LUZの熊野古道案内

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2008年 12月 31日

熊野の旅 上天気 2008年大晦日 2009年元旦は?

 2008年の最後の日の出は上天気だったようです。
 東海地方でも北のほうは雪が降ったりしているようですが、南の端は良く晴れています。
 穏やかな天気で、気温もそんなに落ちていません。10時で6.5度ほどです。
 不景気だ、政情不安定だ、社会基盤が崩れだしている・・・などと、世の中は暗い話ばかり多いですが、今年の暮れは上天気で終わるようです。

 明日の日の出に関しては・・・
 熊野市のスポット予想では
  午前3時 曇り 3℃ 北西3m
  午前6時 晴れ 2℃ 北西2m
  午前9時 晴れ 6℃ 西北西3m    だそうです。
 微妙と言えば微妙ですが、日の出時間の7時には晴れている確率が高そうです。

 少し北になる伊勢では、今夜半から明日の午前9時ごろまではずっと曇りと言う予報になっています。
 今回の雲は雪雲ですから、少し南に下ったほうが良さそうです。
 遠くから日の出を拝みに出られるなら、熊野市の七里御浜まで足を伸ばした方が良いようです。
 車の混み具合などからすると、今夜ばかりは伊勢より熊野のほうが早く着くと思います。

 今年も、何とか1年間、少しの休みだけで書き続けました。
 多くの方にご覧頂きありがとうございました。
 来年はもう少しまじめに写真も撮って着たいと思っています。
 毎年そう思うのですけどね。
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木本町全図です
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by je2luz | 2008-12-31 10:17 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 12月 30日

熊野の旅 昔の習慣 おおつごもり

 今でも年末は何かと忙しく、何かと物入りだと言われます。
 それでも、正月料理の準備は少なくなったし、すす払いもしない、餅も搗かない・・・随分楽になったはずです。
 『紅白歌合戦』を主婦が見るなんて考えられないのが紅白が始まった時代の『大晦日』でした。
 まあ、それまでに手際よく片付けておけばみられたのでしょうけど、忙しく動くことが美徳とされていましたからね。

 江戸時代にも井原西鶴が『世間胸算用』で庶民の年末のやりくり、あれこれを書いたようですが、それに似たような光景が半世紀ほど前の昭和の前半には残っていたのでしょう。
 中小企業のボーナスなんていまだに『暮れ』に支払われる所がありますし、溜まった付けも暮れには清算するところも多いです。
 昔のように、『掛取り帳』なんてあまり見かけなくなりましたが、私が子供の頃にはまだ存在しましたね。
 『掛け』で買えると言うことは、『お得意さん』の証拠・・・信用があることの証だったのです。
 しかし、片方では払えないから『付け』になり・・・と言う人も居たわけです。

 スーパーと言うのもが出現し、客のほうが品物をあさりに出かけるようになって、買う店をどんどん変える時代になってくると、酒谷さんや八百谷さんでの買い物が減り、『掛取り帳』なんてなくなりましたね。
 『サザエさん』の時代には『御用聞き』が勝手口に注文聞きにやってきたものです。
 しかし、それを書いても今の子供などには分からないからか、いつの間にやらその登場人物も無くなり、描かれなくなりましたね。

 昔なら一人住まいのお年寄り、足が痛くて遠くに行けないお年寄りの人も、そんなに不自由しないで日用品や食料が居ながらにして手に入ったのですがねえ・・・
 電話を掛ければ配達がありましたしね。
 その頃には、『独居老人』なんて言葉が無くて、大勢で暮らしていて年寄りが不便なことって少なかったのですが・・・
 まあ、町中の商店を寂れさせたのは、今の年寄りの世代からですから、自分たちの首を絞めたのかもしれません。この面では昔の町のほうが易しかったようです。

 西鶴の世界では、『除夜の鐘』が鳴れば年を越し、借金取りから解放される・・・なんてなっていますが、今年の大晦日、除夜の鐘を無事に聞けない人がたくさん居ることでしょうね。
 『マッチ売りの少女』は美しい話ではなく、悲しい話です。
 指先を暖めるマッチ、100円ライターすらない・・・そんな光景が21世紀の街角で見られるなんて・・・
 悲しい『大つごもり』が来ているようです。
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木本町全図です
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by je2luz | 2008-12-30 10:52 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 12月 29日

