LUZの熊野古道案内

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2009年 02月 28日

熊野の旅 きみがため・・・

 このところ、写真も撮りに行かないので野山の様子も分かりませんが・・・

 きみがため はるののにでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ

 光孝天皇の時代はここよりずいぶん寒い京都に都が移ったあとですから、春の気配がしてきてもこうした情景は多かったでしょうね。
 寒ければ寒いほど冬がつらく、立春が過ぎ、春の気配が感じられるようになるのが楽しみだったのではないかと思います。
 道端の草が年中緑で、二月にはヨモギなども生えそろってくる南の地では春の訪れには鈍感になります。
 
 いしばしる たるみのうえの さわらびの もえいずるはるに なりにけるかも

 志貴皇子のこんな歌もここに都があったのでは生まれなかったかもしれませんね。
 かく左様に冬と春の境のはっきりしない南紀で更に暖冬、地球温暖化とそれに輪をかける状態なので、ますます季節感がおかしくなっています。
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 我が家の庭の雑草軍団です。
 なんとも瑞々しくて春そのものです。
 
 今日で2月も終わり、本格的な春の行楽シーズンになります。
 とは言っても、このシーズンにはとても行楽になど・・・と言う人もたくさん居るようですね。
 花粉症がやたらと増えましたからね。
 日本人の体質の変化でこのアレルギーが増えたのでしょうね。
 戦後に杉桧を沢山植えたから・・・なんて説明をする人が居ますが、それ以前から・・・江戸時代から里山の便利なところには杉が植えられ、大阪や京都などではもっと近いところに杉山があったものです。
 この地方など、50年も100年も前から杉桧の山に抱かれるようにして生きてきました。
 それでも、春になるとちり紙が沢山売れるなんてありませんでした。
 むしろ、食生活の変化、複合汚染、お腹に回虫が居なくなった・・・などと言う説明の方が納得いきますね。
 少し前にテレビで報じられたように、家畜の糞が身の回りになくなったのがアレルギーの元だ・・・と言うのも納得できますね。
 やたらときれい好きは虚弱な子供を育てるのは昔から言われてきていますからね。

 木曽路はすべて山の中・・・
 古道もすべて山の中・・・
 アレルギーの人にはちょっときついかなあ・・・
 でも、沖縄か北海道にでも行かない限り日本では杉とは離れられません。
 思い切って懐に飛び込んで、ワラビ採りにでも興じてみれば忘れられるかもしれませんよ。

 こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち 
 このおかに なつますこ いえきかな のらさね
 さねみつ やまとのくには おしなべて われこそおれ
 しきなべて われこそませ われこそはのらめ いえをもなをも

  籠よ美籠持ち 堀串もよ美堀串持ち
  この岳に菜摘ます児 家聞かな名のらさね
  空みつ大和の国は 押しなべて吾こそ居れ
  敷きなべて吾こそ座せ 吾こそは告らめ 家をも名をも

 などというちょいと生意気な雄略天皇見たいな人から声がかかるかもしれませんよ。
 なにせ、この辺では後の南朝のご落胤が居てもおかしくないところですからね。

 うんとかわいければ、私も声をかけるかも・・・
 『君・・・どこらら?』なんてね・・・

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-28 12:23 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 02月 27日

熊野の旅 二月は逃げる・・・

 今月ももう終わりです。
 『二月は逃げる・・・』などと、昔の人は言いましたが、2・3日他の月より短いですからやっぱり過ぎるのが早いようです。
 農業が生活の中心だった頃だと、一番のんびりした農閑期だったはずですけどね。
 暇で時間を長く感じるより、すぐに始まる、作付けの準備とかしなくては・・・などと思っているうちに終わっちゃう感じだったのでしょうね。
 商売人や日給制が普通だった働き人(はたらきど)にとっては、日数が少なくて収入が減るのに店賃・家賃などは同じように要るし・・・
 二月ってあまり言いイメージはないのかもしれませんね。

