LUZの熊野古道案内

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2008年 06月 30日

熊野の旅 にわとり

 昭和の中頃までの牛を書いてきましたが、同じ頃の農村風景の中で欠かすことの出来ない物に『にわとり』があります。
 『卵』が貴重品で病気見舞いに饅頭の箱などに籾殻を入れてその中に卵が鎮座している物が使われた時代の話です。
 その頃には『地鶏』などと言う言葉はありませんでした。
 卵をとる『バータリー形式』だとか、暗闇に閉じ込める『ブロイラー』なんてものが無く、鶏が自然に飼われていた時代です。
 日本中の農家には『鶏小屋』があり、数羽の鶏が居た物です。
 子供の雑誌の挿絵などでも、田舎を描くときには姉さんかぶりにモンペのお母さん、丸坊主か学生帽をかぶった男の子、そしてニワトリ・・・こんな風景になった物です。

 天気のよい日はニワトリ小屋の戸を開けて放し飼いにしていました。
 家の周りをうろついて虫を取ったり、ミミズを掘り起こしたりしていました。
 飼われているニワトリも色々でしたね。
 茶色の名古屋コーチン系、ちいちゃなチャボ、白黒のブリモス系、白の白色レグホン系、喧嘩鳥の軍鶏(シャモ)など、その家の好みで違っていました。
 もちろん、目的の一つは『卵』ととることです。そして、卵を産まなくなってきたら、『かしわ』にするのも目的です。
 コーチンやブリモスは卵の数ではレグホンに勝てない代わり、肉のおいしさでは飼ったようです。
 それと、農家のニワトリは雌が数羽なのに対しオスが一羽入っていました。このオスが格好付けて攻撃的に成るときがあります。
 場合によっては家の人にまで突っかかってくるのですが、この傾向は白色レグホンが一番強かったようです。そういう面でも嫌われる所もあったようです。
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 ニワトリを飼っていて一番厄介なのは、『いたち』です。
 小さな体のくせに、卵だけではなくニワトリも殺します。
 格子や網目を細かくしても地面を掘ってトンネルを作って進入します。
 それを防ぐために、我が家のニワトリ小屋はコンクリートを打った納屋の犬走りの上に作ってありました。

 このニワトリを『かしわ』にする作業が我が家ではする人が居ないので、近所の人に頼んでいました。
 さほど大きくないニワトリですから、お礼にお裾分けするとうんと少なくなっていましたね。
 食肉用の若いニワトリではなく、卵を産む回数が減ってきた『ババ鳥』ですから、やっぱり硬かったですね。今で言う『廃鶏』ですね。
 でも、うまく加工すれば本物の『比内鳥』よりうまいのだとか・・・
 この頃の『かしわ』は大体において、少し硬く、黄色い油が一杯で、『かしわくさい』物でした。
 味の濃さは、今売り出し中?の『熊野地鶏』なんか問題外でしたね。
 日本中に、こんなニワトリが居て地元でさばいていた頃には『ブランド地鶏』なんて居ませんでしたね。
 そして、ちょいとした町には肉屋のほかに『かしわ屋』があったものです。
 一体、日本中で何軒の『かしわ屋』が残っているのでしょうね?

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by je2luz | 2008-06-30 11:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 06月 29日

熊野の旅 昭和・旬の味

 牛の話を一休み・・・

 牛が居た頃の農村では、牛を口にすることは少なかったですね。
 各地に屠殺場があったと言っても、今のように冷凍・冷蔵の施設がありませんから、食肉を流通させるのが難しかったのです。
 それより何より、田舎がうんと貧しかったからです。
 田舎と都会の所得の差は昔も今同様ありました。それに、基準になる日本の所得水準自体がうんと低かったのです。
 その中でも貧しい山間部の百姓の口には『牛』は口に入りませんでした。
 『牛を飼っているから食べない』と言うのではなかったのですがねえ・・・

