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LUZの熊野古道案内

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2008年 08月 31日

熊野の旅 飛行場

 この紀伊半島と言うところは、飛行場とは縁のないところです。
 戦前・戦中の防衛ラインでは、本土から突き出した要衝に見えそうな場所なのに、突き出した先には何もなし・・・内陸部へはまともな陸路も増し・・・
 敵が上陸する心配もなし・・・見張り場所以外に必要のない土地ですから軍用の飛行場も出来ませんでした。
 戦後になっても当然です。
 『コミューター空港』なんてのがやかましく喧伝された頃には、南牟婁郡紀宝町の山を削ってつくろうなんて画策したことがあります。
 しかし、常に横風の飛行場ですし、何と言っても載る人もなし運ぶものもなし・・・それでも『作ることに意義あり』で首長連中は頑張っていました。
 山陰では野菜と人を運ぶのだとか言って『農道飛行場』なんてのを作ったところまでありますね。

 今ある飛行場で近い所は『南紀白浜飛行場』でここから110Km東京便が日に一本だけかな?次が120Kmほどの『明野飛行場』で元々日本軍のものだったところで今は自衛隊の物です。
 他は『小牧飛行場』『伊丹飛行場』『関空』『セントリア中部国際飛行場』です。国内便だと全部乗っている時間より飛行場までの時間の方がはるかに長いです。

 その中で三重県が力を入れたのが『セントリア』です。
 さらに、悪乗りしたのが前にも書いたように、伊勢湾を挟んで飛行場と向き合う三重県の各市です。
 誰が考えても分かる算数が出来ない、首長や役人独特の発想で計画されたのが連絡線です。
 『四日市ーセントレア』『津ーセントレア』『松阪^セントレア』『伊勢ーセントレア』とずらりと並んだのです。30Kmとかの間隔で港を整備し、船を買って・・・
 更にこの先の鳥羽からは『伊勢湾フェリー』が昔から走っています。
 すごいでしょう?

 予想通り、当たり前ですが、全航路パンクし始めています。
 一番ひどいのは後発の『伊勢市』で、乗客ターミナルを巨費を掛けて整備し。船も手配したのに運航を請け負う会社が『採算の合う見込みがないから止めときます』と断ったのです。新品のターミナルも使う見込みすら立たないのです。
 津市も松阪市も完全に赤字体制です。
 最初は飛行場見物・物見遊山の市民が乗っていましたが、飛行場なんてそんなに遊びに行く所でもなし・・・乗船客が回復する見込みが全く無いのです。
 四日市も同様で、各市とも、『赤字補填などしなくてもやっていけます』と、大見得を切って作った航路だけに大赤字ももって行き場所で困り果てています。
 ややこしい船に乗るのなら、一緒ぷ煮何度かしか使わない飛行機なら陸路で行けばよいし、海外の目的地しだいで『関空』の方が便利だし・・・
 件の中心部からならどちらも同じくらいで行けますからね。

 このままでは、大幅減便・・・航路廃止の道を歩みそうです。
 まあ、真ん中の一本位は残っても宵のかなとも思えますが、北部の人はわざわざ遠回りする感じのルートに来てくれないでしょうし、三重県民200万の内、見込み客は地の果てのこの辺を含めても150万人も居ないでしょうね。全員が一生に1回海外渡航し、9割がセントリアを使い、そのうちの半分が航路を使っても・・・
 50年で80%入れ替わるとしても1500000×1×1.8×0.9÷50÷365=133.2 なんです。
 二回にしても266人なんです。
 飛行場を見に行く人を加えても、一航路すら難しい・・・

 なのに・・・テレビのインタビューで・・・『廃止されたら、セントレアへ行くのが不便になる・・・』なんておばちゃんが答えているのを流していました。
 『そんなに行くのですか?』なんて追加質問はなしですね。
 最初は三重県中部の市民は『嬉しがって』(関西風?)せっせとセントレアへ飯を食いに行ったり買い物に行っていたようですが・・・
 そろそろ飽きてきたようです。
 飛行場には似合わない高級レストランなんかもどうするのやら・・・

