人気ブログランキング |

LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ

<   2007年 02月 ( 27 )   > この月の画像一覧


2007年 02月 28日

熊野の旅 昔日 蒸気機関車 2

 ここ熊野市は紀勢西線に所属していましたが、紀勢線全通と同時に、紀勢本線の南の折り返し点は中核都市で機関区などもあった『新宮駅』になり、ここは終着駅ではなく、列車の行き先も南は串本行きなどが消えて新宮行きになり、来た方向は松阪、亀山、名古屋方面に伸び、特急こそ停まりますが通過駅になってゆきました。
 紀勢線が全通が戦後15年ほどあとになったのは、未開通区間であった紀伊木本ー尾鷲間はリアス式海岸を抜けるもので。入り江のところでは顔を出しますが、岬部分はトンネルになる構造で全長の6割ほどが土の下という物だったからです。
 今でこそトンネル工事は割りと簡単でしたが、昔のトンネル工事は命懸けのものでした。
 トンネルが全面採掘になったのは確か「佐久間ダム」の工事で『ジャンボ機』とか言われる大きな機械が導入されてからだと思います。確かその機械が紀勢線の工事現場に導入されたように思います。それほどの難工事区間だったのです。
 開通しても、このトンネル区間を蒸気機関車で抜けることは乗客にとっても、機関士にとっても生易しいものではありません。全国あちこちの長大トンネルで機関士が失神すると言うことも起きていました。そして、蒸気機関車の煙突に蓋が付けられ、トンネル内での排気を減らそうと言う工夫さえされていました。トンネルに入る前に蒸気圧を制限一杯まで上げておいて余力で走ろうと言う苦肉の策をとっていたのです。しかし、30Kmもの間で半分以上がトンネルではその手法も使えません。そこで、当時売り出し中だったジーゼル機関車がこの紀勢東線側に投入され、蒸気機関車が姿を消したのです。
d0045383_102639.jpg

 それと共にあの遠くまで響く汽笛の音もこのあたりから消えてしまいました。
 木本駅で鳴らす汽笛は風向きによっては一山越えて道のりでは10Kmあまりも離れた飛鳥まで聞こえたものです。そして、場合によってはドラフト音まで聞こえたものです。
 まさに蒸気機関車は生き物のようでした。
d0045383_10125199.jpg


by je2luz | 2007-02-28 10:13 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 02月 27日

熊野の旅 昔日 蒸気機関車 1

 全国あちらこちらに飾られているものに、『蒸気機関車』があります。
 日本の国鉄も昔は蒸気機関車で走っていました。
 『汽笛一声新橋を・・・』以来、旅は蒸気機関車の汽笛と共に始まったものです。
 私が子供の時には東海道本線はほぼ電化されていたように思います。それ以外の線は山手線などの電車区間以外は蒸気でしたね。
 ここ、紀勢本線も紀勢東線、紀勢西線に分かれていた頃は蒸気機関車で引っ張っていました。
 紀勢本線には『D51』は走っていませんでした。
 こうしたローカル線は鉄橋の橋げたも細く、線路も細いし枕木の間隔も広いので、いくら馬力があっても、あの重い巨体は旨くないのです。そのため、一回り小さな『C型』が走っていました。
d0045383_11275172.jpg

 小さいといっても長い客車を引っ張ったのですから、傍によると大きな物です。
 この機関車は『C58』だと思います。
 「おもいます」と言うのはプレートがみんななくなっているのです。
 あの、前のボイラーの蓋に誇らしげに付けられた『C51○○○』という機体番号を示すものはいつの間にか盗まれてしまいました。
 この機関車は熊野市井戸町の下平公園というところに据えられているものです。恥ずかしくて部分写真しか見せられません。
 上屋が掛けられ保管体制は整っているのですが、この有様です。かつては国鉄OBの方が来て整備されていたようですがもうそれもなされていないようです。
d0045383_1135260.jpg