 そんな田舎で日常食べられていたのは、煮物や酢の物と言う田舎料理でした。
 今頃になって、キュウリが採れだすと、『胡瓜モミ』が毎日のように出てきたものです。
 その『胡瓜モミ』には今のように緑で細いキュウリより。『半白』と言われる、お尻の方が白いキュウリの方が適しています。
 キュウリが『サラダ風』にして食べられることが多くなったのは、昭和も後期に入ってからですね。
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 この組み合わせがこの時期の旬のものでしょうかね。
 下のキュウリが『半白キュウリ』です。
 少し若いので白さもまださほど目立ちませんが、もう少し大きくなるともっと白く見えてきます。
 このキュウリは緑の細い物より瓜に近い感じで、胡瓜モミや糠味噌漬けに向いています。
 昔はもっと大きくして、半分に割り種を取り、皮もむいてから塩もみにしました。その方が食いでがありますからね。
 三日も長く成らせて置けば巨大化しますしね。

 上の段が『生節』です。
 今頃はカツオの旬ですからね。
 カツオも足の速い魚ですから、昔はこのように蒸しあげて流通しました。
 肉厚で大きいですから、さすがの紀州もこいつは『丸干し』にはしませんでしたね。
 今ではこれを真空パックした物がほとんどになっていますが、この辺では蒸しあげたそのままが出てきます。
 これのほうが身が絞まってしまわないので、酢の物の具とか、ご飯にまぶすとかするには適しています。
 ただ・・・何しろ蒸しただけですから、この形になっても足が早いです。真空パックのように開封しなければ何ヶ月も・・・と言うわけには行きません。 買ったその日から数日の運命なのです。
 冷蔵庫に入れれば一週間やそこいらは大丈夫ですが、段々硬くなって、『生節の生節らしさ』が無くなって来ます。
 この状態の時には包丁はいりません。手でポコンと割って後は好みの大きさに指先でほぐします。
 
 胡瓜モミには『シビの角切り』も使われます。
 こうした『胡瓜モミ』は『キュウリナマス』ですね。
 秋から春までは大根の季節なので『大根ナマス』ですが。大根の季節が終わった時には具合良くキュウリが出てくるって寸法です。
 酢の物なので時間ももつし、簡単に作れるし・・・少量でおかずになるし・・・日頃の食卓にも、田植え、建前、葬式・・・とにかくやたらと出てきたものです。
 今と違い、ものすごく酸っぱい酢の物でしたね。
 それが、昔の田舎風料理でしたね。
 『砂糖の配給』なんてあった事はもう忘れられているでしょうけどね。『甘酢』なんて贅沢な物だったのです。

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by je2luz | 2008-06-29 11:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 06月 28日

熊野の旅 牛 5

 さて、手塩に掛けて育てる牛ですが、家によって育ち具合が少々違ってきます。
 元になる子牛の血統もあります。
 今のように血統を証明するようなタグが付いてくる訳ではありませんから、『博労』の言うことを信じて売買をしました。
 そのあたりでも、口八丁手八丁のやつが居たのでしょう、だから、農村の大事な牛の仲介をしながら、あまりよく言われない業種にもなっていたのでしょうね。
 差が付くのは飼い主の熱心さの他にも、牛を繋いで草を食べさせる用地、鍬を刈り取ってくる野山などの有無も大きく左右したのです。
 子牛の入手から飼育まで段々差が出るってことでした。

 全国に居たこのような『役牛』はものすごい数だったと思います。熊野の山間部でも、田圃を持った家の少なくとも半分は牛を飼っていましたからね。
 その牛は役目を終わって?大きく育って?からどこへ行ったか・・・
 博労がつれてきた子牛に住み慣れた牛小屋を明け渡して、それこそ、とぼとぼと博労の後をついてゆきました。
 時々、立ち止まっては悲しそうな声を上げて・・・
 車の入る道まで出ると、トラックに乗せられ町まで出ます。
 ここで行き先が振り分けられます。

 一部はその地区に残されて『食肉』に化けます。
 かつては、各地に公営の『屠殺場』(とさつじょう)がありました。熊野市には今でも屠殺場が残されています。地方都市では珍しい物です。
 小さな物なので普通の人はどこにあるか知らないくらいですね。
 ほとんどの牛は貨車に積まれて遠くの大きな町の屠殺場に行きました。
 今のようにスーパーとかが無かった時代ですから、大量に食肉を流す大手の業者も無かったですから、それぞれの地方で屠殺・精肉化していたのです。

