LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ

<   2006年 05月 ( 30 )   > この月の画像一覧


2006年 05月 31日

熊野の旅 河口閉塞との戦い

 以前にも書きましたが、七里御浜は膨大な量の砂利が積み重なって出来上がったものです。砂利は一瞬も休まずに黒潮の影響で流され続けています。真潮(ましお)のときは南から北へつまり新宮の河口から熊野の木本・脇の浜へ向けて流れます。最後は鬼ヶ城の磯に阻まれて太平洋に深みへ落ちて行きます。ほんのまれに逆潮(さかしお)の時があり逆に流れることもあります。
 この運搬作用は波が荒い方が当然大きくなります。
 少し荒れると木本港が一あれで埋まってしまい、突堤に船がつけられなくなることもあります。そのたびに浚渫していますが、その量たるやダンプカー換算で千杯とか・・・
 これ動きは末端の木本港より上流の方が大きいわけです。それは深い海底に落ちていった砂利は二度と浜には戻ってこないし、砂利の粒は波のもまれる間に磨り減って小さくなってしまうのですから、熊野川河口から出た量の方がはるかに多いのです。
 先日の写真で脇の浜に出てくる西郷川が待った子河口が内容になっていましたが、七里御浜に面した川は全部こうなってしまうのです。
 大きな川がないので普段はこのように閉塞していても砂利を通して水がはけてゆくので河口のすぐ上辺りに湿地帯が出来ているだけで問題は起きないのですが、雨が降ると当然、河口にダムが出来ているのですから水がはけなくなり上流の田圃が水につかってしまいます。
 これを防ぐのに今では『カルバート』と言われる人工のトンネルによる排水方法があります。ものすごい巨費をかけて浜を横切り海まで川を導くのです。景観はかなり損ねますが効果はかなりあります。これが施工されているのは、熊野市駅を中心とする一体まで冠水した井戸川だけです。
 獅子岩のすぐそばに見える人工物が『井戸川カルバート』です。
 他の河口ではブルドーザーやユンボによって砂利を取り除く『川口切り』が行われています。
 ある程度砂利を取り除くと内側の水の圧力で一気に砂利の堤防が崩れ去って水が産みに流れ出すことがあり、人力では非常に危険な作業ですが、機会のなかった頃は海が荒れるたびに田圃を守るために地元の人たちが力をあわせたものです。戸口の砂利との戦いが七里御浜沿いの百姓の宿命でした。
 写真は市木川の河口付近ですが河口は今ありません。今はこれで問題はないのですが、豪雨の時にはこの砂利の山がダムとなって水が農地を襲うのです。
 さらなる、自然の恐ろしさは次回にでも書きます。
d0045383_1581619.jpg

カメラは レチナ2c+カータークセノン
[PR]

by je2luz | 2006-05-31 15:10 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 29日

熊野の旅 木本の子供と脇の浜

 木本港のある場所を『脇の浜』と読んでいたことは書いたと思います。
 七里御浜に面している木本町では前にきれいな砂利浜があるのですが、夏休みの頃には土用波が立ってきますし、落ち込みがきつくて背の届くところは全くない状態の波打ち際ですから。泳ぐには非常に危険な海です。木本で唯一つほんの数メートルでも背の届くところがあり、潮の流れにも左右されにくいところが、それこそほんの少し鬼ヶ城の磯で守られた『脇の浜』だけでした。したがって、昔は『脇の浜だけは泳いでも良い海』とされてきました。
 昔の木本の子供にとってはここが唯一つの海水浴場だったのです。
 とは言え、今のように校則がどうのこうの問う言う時代ではありませんでしたし、中学生のガキ大将が幼稚園までを責任を持って引き連れて遊んでいましたから、年齢に応じた指導が行き届いていましたので、全ての浜が海水浴場に化けていました。波が少し出てくるとこの『脇の浜』に集まってくる寸法でした。
 私は山間部の育ちですが、木本の今住んでいるところにも家があったので夏休みには時々降りてきて自宅の下の浜で泳いだものです。
 私の世代の男の子でこの海を知らない子は居ないわけです。潮の流れの速さや怖さも身をもって知っています。ほんの少し油断すると流されて元の場所には上陸できないし、場合によっては死を意味します。潮の流れもいつも同じと言うわけではなく逆に流れる時もあります。
 30分や一時間くらいは浮いていられるようにならないと一人前の男の子ではなかったのです。何年に一回かは犠牲者を出していたようですが、それは地元の子供よりはよそから来て海に入る青年が多かったようですね。
 ここが遊泳禁止になってからもしばらくは看板を無視して泳ぐことが多かったのですが、段々と泳ぐこともなくなり今では『遊泳禁止』の看板も立てなくなっていますね。子供がおとなしくなったのか弱体化したのか・・・
 写真の埠頭の場所も砂利浜でした。上を走る国道はここにはなく、橋の下に出てくる西郷川も今のように生活廃水を捨てることなくきれいなものでした。
 この川も七里御浜のほかの川同様、砂利によって河口が閉鎖されています。砂利の層を通して水が海に落ちて行きます。河口閉塞については次に書きます。
d0045383_9235575.jpg

