登る石段は明らかに畑用に作られた石段ではないですね。

 このような石垣で山を押さえて作った屋敷に家を建てる時、すき間が非常に狭いのです。
 『屋敷』とは呼んでいますが、全部狭いものなのです。
 この畑などは広い方なのですが、150坪ほどでしょうかね。
 農家は、「母屋」「納屋」「牛小屋」を建て、農作業用の「庭」も必要ですからぎりぎりになります。
 農作業用の庭ですから日当たりの良い必要もあるので。『母屋』がどんどん後ろに下がってしまい、石垣との間が広くて一間、狭いと人が通れないなんてのがあります。
 戦前で言う「小作」の人の言えなどは、裏が通れないほどの家が多いのです。

 この屋敷の構造が、飛鳥など山間部の家の住みにくさになっています。
 こうした石垣から染み出す山水や湿気が家の後半分にこもります。
 床下が高く、風通しをよくしたところで解決できるような代物では無いですからね。
 
 昔の家は、日当たりの良いところは縁側と客用の座敷が占めている『田の字型』の家です。
 生活空間の居間や寝室の『寝間』なんてのは後ろに追いやられます。
 普通の乾いた屋敷でも陰気で暗いのに、この屋敷構造で建てられると、裏だけではなく脇も大体石垣でふさがれて居ますから、暗いしじめじめした所で暮らすことになります。
 布団を干すのが当たり前・・・ではなく、干さないと大変と言う家が多いのです。

 石垣に囲まれ、裏はすぐ山でみどりがたっぷり・・・玄関を出れば目の前は水田で・・・年中森林浴しているような感じで、早く起きれば朝もやに包まれて・・・
 都会の人から見れば、健康的で優雅なのんびりした田舎家なのですが・・・
 環境は良くても、住む家は・・・
 どの家も、あと一間前に出してくれれば住みよくなるのですけどねえ・・・
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カメラは

 レンズはカール・ツァイス・イエナ ゾナー135mm f4 東ドイツ

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-30 10:30 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 29日

熊野の旅 石垣だらけの熊野

 紀州・熊野は海岸にも近い明るい国のイメージがありますが、ほとんどの部分は山です。
 荷阪峠を越えて『紀伊の国』に入ってから遠く和歌山に至るまでに、平らなところなんてほとんどありません。
 大きな川も急流の『熊野川』くらいしかないし。海が外海なので、扇状地や河口平野が出来なかったからです。
 何しろ波打ち際から険しい山まで1Kmも離れた場所が無いのですからね。

 平らなところが無い・・・
 家でも農地でも段々に作らなくてはならない・・・
 雨の回数、量共にものすごく多い・・・
 つまり、土塁のような構造では役に立たず。『石垣』で作る・・・
 と、言うことです。

 日本の田舎は山の中が多いですから、どこでも『石垣』が多いものです。
 紀州も北のはずれに行くと・・・???
 いや???
 向うの方が中心に近く、こちらが南のはずれなのでしょうね。
 『根來衆』と言う集団が居たようです。
 僧兵、武力集団、忍者などと変化して行ったようですが、石垣を積ませても天下一品だとか聞いたことがあります。
 泉州、浪速に近い分、色んなところに顔を出し勝ったり負けたりの集団で、同じような『雑賀衆』よりは生き延びた数は多いようです。