 全国の農家に牛が居た昭和30年代前半くらいですと、名前の通った、今で言う『ブランド牛』は『松阪牛』と『神戸牛』くらいでした。
 その時代は町の肉屋さんが元気な時代で、訳の分からない『ブランド』ではなく、肉屋さんの看板を信じ、『○○屋の肉はうまい』とか『××の肉は硬い』とか言ったものです。
 やたらブランドがあるわけではないので『銀座スエヒロ』なんかが『松阪牛』を看板にえばっていたものです。

 血統が良く、手を入れて飼育され巨体になった牛は、この辺だと『松阪』に送られました。
 今の『松阪牛』の定義よりは少し広い範囲になりますが、松阪牛を飼育する家に連れられてゆき、『三食昼寝つき』どころか『全身美容マッサージ』に『ビール』まで付いたものすごく優雅な生活をしばらく送って、『役務』で固くなった肉が柔らかくなり、脂が霜降りになるのを待って屠殺されます。
 生まれてから、ボケーっと過ごしてぶくぶく太った牛と違い、肉のうまみは強かったようです。
 牛の優等生を集めて、肥育しなおしたのがおいしい『松阪牛』でした。
 つまり、最後の半年、一年を松阪周辺で過ごした物だったわけです。
 今でこそ、牧場で食肉用に飼育された牛しかなくなりましたが、以前はそちらのほうが少なかったわけですからね。
 と言うことは・・・『食肉のブランド』なんてのは元々あいまいだったわけです。それに、今、売り場にぶら下がっている『△△牛』『□□牛』なんてブランド名はつい近年作り出された物ですから・・・

 無理はないです・・・
 日本人が『牛肉』を食い始めて100年ちょっとなんです。
 牛が『食用』として飼われるようになって半世紀にしかならないのです。
 自分の目で肉を選ぶことが出来るようになっていなくてもね。
 そして、食肉業界に本当のブランド意識がなくてもね。
 そうそう・・・『熊野牛』ってご存知ですか?
 私は食したことも目にしたこともありませんが・・・
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 これは昭和32年(1957)の2月頃の我が家の前の風景です。
 この頃に牛が姿を消し、耕耘機時代になってきました。
 このように狭い丸石で畳んだ道は人や牛なら問題無いのですが、耕耘機とかには合わなくなって、市道・農道整備が始まったのです。
 牛はあの巨体でも人が通れる道だと落ちないで歩きました。耕運機は馬鹿ですから、すぐに落ちて持ち主まで怪我させますからね。
 その流れで、田舎の風景は一変し、古い街道なども消えたのです。

 カメラは オリンパス35S1.9
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by je2luz | 2008-06-28 11:39 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 06月 27日

熊野の旅 牛 4

 テレビじゃないですが、今日も『牛』です。

 このあたりで一杯居た牛は、4・5年飼われた後、どうなるかってことです。
 その時期になると、車のセールスマンではありませんが、『博労』(ばくろう)がきちんと廻って来ます、
 そして、商談がまとまると、子牛を渡して、成牛をつれて帰ります。
 牛はものすごく頭が良くて、敏感な動物ですから、『博労』が来て、交換の話が決まると、飼い主の雰囲気などで自分の身に何かが起きることを察します。
 博労が子牛を手配して連れてくるまでの数日、牛小屋の中で落ち着かないで泣き声を上げ続けます。

 私達の世代だとジョーン・バエズの歌で覚えた『ドナドナ』の歌では無いのですが、悲しい定めが舞っているのです。
 売られてゆくのが大人の牛だけに自分の行く先に不安を覚えるのでしょうね。
 もちろん、手塩に掛けた牛が売られてゆく・・・それも、肉牛として・・・
 だから、飼い主もものすごくつらいことだったのです。
 愛着のある車を下取りに出すなんてものではありませんからね。
 朝晩餌をやり、一番面倒を見るのが女の人ですから、うちのお袋なども何日も目を真っ赤にしていた物です。
 酪農家なら、慣れっこに慣れるのかもしれませんがね。