 三月に入ると、卒業式で新しい巣立ちがあります。
 今のところ、過疎、高齢化の進んだ田舎でも高校が存続し、卒業生が同じように巣立ちます。
 今は高校全入時代ですから、ほとんど全部の子が高校卒業まで地元に居ます。
 そして、高校卒業と同時にほとんど全員が田舎から出てゆきます。
 就職・大学・専門学校・・・すべて遠くの都会にしか行くところがありません。
 今年ももうすぐ田舎から高校卒業生の数だけ若い人が減ります。
 これは日本が・・・と言うより世界中でその国が近代化し始めると同時に始まったことですね。
 ある意味での『資源輸出』でした。
 非常に見返りの少ない輸出品でもありました。
 その資源もそろそろ枯渇してきています。
 どんどん輸出を続けると、再生産がきかなくなりますからね。
 熊野地方ではもうその時期に入っています。
 『金の卵』なんて呼ばれたことのある輸出品を生む親鳥が『じじ鶏』『ばば鶏』ばかりになってきましたからね。

 私も一度は東京に出ていた身です。
 Uターン組というやつでしょうかね。
 その頃は林業家の息子であればUターンしても食えた時代だったのです。
 私のような『キクイムシ』が生息できた訳です。
 今では『キクイムシ』は生息できず、キクイムシが生息するために必要な糧の山林を育成し管理・伐採・製材・運搬などをやって来た周辺の『働き人』(はたらきど)も仕事を失いました。

 まあ、見返りももらっていますね。
 熊野市が使うお金、当初予算でも市民一人当たり60万円ほどですから、よそ様からお金を送ってもらわないと全く足りませんからね。
 おまけに北海道の高速道路を笑えないような熊や猪が走りそうな高速道路も作ってもらっていますからね。
 文句を言っちゃあいけませんね。
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熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-27 12:55 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2009年 02月 26日

熊野の旅 熊野古道の周辺の保全

 熊野古道の周辺の景観保護について、世界遺産指定以前から地権者とのすれ違いが一杯ありました。
 国立公園同様、上のほうで勝手に指定して、まるで説明もなしで私有財産の利用制限がある日突然言い渡されました。
 地元への宣伝は、まるで金のなる木を見つけたようなものですしね。
 一部の下せいになる人に対する補償などありません。運が悪かったのだから諦めろ・・・と言うことです。
 しかし、広大な面積を所有し、莫大な資産があって、その隅っこをほんの少し犠牲にするのならまだしも。少ししかない山林や畑などを自由に出来なくなるのでは、『運の悪かった人』はたまりませんね。
 
 そうしたことへの反発で行動に出た人の例が尾鷲での熊野古道周辺への落書き騒動でしょう。
 最初は山林所有者が悪人扱いでしたね。
 しかし、今の役所のやり方に無理があることが、鈍感な報道陣にでも分かってきたらしく攻撃的な論調がなくなりました。

 先ごろはJRが工事の段取りをするのに、『熊野古道』の脇にある石垣を取り壊したことが報じられていました。
 姫路城などのように、誰がどう見ても『世界遺産』と言うようなものではなく、誰がどう見ても、『普通の田舎道』なのですから、やっちゃってもおかしくは無いですね。良いことではないですけどね。
 里中、里山を300Km も通るような熊野古道では起きても不思議じゃないです。
 現に熊野古道と言われる道のかなりの部分が近代に直されたのものです。
 壊すのは別として、脇の石垣を積みなおし、周囲の山を植林・育林してきたから。千年もの長い間、道が道ちであり続けたのです。

 周りにいついて、民間には『あれをしちゃあいけない、これは禁止だ・・・』と、言いつつ、公共事業となるとフリーパスのようです。
 石畳でなかったところに石畳を作り、木を切り払って展望台を作り、山の中に延々と手すりと作って・・・改造のし放題です。
 
 熊野古道歩きのお遍路さんは居ないわけですから、ここを歩くのは観光客の人です。
 地元の自治体が期待するのは、表面上は『観光客の落とすお金』なんですが、本当は、便乗の公共事業みたいです。
 この手の事業は県がらみで、県の方もまだ飽きてこないらしく結構熱心ですからね。
 おかげさまで、山道もずいぶん歩きよく、安全になっています。

