LUZの熊野古道案内

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2008年 09月 30日

熊野の旅 昭和34年10月 F記念日

 昭和34年・1964年9月 伊勢湾台風が来襲しました。
 そして開通したばかりの紀勢本線もずたずたになりました。
 それでも、国鉄マンの不眠不休の復旧作業で一週間ほどで紀勢本線 熊野ー多気間と参宮線 多気ー伊勢間などは汽車が走るようになりました。
 多気から先は鉄橋が流失したので仮設の橋が掛かるまででも一ヶ月ほどかかったでしょうかね。
 国労・動労などが元気な頃で、春先になると『春闘』で汽車が止まるのが当たり前の時代でしたが、こうした災害時などには国鉄マンは一致して頑張った物です。

 この伊勢湾台風の時が、私のカメラ人生で大きな出来事があった時と重なります。

 この昭和34年5月に日本の誇る世界の名機・『NIKON F』が誕生しています。
 そして、この伊勢湾台風のときに伊勢市駅前のカメラ屋に予約してあったニコンFが到着したのです。
 田舎ではまともなカメラ屋は無いし、従兄弟が銀行の伊勢支店に居たのでそちらで予約してもらったのです。
 ものすごく高価なのにものすごい評判で、伊勢くらいの田舎のカメラ屋では予約して随分待たされましたね。
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 伊勢湾台風で汽車が動か無いので受け取りにも行けない状態が続き、やっとこさ動き出して伊勢まで受け取りに行きましたが、道中車窓から見えたのは、瓦の無い家、吹き倒された電柱、稲刈り不能になった田圃・・・
 熊野から伊勢までは台風が通った道筋をたどるような物ですから、まともな所は山陰になった場所だけのような有様でしたね。
 
 それ以来、もう49年です。
 一台目のFは学生時代の終わりに質に入れて流れました。残したのが買いましたブラックのFでした。
 このブラックFも店をやっている時に質で流れました。
 そして、ほんの少しだけFが手元に無いときがあったのですが、なんとも淋しいので又々Fを購入しその機体が今も手元にあります。Fが手元になかったのは半年くらいでしょうね。
 私の人生で一番長くそばに居るのがFのようです。
 住まいも変わるし、人も入れ替わって行きますが、Fは黙ってそばに居てくれますからね。
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 これがニコンFで二枚目に撮った映像です。
 被写体はスポンサーの祖父です。
 レンズはニッコール50mmf2.0・・・フィルムはネオパンSS・ミクロファイン現像です。
 慣れて居ないのでピントが少し甘い気がします、
 それでも、レンジファインダーのオリンパス35Sから一眼に変わったのでうんとくっ付いて撮っています。
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 これが三枚目に撮ったお袋です。
 100%表示のファインダーで視差が無いのを信用してこれもフレーム一杯で撮っていますね。

 昭和34年の頃だと農作業する時はこうして典型的なお百姓さんスタイルだったのですね。
 稲刈りも10月に入ったころにまだやっていたのです。
 これでも、随分早くなってきていたのですがね。
 カメラは ニコン F

熊野市広域地図です

  
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by je2luz | 2008-09-30 12:51 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2008年 09月 29日

熊野の旅 秋の大運動会 木本小学校2

 児童数が減って来ると、運動場が広く感じます。
 運動会と言う物は、児童一人に対し観客が二人も三人も来た物です。
 昔は一軒の家の子供の数が多かったので、そう観客は何倍にも増えないように思えるでしょうが、その分、近所のおじちゃん、おばちゃん、爺さん、婆さん・・・村中、町中総動員の行事でしたからものすごく膨れ上がったのです。
 いまでも、老人会らしき人たちが見物に来て、それこそ『枯れ木も山のなんとやら・・・』と言う感じですが、枯れ木も減ってきましたからね。
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 ものすごく広くなった運動場に、ちいちゃな子供が入場すると、ますます広く感じられます。
 本部席、来賓席の佇まいは昔とちっとも変わりません。
 変わったのは、テントに入りきらずあふれていた大人の数が激減して、実にゆったり見物していることです。

