LUZの熊野古道案内

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2007年 04月 30日

熊野の旅 だいぶ出来たよ・・・

 久しぶりに熊野の話題を・・・
 去年から工事に掛かっている熊野市木本町内の舗装石畳計画の工事がだいぶ出来てきました。
 全行程の半分近くまで来たでしょうかね。
 この、ゴールデンウィーク中は工事を中断しています。
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 これは昨日の日曜日、連休二日目の午後に撮影したものです。
 レンズのテストを兼ねていたので85mmと言う中望遠を使っていますから本町通と松本峠までがほんの少し短縮されて見えていますが、実に閑散としたものです。人払いをしなくてもいつでも通りの写真が撮れるので有難いですが・・・
 国道の方の通行量は普段に比べかなり増えています。
 増えたと言っても、信号停滞があるわけでもなし、国道を横断するのにいつもより少しだけ車に気をつけなくてはならない程度です。
 これから先も、熊野古道歩きの観光客の方は減ることはあっても増えることはありませんね。
 だからこそ、今のうちに便乗工事をやらないと・・・
 年に一箇所ずつ『日本国内の世界遺産』は増え続けるそうですから、国の予算も『世界遺産』だからと言ってふんだんにはこなくなりますからね。
 奈良市全域が世界遺産であることなんかはとうの昔に忘れられているようですからね。
 この石畳は人口石の長方形のブロックを並べるものなので、工事もスピーディで仕上がりもきれいなのですが、実に無味乾燥と言うか無機質なものです。
 黒ずんできたらすこし、町になじむのかもしれませんが・・・
 このパターンは『先進地』とやらの街作りでも見たものです。
 ここは紀州御影の産地て、石材を生産搬出していたところですが、このブロックは縁もゆかりも無いものです。ひょっとすると・・・『輸入品』ではないでしょうか?
 もっとも紀州御影でこんなのを作ったら、大変なコストが掛かってしまい、工事予算が却下されたでしょうね。それに、そんなものを作る事業所も無いですしね。
 かつては全国有数の白蝋病患者発生地区になるほど、石材生産が盛んだったところなのですがね・・・もう、長年患者の認定打ち切りはあっても発生はありませんね。
 まあ、夏休みまでにはこの工事も完成していますから、真っ白な敷石の上を歩きに来てくださいね。
 歩くつもりで地図を見ないとここを歩かないで国道を歩いて、帰りは商店街を歩いてしまいますからね。くれぐれも本町通を歩いてください。ただし、喫茶店も食堂も公衆トイレもありませんが・・・
 カメラは ツァイス・コンタフレックスIV+プロテッサー85mm
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by je2luz | 2007-04-30 11:11 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 29日

熊野の旅 LUZ上京する 早稲田界隈

 池袋から雑司が谷経由でてくてく歩いて都電早稲田駅までやってきました。
 ここが今の荒川線の始発駅になるのですが、元の停留所とは少し場所が変わっています。100mほど面影橋寄りに移動しているようです。かつては大隈講堂のすぐ脇の路地を抜けるとそこにあったのですが、今ではグランド坂下の方によって居ますね。
 ここにあった都電の小さな車庫もなくなっていますが、これはホテルになっているところでしょうかね。
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 この向かい側にあったビリヤードなんかも当然のようになくなっているようです。それに、今でもグランド坂下と呼んでいますが、安部球場はすでになく名前だけですね。それに、今の学生さんの生活様式が変化したからでしょうが、裏通りに一杯あった小さな食堂が随分閉店して通り自体が寂れていました。学生の数は減っていないはずですが・・・
 これは戸塚一丁目に抜ける道も同様ですね。本屋・食堂・学生服屋・角帽屋が軒を並べていたのですが、当然のように学生服屋と角帽屋は商売にならないのでなくなっています。
 地下鉄東西線の開通以来、馬場下あたりが開けてきてそちらの方がにぎやかなようですね。
 歩き回ったのも40年ぶりくらいですから変わって当たり前ですが・・・
 正門から馬場下に抜ける通りで発見しました。
 私たちの時代にもあり、写真部の部室まで出前してくれた蕎麦屋が・・・そのままのスタイルで営業していました。
 モリを頼んでも出前の男の子が海苔をトッピングしてきてくれてザルに化けるお店でした。丼には味噌汁もつけて出前してくれるの有難いお店で、部室の前にはここの食器がいつもありましたね。
 当然のようにふらふらとお店に入ると、よく今どきこのスタイルでやってるなあというような大衆食堂のままでした。そして、カツ丼を食べたのですが。お味の方も、確かに昔のままのような・・・
 昔々、学生だった人はつい入るでしょうが・・・
 昔の学生はこれで良かったんです。カツ丼なんて麻雀に勝ったときくらいでしたからね。
 大学も儲かったのか周辺の土地を買い上げて随分建物が増えていますね。早実も系列校化して追い出しちゃったみたいですし・・・
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by je2luz | 2007-04-29 10:38 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 28日