 昨日の関連ですが、去年伐採された『松本峠』の周辺の山林・・・植林するとすればこれから2ヶ月ほどの間なのです。
 木を切ったお金で、植林・育林すると、生活に使う分のお金など無くなるご時世なのですが、果たしてどうなるやら・・・
 ちょいと石畳を増やす程度のお金なんですが、買い上げて公共事業ではやらないでしょうね。
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カメラはオリンパスワイド

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-26 11:44 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 02月 25日

熊野の旅 雨の多い春先は・・・

 今年の春先はものすごく雨が多いです。
 大雨が降るわけではないですが、回数は異常に多いです。
 昔だと、山主は喜びました。 
 山働きの人は濡れますから嬉しくは無かったのですけどね。

 この時期は、杉・桧の植林の時期です。
 北の方ではまだまだ雪があったり、地面が凍ったりして無理ですが、ここ南紀ではこの時期に始まります。
 この地方では、桧の苗を植える作業でも。植林作業は『杉苗植え』と呼びます。杉のほうが古くから植えられたし、植林面積がはるかに多いからでしょうね。

 普通、野菜の苗でもバラなどの苗でも土を丁寧に掘り起こし砕いて、水をたっぷり与え、植え終わったらまた水をやります。
 そうしないと、つき難いからです。
 しかし、『杉苗植え』はその逆を行います。
 やたらと掘り起こさないで、『トンガ』(唐鍬)をガツンと打ち込んで、地面を少し持ち上げ、その隙間に根っこを入れ、そのままトンガを引き抜き。足で踏んで固めます。
 もちろん、一本一本水をやるなんてことは出来っこありません。
 普通の園芸指導家がみたら腰を抜かすような手法なのです。
 中国あたりの土しかない乾燥地に比べれば腐葉土もある日本の山地は少し入れば湿気は保たれることが多いです。
 しかし、そんな日本の山地でも、春先に乾燥が続くと皆伐して丸裸にした山では、1尺掘っても土煙が上がるほどになります。

 『杉苗植え』に従事する人たちはお百姓さんです。
 丁寧に掘り起こし、水もやれば活着しよいし、根の張りも早いのは知っています。
 しかし、江戸時代のには始まっていた『杉苗植え』の長年の経験から、その方法では駄目なのを知っています。
 掘り返せば、その後の乾燥が奥深くまで届いてしまう・・・
 広く耕せば、春から梅雨に掛けての豪雨で土が流出してしまう、場合によっては山腹崩壊の元にさえなる・・・
 根の数の多いしっかりした苗を育てておけば、少々の乾燥には耐えて雨を待つ力を杉や桧の苗は持っている・・・こんなことは知っているのです。
 だから、・・・
 「ドスッ」「グキッ」「ギュッ」「ドンドン」の動作で、鍬入れ・掘り起こし・苗の生けこみ・踏み固めを終えるのです。
 この単純な作業ですが、人によって活着率がずいぶん違います。下手な人のは枯れる率が高いのです。
 しかし、一番影響するのは春先から入梅までの日照です。
 大雨は要らないのですが、少しずつ降ってくれるとほとんどの苗が付いてくれるので、植え付けに時期から梅雨までの間の雨は山主にとってはありがたいものなのです。
 それに、成長期や成木の杉桧でも、新芽を吹いて大きく成長する時期に雨が降るとその年はよく伸びます。
 何百年も経った杉の木などを倒すと、ところどころ年輪幅が異常に狭いところがあります。
 その場所が天保の飢饉の年とかに当たるわけです。
 古文書を見なくてもその地域の飢饉の歴史が分かるくらい雨が大きく生活にかかわってきたのです。

 しかし・・・
 近年では今年のように春先に雨が降っても、それを有難がる山主も減ってしまいました。
 跡継ぎが都会に出てしまい、地元には居ない・・・地元で林業に従事し山林管理で生計を立てていた人も山では食えなくなってしまった・・・伐採した後に植林できるほどの金が大きな木を切っても取れなくなった・・・
 切らなくても放置、切っても放置・・・
 そんな状態では、自然の恵みにも目が行かなくなりますね。
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熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-25 12:18 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 02月 24日