 前の日から席取り合戦を演じていた、一般席のほうもガラガラになってしまい、いつでも最前列に出て応援が出来るほどです。
 下の写真でも、ゴール前の撮影ベストポジションでもこんなにゆったりカメラを構えられるのですからね。

 昔も見られた光景・・・
 お父さんがカメラを構えて子供の雄姿をカメラで写す・・・
 この同じような光景も年々、時代によって変わって来ています。
 私が最初に見た光景は、二眼レフ・・・そして35mmカメラへ・・・次にきたのが望遠付きの一眼レフと8mmカメラ・・・大きなビデオカメラ・・・ズームつき一眼レフに小さなビデオカメラ・・・ここら辺までは、皆さんカメラは額にくっ付いていました。
 しかし、デジタルカメラにデジタルビデオを使う今の人たちは、全員老眼になったのか、カメラを顔から離して構えていま。
 不安定みたいな気がするのですがねえ・・・
 でも、私の使うカメラと違って『手ブレ防止』なんて付いてるのでしょうね。
 時代は変わったものです。
 それに、撮影班がお父さんばかりではなく、お母さん勢が増えたことです。
 昔はこうした大きな行事の時に『写真を撮る』と言う難しいことの出来るお父さんの存在感があったのですが、もはやそれも無くなったようです。
 親父の存在感はますます無くなったようです。
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 男女平等・・・憲法にも書かれ、法律まで出来ているのですから大事なことなのでしょうが、少しはお父さんの見せ場も残してやって欲しい物ですね。
 子供の前でまで夫を叱りつける奥さんも居るようだし・・・
 決してよい見本にはならないでしょうね。

 塾に通わせるより、お父さんお母さんの役割をきちんと見せる方が、人間形成には大事なような気がします。

 これ以上書くと、国交大臣のように叩かれそうなのでやめておきましょうかね。

 もう一つ・・・
 せっかく撮った写真はきちんと『写真屋』でプリントしてアルバムに残してやって欲しいですね。
 普通の自家プリントは消えます。
 パソコンに入れたデータはクラッシュします。
 保存のためのCDも早ければ数年でデータが読めなくなります。
 一番良いのは・・・やっぱり本物の『白黒写真』です。
 カラーフィルムのようなモノクロフィルムは『白黒写真』ではありません。
 そんなところにまで、まがい物がのさばっています。
 嫌な世の中ですが・・・
 せめて、子供が自分の子供を育てる頃まで写真が残っているようにしてあげてください。

熊野市広域地図です
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by je2luz | 2008-09-29 11:52 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 28日

熊野の旅 秋の大運動会 木本小学校1

 どう言う訳か、小学校では春と秋の二回運動会があります。
 春のは小規模の運動会で、秋のは、お遊戯・ダンスからかけっこ・リレーまでフルセットのものでした。
 秋の運動会は『秋季大運動会』などと言う看板が掲げられた物でした。
 今より少し遅めの運動会でしたが、大人、青年団などの出し物もあり、子供の部落・町別対抗リレーと同じように大人のリレーもあり迫力が合ったものです。
 
 今週あたりも一杯運動会は行われている物と思います。
 狭い運動場に子供と親があふれる新興住宅地の小学校から。学区内の人が全部集まってもかつてに一クラスに満たない学校まで色々でしょうね。
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 これは、今開催中の『熊野市立木本小学校秋の運動会』です。
 おそらく、ネットに出るのは一番早いと思います。

 曇り空で暑くはないですが、人数の少なさもあって、淋しい感じがします。
 この小学校は熊野市の中心木本町にあり、面積は狭いですが、大規模高でした。
 戦時中から戦後に掛けての子供の多かった時代には5クラスずつ1500人ほども居たことがあるのです。
 その頃の一クラスは50人、場合によってはそれを超える詰め込みでしたからね。
 今では全校で120人居るか居ないか・・・昔の一学年の半分も居ません。

