2008年 02月 29日
2008年 02月 28日
私が子供だった頃、旅行と言えばやはり泊まるのは『旅館』でした。 まだまだ、日本旅館が元気で、ホテルなんてものは『帝国ホテル』を筆頭にお高くとまった高嶺の花でした。ビジネスホテルなんてものはありませんでしたからね。 日本間で当然布団を敷いてもらって寝る形です。 夕食の時間ともなると、お膳を高く積み上げて、前が見えないような状態で、女中さんたちが廊下を走り回る・・・非常に活気を帯びたものでしたね。 昭和30年代ともなると、東京や大阪でもラブホテルなんてものがまだのさばっていなくて、その筋のものでも「連れ込み宿」なんて呼ばれていましたね。 自家用車なんて無い時代には「モーテル」なんてあるはずも無いですしね。 昭和40年ごろになって確か目黒に立派なラブホテルが出来たり、湘南大船に船の形をしたモーテルがオープンし大騒ぎした記憶があります。 そうした昔には、今も残る高級一流観光旅館ではなく、もっともっと安い旅館が頑張っていたのです。 ![]() この写真は、1957年大阪です。 「大阪屋」というこの旅館、今のアメリカ村辺りにあったのではないかと思いますが、典型的な『修学旅行宿』です。 この隣りも「京屋」なんて日本旅館だったようです。 奈良や京都にもこんなのが一杯ありましたね。東京では本郷辺りに固まっていたようです。 この熊野でも旅館が元気だった時代です。 木本だけでも、『日の出館』『朝日館』『亀齢館』『御浜館』『よし住旅館』・・・『清玉旅館』など、全部は思い出せないほどあったのです。 今の時代は、プライバシーだ何だというので日本式旅館は流行りませんね。 個室にこもれて、食事も自由になるビジネスホテルを使う人が増えて、日本旅館でも部屋は孤立させ、なるべくお客と接しないようにするくらいですね。 部屋に通され、宿帳を書きながら、番頭さんなり女中さんなりと交わす、ほんの少しの会話で、その旅館の雰囲気やその土地の様子が垣間見えたものです。 もっとも、『心づけ』なんて、風習もあって、若い旅行者には悩みの種だったものです。 夕飯を運んできてくれて、そのあとに、とこを延べにきてくれて・・・朝も起こしてくれて(起こされて?)、床を上げてくれて朝食を運んでくれる、暇だと給仕もしてくれる・・・女中さんとのふれあいが結構あったものです。 今のテレビの取材のように、とんでもない料金で特注料理を発注しなくても、旅の情緒は味わえたものです。 修学旅行宿では、大部屋で雑魚寝ですから、ゆっくり寝られない代わり、クラスの仲間が団子になって二晩とかを過ごすので、普段とは違う親密さがでたものです。 もちろん、修学旅行には『枕投げ』がつき物でした。 そんな旅が姿を消し・・・ ふれあいの無いたびが増えたようです。 それでは、神々にも仏たちにも触れ合えないのでは・・・と心配になります。 ![]() この年にはこんなのも流行ったようです。 『有楽町で逢いましょう』 フランク・永井 あなたを待てば 雨が降る 濡れて来ぬかと 気にかかる ![]() ▲
by je2luz
| 2008-02-28 12:02
| 熊野
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2008年 02月 27日
1959年・昭和34年と言う年は、日本中が大きく変わる節目になった年です。 出来事としては大きな事件でも無いのですが、当時の皇太子殿下の『ご成婚式』のあった年です。 『ミッチーブーム』なんて野もありました。 しかし、そのことが日本を大きく変えていったわけではありません。 ![]() これが、当日のテレビ放送を撮影したものです。 小さな丸っこいブラウン管の白黒テレビです。 この『ご成婚式』をリアルタイムに見られるということで、『テレビジョン』が一気に全国に広がったのです。 起伏の激しい日本ですから、関東平野や大阪のように簡単に受信できるわけではありません。 遠くの放送局の電波を山や岡に登って探し回って共聴アンテナを建てたのです。 ここ木本でも、この少し前に共聴アンテナが作られ、アンテナ線が惹かれましたが、『テレビジョン』のある家はほとんどありませんでした。 しかし、1959年4月10日に御成婚の式が決まり、馬車行列もあると分かってから、一気にテレビを買う家が増えました。 我が家でもこれをきっかけにテレビジョンがすわるようになりました。 