熊野の旅 LUZ上京する 神田川

 あなたはもう忘れたかしら
 二十四色のクレパス買って・・・
 (こう書くのも著作権法では問題があるそうですが・・・)
 そうです・・・窓の外には神田川・・・のすごく印象的な歌われ方をした川です。
 私が神田川の周辺で青春時代を過ごした頃、この神田川は『川』ではなく『排水路』でした。
 都心部でさえカバーするだけの下水道が敷かれたのは東京オリンピックに備えて国際都市として恥ずかしくないようと言うことがきっかけでした。。1964年のオリンピックに備え補助金を出して各戸に突貫工事で引き込んだのです。
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 急速に発展した戦後の東京の汚水が流れ込む神田川はぼうふらさえ湧かないドブと化していました。
 下水道の整備、環境行政の進歩などから小滝橋浄水場のところまで鮎が遡上したと以前に話題になったことがあります。
 そして、今の神田川は清流とまでは行きませんが、放流された鯉が悠然と泳ぐ川に戻っています。
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 このあたりの神田川は目白台の高台の下を掘りぬいて通されているので道路から見ても随分下を流れていて、水に親しむと言う雰囲気の無いところです。
 汚れきっていた時も改めて覗かなければ知らないままですんでしまう、きれいにしても気が付かれない・・・それでも、きれいな神田川に戻ってよかったですね。
 『面影橋』などというゆかしい名前の橋がありますが、この分かりにくい鯉の写真はその『面影橋』の上から撮ったものです。

 若かったあの頃
 何も怖くなかった
 ただあなたの優しさが 怖かった・・・

 そんな青春時代を思い出させる『神田川』です。
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by je2luz | 2007-04-28 11:54 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 27日

熊野の旅 LUZ上京する 都電

 都電はかつて都心の足でした。
 山手線、中央線以外に都心部を走るのは地下鉄銀座線と後から出来た丸の内線だけの時代が長かったものです。
 昭和30年代が終わる頃までは、「邪魔だ」と言われつつも都民の足として重要でした。
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 こんな近代的な車両ではなく、真ん中に一つのヘッドライトを持った重そうな電車でしたね。
 今は早稲田と三ノ輪橋を結ぶ荒川線だけが生き延びています。この区間は専用敷道が多いのと代替地下鉄とかが無かったので残されたのでしょうね。
 昔の東京在住時代は私も都電を時々利用しました。しかし、この区間は利用することは無かったですね。
 早稲田ー面影橋ー学習院下ー鬼子母神前・・・停留所にはなじみがありますが、これから北に向かい大塚駅だとか更に北側などには全く縁がなかったからです。
 引き換え、廃止された側の部分に良く乗ったのです。
 早稲田ー大曲ー飯田橋ー九段下ー神田神保町・・・結構便利だったものです。
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 ここは新目白通りから都電が専用敷道に入るために曲がるところです。
 昔に運転免許を取った方なら覚えておられると思います。
 『黄色い矢印』や『安全地帯』が法規の重要問題として出題されていたことを・・・
 田舎の人には見たことも無い信号とかが重要なほど都電や市電と言った路面電車が重要なものだったのです。
 残された都電の雄姿をカメラに納めようと、この周辺にはアマチュアカメラマンが出没するのですが、この日もデジタル一眼を持った女性カメラマンが二人居ました。別々に来ていましたが、ズームレンズ装着なので遠慮がちに撮影していました。私のこのカメラはややワイド寄りの物なのでその人たちの邪魔になる位置に出てしまうので気を使いました。
 今、こうした路面電車が見直されていますが、東京では復帰できる場所は無いでしょうね。
 カメラは センチュリー・グラフィック+バウシュ&ロム88mm6.8
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by je2luz | 2007-04-27 10:48 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 26日