 紀勢本線が全通すると同時に新宮から亀山までの区間は『ジーゼル機関車』と『気動車』に切り替えられました。
 それ以降はここにこの機関車が来るまでは、この辺で蒸気機関車に汚名か刈ることはありませんでした。
 せっかくの蒸気機関車なのに・・・
 マニアが盗んだとすれば、その人は単なる『盗人』であり、その時点で『鉄道マニア』ではなくなっていますね。そして、おそらく、本物の蒸気機関車も『旅』も知らない人でしょうね。(続く)
 カメラは コダック・シグネット35
 

by je2luz | 2007-02-27 11:46 | 熊野 | Trackback | Comments(8)
2007年 02月 26日

熊野の旅 夕張ではありませんが・・・

 ご存知の方も居られると思いますが、世界遺産指定に自治体が血道を上げるのは、真に観光振興で地元が潤い、飯が食えるようになると思っているからではありません。便乗して公共事業ができるからと言う面が強いのです。中には、本当に観光産業が急浮上すると考えるお馬鹿さんも居るようですが・・・
 今では地方の失敗例の代表に上げられている夕張ですが、破綻が表に出るまでは。観光開発に熱心な地方自治体としてマスコミも取り上げ、各地からの『先進地視察団』もたくさん訪れていたものです。
 こうした自治体にとって負担が増えて行ったのは『箱物』を作り続けたからです。
 『箱物』は作るときは簡単ですが、それを維持、運営することが大変です。
 建物が立派であればあるほど維持管理だけでも金がかかります。民間ならやらないような無意味な過剰投資を平気でやります。
 熊野古道関連の三重県側だけでもどんぢおんこれが行われています。
 尾鷲には『県立熊野熊野古道センター』がオープンしました。3万9千平方メートルの敷地に、『多目的交流棟』、『展示棟』、『研究収蔵棟』と、三棟が立ち並ぶ立派なもので、総工費約21億円と言われます。県費ですが公共のお金です。市民一人8万円ほどですか・・・役人とすれば大したこと無いのかもしれません。そして、見込まれる運営費は約6000万円だそうです。月に500万円です。これはあくまでも計算上でズルズルと膨れ上がるのは間違いないですね。
 運営は地元のNPO出そうです。NPOってのも眉唾物が多いのですが、まともであることを祈ります。
 それに負けじと熊野では、消えていたはずの『紀南交流センター』が息を吹き返し、『紀南中核的交流施設』などというこれまた、客の見込めないものが建設開始されました。こちらは総工費30億円だそうです。市民一人15万円です。三重県ってお金持ちですね・・・・
 こちらのランニングコストは分かりませんが、かなりの部分を民間にやらせるつもりでしょうが、目茶不便な所に出来る、目茶コストのかさむ施設に入って負担する地元企業があるのかどうか???昔にこれが浮上した時も民間側は総論賛成、各論反対でした。
 『結構な企画ですが、うちは出店できません・・・』
 国道脇の一等地?に作った御浜町のピネでさえが採算が見込めず地場産業の参入が無く、お役所がやったものもパンクしてゆきましたからね。
 熊野古道のお客様も、すでに激減し始めています。日本中が世界遺産ですからね。
 熊野古道歩きの人にはこんな近代的な会館など興味が無いはずです。興味のあるのは、首長、お役人、建設業者位のものでしょう。
d0045383_11135113.jpg


by je2luz | 2007-02-26 11:23 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 02月 25日

熊野の旅 熊野市立荒坂中学校 建替えで着なかった体育館

 二木島の集落から見ると小学校の反対側の山懐の中腹に『荒坂中学校』はあります。
 こちらもやはり手狭な場所を造成して学校を作って居あります。
 位置的には海抜も高く、良い場所なのですが、そこにたどり着く通学路は普通乗用車がやっとこさ通れるようなものです。いわゆるアメ車では通れないのではないでしょうか。JRの線路と民家にはさまれた拡幅のしようが無いものです。
 国鉄の線路が出来たのはこの学校が既にここにあった時代です。今の時代では信じられないことをやっています。
 猟師町は狭い所ですから、用地交渉は難航するでしょうが、普通なら、そちらに便乗して通学路をせめて車がまともに通れる道にするはずなのですが・・・
d0045383_11393423.jpg

 校門から振り返って二木島の町方向を見た写真ですが、サクラの木の間に紀勢本線の線路が見えています。すぐ下でトンネルに入ってゆきます。
 このような高さの所にあるので、津波の時などの避難所には適している所です。
 小学校は川沿いであり、海からも100mくらいと言う頃で、津波などの避難所には向かない所です。
 荒坂中学も険しい山の下であり横には沢が流れていますが、二木島地区では一番安全な建物でしょう。
d0045383_11444557.jpg