熊野の旅 昔の習慣 寿司

 昔の日本では行事があると、寿司を作ったものです。
 寿司と言っても今式の『江戸前握り寿司』では無く、日持ちのする『押し寿司』『巻き寿司』更には『なれ寿司』でした。
 行事の中でも最大級のお正月には寿司を欠かすことは考えられない物でした。
 寿司を作ると言っても、夕飯用に作るなんて生易しいものではありません。
 ものすごい数を作ったのです。
 『おせち』にしろ『餅』にしろ『寿司』にしろ、お正月に用意する物は、正月三が日位は台所仕事をしなくて済むようにする意味もあったので、日持ちがするものを大量に仕込んだのです。
 家族構成も今より大きいし、年賀に親戚を回る人も多く、当然来客も多かったのです。
 そして、来客にはおせちや寿司を勧め、お酒も勧めるのが作法でした。

 どれくらい作るかって?
 まあ家にもよりますが、家内で食べる量の数倍は造りましたね。
 この辺りのお正月の寿司は、『サンマ寿司』『海苔巻き』『昆布巻き』『揚げの寿司』『伊達巻き』などですね。
 『サンマ寿司』・・・今の熊野名物ですね。20本とか30本とか・・・
 『海苔巻き』・・・田舎寿司ですから太巻きです。芯には干瓢(かんぴょう)シイタケなどとか赤い桜デンプでしたね。これも10本とか20本
 『昆布巻き』・・・寿司昆布と言う良質のやや薄手の昆布を味をつけて煮た物を使って巻いたもので海苔巻きと同じような物です。呼び方は『こぶのすし』です。この昆布はこの辺りなら手に入りますがよそではあまり無いようですね。
 『揚げの寿司』・・・お稲荷さんです。50個とか100個
 『伊達巻き』・・・海苔巻きを芯に更に玉子焼きで超太巻きの寿司に仕上げる物です。5本とか・・・

 寿司箱と言うものが家庭にありました。
 海苔巻きとかが10本くらい入り、押し寿司器のように底板と蓋が中に入り込むようになっていました。乾燥を防いで密閉して居たのです。
 入りきらないものは『もろぶた』と言われる餅箱に並べてあった物です。
 冷蔵庫など無い時代にはこうして保存しました。
 良く出来た物で、その時代には暖房なんてありませんでしたから、台所などは冷蔵庫状態でしたね。
 酢の少し効いた寿司なら三日でも四日でも平気で置いておけました。

 たまのお寿司は良いのですが、その時代の正月は寿司が続くので子供にとってあまり嬉しくない物でした。
 『おせち』なんて物も、今流のハムだ中華だなんてのではなく、『煮しめ』『煮豆』『タツクリ』なんて古来のものですから、子供にはあまり嬉しいものでも無かったですしね。
 『お年玉』は嬉しかったですが、お正月料理で嬉しかった記憶があまりありません。
 大晦日に造りたての寿司をつまみ食いさせてもらったのが美味しかった記憶はありますがね。
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木本町全図です
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by je2luz | 2008-12-29 12:09 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2008年 12月 28日

熊野の旅 昔の行事 縁起担ぎ

 お正月と言えば、『鏡餅』があります。
 最近でも、『鏡餅を飾る習慣』はそこそこ残っているらしく、スーパーなどでは山積みして売っていますね。
 今は床の間の無い家が多いし・・・何処に飾るのでしょうね?
 昔は、床の間に始まって、神棚、仏壇、台所、井戸、蔵など色んな所に、それぞれに応じた大きさの『鏡餅を供えた』ものです。
 日本の、『全ての物に紙が宿る』と言う古来の信仰心を表すものでした。

 『鏡餅』も、最近では『飾る』もので『供える』物ではなくなって来ているようです。
 だから既製品になり、完全にパックしてしまい、神様も食べにくかろうと言う物に変わっています。物によっては、見掛けは鏡餅だけど開けると食べごろの小餅が何個か入っていると言う、合理的だけど騙しの物まであります。

