人気ブログランキング |

LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ

<   2006年 09月 ( 30 )   > この月の画像一覧


2006年 09月 30日

熊野の旅 とっさの時どうする?・風雨

 今度は台風や集中豪雨について少し書きます。
 熊野・紀州路は大雨の降りやすい地域です。本州一と言う降雨量で有名な尾鷲があるのですからね。山間部になると観測ポイントが無いだけでものすごい雨が降ることは間違いありません。それに、近年は直撃する台風が好くなのですが、台風の常襲地域でもあります。新宮から紀伊長島方面にかけては紀伊山地の南東斜面になり台風の余波の雨が大量に降る地形です。直撃を受けなくても300mm~400mmはすぐに降ります。
 これだけの雨が降れば普通の地区なら床下床上浸水で大騒ぎになるはずですが、この地方の河川はのべつ降るそれくらいの雨水をはかすように出来ていますし、それくらいで水に浸かる所には人は住んで来ませんでした、残念ながら近代になって人の住まなかった所に家を建てる事例が出てきています。当然のようにそうした所は水につかってしまいます。その対策に巨費を投じましたが自然の猛威には勝てないようです。
 そうした場所以外は洪水に対しては安全な方です。強いと言っても外をうろつくのは無理ですね。山道は道が川になります。そして、沢を横切る所はとてもわたることは不能になります。
 熊野古道は山の中ばかりです。普通のときの雨は木立に救われて時化ぶる場所が少なく、足元が滑ることに気をつければ散策できるのですが、台風接近時や前線が活動している時は身長に行動してください。
 車の走行も連続雨量250mmで国道のゲートが締まり各所で通行止めになります。一度ゲートが締まると雨がやんで二時間経つまで日が差してきても開きません。崖の無い、谷の無い安全な所で退避していて下さい。
 交通止めにならなくても、豪雨の時はまさに『バケツをぶちまけたよう』な振り方ですから、ワイパーをかけても前は見えません。無理して走っても危ないだけです。特によそから来られて道を知らない人は尚更です。こんな時も崖が無く谷も無い所で退避して下さい。
 こうした天候の日は一年間で10回くらいでしょうか・・・
 運悪くそれにぶつかったら、こうした当たり前のことを守って無理はしないでください。
d0045383_11461978.jpg


by je2luz | 2006-09-30 11:46 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 29日

熊野の旅 とっさの時どうする?

 『天災は忘れた頃にやってくる』と、言いますが、最近では報道と言うものがあり、のべつ災害のニュースが耳に入ってきます。それこそ。狼と少年の状態になりかねないくらいです。
 それより怖いのは、普通の人の『忘却力』の強さです。これには驚きます。
 ここ熊野でお人的な被害を伴う大災害戦時中の東南海大地震と戦後の伊勢湾台風です。他にも一杯台風がやってきて被害は出していますが、幸いなことに大災害とまではならずに済んで来ました。
 この一見平穏な年月の中で過去の大災害は忘れられていっています。
 確かに戦時中を知る人は少数派になり、伊勢湾台風でさえが経験者が老人になってしまいました。そして、その怖さや、何処がやられたかなどの記憶はほとんど失われています。
 先に話題にし事例を挙げると『そんなこともあったのし・・・』と言うような返事が返ってきます。
 この前のこの沖合いの地震もものすごく揺れの時間が長く怖いものでしたが、家屋の倒壊や津波の来襲も無しで済みました。幸いなことです。
 地元の人でさえこの調子ですから、よそからの人に分かるはずも無いのです。台風は接近。来襲までに時間があるので堆肥はしよいのですが、その時間があり余波が見物できると言うことからものすごく危険な所で眺めている人まで居るのです。
 更に自身となると内陸部で暮らした人なら危険性を実感白なんて無理な話です。もし襲ってきたら本体の地震など問題にならない怖い物です。そして、助かるためには逃げるしかないのです。
 これは地震王国日本に居る以上、そして海岸に近いところに居る以上避けられないことです。
 リアス式海岸に比べ七里御浜などの緩やかな海岸はつまみの高さが増幅されることが少ないのでその中でもましな方です。
 木本町などの海岸にこの高さの堤防が築かれる前の津波では木本の町は被害を受けています。今の堤防が出来てからはまだ津波が来たjことはありません。しかし、ものすごい速度で来る津波は海抜13mの堤防をも乗り越えるものと思います。入ってくる水の量を減らす効果と引くときに沖にさらってゆくことを多少減らす効果はあると思いますが万全ではないと思います。
 観光客の皆さんに出来ることは、その地区がどんな被害を受けたなど知るよしもないのですから、海岸の近くに居て大地震にあったら、納まると同時に高台を探して逃げることです。間違っても浜辺に出て津波が来るかなどと、確かめに行かないことです。津波は遅くても自動車並み、早ければジェット機並みの速度で襲ってきます。震源が近ければ5分とか10分しかありません。
 50年とか100年に一回ですが、出会わないとは言えません。
 浜で遊んでいて、地震があれば少なくとも堤防の内側までは無条件で退避する事だけは頭に入れて置いてください。防災サイレンなどは浜に届くようには設置されていませんし、なってからでは遅いのですから・・・
d0045383_13234935.jpg


