人気ブログランキング |

LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ

<   2008年 11月 ( 30 )   > この月の画像一覧


2008年 11月 30日

熊野の旅 獣害 万里の長城

 秦の始皇帝の頃から営々として築かれ、世界地図にも大きく書かれ、宇宙からも確認できる建造物に『万里の長城』があります。
 日本にもそんなものがあります。
 「万里の長城」が少しオーバーなら『千里の長城』くらいにはなるでしょう。

 それは『しし垣』と言われるのもです。
 今では獣害を防ぐために山中にクレモナなどの魚網のような物を張り巡らせていますが、日本古来の獣害防除は『石垣』でした。
 この辺りは大昔から、いのしし、鹿などの獣による作物の食害が農民の悩みの種でした。
 まあ、これは紀州だけではなく全国同じだったでしょう。

 この厄介な獣害を防ごうと築かれたのが『ししがき』だったのです。
 いつ始まったのかなどと言うことははっきりしないでしょうが、江戸時代にはあちこちでせっせと作られていったようです。

 「ししがき」は石垣です。
 集落の裏山に造られた、高さ1mから1.5mほどの物ですが、延々と山の中を走ります。
 基本的には切れ目を造りません。
 鹿でも猪でも賢い動物ですから、切れ目をあちこちに造ったのではそこを通路にして集落に通うようになるからです。
 石垣は自然石を拾い集めて積んであります。
 石だらけの山もありますが、積み上げて塀を造るだけの石はその辺に転がっている物をちょいと集めて・・・と言うような量では済みません。場所によってはうんと遠くから運ばないと出来ない仕事です。

 百姓が貧乏だった時代、腹をすかせていた時代にこうした建造物が作られていったのです。
 今ならさしずめ、『農林水産省』の補助事業で土建屋が巨費を掛けて造るのでしょうが、昔は殆んど手弁当で農地を守るためにやったのでしょうね。
 せいぜい、大百姓などの寄付があった程度でしょう。
 ここまでしないと、年貢も納められない、飢え死にする・・・と言うほど大変だったのではないでしょうかね。

 かつて、新鹿出身の熊野市の観光課長がこの『ししがき』を文化財にしようと提唱していました。
 新鹿も山の中に『ししがき』が連なっているようです。
 飛鳥でも五郷でも育生でも・・・
 熊野市中ではなく、紀伊半島中の山中に走り回っています。
 今では手入れもされずに崩れてしまった所や、通行の邪魔になるからと壊されたところなどでかなり切れ切れにはなっているようですが、そっくり木を切り倒して地表をむき出しにすれば、この蛇のように山中を這い回る石垣ははるか上空からでも確認できると思います。
 万里の長城と違うのは、集落ごとに独立して完結していると言うことです。
 今ではかなり山の中と言う感じのところが多いですが、良く見るとその『ししがき』のすぐ下には水田や畑の痕跡があります。
 それを見ると、昔の百姓は随分広く開墾して居たのです。
 戦後すぐの頃には全て耕作されていたものですが、放棄されて半世紀・・・今では覚えている人もなし・・・本当に山の中です。
 その分、獣と人間の境界は山を下りて来ています。
 かつては、人間の臭いがぷんぷんしていた一帯にももう人間が入ることも無いですし・・・

 あまりにも当たり前の光景だったので、私の手元には『ししがき』の写真はありません。
 今度山に入って獅子が気のところを通りかかったらスナップでも撮ってきます。
 羊歯や雑木で埋もれていない場所に出くわせば良いのですが・・・

 ちなみに・・・
 古くは大きな獣は『しし』と呼ばれていました。
 『鹿』も『猪』も『しし』です。
 もののけ姫の『しし神様』も『鹿』姿ですよね。
d0045383_12175470.jpg


木本町全図です

by je2luz | 2008-11-30 12:18 | 熊野 | Trackback | Comments(1)
2008年 11月 29日

熊野の旅 獣害 海にも・・・

 昨日は鹿や猪、猿などの獣害を書きました。
 他にもイタチやキツネなどの獣類が増えていますね。
 タヌキも随分増えていますが、雑食で里に住み着いて生ゴミや犬の餌などを食べるやつが多いようです。
 他には、鳥の類も悪さをします。
 ヒワ(ひよ?)のごときは、貴重な冬場の野菜を食い尽くしますね。
 すずめなども蒔いた種はそっくり拾って食べてしまいますし・・・
 『鳥は害虫を獲って食べてくれるので・・・』などと小さい時に習いましたが、果たしてどうなのやらと思うくらいです。