 あおりを食ったのが、老舗の伊勢湾フェリーでしょうね。
 元々、そんなに多くなかった利用客を税金垂れ流しの航路に取られて・・・
 一時期は常滑に行っていた航路も外したし・・・
 他の航路よりもこの航路の方が、我が家の前の国道42号線の一部としての存在価値があるのですが・・・
 都市郊外型のショッピングセンターのように一斉に出来て、不採算を理由に一斉になくなって、市民の買い物にも困る現象が起きなければ良いのですがね。
 ちなみに、私はセントレアには近づいたこともありません。
 『うみゃーもん』があるそうですが・・・
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by je2luz | 2008-08-31 10:53 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 08月 30日

熊野の旅 1868年

 私のように古い人間は・・・
 『いやロッパさん明治だよ』なんて覚えた年号です。
 1868年明治元年は今の子でも分かるでしょうが。『ロッパさん』は分からないでしょうね。
 熊野には関係ありませんが、『ロッパさん』は『古川緑波』と言うインテリ喜劇俳優です『エノケン』に並ぶ人気者でした。
 『エノケン』が分からない???
 そうでしょうね。『榎本健一』と言う超人気の喜劇俳優です。
 どうも、引用することが古いので引用になりませんね。

 日本の大きな変革期の節目の1868年の熊野では何があったのでしょう・・・
 明治になったのは9月8日ですから、年のうち2/3は慶応4年・江戸時代な訳です。

 いつの世も都だとか江戸だとかから離れた地ですから、そんなに大きな変化があるわけが無いのです。
 これまた、いつの世も戦があると落人が逃れてきたこの地には、明治維新の戦乱の時にも敗残兵が落ちてきたそうです。
 1月に80名ほど来て、木本に泊まったのだそうです。
 時代が時代なので隠れて住み着くなんてなかったようですが・・・

 この年の3月・・・正式にはまだ江戸時代なのですが、『国家神道』のうごめきが始まっています。
 熊野三山・熊野信仰にとっては大きな節目があったわけです。
 つまり・・・
 『神仏分離令』だ発せられています。
 後の『廃仏毀釈』にまで暴走したものの走りですね。
 なのに、今の日本人は仏像を破壊したと『タリバーン』を非難しますね。
 岡倉天心が尽力する前には奈良の仏像の大部分が無残な姿になっていたこともすっかり忘れられていますしね。

 熊野は古代信仰に日本の神道がくっ付き、更に渡来の仏教の浄土信仰や密教・修験道が結びついて、宗教の坩堝のような神々の里・浄土への入り口になっていたのです。
 一番目立つのは那智山でしょね。『那智山青岸渡寺』と『那智大社』の大きな建物が同じ敷地に建っていて、不自然に分けられています。
 他にもお寺なのに鳥居があるところもありますね。
 千年も前からごちゃ混ぜにしていた、土着信仰と神道、仏教を分けろと言われても困るのが熊野信仰だったはずです。
 ヒンズー教と同じように日本人の宗教感は何もかも抱き込んでしまうおおらかさ?いい加減さ?がありますからね。

 伊勢神宮、正確には『神宮』の始まりの元宮、丹後宮津の旧官幣大社『籠神社』(このじんじゃ)でも、祀ってある小さな祠などの横に看板が立っていて・・・『何とかの命=何々菩薩』なんて説明書きがあるくらいです。

 こんな国、余計もごちゃごちゃで、何となく『ご利益』がありそうな熊野信仰には困った命令だったでしょうね。

 明治だというのに、10月には木本では一揆がおき、代官所が襲われて『お代官様』が逃げ出したり・・・11月には代官を殺そうとしたり・・・
 この頃の木本は漁師町の様相が濃いところでしたから、気も荒かったのでしょう。
 何と言っても、『坂上田村麻呂』にやっつけられるまでは『鬼』の根城だったわけですからね。当然でしょう。
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 これは新宮の『神倉さん』です。この『神倉神社』も何だか土着古代信仰に神道が乗っかったような様相の熊野らしいものです。
 もっとも、格好付けた『速玉大社』を作って、そちらを本宮に扱っているようですが・・・

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by je2luz | 2008-08-30 12:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 08月 29日

熊野の旅 七里御浜の砂利

 七里御浜は砂利浜です。
 鬼ヶ城を挟んだ隣りの大泊海水浴場やその向こうの新鹿海岸などは細かい砂の砂浜です。
 不思議なくらい全く違う材質の浜になります。

 浜の砂利といっても、南のさんご礁のように海の中の珊瑚が打ち上げられてくる物ではなく、流れ込む川が何万年、何十万年と言う年月を掛けて運んだ物を、同じ長い時間を掛けて24時間焼く見なく打ち続ける波が磨きながら運んでくる物です。
 海の中から上がってくるのは、たまに混じっている貝殻位の物です。

