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LUZの熊野古道案内

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2006年 04月 30日

熊野の旅 悲願40年・・・県道・新鹿佐渡線

 以前にも書きましたように、かつて人と物の往来が人間の足に寄った時代は少々の山があろうと地図の上で近いところは近かったのです。
 海抜0m海の村『新鹿』と海抜300m山の村『飛鳥』は500mほどの峠を越えればすぐそばなのです。昔の歩く道は直線的に登っていましたから本当に見たとおりに近かったものです。当然のようにそこに道ができ『八丁坂』と呼ばれました。飛鳥側からは歩く道がつずら折れの牛車用の道に改良はされたのですが、いわゆる『新道』という車の道路にはなりませんでした。
 この八丁阪を車が越せるように・・・と、戦後しばらくして海岸部を中心に運動が置きました。そして県道としての認可は下りたのですが工事は遅々として進みませんでした。
 当初の計画では八丁坂をほとんど頂上まで登って短いトンネルで超えてゆくと言うものでした。設計を始めた昭和30年頃では当然ともいえるのですが距離が長くなり余計も時間が掛かるのです。
 この計画を一気に進めたのが18年ほど前の住民運動でした。何時まで経っても進まない工事に痺れを切らしたのです。そのおかげでルートが今式に変更なりそれまでできていた新鹿側区間を少し使わないまでにトンネル位置を下げたものになりました。当初150mのトンネルが1050mと言う長いトンネルになり、それと同時に一気に新規測量、工事着工と進みました。
 今から7年ほど前に開通した県道・新鹿佐渡線は全長11kmですが、実質飛鳥町で国道42号線に合流するまで9Kmほどです。それまでは海岸線を大泊まで戻り、そこから42号線で名古屋、大阪方面に行ったのに比べると半分以下になりました。
 悲願の道路は開通したのですが、最初の頃に行われた工事が『暫定工事』で林道並みのものだったためロングボディの車が通れないままです。産業道路としては未完成なものですが、小型トラックや乗用車は便利になりました。
 写真は八丁坂の新しい頂上になったトンネル入り口です。昔の八丁峠はまだまだ上です。
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カメラは レチナ2c・カータークセノン35mm

by je2luz | 2006-04-30 11:53 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 04月 29日

熊野の旅 石切り場廃墟

 写真に使った石切り場跡は新鹿町内、県道新鹿・佐渡線(あたしか・さわたり)のそばにあります。
 急坂を登ってゆく途中で広くなり、思わず休憩したくなるかもしれません。入り口には細い土方ロープ一本で立ち入り禁止を示しているだけです。入るに関してはまるでフリーパスです。
 きれいな山水が湧き出し。切り出した岩壁を滝になって落ちているところもあります。これから上には民家も何も無いですから当然きれいな山水です。
 岩の壁は恐ろしく高く聳えていますが、紀州御影の岩壁なのでそう簡単には崩れ落ちません。上に乗っている表層土も雑木林でしっかり捕まえられているので廃止されて20年にもなるのに崩れた様子もありません。
 しかし、この岩の壁には一杯切れ目が走っています。決して一枚岩ではありません。ある日突然、倒れてくる可能性はあります。万一倒れて下敷きになると、『トムとジェリー』でない限りペッチャンコになって伊に血はありません。数百トンと言う岩につぶされますから救助とて数十日を要すると思います。
 人間が龍門山と言うなんだか怖そうな山の裾を無理やり削った跡ですから。自然の斜面に戻るまでの数千年とかは危険なところだと思います。
 くれぐれも車を留めて岩壁の下に行くことが無いようにしてください。私も良い写真を撮るには岩ノ下に入らなくてはならないのdすが、東南海地震が何時あってもおかしくないですし、近寄らずに迫力の無い写真で我慢しました。
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by je2luz | 2006-04-29 11:39 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 04月 28日