 そうした技術集団ではなくても、紀州の田舎の『石屋』の腕は確かなようです。
 一番目立っているのは紀和町の『丸山千枚田』でしょうね。
 あの、自然石を積み上げた石垣があるからこそ何百年も崩れもせず持ちこたえ、あの美しさも生み出しているのです。
 近代に積まれた見地石とコンクリートの石垣やコンクリート雍壁などのほうが早く崩れています。
 西洋でも15世紀16世紀とかに建てられた石の建物より、20世紀に建てたコンクリートの建物の方が早く傷むと言う例がありますからね。
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 熊野市も十数年前、まだ「世界遺産」なんてものが個々に出来るなんて思わなかった頃、観光キャッチフレーズに『神々と石垣の里』とか言うのを考えたことがありました。
 そのときに、コンサルタントが注目したのが、山間部、飛鳥・五郷の石垣だったのです。
 楊簿はもちろんですが、ほぼ平らなところに建てた家の周りにも、約束事のように石垣を積んであるのです。
 石垣島のように風をよけると言うほど高くも無し・・・門を構えて侵入を防ぐと言うのでも無し・・・建て込んでいて教会をはっきりさせると言うのでも無し・・・
 私などはその中で育ったので当たり前なのですが、何のための石垣なのやら・・・
 『習慣』なのでしょうね、
 『屋敷』=『石垣』なのかもしれません。
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カメラは

 レンズはカール・ツァイス・イエナ ゾナー135mm f4 東ドイツ

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by je2luz | 2009-05-29 11:10 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 28日

熊野の旅 田植えが終わって・・・田の草取り

 田植えが終わると、水田と言うのは割合と手間の掛からない物なのです。
 こう言うと。お百姓さんはものすごく怒りますが、公平に見ると、蔬菜園芸に比べれば日常の手入れは少ないほうなのです。
 朝早くおきて、田んぼを回って水の加減を調節し、家に帰って食事をし・・・その後では家の周りの仕事をして、夕方頃にもう一度水を見て回る・・・が日課です。
 田植えが終わってから田んぼに入るのは、除草作業『田の草取り』と『消毒』です。
 近年ではイネ科の植物には害が少ないと言う『除草剤』を使う農家が増えたので、人力で『田の草取り』をする風景は余り見られなくなりました。
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 人力でも草取りには丁寧に草を抜くと言う意味の他に、手で他の土をかき回すことによって土をほぐし稲の根がよく張る様にする作用もあるのです。
 戦後には人力で手押しする『田の草取り機』というのが登場して、こうした手作業の他に定期的に威勢良く田の中を進む光景が見られたものです。
 写真のように、人力での『田の草取り』は腰をかがめて、田んぼの中を這いずり回る仕事ですから大変な仕事です。ものすごく腰が痛いし、腰に悪いものです。
 こうした農作業が、昔のおばあさんたちの曲がった腰の原因だったとまで言われるものです。
 そうなんです。
 こうした農作業は『女の仕事』だっやのです。
 腰を曲げて一日中うつむいている『田植え』、 しゃがみこんで田の畦の草を刈る『わて刈り』なんてのも『女の仕事』だったのです。
 力仕事は『男の仕事』で他は『おなごの仕事』だったわけで、昔の男は良いとこ取りをしていて節があります。
 腰を痛めると困るので女にやらしたのかな???

 写真は三日前に撮ったものです。

 このご夫婦は・・・
 『やっぱり、人の手で草を取らんとうまい米は出来ん・・・』と、丁寧に田の草取りをしておられます。
 圃場整備された田んぼは広くて四角ですから、機械で工作するには適しているのですが、こうした農作業では一枚が広いので中々進んだ気にならないので大変そうです。
 この『平・だいら地区』は名前の通り、熊野市の山間部では珍しいほど平らな地形で、昔から田んぼが大きいほうでしたが、それでも圃場整備されてからの1/3とか1/4でしたからね。
 自家用米がほとんどと言う小さな百姓ですから、おいしさ優先で作業が続けられる面もありますけどね。
 ここも、百姓のほうでは後継者が居ない家ですね。
 私のすぐ下の人ですから。がんばってくれてもあと十年でしょうかね。

 昔と違うのは水田に入っている人に男女の区別がなくなったことでしょうかね。
 田の畦を刈るのも、草刈り機を使うようになって男もやるようになりましたしね。
 昔の男よりよく働くようになったのかも・・・
 そういえば、嫁さんがまだ家の回りの片づけをしている時間から晩酌をして・・・なんて旦那は居なくなりましたね。
 男が優しくなったのか、女が強くなったのか・・・その辺は分かりませんけどね。