 一時期、うんと減っていた獣や鳥の数は戻ってきているようです。
 ことに田舎では人間の勢いが無くなってきたから余計にでしょうね。

 陸だけではなく、海の方でも人間と動物の食料争奪戦があります。
 人間が魚の間の食物連鎖をかき乱すのはもちろんですが、人間がかき集めている魚を時々横取りするのも居ます。
 水族館に行くと人気者で、自然の海でもかなり人懐っこくて、船によって来るくらいの『イルカ』もかわいいだけでは済まないところもあるのです。
 対馬地方などの回遊コースの漁師さんたちには悩みの種のようですが、大食いのイルカが来ると魚が減ります。
 下手すると、大敷き網に入り込んで中の魚を食べまくります。
 ウミガメなどは鈍重ですから、出るに出られないのでうろつく間に網にかかって死ぬことがありますが、イルカは利口ですから適当に食べると皆でジャンプして外に出るそうです。
 上手く出られそうに無い時は、漁師さんが網を沈めて追い出すのだそうですが、ものすごくコストの掛かる大敷き網でイルカに狙われると大きな損害が出るようです。
 
 今では鯨もイルカも一時期のように無制限に獲ることも無いので、徐々に数が増えているようです。
 漁師も百姓同様老齢化が進んでいます。
 温暖化による海の異変と共にこうした獣害が切実になってくるのかもしれませんね。

 江戸時代なら。『鯨一頭上がれば七浦潤う』なんていわれるほど大きな獲物だったのですがねえ・・・
 昔は鯨を待ちわびたようですね。
 そんなに一杯獲れた訳ではないようですが、この辺では、あちこちに『鯨供養塔』があるようです。
 大きいだけではなく、内蔵なども魚とは違うので大昔から別扱いだったようです。

 鯨の肉やベーコンなどは太地の港にある売店に行けばいつでも手に入ると思います。
 鯨の肉は給食に出る安いもの・・・なんて考えで買いに行かないことです。
 肉は松坂肉並み、ベーコンも最高級品並です。
 獲っちゃあいけない希少価値で高くなっているのです。
 運がよければ、イルカとかゴンドウ鯨などが上がってすぐの時だけは、安い生肉が周辺のスーパーにも並んでいますがね。
 
d0045383_11345477.jpg


木本町全図です

by je2luz | 2008-11-29 11:39 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 11月 28日

熊野の旅 獣害

 今日の朝日新聞三重版によりますと、三重県の県都津市では鹿の食害、『獣害』に悩んでいると大きなタイトルで書かれています。
 この『獣害』は津市だけではなく、三重県中…いや、日本中の田舎が悩んでいると思います。
 何しろ、東京のど真ん中に猿が出現するくらいですからね。

 しかし、県庁所在地の津市でこんな大きなタイトルになるほど・・・
 本当は、元々、山間部は『津市』ではなかったのです。
 平成の大合併で、昔のお殿様が領地を延ばしたように、津のお殿様が周辺の町村を食い尽くして大きくなったのです。
 今回取り上げられていたのも、どちらかと言うと秘境扱いされてきた『美杉村』の話なのです。
 だから、超過疎で長老冷夏の進んだ集落になります。

 こうした集落では休耕農地、廃耕農地、廃屋屋敷などが広がって、集落全体が原野化、山林化して、人間の臭いもしなくなって来ています。
 さらに、新聞でもありましたが、『猟師』の数が激減して来ています。
 そもそも、地元に人間が居なくなっているのですから、鉄砲を持つ人も減ってしまいます。
 昔の田舎には『鉄砲持ち』がたくさんいたのですがね。
 過疎化が始まりだした頃に、『猟師』が減って、町場の『遊猟者』と言う種族が増えました。
 趣味で鉄砲を持ち、休日に団体で山に入る『鉄砲持ち』ですね。
 装備はトランシーバーとかもあるし良くなったのですが、山を走る脚力とか、獣を獲る執念とかは昔の『猟師』とは『遊』の文字が入るだけに別物の人が多いですね。
 それでも、こうした猟師が増えた頃は、事故が怖いですが、何とか獣を山に追い返していました。
 