熊野の旅 紀州御影

 熊野を訪れると山間部などはやたらrと石垣で囲った家が目に付くと思います。
 平野部では防風林用の林とかきれいな生垣に囲まれた家が多いのですが、この辺ではそうした家は少ないのです。又、熊野古道も自然石の石畳が見られます。
 石垣は木本町の辺りの砂岩を積んだもの以外は、切石でも自然石でも紀州御影です。この一体の山は紀州御影で出来ているからです。おまけに固くて風化しにくく石垣に向くからでしょう。
 この紀州御影は切り出されて地元はもちろん関西方面に出荷されていました。
 私が子供の頃は、まだ大型機械が無かったので土の中にある大きな丸石を割っていましたが、機械が大型になり、エアー削岩機が導入されると山全体が御影石と言う石山に手を付ける様になりました。搬出は船であったり鉄道であったりしたのです。
 石山は熊野市内でも大泊町と新鹿町に集中していました。『いました』と書いたのは最早石切、石割は熊野市内で事実上行われていないからです。
 紀州御影は固いので石垣には向くのですが、その材質から、固くて鋸で切り出せるものではなく、四角い石材を作るのは苦手です。結晶が荒くて墓石にも向きにくいので四角く切る石材店はありませんでした。地元の犬走りの縁石には加工していたようですが・・・
 作るものは四角錐の『けんち石』です。コンクリート製のものが道路わきの石垣などに使われていますが、あの形を石工はゲンノウ(ハンマー)一丁で作り出すのです。
 石には目があり、それの通りに割れば力はいらない・・・とはいわれますが、決められた大きさに作らなくてはならないので当然、不良品と端材の山を築きます。この『ガラ』が谷を埋め危険な状態の時代もありました。そしてこれの砕けたものが新鹿海岸などの白砂を作っているのです。
 今では石切り場も廃墟となり、谷には砂防が作られ、谷がきれいな緑に覆われていますが砂の流下は減っているのだと思います。100年後の新鹿海岸はどうなっているのでしょうか?
 今でも。石切り場のそばには、二級品の石材が野積みされています。
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by je2luz | 2006-04-28 10:35 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 04月 27日

熊野の旅 熊野古道歩きらしさ

 時々取り上げるように『熊野古道』は官製観光地化してきています。
 発想が少し違いますし、無い無いと言いつつ庶民の財布と違い無限に近く借金でき、誰も責任を取らない『財政』と言う財布を持っているのでものを一つ作るのも『立派過ぎる』物が多いです。
 熊野古道が世界遺産に指定される前の誘致活動当時は予算も限られていたため、道の整備も付帯施設も古道らしい素朴なものでした。
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 こうした素朴な道標の方が熊野古道には似合うと思うのですが、指定の後は毎年追加でどんどん立派なものが立てられています。
 ステンレス製、那智黒風、御影石原石風など恐ろしくお金の掛かったものが作られています。どうしてなのでしょうね。
 立派であればすばらしい・・・5万の予算の事業より50万の事業の方が良い事業・・・自己満足の世界のような気がします。
 この標識は引っこ抜かれて変に立派なものにされていないので『熊野古道らしいな』と思えます。
使ったカメラは コダック・レチナ2c

by je2luz | 2006-04-27 10:36 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 04月 26日

