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LUZの熊野古道案内

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2007年 01月 31日

熊野の旅 民間信仰・木霊塔

 日本は古来多神教で万物に霊が宿るとされてきました。
 そのため、実に色々な神や仏が祭られてきています。
 このあたりでは野仏の類は少ないのですが、吉野・大和路に入ると到る所に何かが祭ってあります。
 こうした信仰心からか太地などの捕鯨の盛んだった所では鯨の供養塔などが立てられています。
 この写真は飛鳥町にある本乗寺に『木霊塔』が立てられた時の物です。
 戦死した親父が写っていますし、その年恰好から、昭和10年くらいでしょうか。
 この『木霊塔』と言うものも他の所でも見たことがありますが、『木の霊』を供養するものです。
 山からの恵みに感謝するものに『山ノ神』があり、あちこちに祭られていたのですが、どうやら近代的製材所を作って大量に材木を生産始めたので、祖父が供養塔を建立したようです。
 先日来時々掲載している古い写真は大体六切りのプリントです。小さな写真からの取り込みではないので写っている人間一人一人の顔も確認できます。しかし、私の年齢ではこの当時の人で判別できるのは顔を知っている祖父と顔は知らないが写真を一杯見ている戦死した親父くらいの物です。
 こうした記念写真は新宮から写真屋を呼んだり、木本に出来た『西岡写真館』を呼んだりして撮っています。
 こうした写真の原板のガラス乾板もどこかにあるはずなのですが確認できていません。
 乾板の保存状態がよければ、今撮ったのと同じくらいに再生できるのですが・・・
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by je2luz | 2007-01-31 13:13 | 熊野 | Trackback | Comments(1)
2007年 01月 30日

熊野の旅 戦前の芝居小屋

 写真は南牟婁郡の工場経営者の集まりの『紀南工業会』と言うものの第八回総会の記念写真です。
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 我が家は戦前も製材業をやっていましたからここに所属していたようです。祖父の姿も見えます。
 昨日の森脇造船所ではないですが、昔は木本くらいの町になると結構大きな鉄工所などもありました。機械類なども作りまさに田舎も自力更生していたのです。
 この写真は『朝日館』という芝居小屋の舞台を使った記念写真ですが、時代を感じさせるのは舞台の框(かまち)の部分に書かれた文字です。
 向かって左側には『女席』、右側には『男席』となっています。
 写真では工業会という男社会の集まりなので全部男が写っていますが、お芝居などの興行の時には分けられたのでしょうね。
 舞台の上には警察官が上っています。国警なのか町警なのか区別がつきません。戦後になり国家警察と地方自治体の警察が統合されるまで木本町には二つの警察が存在したのです。
 国家統制時代に張っているらしく、総会と言いながら議事は存在せず、式次の中に開会直後、『神宮皇居遥拝』と言うのがかかれています。木本からだと伊勢神宮や東京はほぼ同じ方向ですから全員起立して深深とお辞儀をしたのでしょうね。
 あまり自由などの無い時代でしたが、それなりに地方が元気だった時代ですね。
 ちなみにこの小さな町にも芸者さんがいて料亭が何軒もあり、女郎屋まで在ったのですから賑わいがしのばれますね。

by je2luz | 2007-01-30 11:26 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 01月 29日