 交換して次の講師が来る時は、まだ、その子牛の世話があり。心細そうな子牛を育てることで気を紛らわせることが出来ました。
 耕運機が普及して、『牛飼い』をやめて、最後の牛を売り渡したあと・・・
 空家となった牛小屋だけが残ります。
 餌やりも、草刈もしなくて良くなります。
 旅行にも行けるようになります。
 ハエも居なくなり、夏のアブも来なくなります。
 随分楽になるのですが・・・
 家のそばにあり、いやでも日に何度も前を通る『牛小屋』を見るが寂しくて、つらくて・・・
 田舎の人の気質がその時代以降は少し変わったのかもしれません。
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 昭和39年の正月でしょうね。
 後ろの入り口のところに『榊』の門松が立っています。
 これは隣の家です。
 ここにも『牛』が居ました。

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by je2luz | 2008-06-27 11:21 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 06月 26日

熊野の旅 牛 3

 牛がまだ続きます。

 日本中の農家で、牛が飼われ、その牛のほとんどが『但馬牛』系統の黒牛でした。
 そして、その大多数は性格がおとなしくて使いよい『雌牛』でした。
 雄の方が大きくて力があるので農作業には良さそうなのですが、気性が荒く発情期などには危険なくらいになります。この辺では『こって牛』と呼んでいました。
 雄牛は『虚勢』しておとなしくなるようにします。この手術をそのままずばり、『キンヌキ』と呼んでいました。人間の避妊のようなパイプカットではホルモンの分泌が変わらないのでちっとも役目を果たしません。だから、『キンヌキ』をしたのです。
 キンヌキをしてもやはり少し荒っぽいのと、売るときに肉質の関係でうんと安いですから、雄牛を買う人は資本のない人でした。

 博労から買った子牛はまだまだ農作業には使えない大きさですが、めきめき大きくなります。
 最初の作業は鼻の隔壁に穴を開けて輪(ハナグリ)を通すことです。
 牛と言えば鼻輪の付いた絵を書くくらい当たり前ですが、一番弱い鼻の中に輪を通し、それを押えることで牛を制御したのです。
 おそらく、思い切りひねられたら飛び上がるほど痛いのだと思います。
 でも、あの巨体を人間が制御するには必要なのでしょうね。

 次にやるのが、『代かき』や『荒起し』と言った農作業で鋤(すき)を引いたりする作業を教えることです。これは『ノウイレ』と言いました。『能』なのか『脳』なのかは分かりませんが、ベテランの百姓さんが鋤をつけて、土を掘り返さないで・・・負担が無いように・・・田圃を行ったり来たりして何日もかけて、たずなの合図や号令を覚えさせていました。
 当然、教える人の上手下手もありますし、子牛のもって生まれた頭の良し悪しや素直さなどでそれから先の作業効率が随分違ってきます。
 良い牛だと、田圃の端に行くと勝手に止まって、Uターンしても次に歩くべき道筋にちゃんと入って歩き出すものでした。
 牛車引きの牛でも、賢い牛は親方が荷台で寝ていてもちゃんといつもの所まで荷物を引き、帰りは家まで夜道でも親方を届けたそうです。
 こうして仕込んではじめて『役牛』として使えるのです。

 この、農作業の上手さや体格の良さなどを競うのに『田かき大会』などと言うものが各地で行われていたものです。
 自慢の牛を持ち寄って、泥田の中で農機具をつけて走り回らせるのです。もちろん競技ですから、危ない金具などは付いていない見せ掛けの器具ですし、田圃も泥の浅い人間も走りよいものが使われていました。
 各地では、ものすごく貴重な田圃なのに『田かき用』として稲作を犠牲にして確保していた所までありますね。
 農村にとって大きな娯楽だったのですが、時期は短かったですね。
 耕耘機が入ってきて、牛が居なくなってきましたし、まさか、耕運機で走り回って競技する訳には行きませんからね。
 この行事を知っている人は田舎育ちで結構年をとっているってことですね。
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 この写真は1959年の道普請風景です。
 この狭い道がお寺に続く集落のメインの通りだったのです。
 今は当然指導が出来て車が走っていますが、昔の田舎の道はこんな物だったのです。
 だから、田圃に落ちるなんて当たり前でしたね。

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by je2luz | 2008-06-26 14:07 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 06月 25日