熊野の旅 昔の味 子供のおやつ 4

 熊野は田舎です。熊野でも私の育った飛鳥町は木本町に比べはるかに田舎です。はるかにと言うより、本当の田舎です。
 今と違い、その頃は都会と田舎町そしてド田舎の違いはものすごいものでした。
 テレビが無いから都会の様子など知る由もなし、青年団のお兄さんたちの流行ファッションは『平凡』『明星』のグラビアの真似です。
 冷蔵庫なんて無かったですから食べるものも遠距離輸送できるもの以外は現地調達です。したがって、田舎町ならまだしもド田舎では自給も出来ず無い物尽くしでした。
 都会ではやったと言う『ロバのパン屋』『ワラビ餅売り』『アイスキャンディー売り』・・・そんなものある訳がありません。小学館の本で見るだけでした。そうそう、『紙芝居』も学校やお寺でやってくれるの以外ありませんでした。飴をしゃぶりながら見る光景は絵本と写真の世界でした。
 そんな田舎の子が口に出来るおやつはまさに「自力更生」です。食べられる物が野山にあるときは良いのですが、無い時は今の猿やイノシシ並みに畑のものを盗んでいましたね。
 しかし、生で食べられるものはそうあるものではありません。いくら甘いと言っても生の人参はそう食べられるものではありません。丸かじりの大根もおいしいものではないです。
 柿の木もどこの柿が甘くてどこのが渋いか部落中のを把握していました。更に、どこの持ち主が甘いかまで・・・
 渋柿も今なら焼酎で渋抜きしたりしますが、当時の子供が大切な焼酎を使うことなど出来るわけも無く、編み出したのが『泥田の中に埋める』やり方です。
 空気が遮断されてかびることも無く甘く熟してきます。焼酎などより時間はかかりますが食べ物の確保には役立ちました。
 渋柿と言えども昔は貴重なものですから、中々うまく盗めないものです。ほふく前進あるのみです。それも遊びの一環でしたが・・・
 そうして柿の木も今では甘がきすら採られずに熟して烏の餌になっていますね。
 飽食もありますが柿の木に登ったり出来る人は居なくなりました。切り倒すことも出来ないようです。
 今なら怒られずに腹いっぱい食べられたでしょうね。
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by je2luz | 2006-04-26 11:38 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 04月 25日

熊野の旅 昔の味 子供のおやつ 3

 これは子供のおやつには少々高価すぎるお菓子ですが、『木本名物』に『豆板』がありました。
 非常に簡単なお菓子で今でも土産物として小さなのが作られているようです。
 『伊勢名物・生姜糖』の変形のようなもので、砂糖を溶かさない程度に過熱して型に入れて固めた砂糖の塊です。伊勢には名の通り生姜を入れて味付けしています。木本のは飾りと味付けを兼ねて小豆の甘納豆状の物をちりばめてあります。
 家に近所の『小松屋』さんと言う饅頭屋さんが作っていましたね。
 昔はどこの町にでも地元の小さな饅頭屋さんがあったものですが、この周辺の中心街であった木本町には私が記憶している本町通のものだけでも『小松屋』『長嶋屋』などありましたね。
 おいしいのかと聞かれると困る代物ですね。なにせ、砂糖の塊ですから甘いものの乏しい時はたまに貰うとうれしかったものです。しかし、『旨かった!』と言う記憶はありませんね。
 昨日の『ピーピー饅頭』は焼く匂いからして記憶に残るおいしいものでしたが・・・
 そうしたお菓子ですから『名物』として細々と生きながらえているだけで、『お菓子』としては忘れられてしまったようです。
 『ピーピー饅頭』もその呼び名はすっかり消えてよそ流に『今川焼き』などといっているようです。こんなところのグローバル化だけは進んでいるようです。
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by je2luz | 2006-04-25 12:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 04月 24日

熊野の旅 昔の味 子供のおやつ 2

 今日も私が子供だった頃のおやつについて書きます。
 お店で買えるお菓子の中でこの辺だけなのか変な名前を付けられたお饅頭がありました。
 『ピーピー饅頭』です。別名を『焼き饅頭』とも呼びました。正体は『今川焼き』なのです。名前の由来は知らないのですが、私にとっては響きの悪いものでした。焼き芋と同じように「ぴー」と言う音を出して売る店があったのかもしれませんが、子供の私にはお腹を壊した時に言う擬音と同じイメージになって、『こいつを食べると下痢をするのかなあ?』なんて思いました。しかし、甘いものの少ない時代ですから、たまにありつくと下痢の怖さなど忘れてかぶりついたものです。
 ものすごくおいしかったものですが、今考えると『サッカリン』がたっぷり入ったものだったのでしょうね。
 今の人に『サッカリン』と言ってもわからないでしょうが、「人口甘味料」で発がん性があるということで後に禁止されたものです。砂糖の乏しかった頃には安くて目茶甘くなるものとして大量に使われたものです。
 この『ピーピー饅頭』を焼くのもガスではなく『炭火』でした。今なら『本格炭火焼』なんて看板が出るでしょし、小豆も国産でした。これしかなかったのですからね。田舎でガスが使えるようになったのはずっと後のことですから・・・
 こうした炭の使用が里山を守ってきたのです。雑木は余太くならないうちに切られて炭に焼かれたから雑木林が日当たりの良い林相に保たれたのです。 
 子供のおやつからいささか脱線しました。
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カメラは 日本光学・ニコマートEL

