LUZの熊野古道案内

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2007年 10月 31日

熊野の旅 新聞記事より サンマ寿司

 世界遺産指定誘致運動中や指定直後は新聞の地方欄はもちろん全国版でもしょっちゅう取り上げられてにぎあわせていた『熊野古道』も指定後一年を経過したあたりから、めっきり登場回数が減っています。いまでは、地方版のごくたまに登場するだけです。
 『人の噂は49日』と言いますから、それよりは長く持ちましたけどね。
 最近では三重県関連の記事は『赤福』『お福』の名物餅の話題がクローズアップされて賑やかです。伊勢と言う所は昔ほどでは無いしても、江戸時代から観光地として、やはり、一等地だったのです。そして、名物もよく売れていたのです。
 『お伊勢参り』がはやる前は『熊野詣』がはやっていたのですがねえ・・・
 江戸期に入る頃から『伊勢』の方が優位に立ちましたね。
 これは近代に入っても、圧倒的な交通の便のよさと天皇家直属の聖地と言う立場でどんどん伸びましたからね。戦後になって聖地としての扱いがなくなっても優位さは変わりませんね。

 さて、新聞記事のほうは・・・
 『サンマすし発祥の地アピール』 と言う見出しです。
 日本書紀に有馬の地『産田神社』の祭礼に振舞われる料理に『サンマの姿すし』があったと書かれているそうです。
 日本では『古事記』や『日本書紀』に記載があると『日本最古』と言う風に名乗ることが多いのですが、書かれているということはその時代には存在したということは間違いないでしょう。
 『産田神社』では今でも1月10日の祭礼の時には『サンマの姿すし』を振舞います。そして、安産や子供の健やかな成長を祈願します。
 ただ・・・この寿司には骨がついています。食すには・・・
 この日には、境内で当然『サンマ寿司』が販売されています。それには骨は付いていませんからご心配なく・・・

 今では名前だけは全国的に売れている『サンマ寿司』について、由来の説明などをするためにこのパンフレットを、『さんま寿司保存会』の方で一万部作ったそうです。

 二十年ほど前、『熊野市物産振興会』を立ち上げて、物産振興PRパンフレットを作りました。
 その時に『サンマ寿司』『サンマ干物』『那智黒石』『桧縁台』などの写真撮影をしたことを思い出します。
 デジタルカメラなど無い時代ですから、マミヤRBにポジフィルムを入れての撮影でした。予算もないし、ギャラの要らない私が撮影して、現像が上がるまでひやひや物だったのを思い出します。
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 カメラは ミノルタ・オートコードL
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by je2luz | 2007-10-31 11:56 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 30日

熊野の旅 熊野古道とお役所の予算

 このコーナーではないブログには取り上げたことはあるのですが、お役所と言うところは、イベント類が割りと好きな所です。
 ほぼ二年程度で部署が絵があるので、園と煮の担当者には目新しく感じられるのかも知れませんね。でも、全国的に見れば金太郎飴的な物が多いですね。
 先日、三重県の真ん中辺で突き出した半島にある、平成になってから出来た新しい市の宣伝行事が東京で行われたとテレビで報じていました。
 立派な会場を借りてのフォーラムを写していましたが、カメラマンの苦労が見えるような画像でした。
 前数列に置かれた椅子には観客は居ないのです。会場をパンすることなく、前景に人を配置して・・・日田も居たんですよ・・・と言うものでした。逆にこのカメラマンは、現状を「分かる人には分かる」ように、皮肉交じりに切り取ったのかもしれませんがね。
 市長も出席し、講師も呼んで・・・東京でやるから、地元民の耳には入らない、等級の人の耳にはなおさら入らない・・・出張費・手当てなどの隠れ予算、会場費や講師料、他のイベント経費、宣伝用に作成したパンフレット代、おそらく介在するであろう企画会社のコンサル料など足し算すれば数百万で済んだのでしょうか?
 ここの悪口をいう気はありません、全国前自治体に近い数やられているのです。

