LUZの熊野古道案内

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2007年 07月 31日

熊野の旅 熊野市立飛鳥小学校 2

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 これは昔の校門から今の校舎を眺めたものです。
 山間に白亜の校舎がそびえる絵図は良く見かけるものです。これを、『立派』と言うひとが田舎では多いのです。
 『飛鳥小学校』の前の校舎は、太い柱を使った、実に立派な木造校舎でした。しかし、老朽化が進み、廊下の板が割れたりするし、当然木製の窓ですから隙間風も入る状態でした。
 過疎が進行し、本来なら学校統合すべきなのですが、この事業は非常に困難なもので、父兄とか幼児を抱えた若い世代の賛同は得られても。最早子育てに関係なくなった世代のノスタルジックな反対論は説得のしようの無いほど強いものでした。そこで、この貴重で立派な木造校舎を保存してきちんと使えるようにする『大改修』を企てました。
 『大改修』は「手直し」とは違い、ものすごく金のかかる事業になります。その代わりに、改修を終えた校舎はこれからさらに50年も余って使える、快適な木造校舎に生まれ変わります。もちろん、隙間風が入ったりはしません。
 学校の改修だとか改築はまさに『補助金』の塊です。熊野市立といっても熊野市一存では何も出来ません。『県』の認可をもらい『国』に取り次いでもらう図式です。
 この大改修は、全く運良く「県」の許可の内定をもらいました。
 しかし・・・『しかし』なんです。
 この計画を地元の打診したところ・・・
 『いまどき木造のぼろ校舎は無かろう・・・』
 『他の学校は鉄筋コンクリートの立派な物を立てて居るのに、大又はぼろで居れと言うのか・・・』
 などと、これも父兄ではない地区の役員さんたち、おじいちゃん連中の反対が続出して来ました。
 言い出しっぺもその時の市の係りもこの学校のOBではなく、一つ下流の『小阪小学校』のOBだったのも悪かったのかもしれません。
 『お前ら、小阪の学校はコンクリートでちゃんとしといて、俺らのはせんのか・・・』
 と、言う論法でした。
 一部では、この古い木造校舎の価値と良さを理解できる地元の人もいたのですが駄目でしたね。まあ、これは全国的にこうなることが多いのですがね。
 そこで出来たのがこの『白亜の校舎』です。
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 どうしてもこういう校舎になるということで、せめてものことで、校舎の屋根や樋の構造を豪雨地帯に向くように変更してもらったり、校舎内の床をコンクリート床直張り工法から、重大事故を減少させる根太敷き木質床張り工法に変更してもらうなどはしてもらっています。
 見かけは同じで金が掛かる事なんですがね。
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 歩けば違いの分かる人も居るのは居ますが・・・
 いくら子供が減っても、『悪ガキ』とか『ドジ餓鬼』は居るものです。そいつらがずっこけて、『痛い』だけなら泣いて済みます。しかし、後頭部をコンクリートの床にぶっつけてからでは遅いですからね。
 完成してから今回で二回目にこの校舎に入りました。
 ただ・・・やっぱり、『大改修』するべきだったという気持ちが強いですね。
 飛鳥には・・・大又には・・・『木造の昔風の校舎』の方が似合います。
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by je2luz | 2007-07-31 11:41 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 07月 30日