熊野の旅 5年前

 伊勢湾台風から50年ですが、ずいぶん昔のことで被災地でも忘れられかけています。
 5年前の7月には『世界文化遺産』に『紀伊山地の霊場と参詣道』が指定されました。
 10年一昔と言いますから、伊勢湾からは五昔、世界遺産指定からは半昔です。
 あんな大きな災害でも二昔くらいの頃から人々の記憶から薄れてゆきました。
 まして、身にしみて怖かったとかうれしかったことも無い「世界遺産」は半昔でそろそろ消えかかっている感じもします。
 ただ、これは一過性の被害ではなく、そこに『世界文化遺産』があるので近くに住んでいる人は完全に忘れることは無いでしょうね。
 その範囲が、吉野・大峰(吉野山、金峯山寺、大峰山寺、吉野水分神社、吉水神社、金峯神社)、 熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、西岸渡寺、那智大滝、補陀洛山寺、那智原始林)、高野山(金剛峯寺、丹生都比売神社、慈尊院、丹生官省符神社)、参詣道(大峰奥駈道、熊野参詣道、高野山町石道などと広範囲にわたり、参詣道においては全長307Kmほどもあるそうです。
 何本にも分かれているのでこんな長さになるのですが東京ー名古屋に匹敵するくらいでしょう。
 それだけ、近隣集落が多いということです。

 私はこの広大な世界遺産、『紀伊山地の霊場と参詣道』の東の入り口付近に住んでいることになります。
 まあ、入り口付近とはいえ『世界文化遺産』の中に住んでいるような形です。
 それにしても、広いですね、
 特別世界遺産めぐりをする気もありませんが、なんだかんだとこの遺跡群の多くにはお参り?見物?に行っていますね。
 このあたりの人には無縁に近い、『丹生都比売神社』なんて所にも行っています。
 それにしても広いです。
 昔に『吉野熊野国立公園』を指定した時もつかみ所が無いほど広かったものです。
 山はあっても取り立てて言うほどの名山があるわけでもなし、きれいな海岸線だらけで「ここだ!」と言うポイントもなし・・・つかみ所の無い『いいところ』なんでしょうね。

 『熊野はいいところ』『南紀はいいところ』・・・と言っても、『どうして?』と、聞かれると困るんですね。
 『暖かい』と言っても海岸線だけです。
 『海がある』と言っても、波が荒くて海水浴場も少ないし、ヨットハーバーもなし・・・
 『魚がおいしい』と言っても、地場で揚がる魚もそんなに変わったものもなし・・・
 『固定資産税』『国民健康保険税』は全国でもトップを走るくらい高いし・・・
 普通の田舎・・・なんでしょうね。

 それでも・・・
 暖房なしでも冬が越せるし、霜や雪の心配なしで年中家庭菜園も出来るし・・・
 その気になれば『熊野古道歩き』になら毎日でも行けるし・・・
 『大衆魚』であれば新しいのが手に入るし、たまには『イルカ』や『鯨』も安く出てくるし・・・
 本当かどうかは知りませんが、『補陀洛・極楽浄土』に一番近いのだそうですし・・・
 あまり使い道が無くても、もうすぐ高規格道路と言う高速道路も出来ますし・・・
 リタイア組、お迎え待機組には良い所かも知れません。
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 ここが高野山の守護神と言われる『丹生都比売神社』(にぶつひめじんじゃ)です。
 あまり、交通の便のよくない場所なので立ち寄る人は少ないようです。
 「八百比丘尼」だとか「真井御前」などに由があるところらしいです。
 田舎らしくなく、朱塗りの神殿が並んでいるのも、都直結の空海や真井御前が建立した神社だからでしょうかね。
 ここも、よさそうな『田舎』ですよ。

カメラはツァイス・イコンタ523/16

高野山・丹生都比売神社付近の地図です

by je2luz | 2009-02-24 12:39 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2009年 02月 23日