 熊野古道関連事業もそろそろ最初の企画は底をついて来た頃です。
 大きな箱物は姿を現したか、工事中になっています。誘致運動の時期や指定祝賀で企画された各種イベント類に対する補助金もそろそろカットに入るようです。
 ここの町に飾られていたカラー写真などの補助金もカットになるとか・・・
 そうなると、安く上がる、自家処理の白黒の出番だそうです。
 白黒写真は自家処理すれば安いですが、ラボに出せばカラーと差がなくなるのですがねえ。
 白黒で四つ切と言うと、身内の月例並ですね。白黒の展示とは、半紙か全紙と言うのが渡したと感覚ですが、私の暗室施設では四つまでしかバットもありませんしね。全紙のバットを並べるほど暗室も広くないし、使いもしないバットを買う気も無し・・・
 近年はまともに伸ばしもやったことは無いですしね。
 昔々、学生の頃は、この時期に学園祭の大伸ばしをやったものです。印画の露光不足部分を現像液に突っ込んだ手でなぜ回し暖めて回復させようと暖めたりしたことを思い出します。
 カラー展示だったものを、暗めの写真の多い私の白黒に変えたら、全体がどんよりすると思うのですがねえ。
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 カメラは コダック・メダリストI
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by je2luz | 2007-10-30 11:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 29日

熊野の旅 本日画像のみ

 先日の防災訓練の写真の続きです。
 どのコマを見直してみても、お年寄りをオブって走れそうな人が見当たりません。
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 世界遺産・熊野古道ではなく・・・
 過去の遺物・熊野の古童・・・のようです。
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by je2luz | 2007-10-29 13:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 28日

熊野の旅 EX 元商店街 本町通り

 三回にわたって、木本町本町通りの盛衰について書いてきました。
 廃業して、そのままの形で残っている店の建物を一部載せましたが、これらは一部です。本当は、『元魚屋』とか言うレベルではなく、全体が『元商店芸』なのです。
 今はまだマッチや風な建物が建っているところのほうが多いので、住宅街に見えています。しかし、このところその古い町屋がどんどん取り壊されています。
 都会なら、取り壊されて再開発と言う形で、味気なかろうと景観を壊そうと新しい建物が建ち、商店がなくなっても生活の場は出来てきます。しかし、ここまで過疎の進んだ田舎では更地になったところに家が建つ事はありません。ずっと更地のままです。
 それと言うのも、こうした古い町並みと言うものは、京都だけではなく日本中何処でも、間口が狭く奥行きの深い、『うなぎの寝床』のような屋敷ばかりなのです。
 木本町でも間口は大体三間です。と言うことは・・・
 隣との間に半間の通路を両脇に取ったとしたら、有効間口は二間と言うことです。廊下も無しで8畳の部屋があるだけの建物しか建たないのです。
 従って、両脇は敷地一杯使う建て方をするので、その両脇には窓はありません。表側の通りに面した所と、裏側の庭に面した所だけが開口部と言う建物になります。
 片側に土間・たたきの通路があってその脇に部屋が三つ並んでいるのが、こうした町屋の標準的間取りです。お店をやっているところでは、一番前と二番目くらいが店舗と言うことです。
 風を通すためには、すべての部屋を開け放す必要がありますから、間仕切りはふすま・障子です。プライバシーなんて存在しません。
 これでは、今風の家は絶対に建ちません。だから、建て替えも無いのです。
 数少ない地元に残った後取りも、本町ではなく新興住宅地(であった)所に家を建てて住んでいます。
 これは、日本の古い町が抱える共通の現象でしょう。
 間口が広いと『間口税』がかかった藩もあるそうですが、日本の古くから伝わる都市計画の名残がこれを生んだのでしょうね。
 いや、戦後分譲された、都市近郊の文化住宅街も、建て替え不能と言う現象が出ていますね。
 昭和30年代から40年代には20~30坪の土地の分譲が主流でしたからね。
 千年も前から近代まで・・・日本の都市計画の基本はこんなものだったのです。だから、津々浦々まで土地神話が広がって、いまだに夢が覚めないのでしょうね。
 この、元商店街・本町通りに残っているお店屋さんは・・・魚屋1・ガス屋1・履物屋1・風呂屋1・肉屋1・民宿1・酒屋1.5・雑貨屋1・散髪屋1.5・茶碗屋1.5・化粧品屋1・鉄砲屋1・呉服屋2・特定郵便局屋1・葬儀屋1・内科医院1・氷屋1・布団屋1・文房具屋0.5くらいでしょうか。
 この端数の0.5は半分休業状態のものです。 こうして書くと一杯あるようですが、600mほどの長さの両脇にばら撒くと・・・それに、50代以下の跡取りの居るのは6軒くらいでしょうかね。
 熊野古道歩きの人が、真新しい石畳の道を歩いた時、ここが商店街だとは思わないでしょうね。
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 一枚目・衣料品店・肉屋・饅頭屋が並んでいました。
 二枚目・老舗旅館の跡です。今では熊野古道歩きの人用に立て札が立っています。
 カメラは ツァイス・コンタフレックスIV+プロテッサー35mm
この範囲です