by je2luz | 2006-09-29 13:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 28日

熊野の旅 商都だった木本

 かつて交通が不便であった頃・・・鉄路は天王寺から紀伊木本駅(現熊野市駅)までしか走っておらず、これから先は巡航船で半日かけて尾鷲まで行くことになっていました。国道42号線が作られ矢ノ川峠越えで尾鷲に行けるようになっても全国有数の難所と言われる道を走り二時間四十分もかかったのです。車酔いにかからない人のほうが少ないくらいでした。
 そんなときは全国何処でも『交通の要所』と言われるところは繁盛したものです。それに、都会まで出るなんて夢みたいな時代には山間部などに点在する集落の人の買い物は全部近くの町に出てしていました。
 ここ木本町は汽車の終点にもなりこの辺りの中核として栄えた時代があったのです。
 木本町の本町筋は今では普通の民家が並んでいますが、かつてはお店がずらりと並んでいて、格子のはまった家もほとんどが材木商などの商売をしていたのです。まさに商業の町だったのです。
 土地の狭い所なので大地主なんて居ません、お屋敷もそんなに広いものではありません。京都などのように間口の狭い奥行きの深い敷地に寄り添うように家が立ち並んでいるのです。
 このように商都であった筈なのに『蔵』がある家が少ないのです。敷地の関係で立派な土蔵は作れなかったのでしょうかね。
d0045383_1361612.jpg

 この写真の蔵は木本の旧家の一つの『加田捨』さんの物です。
 『加田捨』さんは大店で間口も広い物です。もちろんこの呼び方は『屋号』です。これだけの大店で蔵があってもよそで見る『蔵』とは少しイメージが違います。台風常襲地区、津波被害の出る所では立派な土蔵を作ることはあまり意味がなかったのかもしれません。
d0045383_13115086.jpg

 壁は杉板が張られています。この辺りの普通の民家の作りになっている蔵です。確かこの辺りも東南海地震の津波が屋敷まで入ったはずです。我が家の隣に立つ実家の離れの床下にも津波の水が入ったそうですから・・・
 この『加田捨』さんは本町通りを歩くと目立つ間口の鉄砲屋さんで、国道側を歩くとお屋敷の売れを利用した小さな居酒屋さんをやっています。熊野古道歩きで松本峠と花の窟を結ぶコースを歩けば表か裏かどちらかで目にとまる家です。
 商都だった筈なのにこうした商売が盛んであったことを偲ばせる物はあまりありません。

カメラは ツァイス・ウェラ3
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2006-09-28 13:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 27日

熊野の旅 熊野市・熊野市役所

 紀勢線・熊野市駅前すぐに熊野市役所はあります。
 昭和の合併で8カ町村が合併して誕生した熊野市の役所は当初仮住まいで小さな木本町役場と木本町公会堂を使っていました。そして、今の市役所の所に木造の庁舎を建てて引っ越しました。
 地方に行くと立派な建物は役場と学校と言われるとおりに、熊野市も市庁舎を建て直すこととなり、木造を取り壊して威風堂々、ご覧の庁舎を建てました。そのときには当然仮庁舎を立て一時引越し、完成後に戻ってきたのです。
d0045383_11531936.jpg