 普通、避難所には体育館が使われます。しかし、ここの体育館は老朽化しており手狭の物です。
 十数年前に建替えの話が出てきました。当時はまだ生徒数も今よりは居たのですが、用地のないところなので、運動場下の空き家になっている民家を買い取って下駄履きで立てる案で進行しかけていたのですが、結局は実現しませんでした。避難所を立てるという意味で立てても良いかな・・・と言う学校施設だったのですが・・・
 今となっては、一般教室を避難所に当てても問題ないくらいに生徒数も減ってしまい。あと少しすれば平行の可能性も出てきてしまいました。
 テレビでも取り上げられるほどの漁港なのですが、極端に老齢化が進んできていますからね。悲しいことです。
d0045383_11521142.jpg


by je2luz | 2007-02-25 11:53 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 02月 24日

熊野の旅 熊野市立荒坂小学校

d0045383_12112121.jpg

 サンマの丸干しのすだれの向こうに見えるのが『荒坂小学校』です。JRの駅は二木島ですが、旧村名は荒坂村です。
 神武東征とやらに船が難破して救助されたのがここ『荒坂』だとか言われています。
 熊野市内では一番の良港で漁場なのですが、つい近年までまともに道路が整備されていなく、大型の保冷車が入りにくいため、流通面で大きなハンディをしょっていました。ここを通る国道311号線も近年尾鷲まで通り抜けられるようにはなったのですが、この二木島の先には大型車が入れず産業面でも役に立っていません。更に、少し引き返した新鹿から国道42号線へのショートカット路の県道新鹿佐渡線も開通はしていますが大型車が抜けられず、ネックは解消されていません。ネックが解消されるのはいつのことやら、そして、その頃に大型車で搬出するほどの漁獲があるやらどうやら・・・
 この二木島も平地の全く無い所なので、『荒坂小学校』は川のふちにへばりつくように建てられています。
d0045383_12222074.jpg

 運動場から校舎に入るには、この階段を上らなくてはなりません。
 この階段が『荒坂小学校』の特徴の一つでしょう。
 ここでこけた思い出を持つ子やここをステージに見立てて謡い踊った思い出を持つ子など居るようです。記念写真もここで撮っていたようですが、昔はこの階段を埋め尽くすほど児童が居たようです。
 海の学校なのに浜が無く水泳場が無いのでプールを持っているという学校です。
 狭い所ですから、25mプールでもなく本当に小さな物です。
d0045383_12301499.jpg


by je2luz | 2007-02-24 12:30 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 02月 23日

熊野の旅 熊野市立遊木小学校

 サンマの町、熊野市遊木町の小学校は集落の一番奥にあります。
 漁港の一眼奥に魚市場があり、そこから一本の細い川が一直線に山に向かって駆け上がっています。
 その両側に普通車がやっとの道が走っていてその最後の所に学校があります。
 距離はほんの少しですが海抜は高くなっています。津波でも充分避難場所に使えるはずです。
d0045383_11432143.jpg

 遊木町は新鹿湾を挟んで新鹿と向かい合うような感じで湾の入り口の岬の途中にあり、天然の良港として古くから漁業の町でした。
 伊豆などの漁村と同じように平地の無い本当に急斜面にへばりついたように家が密集しています。良い風に言えばエーゲ海の港町と同じようなものです。
 細い路地、どこから行って良いのか分からない家・・・まあ、済みたくは無いような待ちになっていますが、猟師町は大体紺の物ですね。漁が優先で住み着いたのですから・・・
 百姓の集落でも平地の少ないこの辺では、平地は農地にして、家は山際の日当たりの悪い所にあることが結構多いのですからね。
d0045383_11322366.jpg

 ここの小学校は校舎も新しく、屋内運動場も新しい物です。
 ここの屋内運動場は当初の設計では、床が土で埋め戻したあとにコンクリートの床を張る方式でしたが、着工直前に設計変更させて根太がけの床にしてあります。
 建設コストや維持管理はコンクリートスラブ床の方がはるかに安いのですが、子供の重大事故の発生率は根太掛け床に比べはるかに高くなります。
 金の無い熊野市ですのでスラブの設計をしたのでしょうが、そんなところで金をケチっても一人の子供が事故を起こせば何にもなりませんからね。
 ただ、こうした変更が行われたことを知っている地元の人はほとんど居ないでしょうね。
 ただ・・・築後10年は越えてきましたが、あと何年学校が残るやら・・・
d0045383_114022.jpg


by je2luz | 2007-02-23 11:43 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 02月 22日