それでも、今のように全部の家が買うような時代ではなく、田舎では十軒に一軒くらいだったはずです。 家電は全国平均で15%とやらの普及率を越えると一気に爆発するとか・・・テレビもこのイベント一つでその壁を越えて行ったようです。 テレビが普及し始めると、ニュースも映画館で見る古いものではなく、その日のものが直に見えます。俳優や役者のファッションも毎日見られます。平凡や明星の愛読者しか目にしなかったファッションも『ド田舎』でもみられるようになりました。 毎日毎日、『標準語』を耳にするようになりました。 これにより、徐々に全国の均質化が進み始めたのです。 この年がその出発点だったようです。 見方によれば・・・ 『一億総白痴化』のスタートした年かもしれません。 この年の流行歌は・・・ 『お別れ公衆電話』 松山恵子 なにも言わずに このままそっと 汽車に乗ろうと 思ったものを 駅の喫茶の 公衆電話 いつかかけていた ![]() ▲
by je2luz
| 2008-02-27 12:38
| 熊野
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2008年 02月 26日
日本の海岸線で荒磯以外の砂利や砂の浜で自然のままで残っているのはほんの少しだけです。 内湾の砂浜だった所などは、港湾となって埠頭などが作られ面影もなくなったところが沢山あります。 外海に面した浜では激しい浸食で浜が姿を消し、もしくは、姿を消しそうになってきたので、対症療法のテトラポットなどの投入で余計に侵食を進めているところもあります。 養浜(ようひん)事業と言う名で、色んな形の土木事業も行われています。 しかし、相手は強大な自然です。人間に力では押えきれるものではありません。 三保の松原で有名な海岸や大井川河口の海岸、愛知県の赤羽海岸など、浸食の激しい海岸も視察に行ってきました。 数メートルとか数十メートルと言う単位での海岸線後退ではないところもあります。 昔からの神社のあったところが海の中・・・恐ろしい所もあります。 太平洋の荒波は24時間365日全く無休で削り続けます。 かつては、24時間365日無休で砂や砂利を運んで積み上げて陸地を増やしてくれた同じ波なのです。 以前はダムだとか砂防工事が海岸線に影響を及ぼす、もしくは及ぼす可能性があるなどとは口にもしなかった「建設省」なのですが、十数年前に『可能性』について認めるようにはなりました。 今では、ほぼ認めるようになっていますが、これも、認めた方が都合が良いのでそうした節があります。 もはや、巨大ダムで予算を分捕れる時代ではないし、砂防工事などはちっぽけだし・・・ これからは、『海岸浸食対策事業』が無限の可能性を秘めた項目だからでしょう。 岡の上に10億も放り込むと結構な物は出来るのです。しかし、こと海岸、海となると、100億放り込んでも微々たる物です。 『賽の河原の石積み』と言いますが、鬼が来ようと水が出ようと、場所は『三途の川の河原』です。見たことは無いですが、スケールから言うとやっぱり川でしょう。 しかし、海岸に対策用の構造物を作る相手は『海』なのです。大変なことなのです。 ![]() この写真では良く分からないのですが、ここ七里御浜、木本の浜の50年前のものです。 直径10cmほどもある石の混じった大きな砂利の帯、3cmくらいのが主力の中くらいの砂利の帯、1cmほどの砂利が多い小さい砂利の帯・・・そうした帯が交互に波打ち際から堤防まで並んでいたものです。 海の荒れ方によって運ぶ力が変わるので、まるで、『唐み』と言う農機具で穀物を選別するように砂利を選別して並べていたのです。 今の『七里御浜』ではこうして光景はほとんど見られなくなって来ています。 最下流に当たる木本の浜では、小さな砂利、最早砂利とは言えない大きさになってしまった豆粒大のものばかりになって来ています。 この砂利の元となる石ころの補給が50年ほど前の『熊野川総合開発』と言う名のダム群の建設で途絶えたからです。 ここまでして作ったダムも、原発の稼動率を向上させるために、邪魔者扱いをしています。 恐ろしい連中です。 ![]() ▲
by je2luz
| 2008-02-26 11:17
| 熊野
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2008年 02月 25日