熊野の旅 熊野市立飛鳥小学校

 昭和の大合併の前の飛鳥村立の小学校です。
 この飛鳥村は一番上流の大又大久保から始まって、下流の五郷村との境の滑地(なべらぢ)まで、集落は今の国道42号線や309号線から見えている範囲くらいですが、延長は十数キロに及ぶ広いものでした。
 最上流に『飛鳥小学校』を作っても小学生が通えるようなものではありません。
 ずっと下流に『日進小学校』、中間に『小阪小学校』と結局は一村なのに三つの小学校を持つことになったのです。
 それぞれがきちんとした小学校で分校ではないほどの人口もあったのです。
 この『飛鳥小学校』は熊野の人は『大又の小学校』と呼ぶことが多いのです。
 学校が出来る頃までの飛鳥村はどうだったのか知りませんが、飛鳥村の役場をはじめ、郵便局、駐在所、唯一つの飛鳥中学校など村の中枢機能が隣の小阪地区にあり、村の中心はそちらに見えるのです。本当の地元の人以外にはこの『飛鳥』と言う冠がややこしいので、分かりよいように『大又の小学校』と呼ばれることが多いのです。
 飛鳥小学校は今は日当たりの良い田圃の真ん中に位置していますが、元々はものすごく日当たりの悪いところにありました。
 国道42号線沿いにある『道の駅・熊野きのくに』のある場所にあり、冬になるとまるで日の当たらないところでした。冬場には運動場が凍り付いてほとんど解けなかったと言うお年よりも居ます。
 この跡地は、市有地として残った分は建設残土捨て場として埋め立てられ、戦争当時に畑として払い下げられた分は一段下がった土地として残っていました。細切れに払い下げられ、不在地主化していた土地も地元のお寺の住職さんの骨折りで再び固められました。その後に、道の駅や木工所が建てられて今は何も残っていません。
 写真は否の小学校の場所から昔の学校の跡、『鬼の国』(きのくに)を眺めたものです。
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 たまたま、撮影中に5・6人の子供が昔の正門を通って校庭に遊びに入ってゆきました。
 今のこの小学校の児童は一学年数人ですから、これだけでもかなりのパーセンテージなのですね。
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 元の学校をしのばせるのは、元の正門に通じる川沿いの道と門柱、運動場そして対岸につながる『学校の橋』くらいになってしまいました。
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by je2luz | 2007-07-30 12:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 07月 29日

熊野の旅 切支丹灯篭 大又 3

 南紀地方には『切支丹灯篭』と言われるものがポツポツあるようです。
 大昔から。大きな戦があると落人が逃げてきた土地柄ですから、お役人に目も届きにくいので『隠れキリシタン』が居てもおかしくは無いのです。 しかし。どうも筋金入りの『隠れキリシタン』は居なかったようで、明治になって信仰が復活したと言うような話は聞きませんね。
 ここ熊野市飛鳥町大又にも『切支丹灯篭』と言われるものがあり、市の文化財指定を受けています。
 場所は昨日書いた集落のすぐ下流の『大台平』です。
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 写真に写っている二基の石灯籠のうち右側のものがそうです。
 天辺の部分が丸ではなく四角くなっているので『切支丹灯篭』と呼ばれているようです。
 作られたのは江戸時代らしいです。
 元は対岸の『池田平』にあった『池田家』にあったものだそうです。それが、対岸の『庚申様』の境内に移されています。池田家はこんな灯篭を置くほど立派なお屋敷だったのでしょうが、今は現存しません。地名に残っているだけです。
 切支丹灯篭でも色んなものがあるようです。この灯篭はもう一つピンと来ない感じの物ですが、郷土史研究家がそうおっしゃるのですからそうなのでしょう。
 ここは、大又川を挟んで国道42号線と平行に走る市道の途中にあり、乗用車なら簡単に行けるのですが、駐車場はありません。小さな『庚申様』の祠ですから当然です。隣は民有地ですから迷惑が掛からないようにしてください。
 渡るのは昨日の狭い橋ではなくその下流の『上橋』(かみはし)になります。この橋は営林署の官林に入る林道用に作られたもので結構立派な物です。
 今は庚申様の下流で市道の工事が行われているのでそのまま下流には下れず、すぐそばの橋で国道に戻ることになります。
 カメラは フジカST605N+クルタゴン35mm
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by je2luz | 2007-07-29 10:30 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2007年 07月 28日