 
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by je2luz | 2007-10-28 11:45 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 27日

熊野の旅 EX.・・・元 (3)

 この地方の中心であった木本は結構古くから町の形を作り出していたようです。
 江戸時代の古地図でも、今の本町通りはほぼ今の形で描かれています。
 代官所も置かれていました。跡地は明治になり小学校用地になっていました。その後、木本小学校の改築に当たり、金が無いので旧校舎部分を売り払ったので、今は天理教南紀大教会などが建っています。広すぎたのではなく、あくまでも金が無かっただけです。
 いわゆる、『浜街道』の東の端として形作られた本町通りは、せいぜい人馬を想定したものです。その両脇にはお店や公共的な建物が増えてかなりの賑わいを見せたようです。
 しかし、車時代に入りだすと手狭な物になりました。
 そこで、昭和初期の先人たちは、二車線に歩道付きの都市計画道路を山手に作りました。それが『記念通り』です。完成の時が『皇紀2600年』だったので、『記念通り』と命名されたようです。
 最初は田圃の真ん中に作られただだっ広い道だったのですが、やはり、新しい店はそちらに建つようになるし、手狭な場所にあった公共的な建物も他へ移転するようになり、本町は一気に主席の座から滑り落ちました。その時期は、昭和30年代から40年代でしょうね。
 他へ移っていった、公共的な建物は・・・
 警察署、電電公社、百五銀行、紀南信用組合、木本町役場などです。脇道に入ってすぐにあった職業安定所も移転して行きましたね。
 わずか600mかそろいらの商店街にこれだけのものがあったのですから、その当時の賑わいも創造できるのではないでしょうか?
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 このあたりが一番賑やかだった『三丁目』です。
 写真一番上には本屋さんの他にも並んでいたのですが、難だったのか記憶にありません。
 二番目は私が中学・高校時代にお世話になった写真屋さんとか漢方薬がお得意な薬局などでした。
 三枚目の空き地群の所に警察署や電気屋などがあったのですが、更地になったままです。ここの電気屋には知る人ぞ知る『東通工』の看板がありました。知らない???『SONY』の前身です。
 本町通りにはアイスキャンデー屋さんが『小松屋』『岩本』『今源』『和田松』と4軒もあったのですよ。もちろん、製氷機の座った、自家製アイスキャンデーを作って売っていたのです。小学生だけで150人も居た時代の話ですが・・・
 カメラは ツァイス・コンタフレックスIV+プロテッサー35mm
この範囲です
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by je2luz | 2007-10-27 12:18 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 26日

熊野の旅 EX. 元・・・ (2)

