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LUZの熊野古道案内

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2009年 01月 31日

熊野の旅 大又川 4

 『大又川』があるのですから、当然のように『小又川』もあります。
 国道42号線の道の駅『熊野きのくに』のすぐ下流の小さな橋・・・渡ることも気が付かないほどの橋のところで、その『小又川』が合流してきます。
 二股に分かれて、大きな方を『大又川』小さなほうを『小又川』と名づけたようで、実に簡単明瞭です。
 集落も大又川に沿っているところが『大又』で小又川に沿っているのが『小又』になります。
 川の大きさどおりに流域の大きさも大又のほうが少し大きいので集落の大きさも大又のほうが大きいですね。
 この熊野川の支流全体も大きくて長いほうの名前後そのまま使われて『大又川』です。

 『大又川』は国道42号線と出会うところくらいから下流はあちこちに岩盤が露出した部分、『なべら』がありますが、ほとんどの場所が丸い石や岩がごろごろした川原と川底です。
 その部分は『ごろ』と呼んでいます。
 これも単純な名づけ方ですね。
 急流なのでほとんどの場所が『瀬』になっています。
 淵の部分が非常に少ないです。
 所々になる小さな淵が水泳場になっています。
 この淵のことを『ドンボ』と言います。
 この『ドンボ』も『ナベラ』同様、変な名前ですが、ニュアンスが伝わってくるようなものです。

 急流と言っても、ごろ石で覆われた川ですから、水遊びには向いています。
 割合と安全な川ですね。
 ここの『うなぎ』は大きな川のような砂地ではなく、ごろと岩の川底ですから、住処はふんだんにあります。
 近年は砂防ダムがいっぱい出来てごろ石の原料の流下が減ったためか『ごろ』の層が薄くなりましたが、昔だと隙間だらけのごろが1mも2mも積み重なっていましたから、うなぎはどこででも隠れられたのです。
 泥交じりの川ではないので捕れたうなぎも当然変な匂いはしませんし、急流ですからよく運動しているのでおいしいものです。
 しかし、この『うなぎ』も、この50年は放流物です。
 『熊野川総合開発』で作られたダムには『魚道』などというものはありませんし、ダムの堰堤をよじ登れるような小さなものではありません。
 放流が多かったころにはたくさんいたのですが、近年ではだんだん減っているようです。
 ダムの保障で貰った、漁業組合の資金も底を付いてきているようですからね。

 『うなぎ漁』には鑑札はいりません。
 と言っても、よそから来てすんなり捕れるほどうなぎ漁は簡単ではありません。
 でも、自分でとったうなぎの蒲焼は一味違いますよ。
 タレが『秘伝のタレ』でなくてもおいしいですよ。
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熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-01-31 12:27 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 30日

熊野の旅 大又川 3

 昨日書いた『大又川の鮎漁』ですが、解禁日がテレビなどで放送されるほかの川に比べ少し遅めです。これは稚鮎の放流時期や水温と関係あるのかもしれませんが以前からずっとそうですね。
 解禁は解禁日の夜明けからのようですね。
 なんだか、前の晩から川原で夜を明かすとか聞いたことがあります。
 少しでも良い場所をとりたいのと、一種のお祭り騒ぎのようなところもあるのでしょうね。
 私は『鮎漁』はやらないのでそれに参加したことはありません。

 私が鮎を捕ったのは、ヘシ(モリ・ヤス・カナツキ)で魚を追いかけていて『間違えて』突いてしまった時だけでです。
 この『間違えて・・・』が結構多かったですけどね(笑)
 間違いじゃないと、ヘシで捕ることは禁止されていますからね。
 この漁法を認めたら、鮎はほかの魚よりずっと捕りよいものですから友釣りなどで捕れないほど突いてしまうでしょうね。
 鮎には『縄張り根性』があるので、それを利用した『友釣り漁』がありますが、モリを使うときもこれが鮎の命取りになります。
 普通の魚はやりそこなうとなかなかもとの場所に戻ってきませんが、鮎の馬鹿はすぐに戻ってきます。命がけで縄張りを守ろうってことでしょうね。
 ただ・・・
 鮎は傷みの早い肴です。死ぬとすぐに黄色くなって色が変わります。
 おまけに体が柔らかなので、捕ったもののエラから口へ絵本の熊が鮭を枝に刺して運ぶようなことをやるとすぐに千切れてしまうのです。
 ほかの魚は猫柳の枝を使って、エラから口へ突き通し、腰につけて漁を続けられるのですけどね。
 おまけに、やっちゃあいけない漁法ですから見つかるとしかられますしね。
 