 『鏡餅は買ってくるもの』と言う常識が定着してくると、『餅つき』が消えてゆきます。
 炊飯器のお化けのような餅つき機が発売されてからしばらくは、その餅つき機がたくさん売れて、家で機械搗きの餅を作るところも多かったものです。我が家のお袋なども、気に入って年中餅をちょこっとづつ搗いて居たものです。
 この『餅つき機』と言うものも、昭和の中頃の一時期はやっただけで最近では見かけなくなりましたね。

 『餅つき』と言うものは今では、保育園などのイベントで行われる物になっていますね。
 今では田舎の家でも、『せいろ』『はがま』『臼』『杵』などと言う、餅搗きようの道具が残されている家は少なくなっていることでしょう。
 この道具を引っ張り出して、きれいに洗い、もち米も洗って一晩水切りをする・・・寒い最中に大変な仕事なのです。
 餅つき当日も、かまどでガンガン火を焚き、セイロでもち米を蒸し、蒸しあがった物を臼に入れ・・・搗き手とこね手が組みになってリズミカルに突き上げてゆきます。
 搗きあがると、餅は『取り板』とか言われる広い台に移され、『握り手』がどんどん丸めてゆきます。
 お正月の時は、床の間の鏡餅に始まって、その家に合わせた数の鏡餅を作ってゆきます。
 床の間のは一升使うとか・・・
 それが終わると、嫁の里とか本家やお寺に年始に行く時にもってゆく『お礼』の鏡餅も搗きます。
 おしまいの方に雑煮用の餅とか餡子の入った『あんもち』などを作りました。
 家によって、搗く量は変わります。
 1斗搗くとか2斗搗くとか自慢げに話したものなのです。
 生活が楽ではない時代には、『正月の餅もつけない』と言うのが貧乏を現わす表現に使われたくらい、餅搗きが年末の定番行事だったのです。

 この餅つきも縁起を担いでいましたね。
 29日には搗きません。
 『9』が付くので『苦』に通じると言うことらしいです。
 31日も押し詰まってばたばたすると言うことから『節季餅』などといって嫌って居たようです。
 勝負師とか相撲取りは今でもですし、江戸っ子はものすごく縁起を担いだそうです。
 しかし、紀州の山猿の子孫でも結構縁起は担いで居たようです。
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木本町全図です
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by je2luz | 2008-12-28 11:09 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 12月 27日

熊野の旅 昔の行事 すす払い

 年末ですね。
 昔なら、今日辺りには『すす払い』をやっている家も多かったものです。
 『すす払い』は今なら『大掃除』と言うようなものですね。
 昔は、『囲炉裏』を焚いたり、囲炉裏が無くても『かまど』があったので、家中に名のとおり『煤・すす』が付いたのです。
 だから、お正月を迎える前に、煤を落としたのです。
 川原竹などを切ってきて、笹で軒下や台所の天井などをなぜて、『煤』を払ったのです。
 何しろ竹笹で払うのですから、ものすごいホコリです。
 もうもうとホコリを出しながらの仕事で、軒先や天井はきれいになりますが、周りはひどい状態になります。
 それを今度は吹き掃除できれいにするのです。
 今のように『湯沸かし器』なんて無い時代ですから、『水』で仕事をします。
 『井戸水』が暖かく感じるのはこんな時です。
 掃除機のお尻から出るほこりが問題になる今の時代では出来ませんね。
 奈良の大仏さんなどはやってもらっているようですけどね。

 大体、今の時代は畳を全部出して日に干して・・・と言う『大掃除』をしている光景にも出会わなくなりましたね。
 畳を上げたあとの古新聞に見とれてしまって仕事が進まないなんて話も通じない時代でしょうね。
 『掃除機』と言うものがすっかり生活習慣を変えてしまったようです。

 大掃除の時には、世の中の亭主の株が少し上がった物なのですがねえ・・・
 箪笥の運び出し、畳の運び出し・・・力仕事があるので亭主が頑張ると少し見直してもらえたのです。
 今の『大掃除』では、あまり出番が無く、『粗大ゴミ』扱いされる方が多いのではないでしょうか。
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by je2luz | 2008-12-27 10:50 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 12月 26日