カメラは

 レンズはカール・ツァイス・イエナ ゾナー135mm f4 東ドイツ

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by je2luz | 2009-05-28 10:46 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 27日

熊野の旅 田植えの終わって・・・イノコ

 熊野市の山間、飛鳥でも田植えが終わってお百姓さんが一息ついているところです。
 田植えが終わってほっとする時に、昔は運動会があったものです。
 『さまぶりの運動会』と言って、小学校と集落共同のものでした。
 田植えが今より遅かったので、田植えが全部終わるるのは梅雨に入ってからでした。
 その時期に運動会をやるのですから、晴れていて、グランドも乾いているなんて少ないような運動会だったように思います。
 辞書によると・・・『早苗饗』と書くのだそうです。
 「さな」は「早苗」であるのは分かっていましたが、「ぶり」が「餐」とは思いませんでした。

 田植えが無事に終わって、神様に感謝と今年の豊作を祈って供え物をするのですから「餐」で良いわけですが、「ぶり」と読むとは・・・
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 集落中の田植えが終わってひと段落すると、このように田んぼの『水口』(みなくち)のところに榊などを立ててお祭りするのです。
 昔は『栗の花』も立ててあったのですが、今は少し時期が早いので咲いていないのかな?
 百章にとっては大事な行司のはずですが、 この辺りでは、個々の家でお祭りするだけで、とりたてて神事とか行事は無かったですね。

 『さなぶり』も辞書に載るくらいですから、全国的にこう呼ばれているのでしょうね。
 こうした土着の行事みたいなものはよその名前で言われても分からないものが多いのですが、秋の豊作に感謝する『いのこ』(亥の子)も同じ名前で同じような趣旨のことがやられているようです。

 この先、少し稲が大きくなった頃に、『虫追い』などという行事が行われるところもありますね。
 「うんか」「つまぐろ横ばい」が出始める頃にやる行事ですね。
 大体が松明などを灯して田の畦を歩き、虫が寄ってきて焼け死ぬことで、害虫の発生から稲を守ってもらおうと言う、これも民間信仰ですね。
 一晩だけそれをやったからと言って、虫が減るとは思えませんが、殺虫剤の無い時代、害虫の発生は死活問題ですから、それこそ、『神頼み』でも大事なことだったのでしょう。
 残念ながら、私の育ったところにはこの『虫追い』の行事はありませんでした。
 この辺りでは『紀和町』にあるようです。
 毎年7月の土曜日ですから、今年は7月4日か11日ではないかと思います。
 詳しいことは「紀和町ふるさと公社」のお問い合わせください。
 多分、今はイベントとして行われていると思いますから、参加できるのではないかと思います。

  財)紀和町ふるさと公社
   〒514-5413 三重県熊野市紀和町板屋78 
   TEL 05979-7-0640 FAX.05979-7-0641

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by je2luz | 2009-05-27 10:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 26日

熊野の旅 50年前・・・昭和と言う時代 2

 長かった昭和と言う時代は前の方と後ろでは随分と世の中が変わっています。
 前三分の一は戦争の時代です。
 そして、復興期をはさんで後半は、まあ、日本の繁栄期といえるものでしょう。
 明治の文明開化に匹敵するような変化も敗戦と共におきました。
 戦時体制に入った頃からの異常なまでの国粋主義の反動でそうしたものの前否定的な動きもありました。
 そして、しばらくすると、もう一度、それへの反発も起きました。
 その動きは、昭和の後半より平成に入ってからの方が強いようにも思えます。