 この建物も既に老朽化が始まっています。十数年前に外壁のタイルの落下が始まり補修工事を行いました。
 入り口から入った所が吹き抜けという少々装飾過剰な建物です。
 よその人にはあまり縁の無いのが市役所とかのお役所ですね。元々、住民のための行政を行う所ですから、住民以外の人のためのサービスはあまり提供されていません。
 この役場で旅行社のために用意されているプログラムは『行き倒れ人』に対する援助です。これはお金が無く身動きが取れなくなったよそ者の人に路銀を与えると言うものです。ほとんど使われない精度ですが、隣の行政区域までの公的交通機関の料金を出すなんてことですから、金の無い人を自分所から追い出して厄介払いしようということです。運用では隣ではなくもう少し先までの分を出すようですがね。熊野古道あるきで追いはぎや山賊に身包み剥がされたらここに相談してみてください。お代官様のご慈悲があるやも知れません。後は、花火の日の時間待ちにも使う人が多いですね。数少ない冷房付きの建物ですからね。勿論、無料です。お茶の接待はありませんが・・・
 建物の上にあるのが熊野市の市章です。ひらがなの『つ』の最後が丸くなったようなものでカタカナの『ク』『マ』とひらがなの『の』を一つで読ませるものです。職員の襟にはこれが付いています。
カメラは コダック メダリスト2
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2006-09-27 12:13 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 26日

熊野の旅 秋景色

 本格的な秋がそこまで来ています。
 北の方では標高の高い所がそろそろ紅葉し始める頃です。昔、随分昔、東京オリンピックの年の10月奥入瀬の写真を撮りに行きました。開会の空に書かれた五輪の輪を新宿御苑で眺め、その番の夜行で青森に向かったのですから、奥入瀬、十和田に居たのは11・12でしょうね。もう、きれいに色づいた木々が迎えてくれました。ものすごく印象的でした。
 それと言うのも山の中で育った私も熊野の山間部なので、ほぼ全山杉桧の山ですから、全山紅葉なんて起き得ません。数少ない雑木の部分も寒暖の差が少し足りないのかきれいに色が変わりません。あちこちにきれいなのが混じるだけで、なんだか茶色の山になってから葉が落ちてしまいます。おまけに雑木林には椿とか常緑樹がたくさん混じっていますしね。
 もう少し山奥に入り、吉野路まで行けば雑木山も多いしきれいに紅葉する気も随分増えます。
 山が紅葉するといかにも『秋が来た』と感じられるのですが、どうも熊野路はその面での季節感は乏しいですね。
d0045383_1384071.jpg

 こうした『実りの秋』の風景は見られます。
 みられるのですが、この景色は8月のものです。残念ね柄稲の秋は秋ではなく晩夏の光景になってしまったのです。それでも、今までの日本人の感覚ではこうした光景を『秋』と受け止めるでしょう。もう少しすると田舎育ちで稲の成長や稲刈りを実感するとこの景色を『夏が終わる合図』くらいに受け止めるかもしれません。
 とうの昔に田圃から稲穂は消え、刈り跡の株から伸びた稲に花が咲いてきています。ほとんど実が入らないのですがちゃんと稲穂も出来てきます。その頃が昔の稲刈りの季節ですね。

by je2luz | 2006-09-26 13:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 25日

熊野の旅 熊野市立木本中学校 1

 熊野市の中心bの井戸町と木本町を俯瞰する高台に熊野市立木本中学校はあります。
 山の中腹を階段状に造成し、中学校の敷地と団地を造成してあります。更に上には簡易保養センターと雇用促進住宅が造成されています。
 かなり急な山を削って造成してあるので眺めは抜群です。一番上にある雇用促進住宅の四階などは絶景です。
 中学校は一番下にありますが通学路はものすごい坂道です。変速機付きの自転車でも乗ったままで上るのは不可能なようなものです。まだまだ田圃だらけだった昭和30年代の終わりに計画したにしてはすごい所に決めて移転したものです。
 一つの目的に、この敷地を造成する時に出る膨大な土石によって麓にあった沼地のような田圃を埋め立てて住宅地を造成することでした。木本町の山手にあった木本中学校の敷地も当然払い下げ販売する計画です。
 なぜ、そこまでやったかと言うと当時の熊野市は破綻状態だったので、こうして造成した土地を売って借金を減らそうとしたのです。そのため市が分譲する宅地なのに結構の高値でした。そのため、それ以来ずっと熊野市の土地は全般に高値でした。一般に『公の払い下げは民間価格の半値』と言う常識のあった時代ですから、販売したあくる日にその土地をバイト評価するので、市が高く売れば当然跳ね上がります。
 平地に少ない地形とは言え、人口は昭和30年代から減少続けているここの土地が松阪などより高いと言う不思議な状態なのです。現状は評価価格より実勢価格のほうが安い所まであるくらい下がってきました。空き家街ですから当然ともいえますが、固定資産税は高いままです。金の無い市当局は下げたくないですからね。
d0045383_1245153.jpg