by je2luz | 2006-04-24 11:52 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 04月 23日

熊野の旅 昔の味 子供のおやつ 1

 私が子供の頃は大昔ではないにしても食料が乏しい時代でもあり、かなり昔の食生活に近い物だったのだと思います。
 子供におやつなど出ることはほとんどありませんでした。出るとすれば「ふかし芋」「干し芋」「なんば(とうもろこし)」「マクワ瓜」「ふかした新じゃが」などでした。
 子供たちはおやつを自己調達していたのです。自力更生・・・当然のように探す対象は今の子のようにスーパーや商店の売り場ではなく、日ごろ遊んでいる野山、川原、畑です。自然物なので季節によって食べられるものが変わります。まさに、『旬の物』を食していたのです。
 この時期だと『笹竹』の筍は生で食べられました。東北の方では笹の筍を食べるところがあるそうですが、この辺の笹は熊笹などに比べると小さいので皮をむくと何も無いくらいです。腹の足しになるほど食べられるものではないですが遊びの一環で食べましたね。
 他のターゲットはまだ小さいうちのソラマメです。大きくなってくると生臭くて生では食べづらくなりますが本当に小さい頃は生でもおいしいです。ただし、これは大切な作物なので危険の伴う食料調達でした。
 今の時期、怒られないで食べられたのは田の石垣に植えられた『さつきの花』でした。丸石で積んだ石垣を補強するためにさつきが一杯植えられているので石垣が赤くなるほど咲きます。この花は少しすっぱいものです。これもお腹の足し荷はならないのですが口の寂しかった昔の子には大切なおやつでした。更に、さつきの葉に出来た『コブ』も食べました。虫に食われたりすると出来るものらしいですが『蓚酸』があってよくないとか聞いたこともあります。誰も死んだ子供も居ませんが・・・
 野山のおやつの王者は『ゴンパチ』でしたね。「イタドリ」と言うのが標準語かと思いますが、いたるところに生えてきます。細いやつは駄目ですが太くて折る時『ポン』と鳴る肉厚のものが上物です。手で皮をむいてそのままかじります。酸っぱくておいしいものです。これの酸も『蓚酸』で発がん性があるとか後日言われましたね。
 こんな風に色んなものを食べながら遊んでいました。
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 『ゴンパチ』ですが、こうなってしまうと食べられません。
 地面から顔を出して日当たりお良いところなら30cm日陰なら60cm位までで枝葉の出ないうちに採ります。
 同じ株から毎年出てきます。アスパラのような感じで良く肥えたところの良い株からは毎年良い『ゴンパチ』が生えます。
カメラは フォクトレンダー・ビトーII

by je2luz | 2006-04-23 12:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 04月 22日