 昨日の続きです。
 半世紀の間もチョコチョコ写真を撮ってきたのに、私の昔のネガには風景写真が少ないのです。まして、フィルムが高くて小遣いではふんだんに買えなかった中学、高校時代のものには地元の風景などほとんど無いです。それに、こんなに変わってしまうとも思わなかったですからね。
 若い人がこの記事を読んでいましたら、自分の町の普通の風景を写真にして残しておくことをお勧めします。数十年したとき、その町がどうなっているか・・・人間の記憶って意外といい加減ですからね。
 戦後しばらくの変化は、例え田舎でも発展的な変化が多かったのです。商店もシャッターをつけた店構えに変えるとか、ショーウインドウをつけるとかの変化でした。
 今から30年ほど前からの田舎の変化は、『閉店』『廃業』と言う商店街の変化です。ここ20年ほどは都市部の商店街でもこの変化が起きていますね。
 都市部の商店街は普通の町屋の混じらない、純粋の商店街で華やかだった分、商店が消えるとものすごく寂れて見えますね。その点、木本町本町などは、町屋の間に点々と商店が挟まったものでしたから、ほとんどの商店が閉店しているのに、意外と物悲しくないのです。
 熊野古道歩きの人も、ここを通って松本峠と花の窟の間を歩きますが、一見古びた良い町だと思われる方が多いのではないでしょうか?
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 上から・・・『EX.農機具店』 『EX.魚屋』 『EX.酒屋』です。
 店先を改造しないまま残されている建物だけを載せて行っております。
 今、営業しているお店を紹介する方がはるかに早いのですがねえ・・・
 
 カメラは ツァイス・コンタフレックスIV+プロテッサー35mm
この範囲です
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by je2luz | 2007-10-26 11:12 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 25日

熊野の旅 EX. 元・・・ (1)

 何所の田舎町でもそうだと思いますが、古い町並みでは『元』と言うものがたくさんありますね。
 アマチュア無線の世界では、この『元』を『EX.』と言う表現をします。
 それしきで言うと、木本町本町通り界隈は『EX.』だらけです。
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 これは、木本から国境を越えた井戸町馬留になるのですが、事実上本町商店街の西のはずれにある『EX.木賃宿』です。先ごろも戸が開いていましたから、ひょっとしたら営業しているのかも知れません。
 今では『木賃宿』と言う言葉は死語のようですが、薪代程度で止まれる安い宿と言う意味です。江戸時代ではないのでそんな値段ではないでしょうが、私が子供の頃には『大和の薬屋』『富山の薬屋』などの行商人などがここに泊まっていました。その関係で、地元ではこんな呼び方をされることもありました。
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 『EX.散髪屋』です。
 昭和の散髪屋らしい佇まいです。随分昔に廃業しています。やっていたことの記憶がありません。やっていたのは、理髪店ではなく散髪屋の時代かと思います。
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 『EX.糸屋』です。
 この店からが正式の木本町です。今はこの建物に観光客用に『国境』の看板がかかっています。
 元は針や糸、洋裁用品などを売っていた店です。もう、廃業して30年余りになると思います。
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 『EX.中華料理屋』です。
 ここはつい最近まで営業していました。
 建物は元・遊郭でしたので、実に立派な物です。岩山に張り付いたように上の階を作った興味深い建物です。私の世代ではこの中は入ることがありませんでした。
 
 この四軒は30mほどの間にあります。そして、これらは営業当時のまま残されたものです。改装されて一般民家になってしまったもの、取り壊されて更地になったものは入れた居ません。
 町を歩けば、『お店があったのだろうなあ・・・』と言うことが分かります。
 『EX.』を載せましたが。この一角には『現役のお店』は一軒もありません。

 カメラは ツァイス・コンタフレックスIV+プロテッサー35mm
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by je2luz | 2007-10-25 10:37 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 24日

熊野の旅 花の窟・お綱掛け神事・写真のみ

 本日休載
 お綱掛けの写真だけになります。
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by je2luz | 2007-10-24 12:05 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 23日