熊野の旅 昭和初頭脇の浜

 七里御浜の来たの端、鬼ヶ城の付け根部分を『脇の浜』と呼びます。
 ここは20Kmも続いた砂利浜が終わり志摩半島に続くリアス敷海岸の始まる場所です。
 七里御浜は沖にかけて落ち込みが激しい海岸でさえぎる島も岩礁も無いところで、夏場は波が荒く及ぶには危険な海です。
 ここ、『脇の浜』は突き出した鬼ヶ城がほんの少しだけ波をさえぎってくれるので、本当に少しだけ安全な場所でした。「でした」と書いたのは、今では木本漁港の岸壁が作られ海に入ることは不可能になっているからです。
 このほんの少し静かなところを利用して漁師は船を上げ、巡航船が寄航したのです。
 昔、船がほとんど木造だった頃には全国まさに津々浦々に在ったのが磁場の『造船所』です。
 今は造船所というと巨大なドックがある鋼鉄船を作る造船所が思い浮かぶでしょうが、漁船や小型船が木造だった頃は浜で組み立てていたのです。
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 この写真も先日来ここに掲載している我が家に残されている大正終わりから昭和初期の記念写真のひとつですが、後ろの風景から『親地町』の木本神社のすぐそばの浜に間違いありません。
 この造船所を見た記憶は無いのですが戦争当時まであったようです。そして、写真に在るように結構大きな船も作っていたようです。
 ここも今のような堤防が無い時代ですが、この高さだと大型台風では波をかぶる可能性のあるところですね。
 このような造船書は先日掲載した『大泊』の浜にもあったそうです。
 近代化されるまでは全国いたるところでこのようにして船が作られ、船だけでなく、味噌や醤油などの日用品まで地場で作られていたのです。
 今のように一流企業のものが全国毒ででも手に入る生活が本当に豊かなのかどうか・・・

by je2luz | 2007-01-29 12:14 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 01月 28日

熊野の旅 有馬田圃

 紀伊半島は平地の無い所です。
 紀勢線の列車や国道42号線で熊野に向う時、東側からだと松阪を出てすぐに伊勢平野を離れ競れ以南は山間の狭い景色の中を走ります。西側のルートでも和歌山市を出て紀ノ川の河口の平野を過ぎると海岸線のがけっぷちを走ることになります。車窓から見える平らなものはどちらから来ても海だけです。
 紀伊半島はかつて紀伊山脈と言われ、今では紀伊山地といわれる山々で作られていて、その山塊がそのまま海に突っ込んでいっているのです。
 この熊野市周辺でも平らな戸のろがあるのは有馬中学の前に広がる有馬田圃だけです。
 この有馬田圃は七里御浜を形成する砂利浜に邪魔をされて出口の無くなった『産田川』が作り出した沼地です。その分まっ平らな田圃になっていますが、台風シーズンともなると産田川と志原川の河口閉塞で水浸しになります。
 この有馬田圃の下流部分は『山崎沼』と言われる本当の沼地、遊水地でした、今では熊野市の最終処分地としてどんどん埋め立てられ、更には心身障害者の施設建設、市営グランドや公園の造成でほとんど姿を消しています。その影響で一寸した雨でも道路が冠水して通行止めになるように成りましたね。
 この有馬田圃や山崎沼のある有馬や漁港のある木本は冬でも暖かで餌が豊富なのでこの一体のトンビが冬になると集まってきます。
 カラスは集団でとまっている事が多いですがおよそトンビが数十派も群れている光景は冬場しか見られません。
 枯らすより強い猛禽のはずですが、トンビの方が人間にはおとなしく静かなものです。それに、不気味さはあまり感じませんね。
 このトンビたちも渡りをするわけではないのでしょうが、暖かくなると随分少なくなります。
 山の好きなトンビたちが大又川、北山川、熊野川方面に帰ってゆくのでしょうね。
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by je2luz | 2007-01-28 11:34 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 01月 27日