 このテントは木本幼稚園の園児用みたいです。
 少し前から、園児・児童はこうしたテントの下で待機しています。
 なるべく日に当てないようにして運動会・・・不思議な光景です。
 オゾン層の破壊が進んで危険になったオーストラリアとは少々意味の違うテントなんですがね。
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 園児たちが入場門で(門は作っていない)出番を待っているところです。
 何しろ、かけっこでも昔なら8人ずつ走っても15組も余ってあるので、プログラムの進行がゆっくりでしたが、今では二学年ずつ走らせるくらいですから、あっという間に進行します。
 山間部の学校に行くと、全児童で20人ほどですから、かけっこ全校で一回、お遊戯も学年毎にはやれないし、PTA参加プログラムも親の数もそれだけですし、残るは走るのもままならぬ老人会会員ですからね。
 まともに進行させたら、普通の体操の時間で納まってしまいます。
 木本小学校は曲がりなりにも6学年独立で6クラスありますからね。
 それなりに『運動会らしい』プログラムはまだ組めているようです。

 本来ならきちんとしたカメラを担いで撮影してアップするのですが、世の中の風潮は部外者カメラマンを犯罪者扱いしますので取りやめて、コンパクトデジカメでちょいと撮って帰ってきました。
 まあ、私がカメラを持ち込んで撮っていても警察を呼ばれる心配は無いでしょうけどね。

熊野市広域地図です
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by je2luz | 2008-09-28 11:42 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 27日

熊野の旅 伊勢湾台風49年

 紀州から伊勢湾沿いの地域では、大きな災害、台風と言うと引き合いに出されるのが『伊勢湾台風』です。
 昭和34年(1959)9月26日、潮岬に上陸して紀伊半島東側を走って伊勢湾の奥深く進んだ、超大型台風です。
 海上にあった時の気圧が910MBと言う桁違いの物です。
 最近騒いでいる台風は970だとか980なんてのですから、豆台風なわけです。
 私は高校生で今住んでいる家の隣に居ました。
 当時は今国道になっている場所は、浜の道沿いに芋畑や小さな家やらの並んだ木本の裏通りでした。

 この超大型台風が接近する前、何日も前から、海が底荒れし、波の高さは浜の中頃なのに不気味な地鳴りがするので眠りにくいほどでした。
 海沿いに暮らす人たちも経験のない不気味な物でした。
 案の定、潮岬に上陸し接近すると、高潮がこの一体を襲い、雨も記録的に降り、風はかつてないほど吹き荒れると言う、まさに三拍子揃ったオールラウンドな巨大台風でした。
 目に入った少しの時間は全く無風で空も晴れかけると言う上陸後も目のはっきりした教科書のような台風でしたね。

 木本では松本峠・鬼ヶ城の山に守られた東側半分は何とか大丈夫でしたが、その保護下になかった本町筋の東半分あたりは道が瓦で舗装されたように埋め尽くされていて、屋根が無事だった家は殆どありませんでした。
 そして、駅前に出る道は市役所のところから先が冠水し、駅前にあった製材所の丸太が流れ出してゴロゴロ転がっていました。
 その一体の丸山町は沼地を埋め立てて分譲され、新築の家が建ち始めた頃です。
 新築の家が一階の真ん中辺まで浸かっていました。
 我が家の裏では、小さなアパートと作業小屋があったのですが、すぐ裏で越えた一発目の波で大きく揺れ、二発目で崩れて流れ始めました。
 これを目撃したのは、石垣に守られた離れの窓から眺めていた私だけです。
 高校生で無謀なので他の人が避難しても残っていたのです。
 浪の怖さを実感した瞬間でした。

 熊野市(人口3万)の被害は
  被災者8.162人 死者1人 負傷者8人 家屋全壊163戸 流失22戸 半壊217戸 被害総額28億6092万円 と、記録されています。
 これほどの台風で、伊勢湾沿いから名古屋で膨大な数の死者も出たのに、熊野市では人的被害が極度に少なく済んではいます。
 巨大台風の接近で海岸線などではそれなりに退避行動がとられていたのでしょう。