熊野の旅 曇時々晴

 年末年始の週間予報が出ましたね。
 気になる方も居られるはずの元旦のお天気・・・
 この辺は『曇時々晴』
 東京は『晴時々曇』
 太平洋側は大体このどちらかみたいです。

 初詣の方は問題は無さそうです。
 しかし、初日の出は厄介ですね。
 場所によって30分ほどのずれがありますが、大体7時ごろになるのですが、その場所のその時間に東南方向の空が晴れていなくてはなりませんからね。
 ほんの数分間の勝負ですからいくら天気が安定する冬の太平洋側でも微妙な物です。
 上空が晴れていても、水平線、地平線の雲が厚くて太陽がうんと昇るまで顔を出せないときは、辺りがすっかり明るくなってしまってからの初日の出?になってしまいます。
 およそ間の抜けた『ご来光』になってしまいます。
 2009年のご来光は今のところ微妙な感じです。
 まだ、週間予報なので分かりませんが、『時々』のなかに午前7時が入るのか入らないのか・・・
 やはり、日頃の行い次第みたいですよ。

 初詣は『伊勢神宮』に関しては、大規模な渋滞が毎年起きています。
 近づくことも大変ですが、例え近づいても駐車場など確保できません。
 確保できないから渋滞がひどくなる・・・の悪循環です。
 一番楽なのは近畿日本鉄道で行くことでしょうね。
 車の方は、12月31日午後10時~1月1日午後4時までと、2~4日の午前9時~午後4時までに『パーク&バスライド』なんてのが行われます。
 かつて『世界祭り博』をやった『県営アリーナ』が駐車場(1000円)となり、外宮行き(25分)、内宮(20分)、二見行き(5分)の無料シャトルバスが出ます。
 これを使うのが良さそうですね。3300台収容だそうです。

 伊勢市内に無理して入ろうとして渋滞でとまったままになり、近づいても車から降りられない・・・それくらいなら、熊野まで南下したほうが早いでしょう。
 そもそも、伊勢高速道路から降りることもかなわないくらいですからね。

 良く分からないのですが、初詣の参拝者の多いところに『明治神宮』や『伊勢神宮』が入っていますね。
 『伏見稲荷』『豊川稲荷』『柴又帝釈天』なんてのはご利益があるとかなのですが、前の二つなどは朝廷用の神社なのでしょうね。
 『朝臣』の称号も貰っていない下々の民がお参りしていい事があるのでしょうかね?
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 滝原宮・・・伊勢神社の前身
 カメラは コンタフレックスIV

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by je2luz | 2008-12-26 11:44 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2008年 12月 25日

熊野の旅 冬の海

 熊野の海は冬になると穏やかです。
 『春の海 ひねもすのたり のたりかな』・・・なんてのがありますが、冬の海ものたりのたりです。
 海と言う物は、気圧配置によって起きる風の影響で波の大きさが変わります。
 冬の太平洋は季節風が弱いので静かなのです。
 日本海側とか北の海では満州、シベリアからの季節風が吹きあれる日が多いのでこの時期は荒れるようですね。

 冬場になると、天候が安定するので海の静かな日が続きます。
 海での仕事の計画が立てよい時期です。
 海で働くのは殆んど漁師さんですが、たまに土木の方の仕事もあります。
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 この台船は木本海岸の潜堤工事にやってきたものです。
 もう、10年余って、毎年冬になると姿を現します。
 例年は年明けだったような気もしますが、春までの海の静かな時にしか巨大ブロックを海中にきちんと沈められないのです。

 『潜堤』とは、海面下に堤防を築く物です。
 ここの物は、海面下2mの高さまで積み上げます。
 景観を保持しつつ高潮のエネルギーをそぐと言う物です。
 それに加え、砂利が深みに落ちる速度も減少させる効果も期待されます。
 鬼ヶ城東口の木本漁港の突堤の脇から始まって。この船の止まっているすぐ先までが工区になっています。
 ここまでの区間は、基礎部分が少し出来たらしいです。
 何しろ、海中のことなので全く岸からは見えません。
 海面下2mまでくれば波が立ちますから分かるのですが、まだまだ何十年も掛かりそうです。
 これの計画・着工には大きく関わったのですが、完成を見ることは無さそうです。
 