熊野の旅 50年前

 今日の朝日新聞三重版によりますと、今年9月で『伊勢湾台風』から50年になるようです。
 伊勢湾台風を知る人もほぼ全員還暦を越える年寄りばかりになってきたわけです。
 役所などからは経験者の姿が消え、残された数字だけが残るのでしょう。
 このあたりでも、以前から、海岸の防災とか河川の改修のときに引き合いに出されるのが『伊勢湾台風級の台風にも耐えられる・・・』と言うものです。
 しかし、その根拠になるデータ、参考資料は残っていないのです。
 『南海・東南海地震』に関しては、太平洋戦争末期ということもあり、軍部が日本国内の大災害を発表すると国民が動揺し、米国を利する・・・と言うことで、公表させず、記録写真なども回収・廃棄したのであまり残っていなくても当たり前なのですが、世の中が落ち着いていた『伊勢湾台風』の記録も、意外と公式には残されていないようです。
 これは、今のお役所の文書管理も大きく影響しているでしょう。
 くだらない書類を大量に作る習性から、書類の保管が大変・・・だから、古いものは捨てる・・・と言う図式を作ってあります。
 本来は、事務連絡のメモでも残っていた方が後日役に立つものもあるのです。
 残っていない方が役所にとっては都合がよい時の方が多いでしょうけどね。
 早ければ二年、大体五年もすれば焼却処分されます。
 『永久保存』とでもはんこを押さないと、決まった日にロッカーから引っ張り出されて事務的に搬出されます。
 背表紙だけを見るだけで、中身までチェックなどと言うことはありません。
 それをやったら、個人の家の大掃除みたいに前に進まなくなりますけどね。

 『伊勢湾台風』の時には私は木本に居ました。
 ニコンFの到着待ちでした。
 予約したのが伊勢のカメラ屋だったので、ものすごく心配したものです。
 手元には、オリンパス35Sがありました。

 台風のさなかには石垣に守られた裏座敷の小窓から裏の堤防に高潮が打ち寄せるのを見ていました。
 堤防に波がぶち当たると、家は衝撃で大きく揺れ、波しぶきが大きく目の前に立ち上がります。
 その波に含まれる小石が、吹きすさぶ強風、おそらく50m級の風でしょう・・・それに乗って飛来します。
 距離は今の国道と歩道をあわせただけです。
 石垣、植え込みがあるので風はずいぶん弱められては居ますが、ばらばらと音がしました。
 一部はさらに30mほど離れた母屋まで飛んでいます。
 豆粒くらいの小石ですが、速度が速かったのでしょう、薄いガラスに空気銃で撃ったときのような穴が開いていました。
 今の国道は芋畑や倉庫、平屋のアパート、平天工場などが並んでいたのですが、目の前で波が堤防を越えたとき、一発目で大きく揺れ、二発目で倒れて流れ始めました。

 こうした現場に居合わせた人間はほとんど居ないのです。
 石垣に守られているとはいえ、何がおきてもおかしくないので、海岸線の住民は避難しているか、一番海から遠い方で震えていたはずですからね。
 何しろ、まだ高校生で怖さを知らなかったので目撃したわけです。
 台風が通り過ぎてすぐに、木本町内と駅前方面を見に行きました。
 木本では本町筋、関船町辺りから馬留までは道路が瓦で舗装された状態でした。屋根瓦が無事だった家は皆無と言う惨状ですが、人的被害はありませんでした。
 駅前は、市役所脇から駅に掛けては井戸川の逆流で水浸しになり、駅前にあった製材所群から流れ出た丸太が散乱していました。
 分譲したてでぽつぽつ新築の家が建っていたのですが、一階部分はすっぽり浸かる状態でした。
 色んな垰風を経験しましたが、こうした災害の大きさはやはり『伊勢湾台風』が一番でした。

 残念ながら、こうしたものを写真に残していませんね。
 大人だったら残すのでしょうが、子供にとってはそうしたものを記録として残すと言う考えが浮かばなかったようです。
 高いフィルムを買ってまでは出来なかったのでしょうね。
 今となっては残念なことです。
 口で説明できるのはほんの一部ですからね。
 それと、実態は写真を見せてもぴんと来ないくらいの物ですから、見せるものもなしでは・・・
 