 地元の『猟師』は随分前から老齢化で引退したりなくなったりして壊滅状態ですし、町場の『遊猟者』もすでに老齢化して来ています。
 『クレー射撃なら格好よいからやる』・・・とか、『鳥打なら楽しくやれる』なんて『鉄砲打ち』しか、若い人はやらないようです。

 『発砲事件』なんて起こす可能性もある『猟銃』ですから、無くて済むのならそれが一番なのですが、山の中で暮らさなくてはならない集落では、獣退治も大切なことなのです。

 熊野市でも、農地の周りを柵で囲んで細々と自家用の野菜を作っている風景が見られます。
 山間部では、家の周りを柵で囲って暮らしている人も居ます。
 夜中に田舎式の外便所に行く時に、鹿や猪に出くわさないためです。
 人間の方が檻に入っているということです。

 津市では猟銃免許をとる人に補助金を出すとか・・・
 なんともおかしな話ですが、これも時代でしょうね。
 しかし、もっと田舎の町・・・熊野市などになると、町場にも鉄砲を持って山に入れる若い人が居なくなりつつあります。

 同じ地方欄に・・・『木本小学校・流感で学年閉鎖』とあります。
 熊野市の中心の学校なのですが、閉鎖された3年生は全員で16人しか居ないそうです。
 全員地元に残っても・・・
 これ以上減らなくても・・・
d0045383_12343198.jpg


カメラは コダック・メダリストII

木本町全図です

by je2luz | 2008-11-28 12:35 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 11月 27日

熊野の旅 油屋お紺 地芝居

 昔、昭和20年代くらいには『どさ回りの芝居』が全国を回っていたものです。
 今では九州くらいにしか残っていないようですが、座長以下家族ぐるみと言う感じで村や町の公民館とか青年クラブなんて施設を使って講演しながら旅をしていました。
 『前のり』と言う先発隊が先に来て、賑々しく幟を立て、ビラを貼って宣伝し準備をしてゆきます。
 本体が来ると、チンドン屋のようにこれまた賑やかに、なのに少し物悲しげに宣伝して回ったものです。
 時代が時代ですし、田舎では旅館もないし、講演する会館で自炊して泊まっていましたね。
 俳優は『市川』とか『中村』なんて名前を名乗っていましたね。
 演目は時代劇から現代劇まで、構成員の特技次第で歌あり踊りあり手品あり・・・
 子供だったので大して面白い物ではありませんでしたが、爺さん婆さん連中は涙を流さんばかりに感激していましたね。

 具体が佳境に差し掛かると、掛け声と共に『おひねり』が飛んでいました。
 今では、万札をヒモに通したレイがかけられたりするそうですが、戦後の貧しい時代ですから、ちり紙に包んだ5円玉とか10円玉だったのですがね。
 幕間には、おひねり代わりに舞台の端に大根やにんじんなどの野菜が載せられたり・・・
 劇団側もそうした差し入れであくる日の食糧を賄ったり・・・
 なんとも、不思議な連帯感のある大衆演芸でしたね。

 その時代には、そうしたものに刺激を受けたのと、他に娯楽もなし、『青年団』と言う組織が活発でしたから、そうした団体による芝居も演じられました。
 こちらは『地芝居・ぢしばい』です。
 これも、『青年クラブ』や『公民館』、『小学校の講堂』などで公演がありました。
 旅回りの役者よりは演技がぎこちなくても、地元の若い衆が演じるので別の意味で観客が熱中して居たようです。
 もちろん、『おひねり』は一杯飛んでいました。
 演目はこちらも様々で、時代劇から創作劇まででしたね。

 同じ頃には、小学校の『学芸会』も盛んで、まさに超満員の講堂での上演になりました。
 もっとも、今の学校のように広い『屋内運動場』が無かったので、うんと少なくても超満員だったのですがね。
 子供の数は多かったし、家内中、親戚まで来ると大変な観客になりますよね。

 いまの時代になると、保育所には『生活発表会』などありますが、『学芸会』も『地芝居』も『どさ周りの芝居』もなくなりました。
 昔、割合と身近にあった『芝居』が遠くなってしまいましたね。