 カメラは ウエルタ・ウエルチ・I
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。
[PR]

by je2luz | 2006-05-29 09:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 28日

熊野の旅 木本港と漁協

 木本港は漁港としても小さなものです。防波堤も一見大きく見えるだけで自然の入り江に比べ規模が圧倒的に小さいものです。従って、年間を通して安定して使えるのもではありません。少し荒れればつかえないところでは漁港としては困るものです。
 鬼ヶ城から北の熊野には小さな入り江がたくさんあります。日本では昔から『七浦』などと言う表現もありますが、ここでも浦ごとに集落があり集落ごとに漁業を営んできました。自治体制度が出来てからでも『木本町』『泊村』『新鹿村』『荒坂村』と並んでいましたが、漁業の基地はもっと細分化され、漁業組合が六つもありました。ほんの近年やっと合併が成立し、『熊野市漁業協同組合』となりました。
 それぞれに小さな漁港・船着場を持っていますが、その中で一番町に近いのが木本漁港です。本来なら中心的漁港となるべきなのですが、自然条件が良くないのでそうはなれません。
 外海に面したほんの小さな波止場ですし、魚も水揚げも多くありませんから港の水はよく澄んでいます。
 アジや鯖子やカワハギなどが足元を泳ぐのが見られます。船の出入りも少ないですから、ゆっくりと港を見ていられます。ここの水が濁るのは大敷網を引き上げてきて洗浄する時だけです。
d0045383_12171366.jpg

 近年は熊野灘が外海だとは言え水が汚れているそうです。網に付着するヘドロのような微生物がうんと増えたそうで、洗浄する時はものすごい匂いと赤茶けた泥水が出ます。そんなときでも外海同様の船着場ですからすぐに拡散してしまうようです。
 木本漁港には立地条件を生かそうと言うのか、近年になって『活き魚』を扱う建物や『加工場』などが建設されています。これで魚が水揚げされれば活況も呈するのでしょうが・・・
 水揚げや網上げはここでやらないからか、クレーン施設などはしてありませんね。加工場なども高波時には波が来ることを前提に立てていますし。クレーンなどの施設は難しいのでしょうね。
d0045383_1224069.jpg

網置き場には網がありますが、大敷網など何百メートルもある大型の網はこんなところに揚げて補修も出来ませんから獅子岩の横の砂利浜に広げて行います。
 昔は網を直す年老いた漁師の人は写真の画材としてよく使われたものですが、今では見かけることも少なくなりましたね。
カメラは ウエルタ・ウエルチ I

 
[PR]

by je2luz | 2006-05-28 12:29 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 27日

熊野の旅 巡航船が来なくなった木本港は・・・

 巡航船がついた頃には撮っていも無かった木本港ですが、ここは分類上は、かつての運輸省が所轄する立派な港湾の指定を受けたところです。地図の上では獅子岩から磯崎町の猪鼻岬までの大きな港です。猪鼻(いのはな)とは獅子岩から左手を見て一番遠くに見える灯台のある岬です。この大きな木本港は全く手付かずの港です。外海に面し大工事になる割りに貨物の需要が全く見込めないからでしょうね。ただ、この中では漁港区として木本港、松崎港、磯崎港と三つの小さな漁港があります。
 木本港は近年鬼ヶ城の西の端の磯から突き出し堤防が作られ、港らしい?雰囲気があるようになりました。この堤防はそばによると見上げるような高いものです。うえから飛び込むには勇気の居るほどのものです。
d0045383_11423588.jpg