熊野の旅 LUZ上京する 雑司が谷鬼子母神前

 昨日書いた境内の駄菓子屋さんはやはりものすごく古いお店だそうですね。あそこで開業したのは江戸時代だそうです。
 今より参拝者の多かった時代には門前には色んなお店が並んでいたようです。
 禅宗系のお寺と違い密教系のお寺はご祈祷だとかの『ありがた信心』に向いていますから民間信仰とも結びつきよいのでしょうね。
 ここも、『ススキで作ったふくろう』だとか『ざくろ絵馬』だとかご利益のあるものがあるそうです。
 今でも参道はケヤキ並木が続き往時のも影を残しています。
 一般的には参拝客は都電で『鬼子母神前』まできていたようですね。
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 この都電もいまではここを通る荒川線だけしか残っていません。次にはこの都電の雄姿を取り上げたいと思っていますが、今でも元気で走っています。
 私はこの都電には乗らず、再び明治通りに戻り都電の終点の早稲田に徒歩で向かいました。
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 明治通りに出ると姿の良い橋が目に入ります。
 『千登世橋』です。
 明治通りが目白通りと立体交差するところに掛けられたものですが姿が良くて好きなものです。
 御茶ノ水にも『聖橋』という姿の良いものがあります。
 人間が古いのか今流の自己主張の強い橋より、こうして周りに溶け込む橋のほうが好きですね。
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 カメラは コンタフレックスIV+プロテッサー35mm
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by je2luz | 2007-04-26 10:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 25日

熊野の旅 LUZ上京する3 雑司が谷鬼子母神2

 昨日に引き続き鬼子母神です。
 古くからここにあり、しっかり根を下ろしているのでなんだか日本古来の神社仏閣の様相を呈していますが、鬼子母神さんはインドの神様ですね。
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 境内は木々に囲まれた憩いの場でもあり通り抜け自由な道ともなっていて近所の人たちの通勤通学にも使われています。
 昔ならこの境内で近所の子供たちが遊びに興じていたものと思われます。しかし、今はあまりそのような雰囲気は感じられません。
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 ここの境内の真ん中におみやげ物屋さんと言うか駄菓子屋さんと言うかお店が一軒たっています。
 本当にど真ん中にたっていますが、古びた低い建物ですっかり景色に溶け込んでいます。いったいいつからここで営業しているのでしょうね。
 古い絵巻物でも調べれば境内の茶店かなんか書き込まれているかもしれません。
 私が訪れた時には子供ならぬ若いお兄さん二人が、飴玉を買って一個は口の中に、残りは紙袋に入れてもらって、うれしそうに町に出てゆきました。日本中から消えていった駄菓子屋さんの店先風景を見るようでした。
 雑司が谷村の頃からられた光景でしょうかね。
 カメラは コンタフレックスIV+プロテッサー35mm
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by je2luz | 2007-04-25 11:03 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 24日

