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LUZの熊野古道案内

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2006年 03月 31日

熊野の旅 今年もやります大花火大会 続きの続き

 4ヵ月半先の8月17日でも、当然のように熊野市には旅館はありません。これはどこでも同じことで、普段の観光客の数を大幅に上回る入り込み客のあるときは旅館は足りなくなります。
 旅館を確保するには一年前には予約しないと駄目な常態化と思います。
 宿泊を確保して見物するなら三重交通をはじめとするバス会社や旅行業者などが募集する『熊野大花火大会見物バスツアー』に参加する手があります。日帰りで明け方に名古屋などに買えるものもあります。このツアーで来られると、浜に見物するスペースを確保してあります。これは主催者とバス会社との間で話し合って確保したもので確実に見物できます。個人の車で来て右往左往するよりずっと楽だと思います。
 個人の車に関しては主催者で駐車場は用意されますが、かなり遠くになります。遠い方だと2Kmほど先になります。もっとも、これは田舎なので遠いだけで、例えば幕張メッセなどでも場内の駐車場でも気が遠くなるほど歩かされますからね。
 民間の駐車場は尾鷲方面から来ると会場の1Kmほど手前の大泊海水浴場のところから見かけられます。少々高いです。主催者の用意する駐車場と歩く距離は変わりませんが、帰りの時会場周辺の道が一時間近く全く交通止めになり、更に動き出しても数時間はほとんど動けないのに対し大泊に止まったものが渋滞区間を外れているので自分の車に帰りさえすれば動かせます。帰りに関しては2・3時間早いでしょうね。
 バスでこられた時に確保されているのはちょうど我が家の前の浜で会場のど真ん中になります。打ち上げはここの右側と左側になり、海上での自爆も目の前になります。ベストポジションですね。大切な旅行業者とバス会社のお客様ですからね。その位置に家を構えているので言うなれば花火向けにある家のようなものです。しかし、花火は年に一回、台風は年に数回、潮風は毎日・・・しんどい時の方が多いのです。それに備えた家作りだけはしてありますが・・・
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 花火を見るために作った?ベランダ・・・にわか雨でもぬれずに見られます。今までに二度ありました。築後25年・・・国の言う耐用年数に達した???人間も耐用年数に達しました。
 カメラは ツァイス・イコンタ523/16

by je2luz | 2006-03-31 11:20 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 03月 30日

熊野の旅 今年もやります大花火大会 続き

 確かに今年もやります。
 江戸時代から平成までやらなかったのは太平洋戦争の戦中・戦後のの一時期だけです。
 こんな田舎町なのに昔から花火師がいました。そして今も花火を作り続けています。
 浜松や諏訪などの花火師さんたちは大きくなって全国を回っていますが、ここの花火師三は地元の花火専門です。
 花火工場は市内、有馬町の田圃の真ん中にあります。見かけは恐ろしくぼろぼろのまさにバラックです。以前にも爆発事故がありましたが、爆発する時はバラックのような開放された建物の方が破壊力が大きくならないで済むようです。
 この花火師さんには伝統の『連星』というものがありました。これは落下傘を付けた長い針金に串団子状に玉をつけて、ゆらゆらと落下しながら燃えると言うものです。木本の花火(現・熊野市の花火)は海の上向けて発射するので燃え尽きないで落ちても火災にならないから発達した花火でしょうね。それでも、風向きが逆で海からの強風の時は民家の屋根に落下することもありました。
 この花火は随分前に中止になって、打ち上げられていませんでした。近年、又、テストみたいに打ち上げますが、昔のように空に一杯浮かぶような打ち上げはしませんね。
 確かに地味な花火ですが、音も無くいろんな色で輝きながらゆっくり落下して海に消える風情も良いものなのですが・・・
 ところで・・・
 『8月17日においでください・・・』とは言うものの。今頃では熊野に宿を取ることは不可能です。かといって、周辺に宿をとっても車で見物に来てしまうと、10時頃の花火終了時からは全く車が動かなくなり、下手をすると動かせるのが午前2時とかになります。つまり、勝浦などに宿をとっても宿にたどり着いたら夜が明けるということになります。それなら、最初から野宿覚悟の方がお金が掛からない分すっきりします。
 花火当日は大幅な交通規制があり、お昼、正午の時報と同時に木本町内への車の乗り入れは禁止されます。前もって熊野警察署で許可のステッカーをもらっておかないと知人の家があり、駐車場が確保できていても入れません。
 会場になる木本町を通過するのはたった一本の国道42号線ですからこの日ばかりは何ともなりません。
 こうした事情ですから、夕方になってから熊野に着く計算で走ったのでは渋滞のため花火が終わるまで熊野に近づくことも出来ません。お昼について時間をつぶすつもりでお出かけください。
 無事に花火が見られて、最後の『鬼ヶ城大仕掛け』の『轟音』を体感すれば熊野まで来た甲斐があったと思えるはずです。
 ぜひおいでください。
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by je2luz | 2006-03-30 10:31 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 03月 29日