 ただ・・・
 その経験から、人間の作る堤防対台風の勝者が予測できるので、高く見える堤防も信用できません。
 少しでも木本の町を守れるように、『潜堤工事』だけは何とか取り付けておきましたが、あと何年かかるやら・・:
 目に見えない工事ですから、やっていることを知らない人の方が多いようです。まして、その効能などほぼ全員知らないのでしょうね。
 知られなくても、守れればそれで十分なのです。
 でも、自然の力の大きさだけは少しくらい理解してほしいですね。
 折り合いをつけるのがやっとで、勝つなんて出来っこないですから・・・
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カメラはツァイス・イコンタ35

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-23 12:12 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2009年 02月 22日

熊野の旅 大正モダンの流れ

 昨日の写真は木本町親地町にある建物です。
 どうやら住む人が居なくなって何年か経っているようです。
 木本発祥の地、漁師町だった『親地町』は道も狭く、路地も入り組んでいる場所で、敷地も狭いものが多いのですが、この家は普通の家の倍くらいの間口を持っています。
 建築様式から言うと、大正から昭和初期の建物ですね。
 ガラスを入れることを前提として、ちょっとモダンに・・・
 そんな建て方です。
 明治に始まった『ハイカラ』にあこがれる風潮がひと段落して、普通の建築が少し明るくなった時期です。
 どなたが建てた物か調べては居ませんが、結構、羽振りが良かったものと思われます。

 木本の町並みは古くからのものですが、残されている建物はそんなに古いものではありません。
 立て込んだ町並みのところはどこへ行ってもこんなものかと思いますが、明治期のものがあればものすごく古い方です。
 田舎の一軒家のように江戸期と言うものはありませんね。
 火事の記録も見られますし、地震・津浪の記録もずいぶんありますから、破損・倒壊・焼失などで残されていないのでしょう。
 それに、お屋敷の体をなさない町屋は構造自体、大黒柱を使った強固なものは少ないですからね。
 極端な話、昔の庶民の家などはお互いに支え合って立っているようなものさえありますからね。
 現に、建物が傷んできて取り壊そうとしたら、隣がもたれかかっているので、その建物だけを取り壊すわけには行かない・・・なんてのまでありますからね。

 木本の建物は隣と隙間なく建てます。
 したがって、新しい家には外壁が張ってありません。
 土壁も室内側からだけしか下地も塗ってありません。
 舞台装置のようなもので見えるところだけなのですが、これは手を抜くのではなく人間が入れないので出来ないのです。
 外壁もない建物ですが雨風は入りません。
 外壁に隣の屋根が食いついているからです。
 新しい方の家の屋根は隣の屋根の高さや勾配をきちんと考えて決めます。そうしないと、建前の後で大変なことになります。
 かくして、間口2間半、3間と言った敷地に幅一杯に建てた家が並ぶ、町の景観が出来上がったわけです。

 親地町は一番古く出来た町なのですが、飲み水の支えとなった『西郷川』(にしごうがわ)沿いに道を作ったので木本の本町や記念通りなどの町並みとは90度向きが違います。
 片側は西日をまっすぐに受けることになります。
 朝日の方向は壁になる町並みなのでちょっと気の毒です。
 今式に四角い敷地で、隣との境界に空間を設けるのなら、表通りではない側から太陽が昇るほうが暮らしよい家が建つのですけどね。
 間取りもままならない町屋はこうした表構えで差別化を図るしかなかったでしょう。
 この建物も、そう長くは残してもらえないでしょう。
 この建物は『松本峠』を歩いた人の過半数の人が前を歩いているはずです。
 ほとんどの人の目には留まらないでしょうけどね。
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 カメラはウェルタ・ペルレ・テッサー75mmf2.8

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-22 11:03 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 02月 21日