 『七里御浜』は南の外れの『熊野川』が背後に聳える『紀伊山地』の山を削って運んできた物です。
 この範囲はものすごく広く高野山の裏側、大台ケ原の南側、矢の川峠の南側などを境に水を集め石を集めてきます。
 広大な面積だけに、色んな岩石のところがあります。
 おかげで七里御浜には色んな石ころが混じっています。

 この浜に出られて波打ち際に座って遊ばれた方なら必ずやること…
 それは自分の回りにある小石の中から面白い色や形のものをより分けることです。
 ほんの小さな子供から、若いカップル、中年のおばちゃんから、じいちゃんばあちゃんまで、ほとんどの人が始めます。
 昔ほど色んな大きさの石がなくなって小粒になっていますが、同じように色んな石があります。
 黒・白・茶色・灰色・縞々・貝殻・・・丸いの・四角っぽいの・オムスビ型の・細長いの・・・好みは様々ですが、右手で拾っては左手に握り締めています。
 果ては在り合せの袋を引っ張り出して本格的に拾い集める人も居ます。

 昔はおばちゃんが一杯浜で黙々と石を拾っていた物です。
 これは遊びではなく仕事でした。
 形のよいもの、色のきれいな物を拾い集めて、『玉砂利』『御浜小石』として売っていたのです。
 今でも細々と続けられていますが、海外からの安い石に押さたのと、ダムの影響で新しい石の流入が無く、小石がどんどん小さくなっているので拾う石も減っているのです。

 この小石を良く見ると実に色んな物が有り、熊野川水系の山々が色んな地層で出来ているのがわかります。
 しかし、熊野市の山間部に広がる『紀州御影』の磨かれた小石が無いのです。
 熊野川の支流、『大又川』の川原は全て紀州御影なのに・・・
 そして、大泊海岸や新鹿海岸の砂は紀州御影が砕けた砂なのに・・・

 実は、あの固い『紀州御影』は硬いけど、色んな結晶が寄せ集まった物で結構もろいのです。
 粘りがないというのか、ぶつかってこすれるとボロボロと欠けちゃうようです。
 つまり、すぐに砂になっちゃうってことです。
 大又川から北山川と合流し、十津川と合流して何十キロも急流を下るうちに『砂利』ではなく『砂』になっちゃうらしいです。
 流れ出た所は荒波、急流の熊野灘ですし、他の材質の那智黒などは砕けないで砂利になっているので、御影の砂はその下にもぐるか、はるか沖に運ばれるかになってしまい、七里御浜では見かけなくなるのです。
 それこそたまに、大きな物がコロンと落ちているくらいです。

 この前の浜の『御浜小石』は全国の金魚鉢の底や庭の片隅にあるはずです。
 最早、すり減らせる波もなし、踏んだくらいで割れるものでもなし・・・
 『御浜小石』と一緒に『ご利益』が行ったかどうかは知りませんがね。
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by je2luz | 2008-08-29 11:48 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 08月 28日

熊野の旅 七里御浜と松原

 七里御浜と呼ばれる、熊野市木本から新宮の手前、熊野川の河口までの約20Kmの砂利浜は緩やかなカーブを描く美しいものです。
 この海外沿いには松原が続いていました。
 そして、その松原沿いに、昔は『熊野古道・伊勢道・浜街道』は通っていました。
 近代に入り、『新道』が作られ、自動車も走るようになり、その道が国道になり・・・昭和の中頃には舗装され、40年代には二車線化もされました。
 しかし、その頃になると、江戸時代よりもっと前から育てられてきたであろう防風林の松が急速に枯れて行きました。
 大きな原因は『松くい虫』が媒体する『線虫』だそうです。
 戦時中に一部伐採されたようですが、国土保全のための松林なので非常事態にもちゃんと残されたのです。