 この伊勢湾台風の災害復旧と防災対策で紀伊半島から伊勢湾沿岸の海岸線には堤防が築かれていったのです。
 そして、今でも土木工事の時に言われるのは、『伊勢湾台風にも耐えられる・・・』と言う言葉です。
 しかし、今と違い観測網もなし、目撃者すら殆ど無しと言うところで割り出された『伊勢湾台風にも耐えられる・・・』は絵空事なのです。
 現に、そうして作られた堤防は、それよりうんと小さな『台湾坊主』の時でさえ波が越えています。
 太平洋、熊野灘の概要から直接打ち寄せる高潮・高波のエネルギーの大きさは都会の内海しか知らない人には分かりません。
 波高5mでもゆっくり盛り上がるような内海の物と走ってくる熊野灘では違いますからね。 
 私たちが習う程度の力学でも m×vの二乗 なんですよね。
 進む速度が4倍になりゃエネルギーは16倍です。
 まあ、私はそうした絵空事の説明は信じません。
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 当時の木本浜どおりです。
 後に見えるのが、今の世界遺産・熊野古道・松本峠です。
 この前に木が伐採されたと書いた一体が、この頃にはきれいさっぱり丸坊主です。
 つまり、この前に切られた木はせいぜい樹齢50年ってことですね。
 この頃は、この真下に木本隋道が完成して20年ほどになってきて、松本峠など忘れかけられた頃です。

 余談ですが・・・
 この台風の頃に新進気鋭の若手政治家だった二人が、災害復旧、防災工事のおかげで長期政権の足場を築いたのです。
 一人は元三重県二区選出で衆議院議長まで務めた田村元さん、もう一人は8期32年熊野市長を務めた坪田誠さんです。

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by je2luz | 2008-09-27 11:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 26日

熊野の旅 東南海地震300年前の例

 海岸浸食が始まっては居なかったにしても、浜に堤防など無かった時代、川にも堤防があまり無かった時代には、台風が来れば洪水、高波に襲われ、地震があれば津波に襲われるということが続いていたようです。
 周期が短いといわれる『南海・東南海地震』ですから、熊野に残されている資料にも何度も何度も出てきます。
 建物も今のように頑丈ではない物が多かったですから、大地震でなくても倒壊が出たりしているようです。

 こうした『東南海地震』の一つで、取り立てて大きかったみたいなのが、宝永4年(1707)10月に起きています。
 規模はマグニチュード8.4だそうです。
 もちろん、その当時には気象庁はありませんから近代になってからの推定した物です。

 津波襲来、大泊清泰寺だけ残り民家残らず流失二名死亡、古泊民家36戸流失、新鹿民家殆ど流失24名死亡、遊木も民家流失死者出る。
 未の刻(正午頃)発生して人々は山に避難したそうです。
 木本浦では魔見ヶ島(魔見丘・まぶりか・まみりょうか)まで汐が引き海底が見えたようです。そして、しばらくして浜の中ほどまで浪が上がったとあります。
 この魔見ヶ島とは木本の沖合い1.5Kmほどのところに見える岩の島です。写真の矢印のところ・・・
 そこら辺まで汐が引いてそこが見えたという割りに、木本に押し寄せた津波が小さいですね。
 昭和19年の場合、尾鷲湾の汐が引いて底が見えたそうです。そして、戻ってきた津波が尾鷲市街を一のみにしています。
 震源地が少し北にずれていたのでしょうかね。
 いくら浜に豊かな砂利があったにしても中ほどで済んでいるのが不思議です。
 当時の台風で木本の町まで高潮が入っているのですからね。
 でも、海の底が見えるほど汐が引いたのは事実でしょう。
 この浜は目の前で水深は数十メートルまで落ちていますから、ものすごい引き潮だったのでしょう。

 今の人より防災訓練と言うか、住民の防災意識がしっかりしていたのでしょうね。
 防災無線だテレビだなんて無くても、人々は大きな地震があれば山に避難し、家屋が全滅に近い泊村などでも亡くなった人は少なく済んでいます。
 今、こうした状態になったら住民の半分近くが流されるかもしれません。
 小さな時からじいちゃんばあちゃんや親たちからその地区の弱点を踏まえた地震や台風の心得を口を酸っぱくして教わった時代には防災意識が本当に身についていたでしょうね。