 ゆったりとした景色の続く『七里御浜』で無粋な姿を見せるのはこの時期のこの台船くらいです。それも、そんなに長く居るほど予算が付かないので短い期間だけですね。

 大井川河口周辺のように海岸線が本格的に後退を始めると人間の力では止められません。
 内海は堤防である程度防げますが、外海の力は恐ろしい物です。
 今の人間に力でやれるのは、人工的にリーフを造ることくらいです。
 珊瑚は育ってきますが、人口リーフは波で削られて痩せるだけの物なのですがねえ・・・

 この潜堤には余禄として『漁礁』としての働きもあります。穴だらけの岩礁が海の中に出来るのですからね。
 そのうち、木本海岸からの投げ釣りで磯魚も釣れる様になるかも知れません。

木本町全図です
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by je2luz | 2008-12-25 12:46 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 12月 24日

熊野の旅 初詣事情

 熊野市では『初詣』でごった返す所はありません。
 それぞれの氏神様や檀家寺へお参りする人は居ますが、観光神社も観光寺は無いですからどこかから初詣客が湧いて出ると言うことはありません。
 紀伊半島から吉野へ掛けての霊場や参詣道が世界遺産に指定されてからは、花の窟神社とか産田神社なども少しは名前が売れましたが、初詣のために遠くから来るほどのことはありませんね。

 除夜の鐘が鳴ったすぐあとくらいには花の窟神社などには少し大勢の人は見られますが、すぐに切れてしまいます。
 日の出の頃には、又人が集まってきますが、みんな神社にはお尻を向けて、ご来光の方を拝んでいますね。 その中の少しの人が、花の窟に詣でているようです。
 日の出見物者にとっては花の窟は目に入らないようです。

 この地方で、『初詣』のお客さんを遠くから呼んでいるのは、やはり『熊野三山』ですね。
 『速玉神社』『本宮大社』『那智山』・・・那智山は那智大社と青岸渡寺があり自動的に両方参ることになりますね。
 これらは観光神社に入るわけですが、ものすごくお客が多かった頃は徒歩や汽車の時代でした。だから、駐車場がものすごく少ないです。
 新宮市内にある『速玉神社』や国道168号線のそばでド田舎にある『本宮大社』はまだしも、『那智山』は一本道、折り返しになるのに駐車場が少ないので、初詣も時間帯によってはお山に近づけないほどの渋滞になるそうです。
 しかし、駐車場を増やしても年間を通して見れば営業は成り立たないでしょうしね。
 何しろ、急斜面の場所ですから、ちょいと畑を埋めて・・・なんて出来ませんからね。

 獅子岩や花の窟周辺で初日の出を拝んで、それから熊野三山に向かい、『速玉神社』・・・『本宮大社』の順に参拝すれば、中だるみ状態の時間に参拝できるかもしれません。

 もし、国道42号線を北の方から来るなら、途中に『頭の宮・四方神社』なんて、知る人ぞ知る、受験生には霊験あらたかなる神社があります。
 そこは、ものすごい数の初詣客が居るそうです。
 もう一つ、『滝原宮』があり、そちらも随分参拝者が要るようです。
 
 寄り道をするつもりなら、二時間やそこいらの余裕を持たないと、変な所で初日が登ってしまうかもしれません。
 今年の行いが悪かった人だと、矢の川トンネルなどの長大トンネルの中で・・・なんてことになるかもです。
 七時前には初日の出を拝む場所に着いていなくてはなりませんからね。
 初日の出は『時間厳守』で執り行われます。