 昭和の時代に大きな犠牲を払って学んだことが忘れられようとしているのが少しばかり怖いです。
 戦国の世にも戦場とはならず、時々起きる「一揆」が大きな戦だったこの地方でも、近代国家の戦争はお構いなく兵士狩りを行いました。
 『赤紙』と言われる『召集令状』とが来ると、全国の駅には旗を持った住民が集まって「三等車」に乗って軍服を着た人を見送ったのです。
 ここは三重県南牟婁郡でした。
 陸軍の入隊先は「久居」の『陸軍第51連隊』でした。
 ここには『歩兵30旅団司令部』も置かれて軍都の様相を呈していたようです。
 目立ちませんが、今でも『陸上自衛隊久居駐屯所』が置かれています。
 紀勢本線が津の方に繋がっていない南牟婁郡では、記録映画や戦争物の映画に出てくるような、蒸気機関車に惹かれた列車に乗った『出征風景』はありませんでした。
 木本からは『省営バス』での出征、山間部ではバスの通るところまで歩いて。海岸線では巡航船での出征だったのです。
 そして、多くが、私の父や叔父のように帰らぬ旅立ちだったのです。

 ど田舎で、軍需産業も無く、港もなく・・・日本国内の国取りにも縁がなく、日本攻略にも価値のない紀伊半島の田舎町・・・木本でも戦争末期には機銃掃射を受けています。
 新宮市はパルプ工場があったので攻撃目標になり、かなりの部分を焼かれました。
 木本はそんなものがないので、ついでにほんの少しの焼夷弾を落とし、残り物の機関銃の玉で遊び半分に撃っていったようです。
 七里御浜沿いに低空飛行する艦載機・グラマンの飛行機乗りの顔が見えたそうです。
 制空権はもちろん、防空能力も無い田舎の町まで攻撃するほど余力があったのです。
 そして、出征兵士以外にも一名の犠牲者が出たそうです。
 特に群の命令があって攻撃目標になった町でなくても民間人も殺されます。
 
 東京や名古屋のような大空襲があった街でもその記憶は消えていっているようです。
 まして、焼け野原にもならなかった木本の空襲など無かったものになっているようです。
 もし、記憶している人が居るとすれば、70歳以上で木本の本町筋真ん中辺から新宮よりに当時住んでいた住民だけですからね。
 今、残っているおばあさんの多くは「戦後」嫁に来た人ですから実体験は無いわけです。
 かく言う私も、実家に打ち込まれた機銃の跡を見たのと、祖母などの話を聞いただけです。
 それと、狭い庭に掘られた防空壕があったことだけです。

 どこから見ても、何事も無く平和に古びて行った町に見えるのですが、『木本の昭和』にはそんなこともあったのです。
 木本だけではなく、全国、津々浦々まであったはずなのですが・・・
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by je2luz | 2009-05-26 10:37 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 25日

熊野の旅 50年前・・・昭和と言う時代 1

 日本が使っている『元号』とは便利と言えば便利、ややこしいと言えばややこしいものです。
 現在進行形・・・少し前の過去・・・こうした時間を感覚として捉えるには分かりよいくくりになります。
 でも、その長さはばらばらです。
 近代になってからは、天皇一代で一元号となったので、少しは長くなりましたが、昔には極端に短いものもあるようですからね。
 疫病が流行ったから・・・戦乱が止まらないから・・・なんてことで変えちゃったみたいですからね。
 私たちに縁があるのは、「明治」「大正」「昭和」「平成」くらいです。
 その中の「明治」は随分遠くなりました。その後の「大正」が15年、「昭和」が65年、そして「平成」でも21年になります。
 つまり、明治に生まれた人は100才を越えるような人だけと言うことです。
 そして、サイクルの短い日本の建物では「明治」のものはすでにほとんど姿を消しているようです。
 残されたものの一部はすでに『文化財』と化しています。
 これも、『元号』があって、『明治』と言うイメージをしょわせられるからありがたみも増すようです。
 「この建物は1870年ごろ建てられ・・・」ではピンと来ないのが日本人ですからね。
 そのくせ、何年前かを考える時は西暦に直して引き算をしますね。
 明治は「いやロッパさん明治だよ」で1868年だから、明治2年は1870年・・・なんてことです。
 すでに、昭和のことも昭和のままでは分かりにくいです。
 昭和生まれなら、自分の生まれた年などから、古さを実感しますけど、今では人口の1/4ほどが平成生まれですから、そうした人には「昭和30年代」なんてまるで私たちの「明治30年」と同じでしょうね。