 私も子供のころ・・・
 『地震が揺っても慌てて飛び出すな、かわらに当たるかも知れん』
 『収まったら、余震が来るまでに田圃で出ろ。出来れば戸板を敷くかナル(稲を干す長い丸太)に捕まって地割れに備えろ』
 などと、爺さんに言われたのを覚えています。
 それもあって、この家を設計する時に、地震対策で屋根はアルミで極度に軽く、柱は4寸で限りなく多く使う、筋交い火打ちも可能なだけ入れる、家具は全部造り付けにする・・・とにかく、潰されることだけは防ぐ構造に仕上げました。
 備えては居ますが、こないで欲しいですね。
 まあ、戸殿たちを無事に育ててこの家からは送り出しました。
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by je2luz | 2008-09-26 12:08 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 25日

熊野の旅 今も昔も 土地争い

 近代に入って、土地の私有制、登記などが確立し、土地などが財産として確立してからは、所有権争い、境界争い、相続争いが頻発するようになったと思っていました。
 そして、昔は国盗り合戦で戦をしていた物と思っていました。

 織田信長ー豊臣秀吉ー徳川家康と天下統一が進んで、小競り合いは禁じられ、江戸時代には収まっていたのかと思いました。
 ところが、端末では結構村の境争いのようなことが起きていたようです。

 紀州は江戸時代から林業の国でした。
 つまり、山が財産だったわけです。
 自分たちの家の用材や薪や炭を確保するだけではなく、材木を浪速などに送って現金を得る手段でもあったのです。

 今から300年ほど前の宝永3年(1706)宝永8年(1711)などに、『山争い』と言う記録が残っています。
 あちこちで頻発したようですね。

 享保元年(1716)の暮れには木本の衆が大泊との境目を越えて、正月の飾りを採りに行き、大泊の衆と口論になったようです。そこで、木本の衆は大挙して押しかけ無理やり取ってきたというような事まで出てきます。
 今の熊野古道・松本峠を棒切れや鎌など手にして・・・
 『あれら、生意気に・・・』
 『やったってこうらい!』
 『かまんさか、今年の飾りは全部、泊で採ろうら!』・・・
 などと、いきまきながら越えたのでしょうね。

 相続の方でも、借金のカタとか博打のカタにとかで家屋敷・田地田畑の名義がおかしくなりかけたのか、『相続人以外に譲ってはならぬ』と言うお触れもその頃に出たそうです。

 こんなのが頻発するし、漁師は漁師で『おらが所の魚を獲った』と騒ぐし、放火はあるし、時化があると難破船が出るし・・・
 紀州藩の端っこの『奥熊野代官所』も結構忙しかったでしょうね。

 どうも、江戸時代の田舎も平穏無事、のんびりした物でもなかったようです。
 おそらく・・・
 今の時代の人が言うように・・・
 『昔はよかった・・・こんなことは起きなんだ・・・』と、言っていたのでしょうね。
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by je2luz | 2008-09-25 11:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 24日

信仰と親ものがたり

 今の世と違い、昔は『坊さんになる』と言うことは『出家する』『仏道に入る』と言うことに意味がもっと大きかったです。
 今も、同じ言葉を使いますが、何年かの修行僧時代を除けば、妻帯もできるし普通の人に近い生活が出来るのでかなり違うようです。

 昔は命を救うためにとか世間の目をごまかすためとかなどで子供を出家させたり寺に預けたりしたことも多かったようですね。
 将軍の子の『一休禅師』や鞍馬山の『牛若丸』など一杯だし、親鸞上人もそうした血筋だとか・・・