 『こら!鮎を突くな!』
 『ウグイを突こうとしたら目の前を鮎が横切ったんで当たってしもうたんさ!』
 『あほう!』
 『俺はウグイの方をを捕りたかったんじゃ!』
 『阿呆な事いうな。もうしやれんぞ!』
 などという会話で昔は済んだものです。

 今では『ヘシ』を持って魚を追いかける大人はもちろん、子供もほとんどいなくなりました。
 それに、魚が全般的に小振りになってしまいました。
 かつては1尺になるようなウグイなどがいたものなのですが、今では釣るのも気の毒なようなのがほとんどです。
 川の中のいろんな条件が変わったのでしょうね。
 昔は川で洗い物までしていたのですから、米粒などはたくさん流れたし、洗い場になるところの周りにはいっぱい魚が住んでいて、人間が来るのを待ちかねていました。
 その時代の洗い物は、洗剤など無しでお釜を洗ったり、野菜の泥を落としたり・・・えさは入っているけど有毒なものはなかったから、流しても魚たちが浄化してくれたのでしょうね。
 農地への農薬使用も少なかったですしね。
 だから、川の中の虫などもたくさんいたし・・・魚がどんどん大きくなったのでしょう。
 今は、昆虫の幼虫や魚のえさにならないものが増えて、化学的な富栄養化だけが進んだのでしょうね。
 計れば栄養たっぷり・・・でも、虫や魚の食うものはない・・・これが今の河川なのかもしれません。
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by je2luz | 2009-01-30 11:21 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 29日

熊野の旅 大又川 2

 昨日書いたように、太平洋に突き出した紀伊半島にあり、河口もほかの河川とは離れている『熊野川水系』ですが、変わったものも住んでいないようです。
 『はえ』『ウグイ』『川むつ』『はぜ』『アメノウオ』『ふな』『あゆ』『うなぎ』くらいでしょうかね。
 そうそう・・・後から出来たダム湖には『バス』も『ギル』もいっぱいいるようです。
 ひところほどではないようですが、相変わらず都会から変な連中が、さもさもらしい格好で釣りに来ているようです。
 どうせ釣るなら根絶やしにするだけ釣ってしまえばよいのですが、相変わらず『キャッチ アンド リリース』をやっているようです。
 この行為はちっとも自然保護になっていないのに・・・
 それに、マイナーな放送局は今でもこの釣りを放映していますね。
 『七色ダム』『池原ダム』なんてのも出てきますからね。

 この熊野川水系はアメリカの「テネシー川流域開発公社計画(TVA)」に習って『熊野川総合開発計画』が行われました。
 そして、熊野川には出来ませんでしたが、『十津川』『北山川』はともに、その急流と人口密度の低さから、たくさんのダムが作られました。
 川はそれ以降寸断され、流れ降りる水以外は海との縁が切れてしまいました。
 同じ流域と言っても魚の交流は同じ川同士でも、昭和30年代後半からはなくなりました。
 
 海との間を行き来していた、『うなぎ』と『あゆ』は上流にはいないことになり、それ以降は人為的に『放流』されたものです。
 『うなぎ』は海ですくって捕りますからまあ同じものでしょう。
 しかし、『鮎』は今の全国の多くの川がそうですが、『瑚産』と言われる「琵琶湖産」の鮎です。
 海に落ちないで途中の湖で産卵する種です。
 それが成魚になるからでしょうか、『七色ダム』で幼魚が目撃された時期があります。
 そして、少しですが大又川や北山川へ遡上し始めたのです。
 数は少なかったのですが、それを捕獲して支流のあちこちにある農業用水用の堰から上流に移そうと言うテスト事業が行われました。
 川を仕切り、誘導水路で生簀に呼び込む施設が作られました。
 もちろん、税金です。
 しかし、取れる量は少ないし、『瑚産』を買うより手間もお金もかかると言うことになりました。
 そもそも、七色ダムなどで産卵し稚魚がうろついたのでは、あの獰猛で大食いの『バス』や『ギル』の格好のえさです。遡上前に食い尽くされているでしょう。