 長かった明治の時代に、町並みの大筋が固まり、長かった昭和に完成した街も多いでしょう。
 この木本なども、発生は古代かもしれませんが、町が膨れて家がぎっしりになったのは昭和のようですからね。
 鉄道が通り、水道も出来て大在の人が集まれるようになった時代ですからね。
 古そうな家・・・と言っても、昭和のものが多いです。
 昭和のものでも80年をこれるようになってきていますからね。
 明治のものは人間も百歳ですが、建物も同じように百年越えと言うことです。
 街中の方が建て替えが早いのか残らないものですね。
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 木本の古い建物・・・昭和中頃までの建物の典型的な外装はこのような「杉の羽目板張り」です。雨戸も「杉板」です。
 こうしたものは、昭和の真ん中までです。
 「建築基準法」とかで、街中の建物の外壁は防火材料でなくてはならなくなり、無粋なトタン張りに代わったからです。
 そして、昭和40年ごろからは「カラー鉄板」などと体裁を整えてきましたが、所詮はこうした「羽目板」のまがい物です。
 古びて味が出るものではないですね。
 「板は腐る・・・」と言いますが、木本のように海のそばだと「鉄はさびる」の方が怖いですね。
 写真のような建物の外壁の方が綺麗に残っているものが多いです。

 ただ・・・
 昔のように外れかけたらはしごをかけて「トントン」と釘を打ちなおす人も居なくなったし、定期的に見回って直してくれる大工さんも居なくなりましたから、傷みが早くなっていますね。

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-25 10:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 24日

熊野の旅 もうすぐ半世紀 紀勢本線全通 6

 まあ、この鉄道も日本に鉄道が敷かれ始め、「鉄道」が近代化の象徴とされた頃に構想が生まれ。、色んな鉄道会社によって手が付けられ和歌山からと松阪からとの線が延びてきたわけです。
 一部は『軽便鉄道』として建設され、おもちゃのような小さなものだったらしいです。
 
 ようやく『紀伊木本』まで線路が延びて、色んな会社も鉄道省によって統合吸収され、これから先は尾鷲に向かって難工事区間と言う時に、戦争が始まり工事が中断されていたわけです。
 戦後、世の中が落ち着いてきた頃に工事が再開され、昭和34年(1959)に全通したわけです。
 よく言われる『悲願の・・・』と言うにふさわしい物だったのです。
 それこそ、完成までに半世紀とかの時間があったわけですからね。

 南紀と名古屋、そして東京を結ぶと言うことに重要性があったと言うことは、この空白を埋めるために、海では『巡航船』をはしらせ、陸では天下の難所『矢ノ川峠』に道路を開いて、省営バス『紀南線』を就航させたことで分かります。
 私が子供の頃、その紀南線は『省営』ではなく『日本国有鉄道』になっていましたが、大人の人達は『省営バス』と、呼んでいました。
 私が東京に出た頃には、東京のお年よりは、山手線のことを『省線電車』と言っていましたからね。
 田舎だけが、戦後になって体制が変わってもそう呼んでいたわけではないようです。
 ただ・・・
 BUSが『バス』ではなくPASS「パス」になっていましたね。
 「デンワ」の「レンワ」と訛ったり・・・
 半世紀前のお年よりは不思議な訛りがあったものですね。