 熊野では少し前から、好きな人たちが集まって演劇集団を作っているようです。
 花の窟にまつわる芝居などを市民会館などで講演していたと思います。
 今は、歌舞伎にも出てくる『油屋お紺』の練習をしているようです。
 この『お紺』は熊野市内の五郷町(いさと)の出だと言われています。
 飢饉で年貢も納められなくなったことで、身売りされ、伊勢の門前町、古市の郭に売られていった娘の話です。
 日本国中、何処にでもあった悲しい話しの代表ですね。
 戦後すぐ位まで、同じようなことが起きて居たのですから・・・
 近いうちにこれの公演はあるのだと思います。
 熊野まで、その日にこないと見られないお芝居ですがね。
d0045383_11355662.jpg


 カメラは エンサイン820・英国

木本町全図です

by je2luz | 2008-11-27 11:47 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 11月 26日

熊野の旅 本日休稿

d0045383_1358365.jpg

 上天気です。

 メンテナンスが予定より随分遅くなったようです。
 それを口実に本日はサボります。

木本町全図です

by je2luz | 2008-11-26 13:59 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 11月 25日

熊野の旅 秋の味 山芋

 この辺の山には『山芋』が一杯自生しています。
 品種的には二種類あるように思いますが良く分かりません。
 葉っぱに丸みがあるやつと。葉っぱのとんがったやつです。
 子供の頃にとんがったやつは苦くて、丸いほうが良いと聞かされたので、山芋掘りと言えば丸い葉っぱのを掘っていました。
 細い葉っぱのを掘ったことも食べたことも無いので味が違うのかどうかも知りません。

 山芋と言うものは生命力が強く、葉っぱの付け根に出来る『むかご』からも芽を出して育ちますし、掘った時に折れた上の部分に葉っぱを下の部分からは根を出して育ちます。
 ギンギラギンに乾く所では育ちは悪いですが、中々枯れません。
 少し足元に日陰があるくらいで湿り気があるとものすごい勢いで大きくなります。
 そんな性質ですから、山と里との境や竹やぶなどの周りでは大繁殖します。
 杉や桧の山では、小苗のうちに育って、木にふさがれそうになるとどんどん木に巻きつきながら蔓を伸ばして日の光を探しに行きます。
 育林にとってはやはり邪魔者なのです。
 しかし、ある程度木が伸びたら、山芋はそんなに高くは弦を伸ばせないのでやせ衰えてしまいます。

 山主にとって厄介なのは、『山芋掘り』です。
 この『山芋掘り』には二種類ありました。
 一つは『人間』です。
 もう一つは『いのしし』です。

 山芋は木の足元に生えて木に巻きつきます。
 山芋を掘ると言うことは、木の根元を掘ると言うことです。
 普通の野草を掘る程度の30cmとか50cmなら、そんなに山や木を傷める事はありません。
 しかし、山芋は食べられるほど大きくなった時には1m、場合によっては2mもの長さになって真っ直ぐ地下に入っています。
 それを掘り起こそうと言うのですから、穴は深いし、入り口も広くなります。
 私などでもそうでしたが、掘り始めると先まで折らないで掘りたくなる物です。どんどん、穴を広げながら掘ってしまいます。
 つまり木を傷める事になるのです。
 さらに、その穴をきちんと埋め戻せばまだましなのですが、まるで埋め戻さない人も居ましたね。
 だから、山主は『山芋掘り』を嫌いました。

 二番目の『山芋掘り』の『いのしし』はもっと厄介です。
 ものすごい嗅覚で真っ暗な夜中に山芋を掘ります。
 鼻と牙を使って上から食べながら掘り進みますからものすごい穴になります。
 猪にとっては大好物ですから、回ってくるととことん掘って行きます。
 一面、深さ1mを越すような落とし穴だらけなんて風景に行き当たったこともあります。

 いまの時代になると。『山芋掘り』に山に入る人居なくくなりました。
 だから、山の入り口とかに蔓の太さが1cmにもなる立派な山芋が一杯見られます。
 蔓の太さで芋の太さが予測できるのです。
 人間の『山芋掘り』が減ったので、場所によっては立派なのが増えましたが、山の中では昔よりものさばっている猪が余計も穴を掘っているようです。