熊野の旅 LUZ上京する 2 雑司が谷鬼子母神

 池袋から歩き回った行程について書いてゆきます。
 まず最初に向かったのは早稲田への道筋のそばにある『雑司が谷鬼子母神』です。
 池袋東口から斜め右方向に当たる雑司が谷には『威光山 法明寺』と言うお寺があります。
 このお寺は弘仁元年(810年)に真言宗の『威光寺』として建立されたものです。その後正和元年(1312年)に日蓮宗に改宗され今日に至っている古いお寺です。そのお寺から少し離れたところに『鬼子母神堂』があります。
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 都心部にあっても回りは住宅地で幹線道路からの騒音からは聞こえてきません。時たま通る都電の音と踏み切りの警報音がカンカンと聞こえるくらいです。
 鬼子母神は子安の神とされていますが、元々は名前に『鬼』が付くように怖いものでした。
 釈迦に会って諭されるまでは近所の子供をとって食う鬼のような女だったそうです。
 私が御託を並べるよりこの雑司が谷鬼子母神のHPをご覧になる方が早いと思います。
 http://www.kishimojin.jp/
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 お堂から振り返った参道の風景や法明寺方向を眺めると都会の中での安らぎの場として今も多くの参拝者を集めるのももっともだと思われる景色があります。
 かつては江戸のはずれの小高い丘の上にあったお堂も今では住宅に取り囲まれてしまっていますが、細い道ばかりのおかげで大きなマンションに押しつぶされずに済んでいるようです。
 カメラは コンタフレックスIV+プロテッサー35mm
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by je2luz | 2007-04-24 10:56 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 23日

熊野の旅 番外編 LUZ上京する1

 実に何年ぶり?何十年ぶり?かで東京の街をさして用も無くうろつきました。
 水曜日に秋葉原・御徒町・上野と歩き回り、土曜日には池袋から雑司が谷・面影橋・早稲田と歩き回りました。
 水曜日は雨模様で写真はほとんど撮らずじまいでしたが、土曜日は晴天に恵まれたので、カメラを肩に歩けました。
 東京と言う町はどんどん大きくなってしまったのでそれに比例するように地下鉄網が発達していっています。
 しかし、ある地点から目的があって直行するにはそうした路線も役立ちますが、何かを探すとか言う事となると広い分歩く距離も長くなります。まして、写真を撮ろうなどと考えると大変な町です。 都会の人は本当に良く歩きますね。
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 土曜日の夕方と言うこともあり、普段の日の夕方の人の流れよりはずっと緩やかな速さで動いていますが、それでも田舎流に比べると流れは速いようです。
 この辺りでほぼ一時間ほど街行く人を眺め、スナップを撮っていました。
 池袋と言うこともあり、さほどファッション性の高い町ではなく、目を引くほどの女の子もあまり通りませんでした。
 カメラバッグの上に載っての撮影は問題が無いのですが、バッグに腰掛けてのアングルでの撮影は、今流のミニの女の子を今流の盗撮していると疑われるぎりぎりの高さになってしまいます。
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 かつて最初のミニの流行の頃には東京にいたので、こうして街角で眺めていたこともあります。あの頃と今の違いは、今は『ミニを履きたい子』が履いているのであって、『猫も杓子も』ではないことでしょうね。
 あの頃は『練馬名産』どころか『桜島名産』までがツイギーのまねをして歩くので目のやり場に困ったものでした。
 ファッションは画一性から少し成長したようですが、中身の方は余計に画一化しているようにも思われますね。
 大きな古いカメラを構えての撮影ですから隠れようも隠しようも無いので盗撮にはならないでしょうね。
 カメラは センチュリー・グラフィック+バウシュ・アンド・ロム88mm
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by je2luz | 2007-04-23 10:42 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 13日