 松くい虫の被害が出始める頃、新宮よりの『井田舞子』と言われる海岸部分に道路が新設され、その回りに大々的に松の苗が植えられました。
 植林の主体はこの松原を所管する『営林署』です。
 砂の移動を防ぐ柵を立て、膨大な予算をつぎ込んで犬も通れないほどの密植状態に植林したあと、ずっとそのまま放置してありました。
 肥やしの無い砂利浜ですから当然伸びは悪いです。やっとこさ伸びてきても間引きもしません。
 国道の脇ですし、その当時には新宮に「営林署」があり、ものすごい数の職員が居ましたし、日本地図に出てくるほど広い『大又官林』が熊野市にある関係で定期的にそこを職員が通っていたのですが、係りが違うのでしょうか、無視でしたね。
 あれから40年以上・・・いや50年ほど経っているのでしょうね。
 その松は松原になっていません。
 いじけた松がぱらぱらと生えているだけです。

 林学博士なんてのも居て、樹木の育成をひたすら研究する施設もある『営林署』はわずか数百メートルの松原すら作れないのです。
 そういうことから考えると、鎌倉だ江戸だと言う時代の先人はすごい事業をやったのです。
 余分な下生えを刈り取り、倒れそうになれば支えてやり、親から子へ、子から孫へ・・・

 平成になる頃にもその続きの『井田海岸』に植林がされました。
 もっと大々的に地盤も作って・・・
 そちらの方が少し育ちが早そうですが、海岸浸食が進んで地盤ごとなくなりそうです。
 げに、近代林業とか育林学とかは役に立たない物ですね。

 これは国道42号線の紀宝町内の道の駅『ウミガメ公園』の周辺で見られます。
 金を掛けて50年ほどの歳月を掛けて、盆栽にもならないいじけた松を作ったのです。
 もちろん、七里御浜松林の復活の役には立っていません。
 数えたことはないですが、今となると、七里御浜全域20Kmの間で、松らしき松の古木は百本とかの単位まで減っているのかもしれません。
 
 『白砂青松』なんて日本の美しい海岸を表す言葉はまさに『死語』になってきているようです。
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 カメラは ツァイス・イコンタ521/2テッサー105mm

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by je2luz | 2008-08-28 11:39 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 08月 27日

熊野の旅 熊野の土産

 観光地には必ず『みやげ物』があります。
 『みやげ物』は『土産物』と書くくらい、昔から『地場産品』だったのです。
 それが少し有名になると、『名物』となるわけです。
 有名にならなくても、『自称・名物』を続けているうちに『名物』になっちゃう時もあります。

 今の時代、グローバル化、国際化が進行して、この『みやげ物』も『土産物』と書けない物が増えています。
 まあ、昔から各地で売っている「こけし」、「おきもの」なんてのは焼判などで土地の名前は入っているけど産地はおよそ関係なし・・・でしたがね。
 いまだと、そうしたものの他には「キーホルダー」「携帯ストラップ」「万華鏡」などご当地で作れないのがわかりきったもののほか、「民芸品」「せんべい」「漬物」など、さも地元らしい物までよそ者の場合が多いですね。
 土産品売り場の半分以上はそんなものでしょうね。
 そりゃあそうでしょう。
 みやげ物売り場を地場産品で埋め尽くせるなんて『京都』くらいそうした品の多いところでないと無理でしょう。

 その土地の地場産品で土産になるものは、盆正に帰省する人が買って帰るものが大体本物です。
 大体において、あまり気の利いた箱などに入らない泥臭い物が多いのです。
 地元出身の人も、義理で届ける土産用には箱に入った『名物』を買うようですね。
 そうしたものには、『熊野名物』『紀州特産』などと大きく麗々しく印刷されていますからね。

 ここ熊野市には小さな町にしては珍しく、煎餅・サブレなどを中心とする製菓会社が生き残っています。そして、饅頭屋さんも生き残っています。
 だから、熊野市の名物のお菓子類はまだ地場産品です。
 今ではこうしたことのほうが珍しいくらいになってしまいました。

 里帰りしていた人が自分たち用に買って帰る『土産』はよほどの甘党で無い限りそうしたお菓子類にはなりませんね。
 熊野市の場合だと、『サンマの丸干し』『高菜漬け』を筆頭に『生節』『丸干し類』『目張り寿司』『サンマ寿司』などなのですが・・・お盆・花火の土産には季節柄どうも合わない物が多いですね。
 帰る直前に買って、スチロールの箱に保冷材・・・それでも、イメージ的に長くはもたないってことになりますね。
 たしかに、昔に比べ、干物なんかも薄塩になっていますしね。
 正月の半分くらいの量に減らしてしまいます。
 丸干しなんて、冷凍した物を買ってすぐに持って帰れば、家に着いてもまだ凍っているのですがね。
 でも、私でも夏場はそんな気分になりませんね。