 ここの世界遺産に関連する人では、大峰山の開山、『役の行者』と言う大物が折られます。
 山に籠もり、道を目指し、仙人のような術も身につけた修験道の高僧です。
 この方も、人の子です。
 母親って物があります。
 子供がどれだけ立派になって、自ら修行をはじめても、母親にとってはいつまで経っても『子供』なのでしょうね。
 大峰山の結界のすぐそばまで追いかけていって、ひたすら子供の無事を祈ったそうです。
 女人禁制がいまだに守られて?居る大峰山の結界の手前には『母公堂』があって、そこがお母さんが『役の行者』の無事を祈った所だそうです。
 下の写真がその『母公堂』です。
 日当たりの悪い寒い所です。
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 もう一箇所の霊場。高野山には、お芝居で有名な『刈萱物語』が残されています。
 お芝居も疎いので中味は詳しく知らないのですが、仏道に入るということと、親子の愛を「いと悲しゅう」書いた物のようです。
 こちらは、どうも作り話の部分が多いようですが、根っこにあるのはよく似たものでしょう。
 そして、世俗の衆から見て、出家する、高僧になるということはそんなものだったのでしょうね。

 高野山は女人禁制ではなくなっていますし、聖地の雰囲気も奥の院周辺以外は観光地になってしまいましたね。
 坊さんは職業化しても、聖地はそのままであって欲しい物です。

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by je2luz | 2008-09-24 13:08 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 23日

熊野の旅 古代人の距離感

 今の時代、この辺を除き、日本列島には新幹線網や航空路線網が敷かれ、その日のうちに日本の果てまで行って帰ることも可能になりました。
 その少し前には、東京ー大阪を従来線こだまで6時間ほどでしたか・・・そしてその前の『特急つばめ』で8時間ほど、蒸気機関車の頃は10時間ほどですか?だったように思います。
 しかし、こうした鉄路が広がったのは大正期から昭和期です。
 そして、それとともに、日本全国旅行熱にうなされ・・・とも言われました。
 たしかに、紀勢西線が出来てくると、勝浦・那智などがにぎわい、紀伊木本駅までつながると、鬼ヶ城、獅子岩にも一杯観光客が訪れるようになりました。

 でも、この地の果ての熊野も江戸時代の記録では、伊勢参りのついでに足を伸ばして南下してくる人が一万五千も二万も居たのです。
 てくてく歩いて山道を超え・・・
 東海道とかになれば一日中人並みが切れないだけビジネスマン(武士や商人)や観光客(伊勢講や京都見物)が歩いていたそうです。
 そりゃあ、今の新幹線での人の動きに比べれば小さいですが、元になる日本の人口、都会(江戸・大阪)の人口も比較にならないほど少なかったのですから・・・
 おまけに、人の寿命がうんと短く、せいぜい50年ほどですから、無事に動ける年なんて高が知れています。

 さらに遡って平安・平城・明日香となってゆけば、どんどん人口は少なく、人生も短くなって行きます。
 もっとも、昔には『八百比丘尼』などを始め、何百年も生きたのが一杯居るようですが・・・
 しかし、普通の人間が活動できる年数が少なく、移動に時間が掛かる時代の古人たちの行動半径を見ると恐ろしく広いですね。
 この辺に関連する人物では後鳥羽上皇たちはいくら信心深いとは言え何十回も都から熊野まで参拝に来るなんて・・・さらに、いくら南紀・鬼ノ元浦(木本)の海賊の親分が言うことを聞かないからといって坂上田村麻呂が出張ってきたり、その将軍が日本国中厄介な豪族退治に遠征したり・・・
 神宮(伊勢神宮)を今のところに定めたと言われる「ヤマト姫」が丹後の国宮津からうろうろ二十箇所余って天照大神の安住の地を求めてうろついたり・・・それも行く先行く先で一応お祀りする場所を作ったのですから、ちょいと荷物を下ろして一休みではなかったはずです。

 行動可能年齢が今の半分の人たちにとってはこうした旅や遠征はものすごく大きなことだったはずです。
 それなのに、古代人はものすごい行動力ですね。
 そして、蝦夷地などを除き日本のことは各地のことまで結構把握されていたようですね。

 もっとも、これは日本だけでなく諸外国でも同じですね。
 シーザー・アレキサンダー・ジンギスカン・・・地の果てまで攻めて行ったり、商人も陸のシルクロードを始め、小船を操ってまで地の果てまで交易に出かけていますからね。
 これから見ると、今の人の視野ってそんなに広くないし、行動範囲も広くないですね。
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 これが神宮の元宮・丹後の国宮津の『籠神社』です。
 一人の姫君『ヤマト姫』が御神体の天照大神を奉じて畿外、畿内を安住の地を探すたびの出発点です。
 天橋立の西の端にあります。
 うろついたとされるのが添付の地図の左上の端っこ宮津から右下の端っこの伊勢までです。
 その道筋には、『元伊勢』と言われる神社などが点在します。