熊野の旅 お江戸への道 国道42号線

 熊野から花のお江戸に登る順路は随分変遷したようです。
 昔々は、今で言う熊野古道の一部になってる『伊勢道』を行き、伊勢路を北上し塩浜街道などをとおり東海道に入ったのでしょう。
 いまも、一般道路を通るとほぼ同じルートを通ります。
 紀州といえば国道42号線が走っていて、どちらから来ても南紀へ入る代表的な道路になります。
 この国道42号線と言うものは番号が比較的速いものになっていますが、それもそのはず、昭和20年1月(1945)と言いますから、終戦前に国道41号として東京から和歌山市までを41号として指定したのが始まりだそうです。
 途中は国道1号線(東海道)と併用し、四日市追分からは国道23号線と併用しているので、実質は松阪から紀伊半島をぐるっと回って和歌山までです。
 昭和28年(1953)に法改正でこれが二級国道の170号線に格下げ?されました。
 しかし、昭和34年(1959)一級国道に昇格し42号と言う若い番号をもらったものです。
 この一級国道昇格とともに改修計画が立てられ、一車線砂利道、険しい峠越えの連続であった道路が順次二車線舗装道路になり、矢の川峠のような場所は当時としては日本有数の長さと言うトンネルを掘って今の形になったのです。
 そして、なんと今から14年前の平成5年(1993)に伊勢湾口道路を推進するために大幅なルート変更がなされました。
 松阪まで出た42号はいきなり引き返すような感じで鳥羽に向かいます。そして、そこからは道が海の上に・・・もちろん、橋など出来ていません。民間のフェリーが伊良子まで運行してそれが国道代行となっています。伊良子からは渥美半島を北上し浜松に向かいます。
 伊勢湾口道路の橋は地図で見ると東京から関西に向かう近道にもなるのですが、伊勢湾をまたぐ長大な橋、それから先の険しい山越えなどから、東海道のバイパスとして工事する投資効果は無いように思えるものです。
 今でも、この道路の実現を目指して運動を続ける団体も存在します。確かに、三重県南部や伊勢志摩から東京は近くなりますが、何を運ぶ?誰が来る???なのです。
 瀬戸内に三本もかけるくらいならそのうちの一本をまわしてもらっても良かったのかも知れませんがね。
 第二東名の工事も少しずつ進んでいるようですから、ますます、この伊勢湾口道路の需要はなくなっていますが・・・ある日突然『着工』なんて話が起きるやも知れません。それが、日本の道路行政、道路族、建設族ですからね。ただ、地元出身の大物。田村、藤波の両代議士の時代に着工しなかったので道は遠くなったでしょうね。
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熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

 
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by je2luz | 2007-04-13 10:48 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 12日

熊野の旅 予告

 明日の夜から熊野を離れ上京します。
 上京と言っても宿泊は川越街道は膝折の宿です。今式では朝霞台ですか・・・
 随分田舎まで開けてしまったものです。板橋の宿は江戸の外だったような・・・
 約10日ほどの間、パソコンはあっても暗室はなし、スキャナーもなしの環境になります。
 その日になるまで何を描くか決まっていないので、原稿用の写真をメモリースティックにセーブして行くことも出来ません。適当にセーブして行ってそれを使うのと、浦島太郎のお江戸見物記でも書かなくてはいけませんね。一応デジタルカメラも持っていますからね。
 なるべく休まないで書くつもりです。
 かつては上京するといえば、『夜行寝台・那智号』でした。それが、下火になってきた頃、『ブルートレイン』などという呼び方がはやりましたね。言葉だけはやって客は減り続け、全国カバーしていた夜行列車は廃止されてゆきました。
 時間が有効利用できる、夜行列車が無くなってすごく不経済になっていたのが、近年では『夜行バス』と言う安い交通手段が出現しました。
 ここ南紀からも、池袋東口経由大宮までの夜行バスが三重交通と西武鉄道の共同運航で走っています。
 運賃はJRよりはるかに安いです。しかし・・・
 しかし、なんです。
 ほぼ同じ距離を走る夜行バスの「大阪ー東京」などに比べるとかなり割高です。
 競合路線はないし、客も少ないのかもしれませんが、大阪線の5割り増し以上なのです。
 仕方ないですが・・・これも田舎ゆえでしょうか?
 古より、熊野は山の果て、地の尽きるところゆえにありがたかったのです。
 いまでも、日本の中では山の果て、地の尽きるところです。ありがたさは変わっていません。
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by je2luz | 2007-04-12 12:12 | 熊野 | Trackback | Comments(0)