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LUZの熊野古道案内

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2006年 11月 30日

熊野の旅 木本の町屋 木の格子のある家

 熊野古道歩きにこの町を訪れた人ならお気付きになったと思いますが、木本の町屋ではところどころに格子の入った家があります。こうした、表通りに面して格子を入れた造りは全国の古い町に見られます。防災の面と目隠しの面を兼ね備えたものです。
 蒸し暑い日本の夏には家を開け放す必要があります。吉田兼好は『夏を旨とすべし』と、書きましたがその通りです。
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 格子戸は目隠しとしての働きが結構あります。特に昼間は外を通りかかってもほとんど中は見えません。ヨシズをたらしたのと同じことです。昼間は外が明るく中が暗いからです。
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 夜になると逆転してしまいます。中のほうが明るいので結構見えてしまうのです。これも、レースのカーテンやヨシズと同じです。中の明かりを消せば目隠しは生きてきます。そして、開け放していても格子は誰も入ることを許しません。
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 こう書くと、格子の入った家はすごく良いことだらけに聞こえますが、実際済んでみると、昼間でも室内が暗くて陰気なものなのです。軒の深い昔の建物にくわえ、開口部の半分が格子の木でふさがれた勘定です。当然暗くなるのです。開放感はあまり感じられず、閉じ込められたような感じを受けます。
 今は蛍光灯などで室内は明るく出来ますが、それでも昼間に自然光の不足は現代人には向かないようです。
 夜になり、外から見たときも、昔のように白熱灯の薄ぼんやりした暖かい光の方がこうした建物には似合うようです。
カメラは フジカST605N+Cクルタゴン35mm
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2006-11-30 12:53 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 11月 29日

熊野の旅 矢ノ川峠 教育映画

 昔は教育映画というものが盛んに作られ、田舎の学校にも回ってくることがありました。
 そんな教育映画の一本に『道』と言うのがあったようです。製作会社は『東映』です。作られたのは昭和34年です。この頃の国道42号線は二級国道だったと思います。路線は熊野市大又から尾鷲に掛けては、まだ、808mの矢ノ川峠峠を越えていた時代です。
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 この有名にもなりえない教育映画の存在が熊野の歴史愛好家達の知る所となり、そのフィルムも見つけられました。
 そして、12月6日水曜日に熊野市民会館で上映会が行われることになりました。開演は午後7時の一回公演で入場料は300円です。
 貴重なフィルムでもあります。興味をもたれた方はおいでください。
 劇場映画ほど金をかけられない教育映画ですが、1959年当時の国道42号線・・・典型的な山岳道路の実態を見ることが出来ると思います。
 このパンフレットの裏面には私が中学生の時に撮った矢ノ川峠峠の茶屋のスナップが使われていました。一度ここにも載せた物です。
 台風銀座の808mの吹きさらしの峠にあった茶屋は人間の手が届くほどの高さしかない低い建物でした。鉄道、紀勢線の全通で連絡バスが廃止されると共にこの茶屋も姿を消しました。今の、『道の駅』なんかより、ずっと大切な施設だったのです。
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by je2luz | 2006-11-29 12:27 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 11月 28日