 かくして、日本中の川にダムが出来。日本中の川の鮎が『瑚産』になり、金のかかった鮎ですから、『鑑札』なしでは釣ることも引っ掛けることも出来なくなったのです。
 大又川もそのひとつです。
 鮎を捕って遊びたかったら、国道169号線や42号線沿いに・・・『鮎鑑札』とかいた看板などあるところで、一日券なり年間鑑札なりを購入してください。
 年間 10.000円 一日友釣り 3.000円くらいです。
 詳しいことは下のURLにあります。
 ちなみに、先日から載せている『大又川』の赤外写真などはこの案内HPの『釣り場案内』②にある『平せぎ~小坂農協倉庫裏』の部分です。
 鮎つりとはお金のかかる遊びのようです。
 それでも、渡船で磯渡ししてもらうよりは安いでしょうけどね。
 
http://www.za.ztv.ne.jp/oomatagawa/index.html

 この大又川の鮎つりも、だんだん地元の釣り人が減ってきています。
 当然ですよね。
 鮎の放流が始まったころに比べれば人口も半減しました。
 住民の半分くらいが年寄りになったし、そのお年寄りのほとんどは女の人だし・・・ごろ石の川を歩くのも命がけ年代になっていますからね。
 よそからお見えになっても、地元の釣り師にせり出される心配はないですよ。
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by je2luz | 2009-01-29 11:21 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 28日

熊野の旅 大又川 1

 子供のころから不思議なのは、日本の川って大河が少なく割合と短い距離で海に落ちてゆきます。
 更に流域それぞれが険しい山によって区切られています。
 河口部でも大きな平野のあるものを除き千年に一回の大洪水でも淡水が横につながることはなかったと思います。
 この辺でも、一番大きくて流域の広い『熊野川水系』と独立した『井戸川』『志原川』や『大泊の川』などは山越えで魚が移動するしか河川の住み替えは不可能だと思います。
 「山女」は陸地を使ってでも移動するようなテレビを見ましたが、ほかの魚も昔は陸を歩いたのでしょうかね。

 なぜこんなことを言うかと言うと・・・日本中の川にはほとんど同じ種類の魚がいるからです。
 近代になってから広がった『バス』だとか『ギル』などは、何も考えない自己中のマニアが放して回ったから広がってしまったのですが、『ウグイ』『ハエ』『フナ』なんてのも『原始人』が竹の筒にでも入れて放して回ったのでしょうかね?
 川によって生きるために習性が少し違ったものがいるようですが、体系などは同じで、隔離されたからという理由の『進化』は見られませんね。
 『鮎』とか『うなぎ』は海に下りますから移動しても不思議ではないですが・・・

 まあ、そんな疑問は横に置いておくことにします。
 熊野川水系は新宮の河口から少しさかのぼると、二つの大きな川に分かれます。
 一本は左に向かって遡る『十津川』、もう一本は大きく右に曲がって紀伊山地をさまよう『北山川』です。
 『北山川』は山深く分け入ってから更に二つに分かれます。
 一本はそのまま紀伊山地の奥に向かい大台ケ原の南斜面の水を集めてきます。それが『北山川の本流』です。
 その途中、国道169号線の下北山村小口のところで大きく右に分かれてゆくのが『大又川』です。
 『川に名前は河口の地名からつけるのだ・・・』という論法があるらしく、『熊野川』が一時期『新宮川』になっていたことがあります。
 これは地道な運動で『熊野川』に戻してもらいました・・・と、言っても今でも併記されていますけどね。

 前置きがずいぶん長くなったので、本題に入る前に・・・
 『今日の続きは 又 あした・・・』 と言うことにします。
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by je2luz | 2009-01-28 12:06 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2009年 01月 27日