 これがその時に建てられた木本中学校の校舎です。
 全国何処にでもある『近代的』?なもので何の特徴も無いものです。運動場も急斜面を造成したものなので広くはありません。開校当時には生徒数も多かったのでものすごく手狭なものでした。
 そして、山水のある敷地で油化した乾季名ドン作らない時代のコンクリート作りなのでシロアリの餌食になり10余前に『建てるほど』の大金をかけて防除と大改装をしました。猛毒の防除剤注入した校舎です。猛毒性が消えた頃でしょうね。そしてシロアリが狙いだす頃かも・・・
カメラは コダック メダリスト2
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2006-09-25 12:59 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 24日

熊野市立 熊野市立木本小学校 4

 今は運動会シーズンです。今日当たりは各地の学校で運動場に万国旗が飾られ賑わっていることでしょうね。
 熊野市の中心部木本小学校も今日が運動会らしく昨日横を通った時テントの用意などしていました。
d0045383_1215113.jpg

 この静かな学校が木本小学校です。
 以前にも取り上げたようにかつては一学年5クラスとかあり50人学級当時なので生徒数1500近くまで居たと言われる学校です。当時はこの場所ではなく運動場をはさんだ反対側に木造校舎が建っていました。そこは今天理教会や民間の家になっています。これは、この信仰者を建設する時に熊野市には金も無く、地元寄付金も土地を残すほど集まらなかったので学校用地を売却するなどと言うあまり起きないことが起きたのです。
 このグランドは100mトラックがまともに取れない広さです。ここに1000人を超す生徒が入り、運動会ともなると親やおじいちゃんおばあちゃんまで押しかけてまさに立錐の余地も無い状態だったのです。
 私はここに在籍せず山間部の小阪小学校に在籍しました。その頃は『奥の学校』などといわれ分教場みたいに言われましたが、私の小学校の同級生は18名です。確かに当時としては少ない数です。
 しかし、今ではこの木本小学校も一学年の数はほぼその水準です。昔なら複式が取りざたされる数です。
 もう子供も居ないので運動会の写真を撮りには行きませんが、近年では家内総出で見物に来ることも減り、観客席はがらがらです。徒競走なども一学年ではすぐに終わってしまいます。6人で走れば三回とか・・・学年単位の行事は惨めになるから出来ません。
 これが田舎の現状です。
カメラは コダック メダリスト2
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2006-09-24 12:17 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 23日

熊野の旅 暗くなった花の窟神社参道

d0045383_11201972.jpg

 ここは日本最古の神社、花の窟の境内に入ってすぐの参道です。
 温帯性照葉樹林で真っ暗な状態です。そうした写真は三脚無しでは昼間でも取れないような光しか差していません。
 昔はこの参道はずっと明るかったはずなのです。
 昔は、この花の窟忍者の境内は七里御浜松原の基点として松林だったのです。
 花の窟神社の春・秋の『お縄掛け神事』は花の窟の岩山から境内の松の枝に向かって注連縄を張り渡す神事です。2月と10月に行われるお祭りは『参加型』のお祭りなので『見物人』ではなく『参加者』がたくさん訪れます。地元の男集が目もくらむような断崖から投げ下ろしたしめ縄をミン慣れ引っ張り松の枝に掛けて結んだものです。
 過去形になっているのは、今では縄を掛ける松の古木が境内には残っていないので特注のコンクリート製の柱に綱を掛けるようになってしまいました。これはいつも書くように松くい虫によって根っこをやられ老木が皆枯れていったからです。元凶はアメリカから戦後にやってきた松くい虫です。羽根の生えた昆虫が目の敵にされましたが、本当に松を枯らしているのは根っこに寄生する『線虫』なのだそうです。
 松林が無くなった松林はこのような照葉樹林となり一見神社らしい雰囲気をかもし出していますが、松に詳しい学者の説ではこのような状態にしておいては松は育たないそうです。松は気ままな植物で他の樹木との共生を嫌うのだそうです。昔から有名な松林は松だけの植生ですね。
 七里御浜松原がものすごく松くい虫に弱かったのは営林署の管理で下生えも一切切ることなく放置して照葉樹の伸びるに任せたことにも一因があるのかもしれません。松林のためには下生えどころか松葉までかいて燃料にするほど人間の生活がそばに無くてはならないのだそうです。
 花の窟神社境内には松が植林されていますが、旨く成長してもお縄掛けに使えるのは数十年先でしょう。更に、こうした『神社らしい』雰囲気を保つためにこの林が温存されれば植えた松も思うようには伸びないでしょうね。
 昔の花の窟の光景は知りませんが、松林だったのならこの参道はもっと明るい爽やかなものだったはずですが・・・
カメラは コダック メダリスト2
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2006-09-23 11:51 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 22日