熊野の旅 高速道路を紀州路へ

 『高速道路を紀州路へ』なんて立て看板があちこちに見られたのは何時ごろだったのでしょうね。もう、30年も余って前だったような気がします。最近では、とんと見かけなくなりました。
 高速道路への漠然とした期待は未だに持っている人が多いようです。
 この話題を取り上げたのは『尾鷲・熊野高規格道路』の続き、今度はその北側の『尾鷲・紀北町』の間の高速道路が着工されたからです。
 こちらは本来、『公団』の道路のはずなのですが、こんな建設費どころか維持費も出ないような道路を採算の問われるようになった会社は幾らなんでも作れません。
 そこで登場するのが『国直轄事業』とか言う抜け穴です。つまり、民営化して『作ってはいけないという道路』を国が作っちゃおうと言う話です。
 この区間の高速道路もその手法で工事されます。地形の悪い所を抜けるので6割くらいがトンネルです。出たら今度は長い橋でしょうね。
 この方法だと地上部分での土地賠償も少なくて済み、反対運動の幅も狭く出来ます。たとえ自分の山でもその下をトンネルが抜ける分には地権者は何も言えない訳ですからね。おまけにこの区間には大きな町も無く、山をぶち抜いても水脈を断ち切って水道の水源が切れるということもありませんしね。工事中の大量出水が怖いくらいの物です。
 あと10年ほどで高速道路・自動車専用道路もここのそばまで近づいてきますね。その頃は私も運転をやめる頃です。熊野市の人口もかなり減っているでしょうね。そして、日本中に世界遺産が出来て熊野古道など本のマニアだけが知っているものになっているでしょうね。
 北海道の道路を『熊の歩く道路』とか報じて代議士を悪者にしていましたが、この道路もヒグマがツキノワグマに変わるだけでさほど変わりは無いでしょう。
 テレビの報道・・・『この道路は地域の産業や観光に大きな働きをすると期待されています・・・』だ、そうです。税金無駄遣い、無用公共事業を追求する番組を作るテレビ局もめでたい日にはご祝儀報道です。
 全国の皆さん、道路を作っていただいてありがとうございます。何も御礼が出来ませんから、完成の暁には高い通行料にもめげずにぜひ南紀にもおいでください。
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by je2luz | 2006-11-28 13:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 11月 27日

熊野の旅 浜街道 木本町のはずれ

 写真のみですが・・・
 浜街道・・・木本町本町のはずれ
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by je2luz | 2006-11-27 13:10 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 11月 26日

熊野の旅 花の窟の創作劇

 昔々、大昔の熊野の地、有馬を舞台にした創作劇が出来たそうな・・・
 ここには劇団はありません。
 半世紀ほど前までは、全国各地にあったように、青年団などによって『地芝居』がやられていました。娯楽の少なかった時代にはその公演には公民館や青年クラブなどと言う集会場とか学校の行動などは一杯になったものです。それに、今は九州とかでしか活動できなくなった、『旅回りの劇団』も時々回ってきた物です。映画のシーンのようにオート三輪に舞台装置から所帯道具まで積み込んでやってきたものです。
 子供達には『学芸会』があり、小学生の間は色んな劇を経験しました。私が子供の頃は、今より、生のお芝居が身近にあったものです。
 今度の花の窟の創作劇は、熊野出身、熊野在住の『紀ノ川良子』さんと言う、プロの演歌歌手の方が中心に大勢の地元の人が参加して、練習に励んでいるようです。
 近々、発表会があるようです。
 この劇はプロの集団のものではないので、完成しても、あまり皆さんの目に触れるところで上演されることも無いと思います。何かの折に地元で上演されて消えてゆく可能性が強いです。
 セリフも千二百年前の熊野の言葉はどんなのか再現しようもないですが、誰にでも分かりよい標準語?に近いものが多く使われているようですから、通訳無しで分かるようです。
 今の方言は随分簡単になってしまいましたが、それでも、他所の人には分からない所も多いでしょうしね・・・
 『まあのし、こんなん出来たよってに、遠いとこご苦労じゃけど、見に来たってくれんかのし・・・』
 『まあーよ。 そんなええの出来たんかのし。そんなら、わしらも見せてもらおかいのう・・・』
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by je2luz | 2006-11-26 13:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 11月 25日