熊野の旅 清流大又川 大又 2

 『大又大久保』が大又川沿いでは最上流の集落です。
 その斜め対岸に『坪田平』と言う集落があります。
 この集落の名前も苗字に由来します。そして、この『坪田家』から熊野市の第二代市長が出ました。財政破綻しかけた熊野市の市長として県庁を四十数歳で退職して選挙に打って出ました。就任後に襲った『伊勢湾台風』の大災害も結果としてはこの人の人気を煽ることとなり、32年と言う長期政権が続いたのです。この図式は同じ頃に代議士になり衆議院議長にまで登った田村元さんも同じです。あの人も、ずたずたになった、自分の選挙区、旧三重県二区をあくる日から歩き復旧の手はずを整えることで神格化されていったのです。
 この二つの集落を結ぶ橋が大又側に架かっています。その橋は、車が渡れる生活道路の橋では最上流にあるのですが、何と言ってもその広さは目を見張るものがあります。
 『広さ』と言うと誤解を招きますね。『狭さ』でしょうね。
 取り付け部分の急坂を下ると、目の前は運転試験場にも無い狭い道になります。乗用車なら渡れるのですが、中型車以上の人は思わず車を止めるでしょうね。
 狭い橋をかけても良い時代にかけたとは言え、恐ろしく狭いものです。大又川に掛かる車のわたれる橋ではダントツ一番に狭いものです。坪田市長が自宅のそばだから気兼ねしたのではないか・・・と言う声があります。
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 この橋の下には簡単に降りることが出来ます。ただ、車を止める場所が無いので他所の人はちょっと遊ぶわけには行かないかもしれません。対岸に渡ってからなら停めておけるところもありますが、くれぐれも地元の人の迷惑にならないようにしてください。
 昔からの水遊び場所では一番上流になり、水は少々冷たくなりますが、これ以上はきれいな川は無いだろうと言う水が流れています。
 私が取材に行ったときは、上天気でも、梅雨時のことなので、少し水量が多く、大雨により川の石もひっくり返って、川底はほとんどノリの付いていない状態で、白く輝いていました。
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 手前の部分が橋の陰になるところです。水深1mほどの結構急流なのですが、全く水が無いように写っています。それほど透明なのです。
 大又川はずっと、このような大き目の『ごろ石』と大きな『岩盤』の川床と川原が続きます。
 大水が出ると石がひっくり返って真っ白になりますが、すぐにノリが付いて黒っぽくなります。それを食べて鮎が大きく育つのです。
 その鮎も、昭和30年代から、ずっと放流したものです。これも、戦後の復興のために作られたダム群のせいです。永久に放流を続けないといけないのです。
 放流した鮎ですから、鮎つりは有料です。一日券なんてのもありますから、お好きな方は遊んでみてはいかがでしょうか?
 子供連れの方なら、川遊びをされるのも良いでしょう。
 ただし、急流や深みがあるので、地元の人に遊べる場所を聴いてから川に下りてください。そして、プールしか知らないような都会っ子からは一瞬も目を話さないでくださいね。はだしで歩けば確実にひっくり返ります。まっすぐ泳いでは流されます。自己責任になりますが、それを教えるのが一番かと思います。

 カメラは フジカST605N+クルタゴン35mm
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by je2luz | 2007-07-28 11:35 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 07月 27日

熊野の旅 熊野のチベット? 大又 1

熊野市は黒潮の流れる海岸線と、紀伊山地の懐に納まっている山間部があります。
 普通ですと、川が河口からずっと山の方に入り込み、川沿いに暖かい風が結構億のほうまで届くのですが、ここ紀伊半島ではほとんどの川は山にぶつかってすぐに終わってしまいます。
 海から見える一つ目の山から裏側には熊野川とその支流が出口を求めて蛇行を繰り返しています。従って、海のすぐ近くでも風の入る切れ目は無いのです。
 熊野市の山間部、飛鳥町などは本当に一山向こうは輝く海なのですが、一番低い部分で標高400m、他は500m以上の壁に囲まれています。
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 その飛鳥町で最上流にあるのが大又大久保と言われる小さな集落です。
 ここは時刻表にもずっと載っていた所です。
 紀伊木本駅と尾鷲駅を結んでいた国鉄連絡バスが紀勢線全通とともに廃止され、通勤通学路線としての国鉄バス紀南線となってからは、ここが終点でした。従って、時刻表には載っていたのです。
 昔は終バスの運転手たちはここの委託先に宿泊し、始発のバスを出したのです。今と違い、砂利道一車線の山道ですから、折り返して木本に戻る事も容易でなかったのです。
 今では国鉄(JR)の路線が無くなり、三重交通の路線になっています。
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 ここは、標高にすれば400mあるかないかですが、ものすごく寒いところです。横の山に登ればすぐ下に海が見えるのですがね。
 海岸線に比べると、この一山隔てるだけで冬の夜の気温は5度以上違います。海岸線が零下に下がらないのにこちらでは、宵の口から零下になります。道路の凍結や積雪も当たり前なのです。チベットに叱られますが、熊野市のチベットみたいなところです。
 昨日の国道42号線のゲートもここにありますが、ここが熊野市で一番東京に近いところです。今でこそ、海岸線の国道311号線が尾鷲まで通じていますが、そちらを通るとものすごく遠回りですから、ほとんどの人も物資もここを通ってゆきます。
 上の写真の食堂が熊野市入り口の最初の店です。ゲートが閉まっても運がよければすぐそばの店が開いているのですが・・・
 ここがやっていない時は。2Kmほど戻って、『道の駅くまのきのくに』に行けば夜10時までは営業しています。
 ここの地名、『大又大久保』は『大久保平』で『大久保さん』が住んでいます。
 大又地区には『坪田平』『池田平』など苗字が地名になったところがあります。
 カメラは フジカST605N+クルタゴン35mm
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by je2luz | 2007-07-27 11:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 07月 26日