 家の近所には『稲荷さん』もあります。
 ほんの少ししか初詣客は来ません。
 商売の神様だそうですし、伏見稲荷や豊川稲荷と同じでしょうから、あんなにごった返している所に出かけて、『商売繁盛・家内安全』などと祈っても神様に聞こえるかどうか・・・
 100円供えても数千万円とか億だとかの中の100円ですし、ここだと数万円の中の100円です。
 しずかにじっくり神様と向き合ってお願いも出来ると思います。
 多分・・・こちらの方がご利益がありそうな・・・
 ぜひお立ち寄りの上、お賽銭を上げてください。
 なにしろ、町内で維持するのが大変なのですから・・・
 『新出町稲荷』と呼ばれています。
 添付のGoogle地図を拡大してゆくと目印が入っています。
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木本町全図です
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by je2luz | 2008-12-24 11:45 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 12月 23日

熊野の旅 2009年初日の出

 2009年の初日の出を見ようかどうか迷っておられる方も多いと思います。
 『初詣』はよほど天気が悪くない限り予定通りで来ますが、『初日の出』の方はお天気が良くないと出来ませんね。
 考えてみると、日本海側の人たちは『初日の出』を拝めないことが太平洋側より多いのでしょうね。
 また、住んでいる場所によっては、日の出の方向に山があって、随分遅い初日の出になる人も居られるでしょうね。
 私が育った山間部、飛鳥では気象台の言う日の出より15分ほど遅いものでした。
 おまけに盆地状なので雲海状に広がる霧によって閉じ込められると太陽が昇ってもしばらくは薄暗いままです。

 今年の『初日の出』はこの前の浜で午前7時か7時1分くらいです。
 七里御浜は正面の太平洋から日が昇ります。
 初日の出を拝む場所として人気のある、獅子岩から花の窟神社に掛けてだと、まさに真正面から昇ってきます。
 紀伊半島でも潮岬を通り越して和歌山方向になると海沿いでも初日の出は海から上らなくなります。
 七里御浜は広いし、暖かいし・・・初詣するなら熊野三山も花の窟神社もあるし・・・絶好の場所なのですがねえ。
 名古屋から200Km、大阪から180Km、東京から550Km・・・ちょっと遠いですね。
 残念ながら、大宮・池袋発の夜行バスだと、こちら到着はほんの少し初日の出に間に合わないですね。

 天気の方はまだ週間予報が出ていなかったと思います。
 南紀・東紀州はこの時期、日本でも一番晴天の確率の高い場所です。
 ほとんどの年は初日の出が拝めます。
 深夜営業の食堂などありませんが、花の窟のすぐそばには「サークルK」があります。
 ちょいと大勢の人が買い物すればおにぎりなど売り切れちゃうでしょうね。

 海から昇る初日の出だけを写真にするなら、撮影場所は20Kmほどありますから、場所取り合戦の必要は無いです。
 ただ、のっぺらぼうになってしまいますね。
 前景に物を配したくてもそれが無いのが悲しい所です。
 『獅子岩』を入れて、初日の出を取るのも、獅子岩と言う物は特定の方向からしか「獅子」に見えないですし、初日のでは90度方向が違うのです。
 広角レンズ、それも21mmとかクラスで無いと納まってくれません。
 『獅子岩』の後姿と初日の出しか、コンパクトデジカメなどでは撮れないのです。
 超ワイドにすると太陽が小さくなってしまうし・・・
 まあ、始末の悪い被写体になります。
 これも、場所取り合戦にはならないでしょう。

 松原からの撮影は、高潮対策の堤防が殆んどの場所で出来上がっていますから、出来ない所が多いです。
 そうした、アングルをお望みなら、御浜町にある『椰子の木公園』の辺りにある『化粧の森公園』でなら松の枝を入れて撮れると思います。
 ここも引きが無いので苦労するかも・・・
 紀宝町の『ウミガメ公園』の所は松の木が若いし・・・
 無精者の私はそんなところを探したりしないので良く分かりません。
 
 海から昇る太陽と言う物は結構感動的な物です。
 元旦に予定の全くない方は熊野まで走ってこられてはいかがでしょうか?