熊野の旅 武家の居なかった地方

 今日の朝日新聞の記事で面白いものがありました。
 全国の神社を祭神ごとに分類して統計化したものです。
 私の住んでいる熊野市にも村ごとに鎮守様が祭られているのでちゃんとした神社の数もたくさんあります。しかし、何を祭ってあるかなんて考えたことも在りませんでした。
 全国的にみると一位は断然『八幡さん』のようです。二位が『お伊勢さん』、三位が『天神さん』、四位『稲荷さん』、五位『熊野権現さん』・・・と言う風に続いています。
 この『八幡さん』は全国で一位のようです。二位は変動があり東海以北は『お伊勢さん』で、近畿では『春日さん』で、それから西は『天神さん』だそうです。
d0045383_11155554.jpg

 このあたりの神社は鎮守様で主神は『天照大神』つまり『お伊勢さん』のような気がします。
 ここ木本町の木本神社も『お伊勢さん』のお札を持ってきましたし、山の方の飛鳥神社も同じですね。
 お稲荷さんや天神さんは小さな祠のようなものが存在していますから耳にしますし、四国で三位に入っている『山ノ神』も山間部では集落ごとにあり、お伊勢さんより住民に密着してきていました。
 しかし、全国完全制覇の『八幡さん』は全く耳にしません。
 これは、八幡さんが鎌倉の『鶴岡八幡宮』のように武家の守り神として信仰され、地頭などの御家人だ何だという武家連中が自分の所領に祭ったから広がったのだそうです。
 そうなると、まともに武家なんて無かったこの地方には『八幡さん』はやってきませんね。
 それに、商売の神様の『お稲荷さん』も大々的に祭るほど相伴が盛んであったわけも無く、更には、全国第五位と健闘している『熊野権現さん』もすぐ傍の新宮に本社があるので、支社は作らなかったのでしょうね。
 このように、地元に密着してしまっているものではその地区の常識が日本の常識のように思ってしまいますが、やはり違うんですね。
 皆さんのところはどうなのでしょう?
 カメラは スピードグラフィック23

by je2luz | 2007-02-22 11:33 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 02月 21日

熊野の旅 山崎児童公園

 私の家の子供が小さかった頃には、熊野市内には子供を遊ばせる公園が余りありませんでした。
 山の上には『大峰公園』なるものがありましたが、急斜面を登らなくてはならないので幼児には向きませんでした。昭和40年代に造成された駅裏の住宅地には数箇所小さな公園が作られましたが、離れたところから子供を連れてゆくほどのものではないので、小さなこを遊ばせるのか南の方に出かけたときに、新宮市にある『黒潮公園』を使うことが多かったのです。
 そことて、そんなにたいそうな遊具が有るわけでの無く何も無いに近かったのですが、車をとめておいて子供を遊ばせるには適していました。
 今では、野球場などのある山崎運動公園の一角に子供用の公園が用意されています。
d0045383_10373951.jpg

 ここも遊具はそんなに揃っているわけでは有りませんが、子供を遊ばせるには割と安心して放り出せるところです。
 きれいな公衆便所も用意され、拾い駐車場もあリ、おまけに近隣に一般住宅も無いので野宿にも適しているので所在を知っている旅行者の野宿場所にもなっているようです。
 所在場所は国道42号沿いではなく、オレンジロードと言う国道と平行に走る県道脇に有るので、一般ドライバーの目には触れないところですが、県道を走れば嫌でも目に付く一角です。
d0045383_10431741.jpg

 ここは産田川の遊水地の沼を埋め立てたところです。公園や野球場、サッカー場などは一段高く造成されていますが、オレンジロードは割と古いので低いままです。
 かつては道路の周りは沼地の芦原だけでしたから、豪雨のときでも遊水地が遊水地の働きをしたのですが、この沼地の『山崎沼』も広大な公園とゴミの最終処分地、心身障害者施設、救急ヘリポート、三重交通車庫、いすゞ自動車修理工場などかなりの部位分を埋め立ててしまい増した。そのため、遊水地としての役割が小さくなってしまい、ちょっとした豪雨でオレンジロードが冠水、水没するようになってしまいました。
 豪雨の時には赤茶けた湖の中に、こうした施設だけが島のように点在しています。
 通行不能の時間はさほど長くないのですが、孤立することには変わりがありません。
 山崩れの心配も高波の心配も無い完全な平地ですが、台風接近時などにはここで野宿するのは考え物です。
カメラは コンタフレックスIV+プロテッサー35mm

by je2luz | 2007-02-21 10:56 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 02月 20日