熊野の旅 清流 大又川・源流

 紀伊半島の南には清流が多いです。
 当たり前でしょう。民家もほとんど無く、まして工場なんてあるわけの無い、険しい山間を流れる川は『清流』で当たり前です。
 そうした清流の一つに『大又川』があります。
 この川は国道42号線で熊野に入るとすぐに道のそばを沿うように流れ下ります。国道169号線で入ると、やはりすぐにそばに流れ、上流に向かいます。つまり、熊野市の幹線道路はこの川のそばを通って外部につながるのです。
 川の名前の通り、一番上流は『大又』になります。
 昨日の写真の一番奥の山、矢の川峠のところから流れ出す谷川と、もう一本、今日の写真に写っている道が入ってゆく、奈良県との県境から流れ出る『備後』と言われる谷川が合流して年中水の切れることの無い清流が生まれます。
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 この立派な橋の架かる林道は、国有林『大又官林』の出材を目的に作られたものです。
 『大又官林』は広大な国有林で、日本地図にも『大又官林』と記載されるほどのものでした。そして、昭和40年代までは、膨大な杉、桧、雑木の森林資源を供給してきました。
 戦後の復興期から親方日の丸全盛時代にかけて、ものすごい量の伐採が行われました。管理は大阪で行われ、営林署は新宮にありました。その新宮営林署の職員数はピークで200名を超えていたはずです。もちろん、この職員とは事務方と技官と呼ばれる方々で、現地雇用の現場の人夫は含まれません。
 知らない間に増殖した『木喰い虫』によって、売り上げは食い散らかされ、国庫にお金など入らないままに『大又官林』はやせ衰え、荒廃してゆきました。
 伐採の後には植林がなされ、育林もされたことになっています。そして、林野庁などの言う国内の材木資源の埋蔵量には、この木喰い虫が『育てたはず』の見込み材積が含まれます。
 近年は民有林も材木不況のため管理が出来ず高配し始めましたが、国有林は戦後一貫して荒廃し続けています。
 だから、事実は、ほとんど木は育っていません。
 社会主義国家ではないですが『計画的育林』で、寒冷地の木曽などと同じ基準での『山刈り』などですから、ほぼ年中、草や雑木が伸びる大又官林では管理不十分になります。
 まあ、自然林に帰ってゆけばよいのかもしれませんが、こうして、日本有数の美林が営林署によって食いつぶされたのです。
 もちろん、誰も責任は取りませんし、今では優雅な『恩給』と呼ばれた年金生活をされています。残念ながら、営林署に就職できた地元の人はほとんどいませんね。えらいさんはやっぱり学歴ですから・・・
 そんな大又官林もこの清流を支える大きな要因です。
 今では国有林から材木が出されることも無く、このあたりにあった貯木場には桜が植えられたり、払い下げられたりして、かつての面影はありません。
 カメラは フジカST605N+クルタゴン35mm
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by je2luz | 2007-07-26 09:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 07月 25日