![]() この写真は昭和34年3月の熊野市木本町海岸堤防と七里御浜のものです。 昔の石垣で積まれた町の地盤とほぼ同じ高さの護岸、その上に載っているコンクリート製の堤防、そして、このときには更に数十センチのかさ上げ工事を行っています。 場所は後ろに松がありますし、我が家のすぐ横、今の『モスバーガー』のある辺りです。 この時代には、一番下の石垣部分が大きく露出しています。相対的に浜が低いと言うことです。 日本列島は東西方向を軸に南北方向には周期的に太平洋側が上がって日本海側が下がる、太平洋側が下がって日本海側が上がる・・・と言う動作を繰り返しているようです。 このことは余り取り上げられませんが、プレートの運動で紀伊半島などが引きずり込まれて下がり、外れると跳ね上がってくると言うことでしょう。 この少し前、昭和19年とかに東南海・南海大地震があって、プレートの開放があった後なので陸地が少し高いのかもしれません。 浜が痩せていたのではないのは、この当時のほうが波打ち際に行くのが大変だったので間違いありません。 ![]() これは、その工事のアップ写真です。 『生コン』だとか『ミキサー車』などと言う近代兵器の無い時代ですから、発動機を回して手作業ですね。 写真でも分かるように、この頃の土木工事の現場では女の人もたくましく働いていました。 近年、建設現場などへの女の子の進出がテレビなどで「新しい現象」のように報じられますが、『よいとまけの歌』ではないですが、現場で女の人がたくましく働くのは昔の方が多かったものです。 この工事では砂利か現地調達でまさに『海砂利』でやっていますね。 おそらく、下のコンクリート堤防も同じようにして作ったものと思われますが、取り立てて障害は起きていません。 海の底から採取するのではないので塩気は雨などで流されて問題のないレベルになっているのでしょうね。 こうした、なんでもない風景を撮った写真が非常に少ないのは趣味の問題もありますし、まだ、高校1年生の私では町を記録するなんて考えは全く無かったからでしょう。 半世紀ほども経つと、こうした写真のほうが同級生の女の子を隠し撮りした写真よりはずっと貴重なのですが・・・ カメラは ![]() ![]() ▲
by je2luz
| 2008-02-25 11:37
| 熊野
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2008年 02月 24日
2008年 02月 23日
少し前から、この三重県に関するニュースが流れています。 『赤福』の話ではありません。 二つの交通に関する話題です。 一個は『新名神』と言う高速道路です。 滋賀県草津と三重県亀山市を結ぶものです。 昔で言えば『草津線』なる鉄道があり、京都へ抜ける近道として急行が走っていたことのあるルートです。 名阪は無料部分があり、安く走れるので結構混んでいます。名神も結構通行量があります。 だから、もう一本・・・なのですが、この道路の需要はどのくらいあるのでしょうかね。 大量の移民でも受け入れないと、あと三十年もすると日本の人口も産業も・・・ この道路の開通で、大津や京都から伊勢・熊野へのアクセスが少し良くなるのですが、時間にして20分くらいだとか言います。 今の人は、高速慣れしていて、何も考えずにお金を払って乗ってしまうようですが、私などはお巡りさんの居ない時間に走るので・・・いや、交通量の少ない時間に走るようにしているので、高速にはなるべく乗らないようにしています。 トラックも運賃が上がらないので高速をなるべく避けて深夜に走りますね。 この道路の開通が、観光に寄与する部分はほとんど無いでしょうね。 もう一つは、以前にも書いたことがあることが現実に起きた話です。 『中部国際空港』への三重県からのアクセスの話です。 三重県の人がどれほど海外旅行に出かけると踏んだのか知れませんが、伊勢湾の向こうにある飛行場に向かって、町と言う町から船を出そうとしていたわけです。 四日市・津・松阪・伊勢・・・すごいでしょう。 津・松阪・伊勢なんてずらりと並んだ中くらいの大きさの町ですからね。 誰が考えてもおかしな計画なのです。 それでも、皆さん、話し合いもせずに・・・『あそこがやるなら、おれらもやらにゃあ・・・』と言うことです。 