 この冷凍された『サンマの丸干し』は直売所や『道の駅・熊野きのくに』などでそういってお願いすれば在庫がある時があります。混んでいない時でないと対応してもらえないでしょうけど・・・
 名古屋・大阪まで3時間ほど、東京まででも8時間ほどです。新鮮まままでご家庭の冷凍庫まで運べます。
 ぜひ、チャレンジしてみてください。
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by je2luz | 2008-08-27 11:27 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 08月 26日

熊野の旅 急に雨が増えた・・・

 今年は空梅雨に土用日照りと続いて、みかん農家などは夜も寝られないでみかんの水遣りに追われていたのです。
 お盆の頃には節水を呼びかけるほどになっていたのですが、その頃にまともな夕立が二度ほど降って一息ついていました。
 熊野大花火大会当日も、夕方にパラパラと来たのですが、特に問題となるほどでもなく止み、昨日の写真のように、17夜のお月様も遠慮がちに見物する天気で無事に終了できました。
 花火が終了して秋に入りかけると、急に天気がぐずつき始めています。
 台風は今年はまだ近づいてきませんが、雲が良く出るし、にわか雨が降るし・・・これから今週一杯位はぐずつくのだそうです。
 水不足で走り回ったみかん農家の人たちは、今度は高温多湿と言うことで『うどん粉病』なんてので走り回るのかも・・・
 家庭菜園は楽しい物ですが、百姓と言うものは楽な物ではないですね。
 だから、世界中の田舎が疲弊して行くのですよね。
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 山に霧がかかり、時折雨が降る・・・
 元々、ここは日本有数の多雨・豪雨地帯です。
 今年のように雨の少なかった年の年輪幅は狭くなります。
 伐採した切り株にはこうした気候の変動がはっきり出てきます。
 異常に成長の悪い年は旱魃です。逆に成長のよい年は春先から夏までの雨が多かったということです。その両極端な時が米作にはよくないってことです。
 しかし、今の山には歴史を語るような木がほとんどありません。
 樹齢70年以下が多いのです。
 戦時中の伐採と戦後復興期の伐採の後で膨大な労力を投入して育ててきた木がほとんどなのです。
 ここにきて、そうして育てられてきた木々が見捨てられようとしています。
 ボルネオ島を裸にし、シベリアを荒野にして来た材木輸入はまだ続いています。その何割もが不法伐採、盗伐だと言われているのに・・・そして、照射も知らないはずは無いのに・・・
 でも、そんなことやっているのも、日本の田舎から出た若者の末裔なのでしょうから・・・

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by je2luz | 2008-08-26 12:08 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 08月 25日

熊野の旅 来年はいかがですか?

 原油高で海外旅行がかなり減ったのが今年の夏休みです。
 その分国内の近場が少し賑わったとか・・・
 
 来年のことを言うと鬼が笑うそうですが、有名なイベントとかを宿泊つきで見ようと思えば早くから手配しないと出来ません。
 年中ガラガラの観光地、熊野市でもほんの数日宿が取れないときがあります。
 その一日が『熊野大花火大会』です。これは8月17日に決まっています。
 これを宿泊つきで見物するなら、もう決めなくてはいけませんね。
 駐車場でも、会場まで30mの我が家の庭はすでに予約済みです。毎年来る人がこれなくなったら空きが出るだけです。
 宿泊施設も毎年ほとんど同じ客が泊まっているようです。
 レピーターが多いということは、この『熊野大花火大会』がそれだけ魅力があると言うことでしょう。
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 この写真は我が家のベランダから見た『三尺玉海上自爆』です。
 21mmワイドレンズでこの大きさです。
 標準レンズなどではとても納まりません。
 人間の本当に見ている視野より広い範囲に広がります。
 花火の大きさも迫力がありますが、ずしんと来る音の響きはすばらしいです。
 同じ状態のレンズで撮った『一尺玉海上自爆』だとこんな物です。
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 これでも大きくてきれいなのですが、桁違いをやるとこちらが小さく見えます。
 この花火の前々日の『大泊海水浴場』の光景が下のようなものです。
 一級の水質の海水浴場のピークの時の状態がこれです。
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 お盆で帰省客が一杯の時でもこの状態ですから、普段の状態が推測できると思います。
 市内には『新鹿海水浴場』と言うこれの倍の大きさの浜を持つところもあります。
 そこまでは国道311号線で10Kmほどです。
 来年には国道改修のトンネルが出来て狭い区間が無くなるのではないかと思います。
 道が良くなったからといって海水浴客が増える要素は全くありませんから、どちらの海水浴場もゆったり遊べると思います。
 場合によってはプライベートビーチ並みになるかもしれません。