熊野の旅 産田神社 境内 2

 産田神社は日本最古の神社とも言われる『花の窟神社』とセットになるものです。
 イザナギとイザナミが結婚し火の粉を生んだとされる場所がここになります。
 何処の国の神話でも火の神は神々のグループの最初の方に登場しますね。人類にとって怖いものでありありがたいものでもあった『火』は神に結びつくのでしょう。
 こうした神社の由来もあり、産田神社は遠くから見たら普通の村の鎮守様くらいのものですが、少し雰囲気が違います。
 鎮守様の類は境内にちょいとした広場などあり遊ぶのに良く、祭りにも使われるものですが、ここの境内にはそれが全くありません。石垣で囲まれた神社の敷地内はうっそうとした森になっていて明るいのは神域らしき一角で七里御浜でかつてはたくさんあった真っ白な大きな玉砂利を敷き詰めた場所だけです。そしてそこには社殿が建っています。
 『社殿に近づくな』と言う雰囲気です。
 もっとも神社は神職以外を近づけないようにしたものが多いですがね。ここもその一つです。
 神主などが常駐しているわけではないですが、この産田さんは地元の人たちによっていつもきれいにされています。花の窟と共に有馬の人たちの誇りとなっているからです。
d0045383_12215883.jpg

 この鳥居の下には『さんま寿司発祥の地』の案内板が立っています。ここのお祭りでは『さんま寿司』が出されます。そのサンマ寿司は骨が付いたまま開いてあるのが本当らしいです。安産を祈願して近郷からの参拝があるようですが、最初のサンマ寿司って食べにくくて美味しくなかったでしょうね。それとも弥生人?はものすごく歯が強かったのでしょうかね。
d0045383_1223588.jpg

 カメラは ミノルタ・オートコードL・ロッコール
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2006-09-22 12:29 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 09月 21日

熊野の旅 産田神社 境内 1

 杉の大木に迎えられて境内に入ると森は小さいのに薄暗い空間が底にはあります。樹冠が付き合うほど密集した木々のためです。密書腐れた木々が光を求めて上へ上へと背伸び競争をしてきたので樹高は普通の山にあるものよりはるかに高くなっています。
 このように薄暗くひんやりした空間が神とか仏の居る神社やお寺にふさわしいと感じる日本人は多いようです。だから、深山でもない里の神社などもこうした森が作られたものと思います。
 草木、万物に神が宿り、まして巨木には・・・と言いますが、少し順番が違いますね。よほどのことが無い限り、前にも触れたように、神社より境内の木のほうが若い場合が多いのです。立夏だ・・・と眺める木も神社が底に祭られたときには無かったものが多く、古木があるから神域では無く、巨木に育てる気の長い営みがそれらしき雰囲気を作り出したのではないでしょうか。
 それにしてもお寺さんはまだしも、神社と言うものはあまり健康的な環境ではないですね。
 一時的に休憩するには良いにしてもとても住むには・・・
 神々は神通力?超能力でテレポート自在ですから、降臨される時以外は光一杯のところにおられるのでしょうね。
 神様はそれが出来ますが狛犬さんは日当たりが悪かろうが良かろうが交代制のない守衛さんとしてそこに座り続けなくてはなりませんね。お気の毒な・・・
d0045383_12575855.jpg


d0045383_13104910.jpg

 この一対の狛犬もさほど古いものではないようですがほんの少ししか日の当たらない場所で座り続けています。ここに着てからはひたすら外の方を見ていますから、向き合っていながら顔も見合わせたことが無いでしょうね。
 産田さんの狛犬は狛犬らしい狛犬です。狛犬にはとぼけたような顔をしたのもたまには居ますが・・・
 カメラは ミノルタ・オートコードL・ロッコール
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2006-09-21 13:04 | 熊野 | Trackback | Comments(0)