熊野の旅 禁じられた漁も・・・

 最近のテレビでは、まるで外国の話のように報じられている『ダイナマイト漁』などの漁法は日本でも禁じられている漁法です。
 しかし、戦後しばらくは日本でも行われたのです。
 小さな川ではさすがに『ダイナマイト』は使われませんが、他の方法として『カーバイト爆弾』『バッテリー漁』『農薬使用』などの方法があり、各地でたまに摘発されました。
 詳しい手法を書くと具合が悪いですが、「カーバイト」は今ではほとんど知られていませんが、「発発」といわれる携帯用の発電機が普及するまでには夜店などで照明用に普通に使われていた物です。
 CaC2という成分で水と反応してアセチレンガス(C2H2)を発生する物です。
 『夜店』というとこの明かりを思い出す人もまだ居られると思います。
 この水と反応してガスを発生すると言う性質を利用した爆弾を使ってダイナマイト漁のようなことをやったのです。他に必要な物はこれまた昔懐かしい清涼飲料水のビンだけです。
 爆発音もダイナマイトほど大きくはないし・・・でも、作っておいて持って歩くことの出来ないものです。作成から爆発までの時間制御もままならず、爆発事故で大怪我をしたりもあったようです。
 この辺の川でもこれによる密漁が昔はありました。

 「バッテリー漁」は随分後までやられていたようです。
 何しろ車が普及して身の回りにバッテリーがふんだんにある時代に入りましたからね。
 軽四輪のバッテリーとほんの少しの電気回路で作れますし、近づかないと普通の『夜取り』との区別は付きませんからね。
 電気ショックでしびれて死に掛けの『ウナギ』などを『鰻鋏み』で捕まえるのですから、岩を金てこで動かし出てくる鰻をモリで突くのと違い、一人で出来るし傷の無い獲物が獲れます。
 もちろん禁じられています。
 この漁でも、自分が感電する事故は発生しています。

 「農薬漁法」は普通に考えると、その魚を食べるのは嫌な物ですが、今のように愉快犯とかいたずらではなく魚を取るのが目的でやられたものです。
 これが一番悪い密漁でしたね。
 目的外の魚も下流にかけて大量に死にますからね。
 昔は川の水が洗い物から飲料にまで使われましたから最悪の方法でした。

 こんなような違法な漁法も日本中で横行していたのです。
 ひもじかったのもあるでしょう。
 『順法』という観念も乏しかったこともあるでしょう。
 しかし、そうした道を日本も通ったのです。
 ほんの半世紀ほど前の話です。
 清流『大又川』もこれらの漁すべてを経験してきた物です。
 それでも、今よりはみんな川を大事にしました。
 川がもっと身近にあったと思います。
 子供たちは年の百回は川原に降りたし、大人でも年中川原に降りた物です。
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by je2luz | 2009-01-27 12:36 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 26日

熊野の旅 冬の川遊び 大又川

 昔の子供は季節に応じて遊び方が変りました。
 今でも夏は水遊びという風に季節のあるものもありますが、他はテレビゲームとか季節に関係なく時間を一人でつぶすことが多いようですね。
 その点、昔は外で遊ぶことが多かったし、外で遊べば田舎などでは周りが自然だらけで季節によってドンドン変りますからね、

 熊野市の山間部、飛鳥村(現・熊野市)では集落の真ん中を大又川が流れています。
 大河ではないですが清流で魚も一杯居ます。
 当然、子供の遊び場としては素晴らしいところです。
 夏は水遊びの場所で、ほとんどの子供はお昼ごろから日暮れまでは川で過ごしていました。
 水泳は『解禁日』が学校で決められていましたが、悪ガキどもは、『はまった』という口実をつけて解禁前から遊んでいました。
 『はまった』は『落っこちた』ということです。
 みんな揃って落っこちるわけはないし、服を脱いでから川に落っこちることも無いはずですけどね。
 昔の先生はそんなことでは怒りませんでした。
 見つかっても・・・『はよ上がれよ。風邪引くぞ!』くらいでした。
 本格的な夏になると、男の子は水中眼鏡をかけ『へし』を持って魚を追いかけていました。
 『へし』は『かなつき・もり』のことです。
 私が子供の頃からは自転車のチューブを使ったものが主流に変りました。