 天然ものの山芋のほうがはるかに粘りがあって美味しいのです。
 しかし、それが分かっていても私自身、ずっと昔からスーパーの山芋を食べています。
 そのきれっぱしを庭に植えたので、それの子孫がやたらと生えてきて困っています。生えてすぐに退治しないと、掘っても掘り残しから又出てきます。
 ブロック塀や植木の足元を大きくほろことも出来ませんしね。
 意外と困り者です。
 今年もあちこちで『むかご』が転がっています。
d0045383_12295640.jpg


 カメラは コダック・メダリストII

木本町全図です

by je2luz | 2008-11-25 12:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 11月 24日

熊野の旅 熊野市 醸造文化

 少し昔の日本では、割合と小さな町でも造り酒屋があったものです。
 ヨーロッパのワイン醸造所ほどではないですが田舎にも沢山あって、大体において旧家であった物です。
 そして、味噌・醤油・酢の工場もあり、その地方の食文化を支えていました。
 そうした、地元での醸造・醗酵製品の味によってその地区の人の舌が決まっていた面もあると思います。
 
 熊野市の中心は木本で江戸時代から結構賑やかだったと言われていますが、私の知る戦後ではそうした醸造関係の製造元はありませんでしたね。
 串本、勝浦、新宮には酒や醤油、酢などの製造所がありますが・・・
 ちょっと不思議な感じもします。
 もっとも、こうした地方の製造所はどんどん減ってしまっては居ますがね。

 一般家庭では何処の田舎でもそうですが、味噌を作る家は多かったですね。
 一寸した家では、漬物部屋、味噌部屋を納屋の一部に作ったりしていました。
 仕込んでから長く寝かせますから、ものすごく塩の効いた漬物と味噌でしたね。
 しかし、味噌は塩辛かったですが、きちんと麹で醗酵させ、熟成した物なので、香に関しては今のスーパーにある大手メーカーの味噌など足元にも及ばない物でした。
 この香があるので、好きな物にとってはものすごく美味しい味噌汁が出来る代わり、都会育ちで既製品の味噌しか食べていない人の中には食べられない人も居ました。
 当然、造る家によって、造る人の手によって味噌の味は変わってきます。
 まさに、お袋の味の味噌汁だったわけです。

 造ることを忘れられた自家製味噌が近年ではあちこちで作られたりしていますが、昔の田舎味噌とは似ても似つかぬ別物、インスタント味噌みたいですね。
 もはや、昔の自家製田舎味噌が復活することは無いでしょう。
 私自身、昔の味噌造りの方法は何も知りません。
 今作るとすれば、ガイドブックの通りにやることになり、木本で作った『全国共通味噌』になるでしょうね。

 造り酒屋などは無いけれど、『どぶろく』を造るお祭りは山間部『育生町』に残っています。
 毎年、終わってから気が付くのですが、昨日だったようです。
 当日、育生町の大森神社にお参りすれば、何処の人でも『どぶろく』が振舞われます。
 ただ・・・
 車で無いと行きづらいし、車で行くと飲めないし・・・
 その辺は良く考えてください。
d0045383_116107.jpg


木本町全図です

by je2luz | 2008-11-24 11:06 | 熊野 | Trackback | Comments(5)
2008年 11月 23日

熊野の旅 天に登った鉄道 五新鉄道

 紀伊半島南部には国道42号線と絡み合うように走る『紀勢本線』と言う鉄路が走っています。
 昔は熊野市駅(紀伊木本駅)と尾鷲の間が繋がっていなくて、『紀勢東線』と『紀勢西線』に別れていたものです。
 今は繋がっていますが、新宮を境に鉄道会社が、『JR西日本』と『JR東海』に分かれてしまい、事実上『紀勢西線』『紀勢東線』と呼んだ方が分かりよいくらいです。本来『本線』と呼ばれていた幹線なのに通しで運行される列車が無かった線です。

 この広い紀伊半島にこの鉄道が一本、それも、ぐるりと回るように走るので決して大阪。京都などが近いわけではありません。
 そこで計画されたのが、紀伊半島をまっすぐ縦に貫いて、南の中心の新宮から大阪方面を最短距離で結ぶ線路を引こうというものです。
 『五新鉄道線』です。
 ルートは今の国道168号線と同じように、『熊野川』『十津川』を遡って、『五条』に抜ける物です。
 168号線でも川っぷちにへばりついているのに、そこへもう一本鉄道を入れようというのですから、大変な工事になります。
 私が子供の頃など、新宮の人たちなどはこの新線建設を叫んでものすごく運動していた記憶があります。