熊野の旅 熊野路、庶民の味 2

 熊野は自然は豊かですが、歴史上、庶民は貧乏な土地です。
 熊野古道なんて言ったところで、平安だ鎌倉だとかの大昔、おまけにこちら側『伊勢路』は歩く人もそうは多くありませんでしたし、物流に使われることもありませんから栄えようが無かったのですね。
 紀州御影が搬出されるようになったのは汽船と汽車が使えるようになってからです。紀州材と呼ばれる材木とて同じことです。筏流しで新宮まで運び出し、材木屋が羽振りが良かったのも近代に入ってからです。つまり。神代の時代から貧乏だったのです。そして、今も所得は全国平均を大幅に下回っています。
 老齢化が進んで年金生活者が増えてきても、この所得格差は埋まりません。厚生年金の人でも給料の安い熊野の人はもらいも少ないです。おまけに、厚生年金ではなく国民年金の人が圧倒的に多いのですからますます広がるわけです。
 こんなこの地方では昔から贅沢な料理は発展していません。なんだか、由緒正しき様に錯覚させるような料理が発明?され、出されている向きがあるようですね。これは何も熊野地方だけのことではなく、ブランド好き、能書き好きの日本人の特性を利用するのもで、全国にありますね。地元の人が知らない名産や郷土料理がね。
 熊野のこの季節は山菜採りの季節です。『山菜採り』などと言う今風ではなく「ワラビ採り」「ゼンマイ採り」「ゴンパチ採り」と呼びます。この三種類を取るのですからね。ヨモギを採る時は「ヨモギ摘み」です。
 昔はワラビやゼンマイを採りに行く時は背中に大きな籠をしょい、両手には袋を持って、もてる限りの量をとってきました。ゼンマイは干して保存できるので熱心に採ったものです。今では、手間のかかるゼンマイは敬遠され、簡単なワラビをスーパーの袋で採る程度の「ワラビ採り」になっているようです。
 昔の農繁期はわらび、ゼンマイの似たものばかり出てきたものです。今の、都会の人が言うような優雅な?鄙びた?「山菜料理」ではなく、「山菜しかない定食」が続いたものです。
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 嗜好品ではなく大切な食料だった時代は目の色を変えてとったものです。子供も、親にほめてもらえるので遊びを兼ねて採って回りました。
 どこにどの時期に生えてくるかは大切な秘密情報でした。最近行って見ると里山が荒れて駄目になったところが多いですね。里山は過疎の先取りをしますから・・・

by je2luz | 2006-04-22 11:18 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 04月 21日

熊野の旅 木本代官所の松

 紀州藩のお殿様が居た和歌山から50里も離れたこの辺りは直接治めることが出来ないので代官所が置かれました。つまり『お代官様』が居たのです。
 代官所は木本町の漁師町からは少し離れ、海岸からも離れた所にありました。ややこしい下々からも、恐ろしい高波、津波からも離れたところに構えたのでしょう。
 この代官所は何時の時代に無くなったのか分かりませんが、木本小学校の敷地の一角になります。木本小学校は昭和30年代くらいに少し位置を変えました。新校舎を建てるのに資金が無かったため、敷地の一部、校舎と講堂のあった部分を売り払いました。今では『木本代官所跡』と言うところには天理教南紀大教会が建っています。
 代官所が取り壊されたのは、木本小学校旧校舎が作られた時だとすると、明治時代なのでしょうかね。小学校の校門の脇に松の古木が立っていました。そして、この松を待ちの人は『代官所の松』と呼んでいました。
 小学校の敷地が天理教に売られたときも、この松の一角は除外され、その古木は道端に威風堂々と立っていました。
 しかし、戦後に入ってきて猛威を振るった『松くい虫』はこの老木を見逃してくれませんでした。段々と樹勢が衰えとうとう10年ほど前に枯れてはじめてしまいました。消毒、更には樹木医にもかかりましたが中心部が空洞で助かる見込みも無く、住宅街の真ん中なので倒れるに任せるわけには行かず切り倒しました。そして、今は写真のように切り株が残されたままです。中が完全に空洞化して巨大な植木鉢状態です。
 樹齢からすると代官所跡に植えたものではなく『代官所の松』の名の通り代官所のあった時からの松のようです。この状態ですから後数十年で跡形もなくなると思います。
 切り株とその根っこはシロアリの元になりますから、当初はきちんと処理をしたのですが今はどうしているんか知りません。この根っこにシロアリが入れば周囲数十軒の家が巻き添えになるでしょうね。
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by je2luz | 2006-04-21 10:31 | 熊野 | Trackback | Comments(0)