熊野の旅 過ぎたるもの・・・

 『過ぎたるもの』と言うか、もはや無用の長物と言うか・・・
 計画されたのは昭和40年代には行った頃なのか、それ以前なのか・・・
 私がはじめて市長室と言うところにお邪魔したときに、応接間の机の上に箱庭が座っていました。
 『熊野市営球場』などを中心とする『山崎運動公園』の立体模型です。
 小学生の夏休みの宿題では在りませんよ。コンサルタントが千万を越す金をふんだくった夢の計画に基づいて作られた、プロによる高価な箱庭でした。
 場所は有馬町山崎・・・産田川が作り出した沼地です。砂利浜から海に出なければならない産田川の遊水地です。実に広大な芦原でした。
 その計画が出来てから、それこそ『幾星霜』・・・最初に出来たのがサッカー場・・・もちろん地元のサッカークラブなどありませんがね。
 そして、ご覧ください・・・やっと完成した立派な野球場です。
d0045383_11211981.jpg

 計画された頃には草野球チームもまだ何とか元気でした。そして、県下の市役所対抗野球大会でも強豪だった市役所チームも元気でした。
 計画から30年も余ってかかるようなことでしたから、若手の選手が引退するような状態です。
 まして、過疎化が進みチームの維持も・・・
 旧野球場の両翼は80mほどです。素人でもフェンスが超える程度です。ホームランの楽しみも在りました。草野球の外野を守っても安心でした。後逸しても三塁打で済みました。
 この新しい球場は当然のこととして100m級です。草野球にはいささか広いですね。
 私もある団体での野球大会に出ていました。もちろん古い球場時代です。スタンドも小さく、グランドといったいみたいでした。
 今度のは立派な分、スタンドとグランドはまるで別の世界です。とても、かあちゃんや彼女に『がんばれやーー』『まかせとけー』・・・などと和やかにやる雰囲気ではなくなりました。
d0045383_11333546.jpg

 人口21000、65歳以上が30%、市内のリトルリーグも維持できない児童数・・・
 航空機時代に出来た戦艦大和より厄介です。大和は日本人の誇りになりましたが、こちらは熊野市民の誇りにはなりえませんからね。
 計画した以上は時代が変わっても作ってしまう・・・ですよね。

by je2luz | 2007-02-20 11:37 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 02月 19日

熊野の旅 熊野市立新鹿小学校

 町村が合併を重ねた熊野市には沢山の学校があります。地形が複雑で道すら出来たのが戦後になってからなどと言うところがあるくらいですから、元々の村もかろうじて往来できる範囲と言う感じで作られて居ました。そして、その村ごとに少なくともひとつの小学校は必要だったのです。
 中心部に作られた学校までの道のりが長くなると少し大きな集落ではきちんとした学校を作り、小さな集落では分校を作りました。
 昔の学校建設には地元負担金がありました。
 地元負担金と言っても、国費のほかに地元の村が負担すると言うのではなく、地元の人民が寄付をして金を作ると言うことです。
 こうした地元負担の関係もあり、学校の建物は地元の熱意や経済状態を反映するので、校舎なども今のように金太郎飴ではなく、村や集落による差がありました。
 今日の新鹿小学校は新鹿が大きな村であったときに建てられたものなので、校舎の規模も大きく、しっかりしたものです。
d0045383_11134852.jpg

 熊野市内に現存する木造校舎では一番きれいな学校です。
 職員室のある母屋?と二階建ての離れ?がL字型に運動場を囲んでいます。
 この大きな学校も今では一学年数名と言う状況になってきて校舎の掃除も思うに任せなくなってきています。
d0045383_11202457.jpg

 昔はこの廊下も大勢の生徒が四つんばいで元気良く雑巾がけをしたものでしょう。磨きだされて木目が出てきたきれいなものです。
 こんな掃除当番も、生徒が多ければ交代でやってゆけますが、一学年数名では毎日やっても手が回らなくなります。
 たまたま、この写真を撮りに行った日に卒業記念写真を撮っていました。
 卒業生は三名・・・
 波田須小学校を閉鎖して合流させてもこの状態なのです。そして、この状況が豪華の方向に変わることはありえないのです。
 こうした現状からこの校舎も取り壊される運命にあるようです。
 こうして村の歴史も特徴も思い出も各地から消えてゆくのです。
d0045383_1137283.jpg

                  (顔が見えない程度に小さくしてあります。)
カメラは フジカST605N+クルタゴン35mm
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2007-02-19 11:38 | 熊野 | Trackback | Comments(0)