 運動のおかげなのかどうか・・・
 鉄路が斜陽になりかけるまで、申し訳程度に工事が進められました。
 山の中腹などに鉄橋が架かり、トンネルが口を覗かせている場所もあります。
 道路のトンネルとは形が違うので遠目でもそれと分かる物でした。

 誰が考えても、確かに新宮ー大阪は近くはなりますが、新線を作って誰が乗るのでしょうね。
 これができれば、紀勢西線は細切れローカルの乗客だけになります。
 それでも『作ればこっちの物』の公共事業の発想で推進運動はされて居たのです。

 これが出来ていれば、『本宮大社』も鉄道の駅のそば・・・ってことだったのでしょうね。
 などといっても、完成してすぐに廃線になってしまい、今頃は道路しかない山の中と言うことでしょうけどね。

 かくして、『夢の鉄道・五新鉄道』は露と消え、お空の彼方に飛んで行きました。
 マニアの方はその跡を探しに行かれるようですが・・・
 十津川村には残されていると思います。

 そうそう、『紀伊半島一周新幹線』なんてものすごい鉄道を考えた筋もあります。
 それこそ一部の人には『夢の鉄道』なのでしょうね。
 こんなの作ったら、『信越線・碓氷峠』ではないですが、在来線全線が線路まで外されてしまうでしょうね。
 地元民にとっては『地獄線』でしょうけど、さすがにこれは無人列車を走らせるわけには行きませんから、作られることはないでしょう。
d0045383_128106.jpg


木本町全図です

by je2luz | 2008-11-23 12:08 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 11月 22日

熊野の旅 熊野の道 下界へ

 熊野のこの辺りから外に向かう道はどの道を使っても京の都に向かうことになるので、全て『上り』ともいえるものです。
 しかし、ここは『神々の里』ですから、それらの道は全部『下界』に通じるもの、つまり、『下り』でもあるわけです。

 下界をを結ぶ道は結構たくさんありました。
 そもそも、今の国道と言う物は昔の街道を改良して新道にしていった物が殆どです。
 五街道なんていわれる重要路線はすぐに近代化され、その後、他の街道もどんどん改良されて行った物です。
 昔の街道は山越えをして進んでいったので、特に険しい山で無い限り目的地に出来るだけ近いルートを通っています。
 近代的な自動車道路は山越えが苦手だったので,九十九折れの道を山肌に刻むと言う難工事を強いられました。
 日本中の国道でこうした難所がありました。
 それが、昭和40年代頃からの改良工事で長い長いトンネルに変わっています。

 この辺からの街道は、今では『熊野古道』と呼ばれる紀伊半島に首輪をかけたような形のものが主な物でした。
 これも、単一ルートではなくあちこちで別ルートが存在したようです。
 和歌山側では、大辺路、中辺路、小辺路などと大きく分かれています。
 このルートの一部は国道42号線、国道311号線、168号線等になっています。
 国道になったといっても、この国道311号線などと言うのはほんの数年前にやっと尾鷲と熊野の間が繋がったというものです。
 他には新宮から十津川経由で都に向かう物としては、大峯奥駈道などの修験道道に付随する物や、今の国道169号線の原型の北山道とか随分たくさんあったようです。

 車のために作られた新道は大体谷底を走っていますが、吉野山系などでは谷が深く険しいので沢歩きがしにくく、逆に尾根に出ると尾根伝いは意外と平らと言う所があるので昔のルートは山の上と言うことがあります。
 そんなルートは新道建設時代には無視されてしまいました。
 
 紀州・吉野から奈良へ、そして京都へ・・・見事に山が繋がっています。
 この山岳尾根伝いの道は『修験道道』として、忍び集団とも言われる山伏たちによって守られてきたそうです。
 これは北は羽黒山、月山まで通じるそうです。

 昨日も書いたように、昔の人は『歩く』ことになれていましたから、意外と苦にしないで山越えのたびをしたのでしょう。
 江戸者のような都会人でも、山手線も地下鉄も無いので歩き回って居たのですし、増上寺や池上のおそつ様にお参りするのも往復歩きですからね。
 江戸っ子は口も達者で足も達者だったでしょう。