熊野の旅 有馬中学校

 前に取り上げた『熊野市立有馬小学校』と昨日の『熊野市立金山小学校』をあわせた校区に『熊野市立有馬中学校』があります。
 この学校の創立は少し遅く、元は木本中学校と同じ光苦になっていたものを生徒数も多く分離したものです。
 有馬中学校の校舎は改築され新しいものになっていますが、旧校舎も同じ位置にありました。
 この旧校舎には大きな欠点があり他の市内の校舎よりは約改築せざるを得なくなったのです。それだけ旧校舎の老朽化が早かったのはその材料にあったのです。
 財政難の時代に熊野市にあって新しい校舎を建てることが予算的に厳しく難航し。予算額では入札者が居ないような有様だったそうです。そこで、市内新鹿町の海岸から砂を取ることを条件に落札してもらい建設したようです。
 元々違う村だった有馬の学校のために大量の砂を無償で採取するなんてことをやったので新鹿では随分物議をかもしたようです。
 このお陰で校舎は無事に建設できたのですが、山陽新幹線の工事でも後年問題になった『塩害』が発生し、鉄筋を錆びさせる事態が起きてきていました。有馬中学建設当時は知られていなかったことでしたがこれが本当の事情です。
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 私はここの出身ではなくこの中学を使ったのかこの写真の位置から校舎を眺める時でした。つまり、草野球の大会かソフトボールの大会のときです。隣の市営グランドと野球場で足りない時に使わせてもらったからです。このカメラの位置からの旧校舎は良く見た物ですが、もうそんな体力も無いのでこの校舎を見たことはありません。
 記憶にあるのは下の写真のホームベースの位置が南方向にあるので午前中にレフトの守備位置に入るとフライ、ライナーは全く見えないことです。中学の野球部は放課後の練習ですから問題は無い訳ですが・・・
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 他所に出られているOBでこの校舎の写真を見て、懐かしいと思う人は居ないでしょうね。ただ、グランド回りは変わっていませんから・・・
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by je2luz | 2007-01-27 12:52 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 01月 26日

熊野の旅 金山小学校

 金山パオロットの中腹に『熊野市立金山小学校』があります。
 この金山小学校は元はもう少し高い所、金山の中心に近いところにありました。
 この学校の校区はふもとの『久生屋町』も含んでいます。
 かつては、山の上の金山地区のほうが個数も多かったのですが、1960年代ドロから久生屋地区の宅地開発が進んで麓の方が個数も多くなりました。
 元の金山小学校が老朽化して建て替える時に立地場所で羽陽曲折がありました。ほぼ、麓に近いところのミカン畑を買収する案もありましたが、結局は赤字続きのパイロットの敷地の一部を買収する案にまとまりました。
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 ここで、引っかかってきたのが『紀南交流地点』とやらのゴルフ場計画でした。
 この計画自体が頓挫しかけていたのですが、ゴルフ場じか少々狭すぎるパイロットに作ろうとしてあい写真を作っていたため、小学校に敷地を取られることが苦しかったのです。そこへねじ込んだので、肝心の学校敷地が手狭ですごく変形したものになってしまいました。
 二枚目の写真の体育館脇の駐車場部分などが三角形の土地が飛び出している『イカの耳』状になっています。後ろの部分も同じパイロットの土地で買収可能なのですが、ゴルフ場計画の関係で市が遠慮したからです。
 学校建設よりゴルフ場建設・・・これが地域開発という名の実態です。
 運動場も決して充分ではありません。広大な蜜柑園の中に新規に用地を造成した学校には思えない物です。
 通学する子供達も結構不便な場所になっています。
 日当たりも見晴らしもいいのですが・・・・
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by je2luz | 2007-01-26 12:09 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 01月 24日