熊野の旅 紀伊半島改造計画

 先日来、ここに掲載している写真を撮っているドイツ製・ウェルタ・ペルレと言う蛇腹カメラは1930年代に作られたもので、この機体は37年か38年のもののようです。

 戦前のこのころは、日本の近代化が加速した時代です。
 日本中に自動車の走れる道路が作られ、輸送の大動脈としての鉄道がどんどん開通し、どんどん新路線が計画された時代です。
 今の、『紀勢本線』もこのころに原型が出来上がって行ったのです。
 そして、以前にも触れたことのある、新宮ー奈良五条の間を結ぶ『五新鉄道』が決定したものこの時期です。
 いまの国道168号線沿いに、紀伊半島を南北に貫こうと言うものです。
 吉野から紀州へ掛けての森林資源を搬出すると言う大義名分があったようです。

 『五新鉄道』は一部着工され、戦後も早期完成運動だとか、近鉄に身売り話だとか色んな話題を呼んだものです。
 しかし、地元でもすっかり忘れられた鉄道新線がもう一本あったのです。
 木本町から今の国道169号線と同じルートで吉野に抜けようと言う、『吉木線』です。
 昭和10年(1935)には鉄道省において実地調査を行っています。
 先に計画されていた『五新線』は建設が決定されましたが、昭和の大恐慌などで着工が延び、着工したら戦争激化で中止と言う受難な路線で結局はほんの一部を工事しただけで廃線になりました。
 『吉木線』は測量までも行かずに立ち消えになったのでしょう。
 このほかにも吉野から伊勢に抜けようと言うので吉野口から相可口(おうかぐち)・現多気を結ぶ『吉相線』と言うのも計画されたようです。
 これらはすべて、吉野から紀州の森林資源の活用を視野に入れていたようです。
 いくら鉄道時代でも、旅客輸送という面ではそうは見込めない場所ですからね。

 道路網も大正から昭和のこの時期に骨格が出来たようです。
 そして、紀伊半島も今の『熊野古道』から脱却して近代化する大計画が立てられ、改造に着手したようです。
 しかし、需要の見込めない鉄道は『紀勢本線』の全通も戦後15年経ってからでした。
 国道は旧規格の42号線169号線168号線は何とかつながりましたが、改修されて大型車が通れるようになったのは二桁国道の42号線でも昭和45年(1970)ごろです。311号線に及んではつながったのは平成の御世、21世紀になってからです。
 でも・・・
 『五新線』『吉木線』が出来ていても、今頃は廃線になって巨費の無駄遣いだったでしょうね。
 国鉄合理化、廃線化が進んでいるころにも『五新鉄道建設促進同盟』なんて看板が立っていたものです。
 同じころに『乗って残そう紀勢線』なんて運動もありましたしね。
 幹線の『紀勢本線』の廃線が取りざたされるようになっても、新線建設運動があるなんて不思議なものです。運動した人も乗らないはずの路線でもねえ・・・

 かくして、紀伊半島改造計画は80年の時を経ても姿を見せませんでした。
 姿を見せなくて良かったのかもしれません。
 秘境が秘境で居られますからね。
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 このHPには五新線や吉木線の経緯が載っています。
    http://www.shin-yas.com/goshin-hist.html

 カメラはウェルタ・ペルレ・テッサー75mmf2.8

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-21 11:17 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 02月 20日

熊野の旅 古い家

 今日はちょっとばたばたしていましたので・・・
 などと言い訳しつつ・・・
 ネタも少ないことですし、短い話でお茶を濁すことになりました。
 そんなに寒くないのに写真は鳥に出ませんし、暖かい日には霞や黄沙がかかりますし・・・
 ガソリンはうんと安くなったので良くなったのですけどねえ・・・
 本町の展示場の展示用写真も言われているのですが、きちんとまとまらないので困っています。
 何を撮るべえかなあ・・・
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 この建物は、熊野市駅から熊野古道・松本峠に向かう途中、西川町にあるお宅ですが、以前にも載せたことがあります。
 去年、外装を直しました。
 決して住みよい家ではないのですが、家を長持ちさせるには外回りの補修が必要です。
 今回も外壁を外観を損ねないように直されました。
 直す直前にここのおばあちゃんと少し立ち話しましたが、『住みにくい家でも潰してしまう訳には行かないし・・・』とおっしゃってました。
 たとえ重要文化財とかでなくても、昔からの家はこうして守られてきたわけです。
 私もこんな風な家で育っただけに、住みにくさは良く分かります。
 でかいくせにプライバシーなんてありませんしね。
 もう、数えるほどしか残っていない『木本の家』もいつまで残されることやら・・・
 家よりも先にそこに住む人が居なくなりますからね。
 私が立てた家などは、百年経っても『木本の家』にはなりません。
 内部を実用的には作りましたが、風格だとかは出てきませんからね。
 古い家で育った反動かもしれません。