一番最後になったのが、一番見込み客の居ない伊勢だったのです。 武士の商法ですから仕方ないでしょうが、運行委託するはずの汽船屋さんが、『採算の見込みが立たないから、ご遠慮させていただきます』と、ドタキャンしました。 ほぼ完成している、埠頭やターミナルが中に浮きました。 責任を取って、中央から天下ってきていた副市長が辞任だそうです。おそらく、辞めたといっても元に戻るだけでしょう。職を無くすわけではないはずです。 これで、十億とかの金が消えたわけです。 役人のことですから、『赤字になれば補填しますから・・・』などと言うとんでもない条項入りで違う船会社に頼みかねません。そうなると、毎年数千万の垂れ流しになりますね。 たとえ、この航路が開設されて、飛行場から伊勢に観光客が来てくれても、波及効果より持ち出しがはるかに大きいでしょう。 まして、伊勢に入っちゃった客は熊野に降りてきにくいものです。 さすがに、県南の『尾鷲から中部国際空港行き』の航路開設は無いようです。 世界遺産と世界を結ぶ航路なんて・・・まさかのまさか・・・便乗公共事業でやらないでしょうね? ![]() ![]() ▲
by je2luz
| 2008-02-23 11:27
| 熊野
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2008年 02月 22日
紀伊山地の霊場と参詣道(熊野古道)が世界遺産に登録されてまだ4年になりません。 ブーム?もかなり遠くになって来ていますが、関連公共事業?はまだ続いています。 そんな中で、この沿線の『語り部』や『道案内人』の老齢化が言われています。 準備期間に始めた人だと7年くらいでしょうか?養成されたりした人はまだ4年とかそれ以下です。 それなのに、すでに老齢になろうと言うことです。 スタート時点で、定年退職したりした悠々自適のような人が参加したのですから、4年5年の年月は大きいのでしょうね。 もし私が今から始めたら・・・今でも歩くのは苦手なのに・・・5年先だととても若い人と一緒に歩いて説明なんて出来っこないです。 神社仏閣で待ち受けての案内や、会場での語り部と言うのであれば80でも90でもやれるでしょうがね。 しかし・・・ どうしてあんなに『案内人』をつれて歩くのでしょうね。 私には解せません。 能書きがないとありがたく無いのでしょうね。 お寺さんに行っても・・・ 『ここのご本尊様は○○菩薩で△△時代の作。お寺の開基は□□上人・・・』などと、一生懸命ガイドブックや看板を読んでいて、まともに拝むことも忘れている御仁もたくさん見受けます。 かく言う私は、撮影できない本堂内部は無視して、被写体探しで周りをうろついて、お賽銭も供えないで帰ってきますがね。 『大日如来』でも『弥勒菩薩』でも『観音様』でも眺めて美しく感じたり、やさしく見えたりすればそれで仏本来の姿に触れたということだと思います。 そりゃあ、知っているに越したことは無いですがね。 元に戻ると・・・ 需要があるのなら、ちゃんと用意してお待ちしなくてはならないのでしょうね。 『世界遺産にしてくれ』と、立候補したのですからね。 もうすぐ、老齢化指数が40%にもなろうかと言う所ですから、暇人は一杯居るはずなんですが・・・ 熊野古道なんかに興味があって、ボランティアで歩きまわろうという人は少ないでしょうね。 こう言っちゃあ悪いでしょうが、今更、覚えろと言っても・・・忘れるピッチの方が早い年代に入って来ていますからね。 お役所がかんでいることですから、博物館などにあるような、ガイド・トーキーみたいなのが導入されるかもしれませんね。 スポットスポットに近づくと、胸に入れた機械から語り部の話が自動的に流れてくる・・・ 一つの峠に千万レベルの金を入れれば出来るでしょう。 ただねえ・・・管理するところが天下りするほどメリットが無さそうなのでやらないでしょうかね。 でも、なんだかやりそうな気がします。 ![]() ![]() ▲
by je2luz
| 2008-02-22 11:00
| 熊野
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2008年 02月 21日