ヤマト姫の行脚範囲です
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by je2luz | 2008-09-23 12:26 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 22日

熊野の旅 熊野ではサンマは冬の物

 『サンマ』は『秋刀魚』と書くくらいで、代表的な秋の魚と言うことになっています。
 大きな船で沖獲りするようになってからは、まだ暑いといえる時期から出始めます。
 最初の水揚げは『北海道』です。
 根室だ厚岸だといった地の果て蝦夷地の果てからこんな所まで送られてきます。
 もう少しすると水揚げ場所が、三陸・花巻・石巻などになり、秋が深まる頃には銚子・勝浦などになるというように『黒潮』に逆らって南下してきます。
 自転車で走るより早いくらいの『黒潮』にどうして逆らって移動するのかと思いますね。
 多くの魚は黒潮に乗って南から北に向かうようですからね。
 
 こんな風に回遊する『さんま』ですから、本来は地方によって獲れはじめが違います。
 つまり、昔の流通体系の下なら、住む場所によって『サンマ』と言う言葉から受ける季節感が違っていたのでしょう。
 この熊野沖まで下りてきて、『サンマ』・・・『サイレ』が獲れるのは11月頃なのです。本格的な漁は12月・1月・2月などと真冬です。
 私が子供の頃には秋口にサンマが出ましたが、三陸などの物が『塩サンマ』になっていたのです。
 高くてさほど旨くない物でしたが、いつの間にやら、北海道からでも地元産と区別が付かないきれいな『ぶえん』(無塩)で来るようになりました。
 『サンマ寿司』『サンマ丸干し』を名物にして売り出す熊野でも、生食される『秋の味覚のサンマ』は北海道産が殆どです。
 北海道産・三陸産を熊野産に偽装することはありません。
 あまりにも違います。
 北の物は油が乗って肩の変が盛り上がった見るからにたくましい物です。
 紀州・熊野・遊木産となると、かわいそうなほどやつれて、体脂肪も世の奥様がうらやむほど低くなっています。

 このように長旅でやつれたサンマが獲れ、そのまま焼いても下手すると煙も出ないマンション用みたいなものであまり美味しくないので、丸干しにして食べたり、寿司にしたり、普通の寿司では飽き足らず『なれ寿司』にまでして美味しく食べた物と思われます。

 かくして、熊野では『サンマ』はやっぱり『さいれ』であり、『秋刀魚』ではなかったのです。
 いまでは、秋が近づくとスーパーに『新物・北海道産・さんま』と札が上がって、脂の乗った美味しい秋刀魚が並びます。
 そして、熊野でも『サンマ』は秋の味覚になっています。
 それとともに『さいれ』と呼ぶ人も居なくなりました。
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 カメラは イコフレックスIIa・Restyled

熊野市広域地図です
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by je2luz | 2008-09-22 12:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 21日

熊野の旅 ○○心と秋の空

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 灰色の色見本ではありません。
 今日のお空です。

 昨日は快晴、雲ひとつ無かったのに・・・今朝早く7時ごろには同じように晴れて赤日が当たっていたのに・・・
 お昼ごろには曇ってしまい、雷までなっています。
 まさに若い女の子のような物です。
 機嫌良かったのは一日だけ・・・

 この記事も今流に言うとセクハラ?もしくは差別発言なのでしょうかね?

 まさに、『物言えば 唇寒し 秋の空』の時代ですからね。

 雷がなっているし、近づくと厄介なので、本日は休稿になります。

 せっかくの飛び石連休・・・熊野古道歩きのこられた方も少しはいるでしょうけど・・・
 雨具があれば歩ける程度ですがね。

熊野市広域地図です
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by je2luz | 2008-09-21 13:27 | 熊野 | Trackback | Comments(0)