 春と秋は魚を釣っていました。
 竹の手作りの竿とバケツがあれば餌は現地調達で『がろじ』を使っていました。
 『がろじ』は四国などでは『ざざむし』という黒い虫です。
 この虫がものすごく減っているので今は探すのにコツが要ります。

 で・・・
 冬場は冷たい水に入るのはさすがに嫌ですが、魚とりをあきらめたかというとそうでもないのです。
 釣りの方は餌をミミズに変えたり、春先には青虫を使いましたね。
 何ももたないで川原で遊んでいて、魚を獲りたくなったときにやった漁法があります。
 『石小突き』です。
 まさに名前の通り、石で小突いて魚を獲るのです。
 魚を直に小突けと言われても無理な話です。
 自分が持ち上げられるぎりぎりの大きさの石を水際の岩にぶっつけて中に潜んでいる小魚を獲るのです。
 ショックで脳震盪を起こして出てきますからね。
 東南アジアでやっている『ダイナマイト漁』の原始的なものです。
 小さい頃は力が無いので、『よいこらしょ・・・ゴチーン』とやっても魚は脳震盪を起こさないで逃げ出すだけです。
 そうしている間に、どんな岩に魚が入っているかも覚えて行くものなのです。
 結構危ない遊びで、石を足に落として指をつぶすなんてこともありましたね。
 それでも、医者に行くなんてほとんど無かったです。
 今ならこんな危ない遊びは学校で禁止になるでしょうね。

 かくして、私たち世代は年中大又川で魚を獲っていました。
 そして、どの部分にどの魚がいるかマスターしていました。
 マスターしていなければ一人だけ漁が少なくて悲しい思いをしなくてはなりませんからね。
 下手だと、『ガキ大将』には絶対になれないですからね。
 魚獲り全般、虫取り全般、チャンバラ、相撲、喧嘩・・・武道百般を極めた物がガキ大将になる資格を得たのです。
 ガキ大将は、年下の面倒も見なくてはならない役目も負っていたものです。
 げに、大変だったわけです。
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by je2luz | 2009-01-26 11:47 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 25日

熊野の旅 手作り玩具 3

 昭和の生まれでも物がふんだんに出回るまでに育った年代と後半のように何でも既製品がある年代では随分違いがありますね。
 後半の子供は、本当に小さい頃は何でもオモチャに出来るし、積み木が飛行機になったり自動車になったりしますが、少し大きくなると、飛行機には羽根が生えていなくてはならないし、自動車には車輪が必要になります。
 私たちの世代は、羽根が生えている飛行機を与えられることはありませんし、自動車の形をしたおもちゃなんてあまりお目にかかりませんでした。
 木切れを結核予防のマークのように打ち付けてあればものすごく立派な飛行機でした。
 同じものが『ゼロ戦』になったり『B29』になったり・・・
 私の年くらいだと、『B29』が出てきたのです。もう少し上だと『B29』は敵国の物でしたからね。
 船はやっぱり『戦艦大和』でしたがね・・・

 私が子供の頃には近くに製材所があったので板切れを拾いに行きました。
 しかし、今の製材所のようにふんだんには落ちていませんでした。
 何しろ、端財の隅の隅まで利用していて、細いところまで『薪』にしていましたからね。
 製材所から拾ってくるのですから、当然カンナなど掛かっていません。ざらざらのままです。
 今なら、サンドペーパーで磨くということもありですが、あの時代はそんな貴重な物が子供の身の回りにはありませんでした。
 セメントの荒いところでこすって、次にモルタルのところでこすって・・・
 ちゃんと、サンドペーパーの番号を変えるような知恵は先輩から受け継いでいましたね。