熊野の旅 牛 2

 牛の続きです。

 日本中の農家に牛がいた時代、そして、日本中の農家がぽっとん便所だったころ、農村には『田舎の匂い』があったものです。つまり、自然の草や土の匂いに牛や人間のの糞尿のにおいが混じったものだったわけです。
 今ではそんな匂いは消えてしまっています。

 本州の多くの地域で飼われていた牛は黒牛ですが、繁殖は現地で行われることは少なく、特定の地方の専門の繁殖農家で行われていました。
 『但島牛』の系統を引いた黒牛が多かったはずです。
 
 昔は『博労』(ばくろう)と言われる職業がありました。
 畜産仲買行???ですね。
 私が子供のころには、まだ全国を歩いていました。
 ブローカーですから、口八丁手八丁のところもあり、あまり良くは言われない職業でしたが、農村にとっては大切な職業でもあったのです。
 昭和初期とかの映画に出てくるような、『乗馬ズボンに鳥打帽』なんてスタイルでやってきたものです。持っているトランクには現金が入っていたものです。

 博労の仕事は、子牛を連れて歩き、大きく育った大人の牛と交換して差額を支払うってものです。
 農家はその子牛を育て、農耕に役立つように仕込んで、数年間役牛として農作業に使うわけです。
 昨日書いたように、生き物を飼うわけですから農閑期でも留守にも出来ない生活だったのですが、牛は頭の良い動物ですから、飼い主には良くなつきますからかわいいものです。
 しかし、農家で寿命を全うさせるわけには行きません。大きく育って、いわゆる『脂が乗り切った時期』に手放さなくてはならないのです。
 その牛を引き取ってゆくのが『博労』です。そして、その行く先は・・・食肉として塗擦される運命が待っているのです。
 よく育って、丸々したものは当然高値で引き取ってもらえます。飼い方が悪かったり。血統が悪いと腰骨の出たようなやせ牛になり安値になります。
 下取り?の牛がやせ牛だと安値になるので、次に受け取る子牛も安くて質の悪いものになります。そして、育て上げた牛のやっぱり・・・と言う循環になります。
 『牛』は農耕にも必要だし、先ではお金になるし・・・大事な『財産』だったのです。
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by je2luz | 2008-06-25 13:36 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 06月 24日

熊野の旅 牛 その1

 次々出てくる産地偽装の『牛肉』の元・・・『牛』について書きます。
 この『牛』と言うものと、熊野、いや日本の田舎はものすごく縁があったものなのです。

 日本は狭い国ですが、南北に長く地形も複雑なので、同じ農耕でも随分違いがあります。
 近年だと、この地方は『ヤンマー』が強いとか『ヰセキ』が多いだとか、いや『クボタ』だ・・・になるのでしょうが、昔は地方によって農耕に使う『動物』が違っていました。
 沖縄などうんと南方は『水牛』、九州とかの一部では朝鮮系の『赤牛』、うんと北に行くと『馬』が使われ、他の大部分は『黒牛』でした。
 それぞれ気候風土にそれが合っていたのでしょうね。
 
 私が子供の頃にはこの辺の農家と言う農家には『黒牛』が居ました。
 家のそばの『納屋』(なや)には必ず『牛小屋』(牛部屋)があった物です。
 餌は川原や野山(のさん)で刈って来た草や、保存してある稲藁、そして、残飯でした。夏場は草原のあるところに繋いで生の草を食べさせていました。
 
 『一年を 十日で過ごす いい男』・・・なんて川柳がありますが、この『牛』も実働日数はさほど多くありません。
 山間部では荷車の通るような道もありませんでしたから、荷車を引かせることはありませんでしたから、『荒起し』から『しろかき』までの農作業の時だけが出番でした。
 そのほかの三百数十日は『無駄飯』を食うような感じでのんびり過ごした物です。
 
 生き物が居ると言うことは、留守に出来ないということです。
 犬じゃあるまいし、一緒に出かけることは出来ませんからね。
 このため、農家の嫁が泊りがけで出かけるなんてありえない話でした。
 百姓の嫁やオバちゃんが団体旅行に出かけるようになったのは、『耕運機』が普及してそれを売った『農協』が更に稼ごうと団体旅行を募集するようになってからです。
 今でも、酪農家は365日勤務で働いていますが、かつては日本中の農家が、例え野良仕事が無くても、飼っている牛馬の世話で365日勤務だったのです。