 昔の旅人は、日の出前に出発して歩くのですから、随分進んだでしょうね。
 一日8里も歩けば6日で京の都です。
 人生が短かったのでその日数の比率は大きいはずですが、日常の時間はのんびり流れていましたからこの日数もたいしたことは無かったのかもしれません。
 人々の記憶から消え、地図には無し・・・そんな街道が一杯あったようです。
d0045383_12272347.jpg


木本町全図です

by je2luz | 2008-11-22 12:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 11月 21日

熊野の旅 熊野の古い道

 コメントの欄に昔、『今のような新道が出来るまでは集落間の行き来はどうしていたのでしょう?』と、言う趣旨の書き込みがありました。
 昔の人にとって、意外と日本が狭かったように、かなり積極的に人の動きがあったようです。
 木本の衆がわざわざ山を越えて泊の衆と喧嘩しにいったり・・・
 殿様級ともなれば手勢を率いて地の果てまで戦をしに行ったり・・・

 紀州の中でもこの熊野市のある辺りは、都からは遠く不便極まりない場所です。
 それが証拠に、江戸時代の初め頃に代官所も『奥熊野』といわれたくらいです。
 平地も無く、米がそんなに採れないので人口も兵力も増えることも無く、大きな豪族も育った無かったようです。
 しかし、不便で隔離されては居ますが、この辺の山は比較的なだらかです。
 日本列島の背骨の方の山だと、下手に迷い込んだら断崖絶壁、集落の間の山が越せないなんてのが一杯です。
 この辺だと、独立峰的に聳えている山でも1300mがせいぜいなのです。
 海と山間部をさえぎる山も肩の部分となると400mとか500mほどしかありません。
 山間部の集落の間だと200mとか300mで済みます。
 谷川も瀞八丁や大杉谷のように命をとるようなものではありません。
 岩場もちょっと迂回すれば登れる物です。

 このような地形の所ですから、昔、人間が歩いて行き来した時代には網の目のように山の中に道がありました。
 海岸線を結んでいたのは今で言う『熊野古道』が幹線道路でした。
 飛鳥(小阪)から木本へは『評議峠道』・・・小阪峠から新田の一番奥からまっすぐ谷沿いに下りてきます。旧道よりはるかに短いです。この道を使って子供の頃に木本まで歩いて映画を見に来たくらいです。
 その道を小阪峠のすぐそばで分かれると大馬に出られます。

 新鹿ー小阪は八丁坂越え
 新鹿ー小又も直通です。
 小阪ー柳谷、碇なども直通ですね。
 井戸ー瀬戸ー神川も大峪越え直通
 五郷ー大又は池の宿経由の道もありました。
 私も知らない道がこうして一杯あったのです。

 国土地理院の地形図でもそうした道はカバーできていないようですが、集落の間の山のくびれの部分に向かって必ず道が入っていました。
 一部には石積みした部分もあるくらいでしたが、踏み固めた道は人が歩かなくなるとほぼ消えてしまっています。
 そのルートも最早知っている人が居なくなって来ています。

 山越えの道は今の人間にとって結構きついですが、徒歩時代の田舎の人間にはさほど苦にならなかったようです。
 現に私が若かった頃に山の見回りとかで老人の人と一緒に山に入ると、平地の間は遅いのでいらいらさせられていたのに、一歩山に入るとこちらがついてゆけなくなるのです。
 平地も山も同じピッチで、疲れたといわないで歩けるからです。ものすごく険しくなければ山道でも一時間1里(4Km)近く歩くと言われました。
 今の道路はトンネルなど抜いて近く見えますが、地図で見ると結構遠回りしています。
 人の道はまっすぐ山を越えて結ぶので思ったより近くて早かったのです。

 これはここだけではなく、何処の田舎でも結構あることだと思います。
 昔近かったのに新道が出来て疎遠になる集落なんてあるのです。
 昔々、間に山があるのに縁が深かったかどうかは、江戸時代から昭和のはじめくらいまでに縁戚関係のある家が何軒もあるかどうかで知ることが出来ます。
 世話をする人が行き来をしていたとかで縁結びをしていたわけですからね。
 しかし、この縁戚関係を知る人もどんどん減って来ていますね。
 これも郷土史の根っこの部分なのでしょうね。
d0045383_1219467.jpg


木本町全図です
 

by je2luz | 2008-11-21 12:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)