 この「国鉄紀南線」は列車連絡のバスですから、『紀伊木本』で列車が着いたら発車して、途中、『矢ノ川峠』の茶店でトイレ休憩をし、42KMを2時間40分で走りました。
 乗客の多いときにはバスが4台ほど動員され。それぞれが満員、ぎゅうぎゅう詰めと言うほど。客が居たものです。
 峠を越えたところの崖の上には『念仏坂』なんて呼ばれるところもありました。
 狭い砂利道の一車線道路で、対向するには退避場にバスを入れるのですが、車掌さんが降りて笛を吹いて誘導していました。
 バスが段々大きくなってくるし、バックして退避場に入れると、後ろの座席が空中に突き出すようなところもありました。
 乗客からは道路など見えません。見えるのは数百メートル下の谷底と800m下の尾鷲です。
 もちろん、『ガードレール』などありません。
 まさに、『念仏坂』だったのです。
 石垣でほぼ垂直に積み上げた路肩一杯まで使って走っていたのですが、紀南線が連絡バスとしての使命を終わるまでの間、この路線では木本町内での死亡事故以外の大きな事故はありませんでした。
 この路線の運転手は地元の人ばかりでしたが、一人を除いて、慎重でこれ以上ゆっくりは走れないと言うような運転をしていましたね。
 そして、皆さん、天下の難所を無事故で走り続けると言う使命感と誇りに満ちていました。

 『紀勢本線全通』のかげで『国鉄紀南線』が小さなローカル路線に格下げされると言う寂しい出来事があったわけです。
 でも、こんなに沢山の客が、この苦しいバスを使ってでも行き来するのだから、鉄道が通ればものすごい数の乗客が・・・と、期待もしたわけです。

 それから先は、期待通り地元の産品、『材木』『石』などを運び出し・・・ついでに一方通行で『人間』も運び出して行きました。
 そして半世紀経つと、もはや、運び出す産品もないし貨物の取り扱いもなくなりました。
 運び出し続けた『人間』も底を付き始めました。

 私も、この線路で外へ出たのですが、『返品』されてこちらに帰ってきた人間です。
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熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-24 12:01 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 23日

熊野の旅 もうすぐ半世紀 紀勢本線全通 5

 この紀勢本線全通で人の流れとものの流れに変化が生じました。
 これまで鉄道は『紀伊木本』で止まっていたので、熊野市一帯の人や物の流れは県庁所在地の「津」とか、その先の「名古屋」に向かわずに。「天王寺」「大阪」に向かっていました。
 道路の方も繋がってはいても、、海抜808mの『矢ノ川峠』を越える日本有数の難所を抱えていましたし、まだまだ未改修の一車線、砂利道でしたから物の移動、人の移動は『西向きの汽車』だったからです。
 まあ、開通したからと言って、その日から、そうしたものが代わるわけではありません。
 長年にわたって築き上げてきた、取引先との関係もあります。もともと、ここ熊野は「紀州藩」で言葉も食べ物も西を向いていますからね。
 大きな買い物も、大阪の方に出かけていましたね。
 『栄』よりは『心斎橋』って感じです。
 『きしめん』よりは『うどん』・・・『味噌カツ』よりは『まむし』だったのです。
 動物園も『東山動物園』よりは『天王寺動物園』の方が馴染みがあったものなのです。

 こうしたものも、鉄道が直結し、鉄路も新宮を境に「天王寺鉄道管理局」と「名古屋鉄道管理局」に区分され、さらには民営化で「西日本旅客鉄道」と「東海旅客鉄道」の別会社になって来るにつれ、連絡ダイヤもうまくないし、段々、流れが名古屋向きになりました。
 大阪に出る時も、新宮経由天王寺ではなく、松阪経由・近畿日本鉄道で大阪入り・・・と言うのが一般になるように変わって行きましたね。
 さらに、道路がよくなって自家用車の時代へ・・・自家用のない人は「特急バス」を使い時代へ・・・東京へは『夜行バス』の時代へ・・・と変わって行っています。

 全線開通以来、たしか一度も黒字になっていないはずの紀勢本線は、徹底的な人員削減で、ほぼ全線無人駅化しましたが、黒字には転じませんでしたね。
 それでも、鉄道は外してはいけないでしょうね。
 小さなローカル線は仕方ない面もありますが、いわゆる、『本線』はこれから先のエネルギーの変化に耐えるためにも本当は省エネのはずである、列車は国策で残すべきでしょう。