熊野の旅 消える建物

 このコーナーの写真に出てくる木本町の建物は比較的古くからこの町並みを構成してきたものです。
 お屋敷外ではなく。お店屋さんと町屋が混在した木本の本町を作り出しているものには、昔ながらの格子戸のはまった家とガラス戸の入ったお店、そして大正から昭和初期に建てられた洋館風のデザインのものが入り混じっていたのです。
 その中の一軒、洋館風の玄関を持っていた建物が取り壊されてしまいました。
 ここは元、歯医者さんでした。
 お医者さんがなり、奥さんもなくなられて随分になりますし、子供さんもここには住んでおらず、使われないままで老朽化が進んでいましたから、仕方ないのですが、又一つ空き地が増えました。
 場所は三丁目、本町の中心でもあったところです。
 かつては百五銀行熊野支店、熊野警察署があったところです。手狭であることから両方共に井戸町に引っ越してゆきました。その跡地は売却され片方に商工会議所が出来ました。しかし、片方は分割されて空き地になったままで家が立つことはありませんでした。これが、本町に空き地が出来始めた最初の方ですね。
 それ以降、家が取り壊されても建て替えられることがほとんどありません。寂しいものです。
 その建物の玄関の写真を、もう一度掲載しておきます。
 もう数年で底にその建物があったことも忘れられてしまうでしょうね。
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by je2luz | 2006-11-25 12:23 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 11月 24日

熊野の旅 新宮港・第三埠頭

 なにやら、昔からやっていた新宮港整備の査収段階が完成したそうです。
 よそ様のことですが、日本の金を使うのですから多少は文句を言ってよいかと思います。
 この新宮港に第三埠頭が完成して記念式典が行われたと奉じられました。
 偉い人の祝辞では『この新宮港の完成を起爆剤として・・・』式のことが言われていました。
 よくも白々しくこんなことが言えたものです。
 本当なら、『完成が遅く、最早、使い道もあまりないのですが、何とか無駄にならないように、活用方法を模索したいと思います』でしょうね。
 典型的な公共事業で計画して完成まで延々と掛かり、有効性がどうあろうと、世の中が変わろうと続行すると言うものです。
 この港が計画された頃にはすぐそばに巴川製紙が稼動し、近隣の材木によるチップでは、全く足りず船によって大量に運ばれていました。又、この周辺の木材集散地の歴史的背景から製材業もまだまだ盛んで北洋材まで陸揚げされていました。
 しかし、この三号埠頭に着工する頃には製材業はほとんど姿を消し、外材をこんな遠隔地で製材することはなくなっていました。そして、巴川製紙の工場が閉鎖され、物の流れはなくなりました。
 かつて、長距離フェリーの時代だといわれ、鳴り物入りでこの対岸の宇久井港にサンフラワーが寄港して賑わったこともありますが今では・・・
 こんな時代に過剰投資の港は完成しました。
 更に面白いのは、南紀は目の前が熊野灘ということもあり、海は荒れよいのですが、完成記念事業で、熊野古道見物に来ていた船のお客さんが上陸できなかったそうです。
 問題になるほどの低気圧でもないのに・・・
 当てにならん港です。
 これだけ悪口を書いておけば、年に一回でも観光船でも寄港してくれれば上出来のニュースに出来るでしょう・・・
 写真は1983年11月新宮港に寄港した帆船の光景です。『海王丸』だったっけ?これが第一埠頭のはずです。
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by je2luz | 2006-11-24 13:12 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 11月 22日

熊野の旅 どぶろく祭り

 11月23日は市内、育生町の大森神社で『どぶろく祭り』が行われます。
 この祭りは古くからあるもので、名前の通りに『どぶろく』が振舞われます。
 酒が統制品目、専売品になっても、こうした古くからある、神事の一環として醸造されるどぶろくは許可が下りたのです。
 勿論、酒の密造やタバコの潜り栽培は非常に厳しい取締りの対象でしたから、、いくら神社のこととは言え、無制限に作ってよいわけではありません。きちんと定められた量だけ作ることになっていました。違反すれば氏子総代が警察のご厄介になることになります。
 育生村時代にも駐在さんは居ました。当然、目は行き届くことになっていました。
 物が少なく、酒もふんだんに飲めない時代、自前のどぶろくが飲める祭りは左利きにはたまらない楽しみだったでしょうね。
 その頃には、まだまだ青年団など盛んで人も多かったのですから、どぶろくが足りる方が不思議です。それが、そこそこ足りたと言うことは・・・
 決して密造したのではなく、米の量り間違いしたり。失敗したと勘違いしてやり直したり・・・いろんなことがあったようです。
 それでも、無制限に増やせるものではないですからね。
 今は、珍しいから・・・、年に一度だから・・・とかで、参拝者が口にするだけで、このどぶろくで酔っ払おう何て考える人もいなくなりました。
 今は、全くのよそ者がお祭りに参加してもどぶろくは振舞われます。
 どんどん、よその人に来てもらわないと、祭りがどんどん寂しくなってしまうからです。
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by je2luz | 2006-11-22 11:39 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 11月 21日