熊野の旅 金山パイロット 今

 リゾート法の夢が霧散した話をしましたが、その後には、『紀南交流拠点』などというものが浮上し、やはりゴルフ場と隣接するスポーツ施設や観光農園や色んな形が見え隠れしていましたが、どれをとっても名古屋から210Km、大阪から190Kmの場所に客を引っ張れるような代物ではありません。全ての施設が赤字見え見えのものでした。
 この計画なども国内最大のスポーツ用品メーカーの系列会社や東京の最大手の花屋さんとの共同体が『コンサル料』を幾度と無くせしめてゆくだけでした。
 東京から熊野までの往復を鉄道でするとなると約3万円です。それに宿泊をすると・・・
 機関の方も旨く乗り継いでも五時間ほどです。
 グアムやセブ島と同じか高く遠いくらいになります。飛行機が怖くない人はこちらには来ないでしょう。
 私の娘でも海外へは年に数回遊びに行っていましたが、『熊野は高いし遠いから・・・』と、二年に一回ほどしかかえって来ませんでした。
 こんな状況ですが、この金山パイロットを開発する計画は性懲りも無く振興しています。
 近年は赤字で来園者も激減していた『ミカン狩り』ですが、その観光農園の部分にもブルドーザーが入り押しつぶしています。
 オリンピックは『参加することに意義あり』だそうですが、こうした事業は『作ることに意義あり』らしいです。
 こうした事業の積み重ねが・・・いや、こうした事業を立派にやり遂げたことが、夕張を生み出すのです。
 地元負担が軽減され返済まで国が面倒見ると言ってもやはり財政は圧迫します。自分の金で無いから構わないと言う無責任体質がこうしたものを立案、実行します。そして、作る方の補助はあってもそれ以降の経営・維持には補助もありません。年間数百万、数千万と言う赤字が数少ない来客者につぎ込まれ、なけなしの財源を食い潰します。
 第二、第三の夕張候補に挙がるほど事業はやっていなかったのですが・・・遅まきながらそちら向きに加速し始めたような気もします。
 どんないいことを言おうと、浮ついたブームを当てにした観光開発では飯は食えません。お遍路道のように暖かく迎えることが熊野古道本来の姿でしょうね。
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by je2luz | 2007-01-24 12:29 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 01月 23日

熊野の旅 金山パイロット 続き

 金山パイロットのミカン農園を方向転換しようという動きは、ミカン畑の不振や国の蜜柑園減反政策の推進などで古くからありました。
 そこに降って湧いたのが『リゾート法』です。もう、地元の人でも忘れたでしょうが、拠点を定めて国費を入れてリゾート地を作ろうと言う物凄い法律です。列島改造論の上を行くものです。
 これは『民活』と言う言葉を施策に取り入れたもので、指定地を開発する民間企業を募集し、その開発には行政が全面協力し、道路や上下水道など必要なインフラ(嫌いな言葉)を整備する約束をするものです。
 この指定は県単位ですが三重県は『東紀州』と言うくくりで熊野や尾鷲を含んだ地域の開発を掲げて立候補しました。そして、宮崎県共々当選しました。
 それの宮崎県での残骸が『シーガイア』です。
 熊野ではこのパイロット農園をつぶしてゴルフ場を作り、かつての『熊野原発』の候補地にリゾートホテルを建てるというものでした。
 巨費を投じて青写真が作られました。当然、見込み客数などの計画概要もコンサルタント会社により作られました。
 立派と言うより馬鹿らしいほど夢物語でしたね。
 日本中にゴルフ場が計画若しくは工事中で、すでにゴルフ場の破綻が始まっていた時代です。大阪、名古屋からだと、一時間ほどで色んなゴルフ場に行けると言うのにこんな僻地にぎりぎり18ホールと言うコースを作って・・・
 高島屋系のオレンジホテルと言うリゾートホテルが維持できず廃墟になっているの、新しいリゾートホテルを建てようなんて・・・
 旨い具合にこれらの計画には乗ってくる民間企業が無く頓挫してくれました。
 心配したのは各地で発生していたように、工事着手して頓挫するゴルフ場の一つに成り、身動きが取れなくなるということと、建てたホテルが再び廃墟として惨めな姿をさらすことでした。
 このリゾート法は成立時には三重・宮崎・宮城だったと思いますが、国会議員の偉い先生方の骨折りで全国二十数県が指定されることなり、重要拠点などと言うことはどこかに飛び、巨額の公共事業誘致手段と化したのです。当然、ほとんどがパンクしました。
 そういえば、今日、世界遺産申請の候補地が決まるはずですね。
 これと一緒です。日本中が便乗したがって意味がなくなったのです。
 パイロットにはまだ続きがあるのです・・・
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by je2luz | 2007-01-23 12:09 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 01月 22日