 のこぎりも両刃の縦挽き、横挽きのあるようなものは使わせてもらえないので、目の粗い薪を切ったりするものが子供の使ってよいものでした。
 当然、切り口は汚いし、最初の一道が入りにくいので手を切るなんて毎度のことでした。
 血が出れば「チュッ」と吸って、しばらく押さえている・・・たくさん出たら、ヨモギを揉んでつける、ヘクソカズラも使いましたね。
 止まり難かったら、ぼろぎれで縛っておく・・・
 今のママさんたちが見たら腰を抜かすようなことをやって育ちました。
 第一、『救急車』なんて物は存在しませんでしたからね。
 もちろん、『バンドエイド』なんてあるわけがありません。

 『血と汗の結晶』とか『血と涙の結晶』などといいますが、その頃の手作り玩具は、まさにその通りの物が多かったのです。
 自分たちで作らないと遊ぶ道具がないのですからね。
 しかし、その作ることが遊びでしたし、手を切れば血が出る、すごく痛い・・・
 チャンバラでもルールどおりに寸止めとかしないとものすごく痛い・・・
 そんな当たり前のことを自分の体で覚えて行ったものです。
 だから、喧嘩にもルールと手加減があったのです。

 丸太とか木の枝とかがあれば、陣地を作って雨風を防ぐくらいは中学に入る頃には出来て当たり前でした。
 釘など必要ないですね。
 『葛かずら』や『藤ヅル』場合によっては『サツマイモのツル』で縛れば出来上がりです。
 サバイバルの術は子供の頃の遊びで身に着けたものです。

 そして、決め手はやっぱり『肥後守』でした。
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by je2luz | 2009-01-25 12:01 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 24日

熊野の旅 手作り玩具 2

 手作り玩具しか遊ぶ物が無かったからでしょうか、何でも作ってそれで遊んでいましたね。
 何しろ物の少ない時代に子供時代をすごしましたからね。

 この辺りは田舎ですから、駆け回る野山は一杯あります。
 ただ、本に出てくるような『原っぱ』はありませんでした。
 何しろ紀伊半島には平地が少ないし、私の育ったのはその中でも山間部でしたからね。
 平らで広いのは運動場と田んぼくらいの物でした。

 ホームセンターとかハンズでキットを買ってくるなんて時代じゃないです。
 物を作るのにふんだんに使えるのは『川原竹』でした。
 この辺りの川、ことに熊野川水系の『大又川』などは清流ですが急流です。
 日本有数の集中豪雨の降るところですから、一雨降ると川は恐ろしい勢いで流れ、川幅一杯になり、岸の田んぼの石垣を洗います。
 狭い川原の草地などの部分を守るために『猫柳』や『川原竹』が植えられていました。
 ことに『川原竹』は密生するし根をぎっしり張るので岸辺を固めるには最適な植物です。
 大又川沿いには無限に近い『川原竹』が生えています。
 この川原竹の生えている部分はほとんど『官地』のはずですが、入会権(いりあいけん)ではないのですが、それぞれ所有権のような竹などの採集権が各家に割り当てられているところが多かったようです。
 農作業で使うキュウリやナスビなどの「手」もこの竹です。フトンを叩いたり手ぬぐいを掛けたりするのもこれです。
 生活の中にきっちり入り込んだ物だったから川原竹も大切にされていました。
 適当に採集し間引きするから勢いの良い竹が生えてきます。だから、川原竹の林の中も歩ける隙間が合ったのです。
 今では荒れ放題みたいですけどね。

 この川原竹を切って来て、『刀』を作りました。
 『チャンバラ』に使うものですが、当時はチャンバラの刀も単なる棒切れではありませんでした。
 川原竹を好みの長さに切り、節の部分もきちんを削り、更に火であぶって適当な反りを作り出し・・・柄には切れを巻いて・・・鍔まで工夫する子も居ました。
 これを腰にさして通学していました。
 ことに冬場は盛んでしたね。
 教室では机の脇に立てかけるのですが、すぐに倒れるので先生にとっては邪魔な物です。
 おしまいには教室の後ろに『刀置き場』を作りました。
 まるで江戸時代のお役所みたいな物です。
 男の子の数だけ刀が部屋の後ろに掛けてあるのですからね。
 教科書や親への連絡手紙などを忘れて帰る子は一杯居ましたが、『刀』を忘れて帰る子は居ませんでしたね。
 『武士の鑑』ならぬ『ガキの鑑』ですね。