熊野の旅 通行不能・・・旧矢の川道

 伊勢路から熊野路への道は、熊野古道の時代も大変な物でしたが、近代になっても変わらず大変な物でした。
 尾鷲と熊野の間には紀伊山地が海に落ち込んで行く巨大な山塊が横たわります。
 道路の方は距離的に短い、山越えルートを選んで作られました。
 尾鷲湾に注ぐ矢の川添いに山に入り、急斜面をよじ登って、標高808mの矢の川峠(やのことうげ)を越えて、反対側の大又川に降ります。そして、大又川添いを下り、川が蛇行して山の裏側を進むのに対し、道はもう一度標高400mの峠を越えて、木本へと下る延長42Kmのルートです。
 最初は矢の川峠の道路が難工事で出来ないので、索道で結んでいたようです。
 道路が完成し、連絡バスが走るようになって、伊勢路と熊野路が歩かずに済むようになったのは昭和に入ってからです。
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 今では国道42号線の大改修が昭和40年代に行われ、熊野市飛鳥町大又地内から長いトンネルが掘られ、尾鷲市賀田町の山の上経由、再度長いトンネルで尾鷲側の旧道の下のほうに合流する道路になりました。短縮されたのは7Kmくらいです。しかし、平地の7Kmではなく日本有数の難所の7Kmがなくなったのですから大変な短縮です。
 かつては2時間40分かかって、国鉄紀南線が走っていた道を、今では一時間ほどで走ります。
 写真は熊野市飛鳥町大又の国道42号線大又トンネル入り口から分かれて、旧道に入ってすぐのところです。
 左手の空き地は営林署の貯木場跡です。そして、旧道ははるか向こうに見える山の低い部分を目指してこれからは山道をよじ登ります。
 残念ながら、ずいぶん前からこの道は通行不能です。
 私がアマチュア無線を始めた昭和50年代前半の頃はまだ通行可能だったので、ジムニーに資材を積んでこの道を登ったものです。通行不能になってからは尾鷲側からの道で登ります。
 ここからが矢の川道の矢の川道らしさの出るところで、運転手の気持ちが一段と引き締まる所でした。
 振り返ると今の国道42号線が緩やかにカーブして大又トンネルに向かうのが見えます。
 ここが今では存在すら忘れられている矢の川道の熊野市側入り口です。
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 カメラは フジカST605N+クルタゴン35mm

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by je2luz | 2007-07-25 10:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 07月 24日

熊野の旅 おかしな国境

 熊野市木本町と熊野市井戸町は元は藩の違う土地です。
 木本は『紀州藩』で井戸からは『新宮藩』で堀内さんの領地でした。
 新宮も元々は同じ紀州藩でしたが、家老格の堀内さんが独立したものです。
 この独立の時のいきさつは以前にも書いたことがありますが、江戸時代のことであります。
 名門、紀州藩から小さな新宮藩になるのがいやだったのか、財政の見込みの悪い小さな藩になると年貢が上がると思ったのかは知りませんが、ここ木本浦の住民が反対運動をしました。
 この揉め事がまとまらず、幕府の偉いさんが出ばって来ることと相成りました。
 そのえらいさん『吉田さん』が『木本の人の言うことはもっともだ・・・』と、閣議決定したものを取り消し変更してしまったのです。
 今の大臣だとせいぜい辞任ですが、時代は江戸時代です。こんな大きなことをやったのですから、責任を取って切腹されました。
 今でも、『木本神社』に、『吉田大明神』として祭り。その徳を偲んでいます。
 『紀州本藩』と『新宮藩』の国境は元は一つだし、平和な時に分かれたとは言え、なんとも変なところにあります、
 最近、熊野古道の関係で小さな木の看板が建物の角の取り付けたれました。
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 今は井戸の側が空き地になっていますが、元は普通どおりに家が建ち、町並みは続いていました。
 この先直線なら50mも無いくらいで井戸川にぶつかるのです。普通なら『藩』の境『国境』でしたら、そうしたところになるのですが、こんないきさつで木本浦が紀州本藩に戻されたので、国境がこんなところに出来たのでしょうね。
 確か山側はこの細い路地だったような気がします。
 熊野古道歩きの人はこの手前で国道に出てしまうので、この看板を診る人も少なく、国境を越えたなんて気付かないでしょうね。
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by je2luz | 2007-07-24 10:23 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 07月 23日