 カメラはウェルタ・ペルレ・テッサー75mmf2.8

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-20 13:04 | 熊野 | Trackback | Comments(4)
2009年 02月 19日

熊野の旅 持統天皇のころ

 天武、天智とくれば当然持統天皇も出てこなくては・・・
 とはいえ、この持統天皇は正式の天皇・女帝ではないと言う説もありますね。

 そんなことはどうでも良いのですが、驚いたことにこの持統天皇がこちらにやってきたという記述が「日本書紀」にあるようです。
 持統6年(692)に阿胡師の行宮に行幸と書いてあるそうで、これは熊野市の甫母町らしいですね。
 二木島の神武天皇の伝説と関連があるのでしょうかね。
 それ以外には二木島だ甫母なんてところに天皇がやってくるはずもないですね。
 今でも、ガイドブックには乗っていても観光客は足を向けないところです。歴史に出てくるのは遭難船が流れ着いたときと相場が決まっているあたりですからね。
 天皇の行幸と言うことで、このときに地元の豪族?がご馳走を献上したようです。
 5月6日だそうですから、今の4月です。 サンマのシーズンは終わっていますが、ワラビ、たけのこも出したのでしょうね。
 持統天皇はこの9年後に牟婁の温泉に来ているようです。
 年号も「大宝」に変わった年です。
 例の『大宝律令』の出来たときで、この法治国家を作るのにこの女帝が尽力したらしいです。
 天武天皇の后と言うファーストレディから天皇に・・・ヒラリーが出来なかったコースですね。
 中々の切れ者、女傑だったようです。
 しかし、旅行好きなおばさんでもあったのでしょうか・・・

 このすぐ後が『和銅』です。
 今では違うのではないかと言われる、日本最古の鋳造貨幣『和同開珎』の作られた時代ですね。
 そして、『古事記』もこのときに出来ています。
 古事記の編纂にも持統天皇はかかわっていると言うことでしょう。
 結構、色んな動きのあった時代の女帝ですが、下々の方は相変わらず災難に見舞われっぱなしだったようです。
 地震だ台風だ疫病だ・・・ついでに諸国に『蝗』が大発生したり・・・
 まあ、古代には珍しいことではなかったようですけどね。
 そして、この時代でもこうした時に災害救助法のように薬が下げ渡されたりしたようです。
 牟婁の地は歴代天皇の行幸の多い土地ですから、ど田舎の割りに中央に手を入れてもらいよかったかもしれませんね。
 近代では昭和天皇が鬼ヶ城に来られたことは覚えていますが・・・今上陛下も皇太子のころに来られたのかな?
 総理大臣は『伊勢神宮』には参拝してもこの南紀には下りてきませんね。
 交通が不便だった昔の方が熊野の地、牟婁の地は中央に近かったようです。

 でも、古い記述に残るのは行幸と災難が多いようで・・・
 いまでも、新聞に記事が出るのは、災害と事件・・・『熊野古道』などはもう忘れられかけたのでほとんどでないですしね。
 それなら、新聞などには出ない方が良いですね。
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 持統天皇が今の人なら、お召し列車でこの『二木島駅』に降り立たれるのでしょうね。
 トンネルとトンネルの間のちょこっと明るい場所にある小さな駅ですから、特急で旅する人には気づかれることも無いかも知れません。

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-19 12:06 | 熊野 | Trackback | Comments(0)