 写真のように聳える防波堤の外はそのまま熊野灘です。普段はこれだけの防波堤があるので木本港での荷役が出来ます。しかし、熊野灘にとっては所詮人間の作った小さな構造物です。ほんの少し海が荒れるとこの防波堤を波が越えてきます。地形上、船あげ場所などない木本港では荒波時には漁船を係留することは全く出来ません。ここを基地にする漁業者は事実上、大敷網をやる協同組合だけですがそこの船も普段から鬼ヶ城を挟んで反対側の磯崎港沖に停泊しています。これだけのことをやっても熊野灘では荷揚げ所にしかならないのです。
 写真の向こうの方に見える小さな岩山の辺り海岸沿いの国道に面して我が家があります。
 つまり、こうした熊野灘に面して家が建っているのです。海岸沿いの堤防が海抜13mほどですが、何度も波が越えています。きれいな海も機嫌の悪い日は怖いものです。
 カメラは コダック・レチナ2c+カータークセノン35mm
[PR]

by je2luz | 2006-05-27 11:56 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 26日

熊野の旅 かつての動脈 巡航船の港・木本港

 かつて紀勢線は二つに別れ、紀勢東線が尾鷲まで紀勢西線が木本までだったことは何度も書いています。昭和に入り尾鷲・木本の間には連絡バスが走るようになりましたが、海岸沿いには道はまだできていなくて、まさに陸の孤島状態でした。
 その当時に活躍したのが『巡航船』です。
 南の始点は『木本港』でした。新鹿・二木島・賀田・三木里・九鬼など津々浦々を回って北の終点尾鷲港まで走っていました。
 私が子供の頃には国道42号線の連絡バスが走っていましたから、紀勢線の東西乗り継ぎに巡航船を使う人は居なくなっていました。それでも。海岸沿いに点在する集落には貴重な足でした。毎日来るわけではなかった証拠に山間部の私が木本に来ているときに白い巡航船が入っていると珍しくてうれしかったものです。
 巡航船が姿を消したのは紀勢線が全通してしばらく経ってからだったと思います。
 巡航船の始発の港である木本港とは言え、当時は防波堤も突堤もないものでした。
 七里御浜が終わりリアス式海岸に変わるところ、鬼ヶ城の西口に当たるほんの少し入江?になっているだけのところでした。従って乗り降りは艀(はしけ)によるものでした。
 今では漁港として整備され船着場が出来ています。巡航船の乗客が見たらどんなにうらやましがるでしょうね。
 この今の木本港のある場所は『脇の浜』と呼ばれていました。七里も続いた砂利浜が終わる端っこにあるからでしょうね。
 巡航船の始発地点であった木本港のすぐ上を今の国道42号線が抜けていっています。国道がこの位置に来たのは昭和44年くらいだったと思います。
 主役は巡航船から鉄路の紀勢線へそして自動車の国道42号線へと移って行きました。
d0045383_12222721.jpg

 後ろに見えるのが国道42号線です。ここから熊野古道の浜街道に入ります。
 カメラは ウエルタ・ウエルチ・I
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。


 
[PR]

by je2luz | 2006-05-26 12:27 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 25日

熊野の旅 熊野路の大動脈 国道42号線

 紀伊半島の南にある熊野地方は名古屋、奈良、大阪と東西に並ぶ、昔からの大きな町への道が通じていました。
 熊野は世界遺産に指定されたように、神々、仏達の地であり、信仰の土地でしたから、参詣道として重要だった時代もあります。それが『熊野古道』です。駅、関所などを作って整備された『街道』にくらべ道は険しく宿場も発達しなかったようです。
 『蟻の熊野詣』などと言われる割に、宿場町が栄えたと言う話は聞きませんね。
 この『熊野古道』であったものが近代になって整備されたのが、国道42号線です。今では東の端は元の松阪市から方向転換して鳥羽に向かい海を渡って対岸へ伸びています。伊勢湾口道路と言う長大大橋の布石のようです。西の端は和歌山市です。紀伊半島をぐるりと首輪のように回る道路で一番の幹線道路です。
 この道路と並行に高速道路が計画され少しずつ建設されています。全部繋がるのは何時のことやら・・・そして、繋がっても何を運ぶのやら・・・
 と、言うのも、紀伊半島の南端の産業は衰退押してしまっています。
 かつては社会の教科書に載るほど新宮を中心として材木・製材が盛んで、この42号線を毎日たくさんのトラックが製材製品を満載して大阪、東京方面に走っていったものです。
 熊野市、尾鷲市からは石材が出荷されこれもダンプカーが毎日数車ずつ大阪方面に走っていました。
 魚は勝浦港を中心に保冷車が朝の河岸に間に合うように走っていました。
 こうした産業が全て縮小し、我が家の前を通過するトラックは昔日の面影はありません。
 毎日見かけた木本運送・新宮合同・勝浦水産・牟婁運送・南郷運輸・などの車列は姿を消し、単独走行の状態です。周辺住民にとってはありがたいのですが・・・と、言っても元々よその国道のように一杯車があるわけでは無かったですからね。ボチボチ通っていたのがパラパラ?になった感じですね。
d0045383_8402711.jpg