 そうそう、熊野では正月などにはまともにフィルムなど手に入りませんから、たっぷり用意してきてください。
 私に言われても『白黒フィルム』しかありませんからね。
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by je2luz | 2008-12-23 11:54 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 12月 22日

熊野の旅 昔の食べ物 大麦

 昔は日本中で見られたのに、今は探さないと未知から無い物に、『麦畑』があります。
 何年か前に歌の方では流行ったりしましたが、今の若い人は『麦畑』なる物が浮かんでこないと思います。

 日本では、『大麦』と『小麦』が栽培されていましたが、一般的に『大麦』の方が自家栽培されていました。
 『麦』は『米』とはちょうど反対の季節に栽培できる『穀物』です。
 おかずが少なく、おまけに穀類の生産性が低く食料不足の日本では、主食の『米』の裏作に作れる『麦』はありがたい植物でした。

 ちょうど今頃は、麦の苗が3寸とかまで伸びてきて、寒い季節に耐えていたものです。
 農閑期の百姓さんの仕事の一つに『麦踏み』がありました。
 柔らかな麦の苗の上に登り、横向きにカニのように歩いて踏んで行きます。隙間が無いようにきちんと、よちよち歩きで踏む単調な仕事です。
 これは苗を踏むことで、『分株』を促すことと、これからの季節、『霜柱』で苗が持ち上げられてしまうことを防ぐようにすることを兼ねた作業だったようです。
 柔らかで頼りない若葉の上から踏みつけるなんて、誰が思いついたのでしょうね。
 私が子供の頃には、あちこちの田圃で『麦踏み』をしている光景が見られました。
 あまりにも単調な仕事なので、おばさんが二人とかで、世間話をしながら踏んでいましたね。
 私も手伝ったりしましたが、小学生が踏んだのでは足が小さいし、体重は軽いし・・・あまり効かないようでした。
 我が家にも、『麦田』と呼ばれる田が二枚ありました。水はけの良い田圃が麦作りに向いているので、その田はかなり水はけの良い田圃でした。

 『大麦』が多く作られた訳は、主食として使えたからです。
 昔は『麦飯』が常識でした。
 今のように、『健康のため』なんてのではなく、『米』が足りないから『麦』を混ぜていたのです。
 これには『小麦』は使えません。
 太古から日本人は、穀物を色々作って食べてきました。何しろ『五穀』と言うくらいで、最早、『米』しか作っていないくらいになっても、『五穀豊穣。家内安全』などとお祈りするくらいですからね。

 『粟』『稗』『黍』などは、『雑穀』扱いされますが、近代になってくると一般の家庭からは追い出されていったようです。なにしろ、食べるようにするのが大変ですからね。
 まあ、こいつも、今では『健康のため』わざわざ高いお金を出して食している人も居るようですけどね。
 こうしたものしか食べられない人たちは、『米の飯』『白ご飯』の夢を見ながら死んでいったとまで言われます。

 戦後しばらくまでは、『麦飯』が広く食べられていたのですが、実にまずい物でした。
 その頃の『麦飯』の『大麦』は丸のままで入っていました。
 麦は米より煮えにくいですから、あらかじめ茹でておいてそれを混ぜて焚くのです。
 麦は米のように丸のままで白くすることが難しいので、茶色の薄皮が付いたままでした。
 今なら、『植物繊維がたっぷり・・・』なんて宣伝するでしょうが、その当時の食事は『植物繊維』だらけの物でしたから、消化が悪くて食感の悪いだけの物でした。

 この美味しくない『麦飯』を画期的に改善したのが、今でも見られる、『押し麦』です。『白麦米』とかいったような気もします。
 麦をローラーで押しつぶすことによって煮えよくして米に加えてそのまま炊けるようにしたのです。
 薄皮もむいて真っ白になりました。麦らしいのは真ん中に残された『胚』の部分の茶色の筋だけでした。
 本当に、世の中がひっくり返るほど劇的に『麦飯』を美味しくした物でした。

 しかし・・・
 少し時代が遅かったようです。
 これが普及し始めた頃から、日本の食糧事情はどんどん改善されてゆき、食糧不足時代が終わり、米さえ余るようになって行ったのです。
 今では、わざわざ買って食べる人と、悪い事をして別荘に入る人くらいしか食べなくなったようです。
 私たちより上の世代になると、昔の思い出がトラウマ的になって、食べたくない人も多いようです。
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木本町全図です
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by je2luz | 2008-12-22 12:13 | 熊野 | Trackback | Comments(2)