 などと言いつつ、私も『汽車』に乗らなくなりましたね。
 名古屋だ大阪だと言うようなところは自分の車を持ち込んだほうが便利だし、東京だと安い「夜行バス」を使いますしね。
 何年か前に『関空』まで往復、汽車に乗りましたけどね。

 『乗って残そう紀勢線』
 国鉄最後の頃の「廃線」議論の頃に掲げられていたキャッチフレーズも最近はトンと見かけません。
 状況はよくなったのではなく、悪化は続けているのですけどね。
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カメラはオリンパス35S

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-23 11:12 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 05月 22日

熊野の旅 もうすぐ半世紀 紀勢本線全通 4

 紀勢本線は完成してわずか2ヶ月でずたずたになりました。
 新しい開通区間の地盤の不安定なんてものではありません。
 これこそ日本の歴史に残る『伊勢湾台風』の襲来が「9月26日」にあったからです。
 紀勢西線の南の端の『串本』から線路沿いに北上、新しい区間を見物し、紀勢東線を見ながら名古屋へ・・・

 この巨大台風でも大きな河川のない紀伊半島部分は鉄道被害は少なかったのです。
 それに、旧国鉄の保線区は職員数も多く、国鉄一家の結束も強かったですから、倒木の除去なども敏速に行われたので、すぐに復旧しました。
 多気以北に関しては鉄橋の流失などもあり仮橋ができるまで寸断されたままだったと思います。
 スフに復旧したとは言っても、沿線は鉄道用に引かれていた電話線の電柱などはほとんど倒され、平地部分の田畑は水をかぶった爪あとだらけ、家々の屋根はむき出し・・・ひどいものでした。
 今のようにブルー使途なんてものが無かったので、まさにむき出しの状態でした。

 伊勢平野に入り、相可口(多気)から参宮線で伊勢市駅に向かうと、被害状況はもっとひどかったです。
 雨も風も空前の大きさだった「伊勢湾台風」ではさえぎる山もない平野では風はずべてのものに襲い掛かって破戒していました。
 遠く離れた紀伊山地に降った雨も集めた川が平らになってしまった平野部でははける能力も無いので全部あふれて見渡す限りの水田が、すべて泥水をかぶっていたのです。
 惨憺たる光景とはあんなものでしょうね。

 なぜ、この記憶がはっきりしているか・・・
 私の生涯の友、『NIKON F』が発売された年で、発注していた『F』が伊勢の写真屋に着いてすぐに『伊勢湾台風』が来襲、受け取りに行けなくなり、汽車が動くまでの三日間待ったからです。
 待ちかねて、汽車に乗り、伊勢市に向かう沿線はそんな状態で、あっちにもこっちにも、あの青い服を着て戦闘帽をかぶった『保線区員』が働いていました。今のようなヘルメットでは無かったですからね。
 
 『紀勢線全通』、『伊勢湾台風』、『ニコンF』これが昭和34年(1959)の大きな出来事だったのです。
 そして、同じ学年に居た工事部門の国鉄マンの子供が転校して行きました。新鹿鉱区に居た人の子供さんでしたね。
 この同級生とは次の年、東京の予備校の夏期講習で偶然ばったり会いましたね。
 そうそう、この昭和34年には『修学旅行』もありました。
 首から「ニコンF」をぶら下げ、手首に「オリンパスS」を巻きつけたスタイルで出かけました。
 その都心の修学旅行は私などの運動で二手に割れたものになりました。
 元々は木本高校の修学旅行は「東京」でしたが、『
 どうせすぐに出なくてはならない東京に修学旅行で行くことはない・・・どうせなら「九州」に行かせろ・・・さもないと旅行には行かない・・・』と、アンケート調査までやったからです。
 半々に分かれて、半分は熊野市駅から「旧紀勢西線」で天王寺へ、半分は「旧紀勢東線」で名古屋へ・・・と言うものでした。
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カメラは

 レンズはカール・ツァイス・イエナ ゾナー135mm f4 東ドイツ

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-22 10:18 | 熊野 | Trackback | Comments(0)