熊野の旅 災害と記憶

 人間の脳にはありがたい能力があります。
 『忘却』もしくは『封印』というものです。
 痛かったこと、つらかったこと、怖かったことなど、嫌な事は意外と早くこの能力によって隠されてしまいます。
 この能力が無ければ、怖くてつらくて・・・道も歩けなければものも食べられない、ましてお産なんか二回も三回も出来るはずが無いのです。
 その分、学習と言う面ではマイナスの面も大きいですが、人類が結構気楽に生き延びてこられたのはこの能力のおかげでしょうね。

 それにしても、老人の多い防災訓練なのに、過去の災害はほとんど忘れられていますね。
 木本町でも『東南海大地震』や『伊勢湾台風』など大災害に襲われています。
 木本町は開けた海岸線なのでリアス式海岸とは違い『津波』『高波』は洋上を走ってきた高さのままで襲ってきて、湾の奥のように収斂増幅されることはありません。だから、同じ地方の新鹿や二木島・甫母に比べ被害は小さくて済んでいます。
 それにしても、木本も『東南海大地震』では津波が市街を襲い、海岸沿いの民家の一部を破損し、一番奥まで入った波は細い道沿いに走って山手にある記念通り終点の上木本まで達したということは忘れられています。
 昭和19年ですから、70歳くらいから上の人なら記憶にあっても良さそうな物なのですがねえ・・・
 これは、軍部が情報を隠したせいではなく、人間の脳の楽天的な部分のなせる業でしょうね。
 伊勢湾台風は60歳から上なら記憶にあっても良いのですが、この会場に集まっていた、私より年上の人たちほとんどの人の頭には無いようでした。無いのではなく、隠されてしまっているのでしょうね。
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 それにしても、立派な救助訓練なので、見ているお年寄りたちはまるで他人事のような感じでした。
 まあ、万一の時には『助けてもらう方』に違いが無いので、安心感にはつながったでしょうね。
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 一連の写真は日中シンクロで常時ストロボを働かせています。
 私のストロボはあまり多く名出力ではありませんが、近距離の場合は炎天下の人物の顔の表情などが影でつぶれるのが若干救われます。
 こんな時は完全マニュアルでレンズシャッターのものの方がやりよいものです。なまじ、オートのカメラだと、操作がややこしくなるし、自分にしに反する動きをカメラがします。
 何一つ児童で使用としないこうしたクラシックカメラはいいものです。
 カメラは ツァイス・コンタフレックスIV+プロテッサー35mm
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by je2luz | 2007-10-23 11:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 22日

熊野の旅 老人会の行事にあらず

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 おばあちゃんたちが集まって老人車などに腰掛けて楽しそうに談笑しています。
 ここは熊野市立木本小学校校庭です。
 こんな集団があちこちに固まっていました。でも、これは老人会のリクレーションではありません。昨日の日曜日に行われた『防災訓練』の参加者です。
 9月の防災の日の頃には熊野市内持ち回りで仰々しい防災訓練が行われていますが、昭和の大合併、平成の合併とでこの熊野市は9ヶ町村半が合併した所ですから、一回りするのに10年かかると言うことです。まさに、忘れた頃に廻ってくるだけなので、こうした小さなものも行われるようになったのだと思います。結構なことです。
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 颯爽と訓練を受けている人も統計上はお年寄りです。
 熊野市の中心の町とは言え、『木本町』はまさに旧市街です。一時はドーナツ化が言われたこともありますが、すでにドーナツの輪を作る跡取りも居なくなって来ています。老人の比率も30%を越していると思います。
 上の写真の背景が少しかすんでいるのはこの消火訓練の粉末が漂っているからです。
 急性の毒性がない分には今更何を吸っても・・・と言う年齢の参加者が多いのは当たり前です。
 しかし、こうして参加してくれるのはこうした年齢の人がほとんどです。自力で前に進むのがやっとの人がたくさん参加していますが、あと、5年もすれば・・・いや、今すぐでも、これだけの足腰不自由なお年寄りを、もし避難させるとしたら・・・
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 カメラは ツァイス・コンタフレックスIV+プロテッサー35mm
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by je2luz | 2007-10-22 10:49 | 熊野 | Trackback | Comments(0)