熊野の旅 金山パイロット

 日本が高度成長に入る頃に企画された大規模国営事業には『パイロット』などという冠が付けられました。そのはしりの一つが熊野市にある『金山パイロット』です。
 『金山』は「かなやま」と読むのですが名前の由来は知りません。胴とか鉛とかでも取れたのでしょうかね。
 『金山パイロット』は国営事業として大規模なミカン農園を作る事業でした。古い小さなミカン畑や雑木山をブルドーザーで押し均して蜜柑園を造成しました。
 出来た農園は立派なもので縦横に作業道が走り管理のしよいものでした。しかし、造成方法に根本的誤りがあり、表層土を取り除いた岩と赤土部分を削岩機で暗い他のうちに植えたミカンは思うように成長しません。そのために、その頃は盛んだったチップ工場や製材から樹皮を集めてがけの上から落として積み上げて肥料にしようと言う事業をやりました。しかし、慈悲を積み上げただけではきちんと発酵してくれません。さらにこれを農園に施肥することも大変です。一番問題なのは中まで痩せた土地に火事を植えてしまっているので、今更、元肥に出来ないし、根元に施肥しても土は肥えてきません。
 造成地の払い下げを受けて運営したのは地権者を中心とする人で作った協同組合です。
 痩せた土地へ植えたミカンは思うほど収穫が上がらず、味も酸っぱいものでした。散々苦労して少しまともになりかけた頃には日本中に国の勧めでミカンを植えたのでミカンが過剰になって価格が暴落しました。
 金山パイロットの目玉に『ミカン狩り』がありました。これも、計画当初はまだまだ娯楽施設も少なく見込みがあると思われたのかもしれませんが、国道42号線の改修も出来ていない遠隔地には都会の人は中々来てくれませんでした。そして、国道の改修が出来た頃にはレジャーも多様化して今更ここまでミカン狩りに来る時代ではなくなりました。
 そこで出てきた計画などについては次回に書きます・・・・
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by je2luz | 2007-01-22 11:53 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2007年 01月 21日

熊野の旅 熊野市駅前 看板

 国鉄と言われた時代、鉄道沿線には『野立て看板』が一杯あったものです。東海道本線のような幹線では家が無くても看板がある、田圃や野原に小屋があればその壁にジャンガンが家伝てある・・・と言う状況でした。子供の頃に熊野の旅をすると車窓から煮えるその看板のお陰で退屈しないで済んだものです。
 「仁丹」「乃木学生服」「救心」「世界長」「月星」・・・それらのうちでホーローのものは今では高い値が付くとか・・・
 この時代は駅前にはどこの駅でも一杯看板がありました、休校停車駅ともなると食堂や土産物屋もあり看板だらけでした。
 そのうちに、お役所が『歓迎・○○町』なんて看板も上げるようになって来ました。これは、鉄道の駅前から始まったのですが、今では主力は国道などの主要道路の行政境界付近に立てるものが多くなっていますね。
 熊野市駅前もかつては大きな二階建ての下は土産物屋上は大食堂と言う大型の店舗、煮え交通、奈良交通の切符販売所。土産物とタバコの店、大衆食堂兼食堂、大衆食堂・・・このようにずらりと並んで、それぞれに看板競争をしていました。競争するだけ鉄道を利用する観光客がいたということです。
 今では、鉄道を利用して観光に来る人は物凄く少ないですね。
 公共交通機関がほとんど機能しない田舎へ鉄道で着くとその先が大変です。タクシーを使う以外には観光スポットのも行けない場合が多いですからね。それに、隣の駅に向かおうにも各駅停車の列車は一時間に一本も無いようでは・・・
 そんな駅前はどんどん寂れます。看板も色あせてきます。
 熊野市の駅前の看板が急に新しくなりました。
 どうやら、この雰囲気では建物のオーナーがサービスで看板を上げたのではなさそうですね。カメラのある位置はつい最近オープンした『熊野市観光開発公社』というものですし・・・それを含めお役所の仕事も様な気がしますね。看板のある建物は民間の物ですが・・・
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カメラは コダック メダリスト II
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by je2luz | 2007-01-21 12:29 | 熊野 | Trackback | Comments(0)