熊野の旅 恒例行事

 先の日曜日、メインストリート・記念通りを使ってイベントがありました。
 『熊野商工会議所フェスティバル』とか・・・
 記念通りの歩道にテント掛けの店舗を並べて、ちょいとした出し物なども用意してお客を予防と言うものです。
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 このテントは振興会が用意してあるもので一坪はどの小さな物です。組み立て簡単・・・だけど狭い・・・ですね。
 このテントは毎月ここで行われる『いこらい市』で使われるものです。すぐそばの倉庫に保管されていて参加者に貸し出されるものです。
 記念通りで、こうしたイベントをする容易は万端整っています。簡単に設営もできます。それに、田舎ですから、ちょいとしたイベントにこのバス通りを通行止めにする許可が警察からも出ますし、バス会社の三重交通の協力も得られます。利用者からの文句も出ません。
 出るわけがありません。普段から滅多に乗る人は居ないのですからね。
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 11月だと言うのに雨降りに当たりました。
 防災行政無線の定時放送での予告放送で『雨天でも行います・・・』と放送していたように決行しましたが・・・
 毎月、同じようなメンバーので店があり、お客の方は近所の人しか見込めない状態ではまさにマンネリ化・・・それに、雨の追い討ち・・・お気の毒な状態でした。
 熊野古道歩きのベストシーズンの日曜日と言うことで、ぽちぽちリュックをしょった方も歩いていましたが、取り立てて、観光客向けにやっているものでも無し・・・
 こんな田舎のイベントは『商業振興』などになりようがないところまできています。
 昔だと木本に来なければ何も変えなかったのですが、今は田舎のおばあちゃんも都会と同じNISSENなどのカタログで気の利いたものも変えます。
 痛い足を引きずって、近所の人に頼んだり、買い物より高い金を出してバスに乗ってまで木本に出てくることも無くなったのです。
 身内の娯楽と言うには中途半端に頑張っちゃってるし・・・60歳を越えた店主さんも協力して・・・
 田舎の人なら分かるでしょうね・・・この光景

by je2luz | 2006-11-21 13:49 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 11月 19日

熊野の旅 熊野市立有馬小学校 2 センゲの森

 有馬小学校の校庭には不自然な所に小さな森があります。
 校舎を出るとすぐそこは木がうっそうと茂った場所があります。
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 この一角を『センゲの森』と呼びます。この『センゲ』は『浅間』です。
 そうです、『浅間神社』の浅間です。それがなまって『センゲ』になったようです。
 江戸時代に富士登山をした有馬の人が痛く感心し、その感激から、ここに『浅間神社』を祭ったのだそうです。そこがセンゲの森になったのです。
 明治になって政府が神社を国家神道にする過程で、この『浅間神社』は『産田神社』に吸収統合されてしまいました。
 その浅間神社が移転した跡地に有馬小学校を作ったのですが、神社の跡地なので神域の森の中心部だけは切り払わずに残したようです。
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 戦後の一時期はこの森も荒れようとしていたようですが、その存在を大切に思った地元の有志の力で切り払われることなく、手入れもされるようになったのです。
 学校の真ん中にこんな木陰がある学校は何処にも無いでしょう。
 有馬小学校に学んだ子供達の心には気の安らぎがしみこんでゆくと思います。
 しみこまない連中も居たのは居ましたが・・・
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 カメラは フジカST605N+C-クルタゴン35mm

by je2luz | 2006-11-19 12:23 | 熊野 | Trackback | Comments(0)