昭和33年1月の写真です。 場所は奈良県吉野郡下北山村浦向(うらむかい)バス停です。 古い映画に出てくる一齣のような光景ですね。 ![]() 田舎の駄菓子やらなんやらなんでも売っているお店の前に集まった子供たちです。 決して田舎の子だけでは無いのです。奈良市から親の里帰りにくっついてきた子もいるのです。 時代が時代ですから、今から見ると全部田舎臭く見えますね。 ご覧のように、磯野家の『わかめちゃん』のような刈り上げたおかっぱがその時代の小さいこの標準スタイルでした。 もう少し時代が下って、昭和37年に東京で撮った子供の写真でも、今から見ると田舎風ですからね。 この写真を撮ったのは、私が中学三年生です。この子達で小学の高学年から低学年に掛けてですね。 この時代、お正月ともなると、ものすごく不便で、ものすごく時間が掛かったのに、都会に出た息子や娘がほとんど全員里帰りしたものです。 田舎の人口が二倍にも三倍にもなったのです。 つまり・・・長男の嫁が『本家の嫁』をやらなくてはならない時代だったのです。 ![]() お母さんたちの様子もこんなものです。 『パーマ』が日本中に広がって、皆さんちりちり頭にした時代です。 つまり、日本中に『パーマ屋』が出来て『髪結い』が消えた時代ですね。今では、その『パーマ屋』が『美容室』とかに化けているようです。 生活の方では、『新生活運動』などが盛んになって、日本中の台所から『おくどさん』が消えて行った時代です。 道路は日本中砂利道で『車線』なんて物の無かった時代です。 ここは、母親の里なので、お盆と正月には『お礼』に行かされました。 木本から浦向まで、奈良交通の満員バスで二時間半くらいだったのでしょうか・・・ あまり、バスに強くなかった私にはしんどいものでしたが、一泊か二泊して、帰りにもらえる『お駄賃』が楽しみで、道中の苦しさに耐えたものです。 上の写真の中に、後に女房になった子が写っていたのです。このときにはそんな風に見えなかったのですがねえ・・・ カメラは ![]() ![]() ▲
by je2luz
| 2008-02-21 11:24
| 熊野
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2008年 02月 20日
![]() この取材風景の写真は1962年5月23日のものです。 もう、テレビ放送は始まっていました。この現場も中継されていました。 しかし、まだまだ、ニュースの現場ではこうした16mmシネカメラも現役で動いていました。 これ一枚しか取材風景を撮影した駒がなかったのですが、新聞社の取材ではあるいはまだスピグラを構えたベテランが居たかもしれません。なにせ、めったと撮る事の出来ない世界的有名人、英雄の講演会ですからね。 時代はまだこうした時代ですが、この取材陣のカメラの先に居たのは下の写真の男です。 ![]() Yurii Alekseevich Gagarin この肩幅の広い頑丈そうな男こそ、人類で最初に宇宙を飛んだ男『ユーリ・A・ガガーリン』です。 地球は青かった』と言ったとか言わなかったとか・・・ 彼が最初ではないだとかなんだとか・・・ 生きて帰った宇宙飛行士の第一号であることには間違いありません。 時は冷戦の真っ最中です。 世界中がイデオロギーの拡張合戦で生臭い状態でした。 それでも、この『ソ連人』は世界中を講演して廻ったのです。 ソ連にすれば、国家の威信、共産主義の宣伝にうってつけの人物でした。 見る方は、イデオロギーより何より、人類の夢、『宇宙の旅』から帰った男が見たかったのです。 駆け足訪日の一齣で、場所は早稲田の記念会堂です。 当時では東洋一の体育館で、私はこの中で体育の授業でバスケットを一年間やった場所です。 当日の観衆は12000人とか言われています。 この写真をこの位置で取れたのは、『写真部』のご威光です。 写真部の腕章があればほとんどの所にフリーパスで入れましたからね。プレス並の扱いでした。 と、言うわけで、当時一年坊主の私が取材に入れたわけです。 この一連の写真も今では数少ない資料かもしれません。 折りしも、今日の新聞では、当時若者に人気のあった『カストロ議長』が引退声明とか・・・ 時代はやはり流れています。 使った資材は ニコンF+ニッコール105mmだと思います。 ![]() ![]() ▲
by je2luz
| 2008-02-20 11:15
| 熊野
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