 農家にはこうして牛小屋があり、牛が居ましたから、仕事だけではなく、『ハエ』も付き物でした。DDTなんて出てきても、牛に害があるので殺虫剤漬けにすることは出来ませんから、ハエは増え放題でした。
 まあ、その時代は町場でも汲み取り便所ばかりでしたから、『ハエ』は多かったのですが、やはり農家の方がはるかに多かったですね。

 結構厄介な『牛』ですが、日本中が飼っていた訳などについては、この続きで書いてゆきます。
 その中には『産地偽装』だとか『ブランド』の根源も含まれますよ。
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by je2luz | 2008-06-24 11:26 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 06月 23日

熊野の旅 テレビ放送

 昨夜?今朝?・・・明け方近くに名古屋の民間放送テレビが『世界遺産・熊野古道伊勢道』を放送していました。
 深夜の枠で流す物なので、タレントとかを使わず。淡々とカメラを回していました。
 大物俳優がしたり顔して物を言ったり、若いタレントが無意味にはしゃいだりしないので熊野古道らしい画面にはなっていましたが、『つづらと峠』『鷲毛峠』『八鬼山越え』・・・『松本峠』・・・『速玉大社』『那智大社』『本宮大社』までを短い時間で流していましたから、淡々としすぎて・・・と言う物でした。

 『熊野古道』はもともと、物語性の無い街道ですし、テレビでも入り口の方で語っていたのですが、『自然の中の険しい道を歩くうちに心が洗われ癒される』と言うようなのが『熊野古道』の持つ力ですから、解説もしにくいし、絵にもなりにくいものです。
 『秦の徐福』がとか『神武天皇上陸』とか『坂上田村麻呂』だとかの伝説はあっても、どれ一つはっきりしない『伝説』程度で、それに付随するドラマもありません。
 大河ドラマの主題や舞台にもならないし・・・
 だからこそ、テレビでも取り上げにくいのでしょう。

 地元の私が見ていても眠くなったのですから、どれだけの人が見たのやら・・・
 日曜の夜、月曜の明け方でほとんどのチャンネルが休んでいたので、流しっぱなしにした人は居るでしょうけどね。
 こんな番組は『ハイビジョン』で『大画面テレビ』にて観賞したらそれらしくなるかもしれませんね。
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by je2luz | 2008-06-23 11:22 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 06月 22日

熊野の旅 熊野の産品は・・・

 近年は際限なく『産地偽装』のニュースが流れます。
 食肉なんて表示を当てにするほうがおかしい・・・といってもよいくらいでしょう。
 この原因を作ったのは、『地場産品育成』、『地域産品のブランド化』などと言う役所がらみの運動の成果、さらにマスコミによる『グルメ志向』の煽りたてがあり、その上に乗っかった日本人の大好きな『意味の無いブランド信仰』・・・極めつけはそれに付け込んだ『儲かればよい』の拝金主義でしょう。
 
 味も分かりのしないのに・・・と言うと叱られるでしょうか?
 しかし・・・食べて硬い肉・血抜き不完全な肉などは別として・・・同じくらいのものを同じ人が同じように料理して出してきて、同じ場所で食べた時、『松阪牛』『神戸牛』『飛騨牛』『米沢牛』・・・『オージービーフ』『アメリカ牛』などの区別をきちんとできる人は何人居るのでしょうね。
 さらには、全く品種の違うはずの『黒牛』『乳牛』『赤牛』『水牛』・・・『雄牛』『雌牛』の区別も同様ですね。
 なのに・・・産地をやたらとありがたがるから、騙すのも出てくるのです。

 最近は少し減ったように思いますが、こんな片田舎のスーパーにも『薩摩の黒豚』ばずらりと並んでいたり、『魚沼産こしひかり』が並んで居たりしたこともあります。
 ありえないことを『ありえない』と言ってひんしゅくを買いましたがね。