カメラは ウエルタ・ウエルチ I/テッサー50mm
[PR]

by je2luz | 2006-05-25 08:43 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 24日

熊野の旅 熊野市立木本小学校 3

 熊野市の中心的小学校の木本小学校が生徒数の減少で1/10ほどになったことは書きましたが、運動場はこれで丁度良いくらいですね。今も、そばを通りましたが休み時間で子供たちが運動場に出ていましたが、わずか100人台なのにようやく走り回れる程度ですね。
 この後者を立てる当時は昭和の合併後の熊野市が財政破綻状態でもあり、校舎建設には地元負担がかなり要った時代なので、元の校舎の敷地を売り払った話をしましたね。運動場が取れないほどしか敷地が無いのに、更にそれを切り売りしなくてはならなかったのです。一等地にあるゆえにそうなったのでしょうね。場所が悪けりゃ売ったって仕方ないですからね。
 校舎も老朽化が進んでいます。
 木造できちんと立てた昔の校舎より戦後の鉄筋コンクリートの建物の方が傷みが早いのです。地盤がさほど良くないところで、パイル打ちが出来ない時代に立てた細長い建物なので当然折れてひびが入りましたがこれ位は当時としては当たり前でしょう。
 しかし、ここまで来ると『耐震強度』が足りなくなり補強工事が行われました。「1」の時の写真は良く分かるのですか。校舎の壁に取り付けられた大きな筋交い入りの構造物がそれです。
 元の構造物との取り付けが実に簡単なのでどれほど効果があるのか分かりませんが、生徒数がどんどん減少する中では後者の建て替えなど論外ですからね。
 ここは災害時の避難場所にも指定されていますから、一番先に崩れるようでは困るわけです。ひとまずは安心して避難できるでしょう。
 後ろに見えるNTTの鉄塔は足元がぎりぎり同じ大きさの建物の屋上に乗っているのですが果たしてそちらの方がもつのやら・・・
d0045383_1131714.jpg

カメラは コダック メダリスト
[PR]

by je2luz | 2006-05-24 11:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 23日

熊野の旅 熊野市立木本小学校 2

 熊野市の最大の小学校だった木本小学校ですが、今では隣接の井戸小学校の方が生徒数が多くなっています。これは井戸小学校の校舎が古く、少し不便なところにあったため本来井戸小学校の校区に住んでいた子も木本小学校に入学すると言う変則的なことが長年続いていたので、余計も生徒が多かったのです。
 どこの町でもそうですが、旧市街と言うのは住みよい町並みではありません。木本町は京都並に間口が狭くて奥行きの長い屋敷ばかりです。間口三間、奥行二十間で六十坪なんて敷地ですからまともな家は立ちません。家が古い以前に立て替えてもまともにならないのです。だから、地元に残る数少ない木本の子供も木本を捨てて近隣の井戸や有馬に住むことになるのです。ど田舎なのにドーナツ減少だけは一人前に起きています。そして、それも生徒数急減の一因になっています。
 三階建ての校舎も生徒数が1/10になったのですから当然空っぽです。空校舎部分に社会教育用の教室が出来、次には県立養護学校がのっとって、今では一階部分には小学校はありません。借家人のように二階三階にいるのです。
 地域との交流のために社会教育用の教室を増やすように運動しているうちに、立地条件が良いからと言う理由で県に乗っ取られたのです。その際に小学校の施設の移転を市の負担でやったのですが、上級自治体である県の事業に伴う出費を市が受け持つのは地方財政法上問題があると言う疑念も押し切られてしまいました。玉突きですからこれは市の事業ではなく件の事業と見るべきだと言う考えは今も変わりません。
 運動場は時間差で使用しています。養護学校高等部ですから大の大人に近い生徒と児童が一緒に使うのに少し無理があるからです。
 一つの校舎の中に三つのものがあり、旨く融合できずにいるのは少し不思議な光景です。ほんの少し離れるだけで、休校になった小学校があるのに、そちらを使わなかったのは理解しにくいですね。そこに行けば今は有馬小学校にある初等部中等部も一緒にして高等部まで備え完全に独立した養護学校が出来るのにそうしないのは???わずか3Kmほどです。送迎は専用のバスが出ているのに・・・
 と言うことで、この写真の二階からが今の熊野市立木本小学校です。
d0045383_10323931.jpg