 こんな海辺のリゾートですが、来年はいかがですか?
 民宿の経営者も年をとってきております。来るのならお早く・・・

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by je2luz | 2008-08-25 11:57 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 08月 24日

熊野の旅 熊野大花火大会 ようやく終了

 今年は前にも後にも台風の発生が無く、穏やかなままで準備が出来、無事に終了した花火大会でした。
 あくる日の午前中が曇っていたこともあり、例年に無く早く、堤防の上の桟敷が撤去されて行きました。その日だけでほぼ半数が撤収されると言う出足の良さでした。
 しかし、いつでもどこでもてきぱきやらないのが居る物で、最後の一つは今、解体されています。
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 今日も曇り空・・・一つだけ残って目立つし・・・一週間にもなるし・・・で、片付けているのでしょう。
 この桟敷はご覧のように七里御浜・木本海岸の堤防の上に仮設で作られるものです、
 昔は海に面して屋敷のある家が、『間口の幅だけ沖まで自分の物』と言う習慣法に基づいて、そこに桟敷を造っていました。
 今では、その習慣法のように自家用の桟敷を組む家は一軒しか無くなりました。
 我が家も昭和30年代は裏の堤防に桟敷を組んでいました。
 花火の前に大工さんが来て保管してあるプレハブ状の木製の桟敷を組み上げ、あくる日には又さばいて保管してくれた物です。
 きちんと相した材料があっても、浜と堤防の相対的な高さが変わるので調整しながらの作業で、三人ほどの職人さんが半日はかかっていました。
 撤収も同様ですから、三人丸一日分の日雇賃がかかるのです。
 今で言うと、2万円の職人さんで6万円・・・2.5万円の人なら7万5千年です。
 新規に作ると、今なら写真のような足場用パイプとコンパネベニヤですが、その当時だと材木できちんと加工するか足場丸太と杉板でしたから結構お金もかかりました。

 そこまでして作る桟敷で見物する人は多くても30人くらいでした。少ない年は十数人ですから、一人頭の費用も結構かかります。
 なまじ桟敷を組むとお客さんが来るので、堤防の桟敷まで、飲み物などを運ばなくてはならないし、夕食なども用意しなくてはなりません。国交大変なことになるのです。
 と、言うことで、木本の人も桟敷を組まなくなってきたのです。
 今では管理者の県の許可を貰った企業とか組織が主になって来ています。
 今年などは少し隙間があるような感じで作られていましたね。
 金稼ぎを目的らしき物も見受けられますが、純然たる自家用で桟敷を組んでお客さんを接待するような家もなくなったということです。
 木本の旧家・旦那衆(だんなし)の資産はほとんど山林でした。
 今では、固定資産税がかかるだけで金を産まない物に化したのですから、お客どころでは無いのが実情でしょう。

 この桟敷。組んである時に台風が接近すると非常に危険です。
 床のベニヤを広げた状態で置けば、例え釘などで止めてあっても宙に舞います。おそらく、100mは飛ぶと思います。
 通行中の車に当たれば大事故になります。
 我が家のように海に面している家では、まさに『人命財産』に関わることなのです。
 何回か台風の接近に見舞われましたが、地元でない人の桟敷なので、きちんと対策牛に来ないやつが居ます。
 県土木に言って、連絡させても来ないのまで居ます。
 おそらく、こうした状態ではそのうちに恐れているような事態が起きるでしょうね。
 そもそも、海岸線に住んでいる住民でも、『伊勢湾台風』や他の台風での被害状況などを知らない・・・もしくは忘れてしまった・・・人が多くなっていますからね。

 人間、痛みを忘れるから生きていられる・・・しかし・・・学習しない物は又火傷をする・・・
 大体において・・・警告するものを笑います。

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by je2luz | 2008-08-24 10:34 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 08月 23日