熊野の旅 梅雨が明けました

 少なくともこの辺は梅雨が明けました。
 気象庁が何と言おうが開けましたね。まあ、戻り梅雨なんてのがあるにしても、空気が変わりました。
 最後の方に本格的な梅雨のような天気がほんの少しあっただけで、短い梅雨でした。
 『一杯降ったのに・・・』といわれるでしょうが、『男性型』のため、集中豪雨で大量の雨を降らせて、各地に災害をもたらしたので『一杯降った』と感じるだけで、梅雨時の半分の期間は鹿児島などを除き完全な『空梅雨』でした。そして、予想通り期間中の雨の量の辻褄は短期間で合わせてしまったのです。
 長いのもつらいですが、災害型は住む場所によっては怖いですね。
 近年は『集中豪雨』の襲う地域が北上しているようです。
 『滝の様な雨』は南洋のスコールとか日本でも南の地方のものだったのですが、今ではずいぶん来たでも降るようですね。
 自然の地形はその地方での雨の降り方などで決まっていたはずです。その自然の地形をも変えてしまって、河川敷や遊水地にまで家を建てているのですから危険極まりないですね。
 この豪雨地帯にも、そして、空き地だらけのところにもそんなところがあるのですから、都市近郊では当たり前でしょうね。
 天気の悪い時は、『天気が良くなったら写真を撮りに行こう』と思います。
 今からは本当に上天気になりましたが・・・『暑いから今度にしよう・・・』になってしまいそうです。困ったものです。
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 カメラは フランス製・キナックス・ベルチオ105mm
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by je2luz | 2007-07-23 10:23 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 07月 22日

熊野の旅 温室みかん

 紀州は古くからみかんの産地です。
 紀伊国屋文左衛門は紀州のみかんで財を成したとか・・・
 近代でも、昭和の一時期にはみかんで稼いで「みかん御殿」を立てた人も居たようです。
 国がみかん作りに力を入れ歯した頃・・・そうです、熊野市に『金山パイロット』が完成した頃からは、みかんの価格は暴落の一途をたどりました。
 近代的?大規模農園のパイロットでさえ、赤字続きです。
 そのパイロットも、ようやく農園のかなりの部分をやめることが出来ます。
 お役所主体の『交流拠点』とやらと言うものが出来るからです。
 これはバブルの頃に計画された、採算性の全く見込めないものです。
 農業の補助金で金を出すか、違う施設で金を出すかの違いですが、新しい施設を作り、何億も放り込んで、なおかつ、パイロット農園以上に赤字が見込まれるのに・・・
 いやいや・・・コンサルタント会社の書いた企画書ではちゃんと元が引けることにはなっているのです。
 でもねえ・・・これが赤字になることは麻生外務大臣の発言じゃないですが誰にでも分かることです。

 みかんと言うもの、かつては秋の運動会の頃に『青切りみかん』がやっと出てきたものです。
 その秋の運動会は、昔の遅い稲刈りが終わる頃でしたから10月後半だったはずです。それでも、ものすごく酸っぱい青いみかんでした。
 品種改良で少し早くなり、9月には青切りでもう少し甘いのが出るようになり、そのあとは温室の登場です。
 温室も自然加温のものから始まって石油ストーブ、重油ボイラーとエスカレートしてゆきました。
 出荷時期も8月が7月になり、7月が6月になり・・・
 路地物で言えば、今頃は早生でもようやく摘果が終わった頃です。
 多額の投資をし、ランニングコストも掛かる大型温室での栽培です。高くは売れても一度大型台風に直撃されると・・・それに、温室内での消毒作業・・・やりたくないですね。
 まあ、今は『砒素』を使ったみかんを甘くする処理は禁止されてやっていないはずです。
 『みかんは皮を食うものじゃない・・・』と言う感覚でやっていましたからね。決して今の中国を非難できないことがまかり通っていたのです。
 国内の農産物には検疫がありません。引っかかることのほとんどありません。
 お百姓さんが死ぬような消毒こそ近年はしていないようですが・・・
 まあ、何でも良く洗うに越したことは無いでしょう。それに、農薬のビンや箱には、『収穫の何日前までに使用をやめるように』と、きちんと安全基準を書いてありますから、よもや、文盲の居ない日本ではそれが分からない生産者は居ないでしょうからね。『大船に乗ったつもり』になってください。それに、みかんは野菜と違いむいて食べるものです。
 路地物が出てくればみかんは安い果物です。
 これから先、ブラジルなどの果樹園がバイオ燃料用の作物に変わってしまって、オレンジなどが品不足になるかもしれないそうです。ぜひ、今年あたりに安いみかんを腹いっぱい食べて置いてください。
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 これは1989年11月金山パイロットでのみかん狩りの一こまです。
 すでにこの頃にはレジャーの多様化で他所から熊野までみかん狩りに来る人は激減していました。
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by je2luz | 2007-07-22 11:54 | 熊野 | Trackback | Comments(0)