カメラは コダック メダリスト
[PR]

by je2luz | 2006-05-23 10:34 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 22日

熊野の旅 熊野市立木本小学校 1

 旧・南牟婁郡木本町立木本尋常小学校以来、この地方では唯一つの町の学校としてリーダーシップを取ってきた学校でした。少し前に載せた江戸時代の『木本代官所』のあとに作られて校門のそばには『代官松』がたっていました。
 町中の学校であったので生徒数も多く、ピーク時には千数百人を数えたものです。運動場は今と同様で100m円形トラックがとりかねるものでしたから、超々過密の遊び場でした。その頃には昼休みに全校生徒が運動場に出ると何も出来ないので曜日ごとに運動場に出ても良い学年が決まっていたのです。それでもボール遊びなどは禁止されていました。
d0045383_1440269.jpg

 この校舎は生徒数の増加と校舎の老朽化で建て替えられたものです。破産状態にあった熊野市の財政事情もあり、元の校舎のあった場所は売り払われ、今では天理教南紀大教会が建っています。運動場の拡幅以前に金が無かったのですね。敷地の狭さは大都会のど真ん中の学校並です。そして、生徒数の減少も大都会の中心部並み。いやそれ以上です。都会のはドーナツ減少ですが、ここでは過疎が進行しつつある中でドーナツ現象も起きたのですから・・・それに高齢化、少子化・・・
 今では昼休み時にここを通っても子供たちがのびのびとサッカーしたり広々と使っています。
 一学年20人足らず・・・もうすぐ10人ほどとか・・・
 家からも近く、便利なところにあって理想に近い少数学級で・・・いい環境ですが誰も転入して来ませんね。
カメラは コダック メダリスト
フィルムは期限が1967年と言う普通は廃棄処分になるものです。白黒フィルムは40年経っても一応使えます。あくまでも、一応・・・ですが。
[PR]

by je2luz | 2006-05-22 14:52 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 21日

熊野の旅 特別記念物とは・・・4

 『特別天然記念物』とは結構不便ね物だと言うことはお分かりいただけたかと思います。
 こうした不便なものは他にもたくさんあります。
 南紀観光の目玉でもあった『国立公園』も建前上は厄介なものです。
 アメリカのヨセミテ公園とかグランドキャニオンのように人里はなれたところを指定して保護するのと違い『吉野熊野国立公園』などというものはほとんど全部民有地で生活圏にあるものです。それなのに法律では現状維持を義務付けています。それゆえに国立公園と言いながら面的な広がりが無く、点々と指定箇所がある状態です。
 昔の社会の教材の地図には国立公園がはっきり記載されていましたが、あの色塗りの範囲はかなり違っているようです。私もこの熊野市の海岸にある国立公園の指定地のはっきりした境界線はしかとは知りません。熊野市はこの国立公園の端っこであまり広くは掛かっていないようです。『獅子岩』『鬼ヶ城』は入っているようですが『七里御浜』はどうなっているのか分かりません。指定されていないとしか思えない土木工事が行われています。
 もし、指定がされているとすれば高潮対策など出来ないのです。生命財産が危険でも工事をすることは容易ではないのです。乱開発を防ぐ足かせが防災にも掛かってしまうからです。
 国立公園法も今ではカビの生えた法律になってしまっていますから、保護のほうもいい加減になっているのでしょうが・・・
 文化財にしろ、国立公園にしろ、世界遺産にしろ個人の財産が指定されると持ち主は結構大変です。指定される人全員が余裕のある人とは限りませんからね。
 尾鷲で起きた熊野古道に関連するトラブルは表面化したもので、もっと迷惑を受けている人も一杯居るのです。
 狭い国土、どこまで入っていっても集落があり民有地である日本でこうした公園や自然遺産を指定する難しさがあります。地元の人の協力が得られなかったら成り立たないし、継続できないのです。
 観光地でも眺めている物や道端のもの全てが民有地で個人のものです。それなりのマナーを守ってもらわないと段々地元民がいやになります。そうなると、銭を稼ぐだけの人間が表に出てきて『いやーな観光地』になってしまいます。
 日本中、有名観光地や観光寺などそんな所だらけになってしまいましたね。私などそうした場所が大嫌いです。そうならないようにお客さんも地元民も譲り合ってください。
d0045383_1021142.jpg

[PR]

by je2luz | 2006-05-21 10:02 | 熊野 | Trackback | Comments(0)