熊野の旅 処暑

 今日は二十四節季の中の『処暑』だそうです。
 暑さが峠を越して涼しさが勝つようになってくる頃と言うことのようです。
 先日も書いたのですが、『木本の花火が済んだら涼しくなる』と言うのと、少しのずれはありますが同じような物ですね。
 実際、花火の晩あたりから、夜になると気温がぐんと下がってきております。
 窓を開けっ放しで寝る私など、明け方に寒くなってしまうこともあるようになりました。

 これから、半月ほどで『白露』になります。
 『白露』字を見ても涼しげですね。
 山間部では白露を待つまでも無く道端の草に夜露、朝露が付くようになります。
 昔、山間部で育った子供の頃には、その朝露で足が濡れた記憶があります。
 好きな感触ではなかったですが、今となっては懐かしいです。
 海岸線に暮らすようになってからは、『露』も『霜』も縁が無くなりました。
 『朝霧』なんてのもほとんど縁が無いですね。
 気候温暖と言うことは、こうした季節感も乏しくなると言うことなのですね。
 都会の方では、人工的な要因で一年中気温が上がっているので、『露』も『霜』も無くなってしまったようですね。
 今から半世紀ほど前だと、東京でも霜や霜柱が見られましたね。
 今なら都心のすぐそばになっている、西武新宿線・野方・下井草なんて所だと一面の麦畑に霜柱・・・なんて季節感があったのですが…

 季節感が割りと乏しい熊野地方でも確実に秋はやって来ています。
 海岸に張り付いた熊野古道は少し遅いですが、少しはなれたところを走る熊野古道では、もうすっかり秋です。
 秋が深まると、海と山を分かつ『風伝峠』などでは、向こう側とこちら側では季節が違うような景色になることがあります。
 海の側はいつまで経っても『秋』のまま、裏側はもう『冬』になっている・・・
 
 これからの季節は歩くにはよい季節です。
 と、お誘いしても、『熊野は遠いし…』、『ガソリンは高いし…』…なんでしょうね。
 でも、『観光地は人が多いから…』と言う心配だけはありませんからね。
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by je2luz | 2008-08-23 11:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 08月 22日

熊野の旅 お盆帰省・夏休み旅行の決算は?

 もうすぐ、夏休みの家族旅行やお盆の帰省の数などがあちこちに発表されることと思います。
 原油の高騰から海外旅行は『燃料サーチャージ』なんてへんてこな物がどんどん上昇して、少しばかり旅行客が減ったとか・・・
 ひどい路線は、航空運賃よりそちらの方が高くなりそうなのまであるとか聞きますね。

 そこで息を吹き返したのが、大都会から比較的近い観光地だそうですね。
 一時は火が消え掛けていた『熱海』なんてのが客が増えて賑わったとか…
 熱海なんて何も無いと言えば何も無い観光地ですよね。
 『お宮の松』なんていっても、出かけてゆく人のほとんどが『貫一お宮』なんて知らないし、『金色夜叉』は笑い話どおりに『きんいろよまた』と読まれる時代でしょう。
 それでも、『熱海』と言う金看板は東京あたりでは生きているようですね。

 関西では『白浜温泉』がそうした存在だったのですが・・・
 今では『南紀白浜』と頭に『南紀』をつけなくてはならないほど地位が低下したようです。
 大阪から100Kmあまりの距離…はたして、この燃料高はプラスだったのか、遠いからといってマイナスだったのか・・・

 ここ熊野は名古屋から210Km、大阪から180Km、東京から550Kmほどです。
 どう考えても『遠い』ですね。
 数を数えたわけではないですが、夏休み中の車の通行量は少なかったです。
 『熊野古道歩き』の人も、ポツポツ見かけましたが、相変わらず、『おばちゃん』『おじちゃん』『おばあちゃん』『おじいちゃん』がほとんどです。
 たまに、女子大生風が歩いていると眼を引きます。
 地元に若い娘など居ませんからね。

 昔から、女子大生が集まる観光地にはそれを目当ての若い男共が集まってにぎあう物でした。
 『倉敷』・『萩・津和野』・『新島』なんてのが典型だったのですがねえ・・・
 『幽玄の里』『神々の里』ではいまの『女神様』たちの関心は引けないようですね。
 気まぐれな女神様たちの中でブームが起きたらとたんに増えるでしょうけどね。
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 カメラは クラウン・グラフィック+トプコールS65mm

この周辺です

by je2luz | 2008-08-22 11:35 | 熊野 | Trackback | Comments(0)