 今では、竹の棒を作るときには両端には節を付けないといけない事も分からない子が多いでしょうね。
 小さなナイフで竹を切断するには刃を押し当てておいて、竹を転がしてすっぱり切るなんてことも・・・
 竹は見かけより硬いしすべるから手を切る危険も大きいし、刃物が傷むことも・・・
 その年に生えた緑色のきれいな竹は使い物にならないことも・・・
 昭和が終わる前に忘れられてしまったのでしょうね。
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by je2luz | 2009-01-24 11:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 23日

熊野の旅 本日写真のみ 新春駅伝

 今日は写真のみになります。
 先日の『新春駅伝』の各ランナーの雄姿です。
 場所は木本本町通り、関船町の石畳の上です。
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by je2luz | 2009-01-23 12:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 22日

熊野の旅 手作り玩具

 『肥後守世代』となると、その万能工具を使って自分でおもちゃを作った経験が誰でもあるものです。
 最近、色んな所でやっている『昔の遊び再現』だとか言うようなイベントで紹介されるようなものは、小学生・中学生が遊びで作っていたものです。
 それも大層な道具などありませんからそれこそ『肥後守』一丁とせいぜい『きり』と『金槌』くらいでしたね。
 釘が欲しくても新しい釘などもらえる訳もなし・・・古釘を伸ばして使いました。

 『朝鮮動乱』の時代とかだと、先ごろの金属泥棒が横行した時以上に金属を集めて売るのが当たり前でした。
 折れ釘一本でも拾い集めて居たものです。
 小松左京著『日本アパッチ族』なんてSFがありますが、日本中が鉄くずなどに血道をあげた時代もあったのです。
 そんな時代に子供がおもちゃなど買って貰える訳もなし・・・
 少し前の『中共』じゃ無いですが、『自力更生』しかなかったのです。
 もっとも、どの時代にでも上のほうは別の生活をして居たのですけどね。

 冬になると作ったのが『茶の木鉄砲』でした。
 『茶の木鉄砲』はこの辺の田舎なら何処にでも植えてある『茶の木』の花が咲き始めるときにしか遊べない物です。
 『茶の木の花の蕾』を玉に使うのです。
 細い『川原竹』とそれに入り込める更に細い『笹竹』を使って、空気銃を作るのです。
 『玉』になる『蕾』がぴったり筒の中に納まって空気が漏れないので筒の太さが大きすぎなければピストン部分がぴったり出なくても使えるのです。
 一発目をこめて押し込んでおけば次からはお尻から玉を込めて勢い良く押せば発射できます。

 この鉄砲は割合と安全な物です。
 何しろ『玉』は『茶の木の蕾』ですから、柔らかです。当たっても痛くありません。
 大体は、『パーーン』と派手な音を立てて、筒から飛び出すとはじけてしまって散り散りになるのです。

 これと同じ物で茶の木の花の無い時は『紙鉄砲』として遊びましたね。
 今の子なら、ティッシュを水に浸して丸めるかどうかしないと、親御さんが『汚い』『有毒だ』と騒ぐでしょうけど、昔の子は『新聞紙』を口に入れくちゃくちゃ噛んでそれをちぎって丸めました。
 ちぎった残りは又口の中・・・
 それでも、下痢をする子などいませんでしたね。

 もう一つ・・・
 今なら社会問題になりそうな、『杉鉄砲』なんてのもありました。
 こいつは開花直前の『杉の雄花』を玉にする物で、花粉症の材料をぶちまけるような物でした。
 ものすごく細い竹を使うのですが、玉が固いのでチビのくせに結構飛びます。
 こんなので遊んでも『花粉症』なんて騒ぎませんでしたね。
 その当時の日本人の方がアレルギーだとかばい菌だとかには強かったのでしょうね。
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 1957年3月飛鳥中学校・カメラは オリンパス35S・Gズイコー45mm1.9

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by je2luz | 2009-01-22 12:11 | 熊野 | Trackback | Comments(0)