 この辺では有名なブランドはありません。
 食品はもちろん、古くからあった材木でも『紀州材』と言う名前はあってもどれが紀州材なのかの定義も無く・・・『吉野』『木曽』ほどの値段はつきませんでした。一時的には『尾鷲材』に値段が付いた時期もありましたが、定義も無く品質管理が出来ず人気は落ちて行きましたね。
 そして、この周辺の山間部で産出する良質材は『吉野』の看板がついて出回っていました。
 吉野との国境の山で取れるのですからさほど差があるわけでもなし・・・道路が良くなってからは原木・丸太のままで吉野の業者が買い取ってゆくのですから区別が付くはずもありません。
 同じ材木が『吉野』の看板をつけるだけで倍に売れちゃうのですからね。原木市場で同じ木を競り合ったら、熊野の業者は吉野の業者に勝てるわけも無いのです。

 どんどん道路も良くなって来ています、田舎には資本力もありません。零細業者は後継者も居ません。
 漁業の方でも、元々、仲買によってどんどん運び出されていたわけですが、ますますその傾向が強くなり、『船買い』と言う丸ごと買い取る方法で出てゆくでしょうね。(獲れればの話ですが・・・)
 そんな魚はどこの『産』になるのでしょうね。
 今はどうなっているか分かりませんが、少し前には、この辺で作られる『生節』は『熊野市産』では無く、ノーブランドの真空パックなどで市場ではなく、業者間取引されて居たりしました。
 もう少し名前の通った尾鷲や引本などのラベルの方が売れるからでしょうね。

 かくして、ここだけではなく、田舎の産品はどこかへ消えるのです。
 寿司屋のネタの7割以上が輸入品・・・と言う時代です。
 串本・勝浦・二木島・尾鷲・引本・・・上がる魚に差は無いでしょう。
 なのに細かいブランドを付けたがる・・・
 そうそう・・・塩サバは下手な近海物よりノルウェー物の方が油が乗っていておいしいですよ。
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by je2luz | 2008-06-22 11:40 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2008年 06月 21日

熊野の旅 田舎の産品

 今、燃料の高騰による漁船の休漁などが話題になっています。
 ここまで追い込まれたのは、確かに燃料の高騰です。
 しかし、根底にあるのは昔から続く、へんな市場価格のせいでもあります。
 築地を筆頭に各地の市場で値が決まる・・・それも、コストもへったくれも無く・・・
 本当にうまいのかなんて分かっている仲買なんて何人居るのでしょうね。本当には食べても無いけど、昔からそういうから・・・とか、今売り出し中の産地だから・・・
 そこには、生産コストなんて微塵も考えないおかしなグループが介在するからです。
 おかしなことに、そのグループが一番えばっている感じもします。
 大手商社とかが輸入する魚に関しては、『指値』が働いて、コストが織り込まれます。なのに、国内の産地から夜を徹して走ってきた産品にはそれがないのです。

 魚だけではなく、『田舎の産品』のほとんどはそうした形での価格決定になっています。
 林業の産物。『材木』でもそうです。
 『原木市場』さらには都会における『材木市場』で価格が決まって、生産地の原価も再生産も生活もそこには織り込まれていません。
 百姓の作る『農産品』も同じです。
 都会の『卸売市場』で価格が決まってしまい、同じように百姓が飢え死にしようと廃業しようとお構いなしです。

 近年の『市場原理』による、生産基盤の破壊が始まる以前から、田舎の産品、『一次産品』は仲買とか言うバイヤーによって『植民地的』な扱いを受けてきたのです。
 流通経路の複雑さや不明朗さは、もう、数十年前にも取り上げられたことはあります。しかし、なんの改善も為されませんでしたね。

 一次産業は『田舎者』のやる仕事で、その産品は『都会者』から見れば、実に簡単に騙しよく、搾取しよいものなのでしょう。
 何だか、時代劇に出てくる野良着を着た百姓と江戸の「木曽屋」「越後屋」「蝦夷屋」の関係と変わらないようです。
 こうして、日本中の田舎はだんだん寂れ、飯が食えなくなっていったのです。
 振り返ったら、日本には田舎もなく、荒れた田畑やゴーストタウンが残るだけ・・・なんてことになりそうですね。
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by je2luz | 2008-06-21 11:10 | 熊野 | Trackback | Comments(0)