熊野の旅 今年もやります大花火大会

 昨夜、花火がありました。
 気が早い??
 これは『熊野大花火大会』のために行うため仕打ちです。本番は8月17日です。
 昨日は雨でしたが、防災無線の『広報熊野』が花火打ち上げの予告と危険防止のために鬼ヶ城への立ち入りを禁止する放送を流す頃には何とかやんでくれました。
 花火の予告があっても地元の人は取り立てて見には出てきません。花火慣れしてしまっているのでしょうね。
 花火は丸い玉の中に、よぞれで光って見える『星』という小さな玉を並べて、爆発させて広がりながら燃えるようにしてあります。その、『星』の作り方と入れ方でいろんな色や形を作り出すのです。
 花火の色は化学の時間に習う『炎色反応』の利用です。色んな金属塩を火薬に混ぜて色を出します。途中で色が変わるのはアンコ状に二重。三重に包んであります。これがすべて同じに出来ていないと一斉に色変わりしたり消えたりするわけには行かないのです。
 最近多い『変わり形』のものはこの星の入れ方を工夫して『ネコ』『さかな』『ミカン』『ハート』『スマイルマーク』などを描きます。これも開く角度が上手くコントロールされないと横から見てしまい一本の糸になってしまいます。思う配置に開かないと作り手の意図が分からなくなります。
 新しい花火は試し打ちを繰り返して段々完成してゆきます。そのため、地元の花火師さんは真冬にも試し打ちをしたりします。
 昨夜は実戦を兼ねて鬼ヶ城の磯に筒を構えて30発ほど打っていました。5寸の小さなものから尺玉まで、近年流行のクレージーに開く度派手なものや魚などまで、さらに見物席の目の前の海上むけた水平打ちもテストしていました。
 こうした試し打ちと言えども大勢の人数を動員します。こうした準備の上に成り立つのが『熊野大花火大会』です。
 熊野でしか見られないのは『熊野古道』ではなくこの花火大会なのです。
 『乞うご期待・・・』
 『ぜひ、ご来場ください』
 『8月17日木曜日・・・熊野市木本海岸です。』

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by je2luz | 2006-03-29 13:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 03月 28日

熊野の旅 平成の大合併・・・町の位置関係

 合併の話が持ち上がってくると問題になるのが、各自治体の財政状況です。どっち道まともな所なんて無いわけですが、隠れ借金的な財政状況も表に出てきます。合併してからどうするかでは遅いですからね。
 もう一つ、市民の関心を呼ぶのが役所の所在地です。
 吸収合併のようなものはあまり問題にはならないのですが、対等に近い時はとたんに綱引きが始まります。
 昭和の合併の頃も大騒ぎをしたところも結構ありますが、今回もこの問題が大きく取り上げられたところもあります。熊野市と周辺の合併では御浜町と熊野市の間で役所の取りっこをしました。最もこれは半分本音、半分口実のところがありました。
 こうした役所の取りっこは普通の市民にはあまり意味がなくイメージの面が多いのですがね。合併する場合でも市民に直接関係のある住民票・戸籍・印鑑証明などの窓口は出張所の形で残しますからね。市民課・住民課・税務課をのぞいてほとんどの課は普通の市民は一生のうち行くか行かないかの所です。要するに証明書類の発行と税務申告などに支障が無いようにしてくれれば、まあまあ我慢できるはずなのです。
 ここで人間の心理で距離以外に遠くに感じる要素もあるのです。つまり、10Km、20Km移動するにも方向によって全く遠さに差が出るのです。
 ここで言えば南牟婁の人にとっては『熊野市』は遠くないのです。昔からこの辺の中核であり、県立木本高校に通学した人が多いし、ジャスコ・オークワなどのショッピングセンターに買い物に来る人も多いからです。しかし、熊野市の人にすると逆方向は遠いと感じるのです。熊野からだと県庁に行くにも名古屋・東京・大阪どこへ行くにも南牟婁方向とは逆に出発するからです。この間隔は結構合併の時の市民心理に影響すると思います。
 東京方面で言えば八王子の人が新宿に出るのは至極当たり前の間隔で行動しますが、新宿の住民が八王子に出向くのはハイキングか旅行気分になってしまうのと同じことです。
 同じ市内でも、中心部に住む人は山間部のことを『奥』と呼んですごく遠くに感じているようです。『中心部』で求人すると『奥』から応募がありますが、『奥』で求人しても『中心部』からの応募はありません(笑)
 せまっ苦しい町中よりこんなにきれいな自然の中の方が良いとは思うのですが・・・
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 熊野市内飛鳥町小阪の清流『大又川』です。
 ダムが出来てからは天然の鮎ではなくなり放流物ですが鮎釣りも楽しめます。普通のウグイやハヤの類には鑑札などは要りません。釣竿と糸・針があれが楽しめます。地元での餌は川の中の『ガロジ』・・・「ざざむし」です。つまり、餌は現場調達です。

by je2luz | 2006-03-28 12:28 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 03月 27日

熊野の旅 平成の大合併・・・超長くなった住所

 今回の大合併で一時は尾鷲市との合併で市になるかと言われた北牟婁郡の海山町と紀伊長島町が尾鷲との話し合いがつかず二町での合併になり『紀北町』が誕生しました。これにより北牟婁郡は残ったのです。
 合併して元の自治体名をどうするかと言う時、平成の大合併の特徴として、『区』と言う紛らわしい区分を塚ことです。法律上の「区」には行政区つまり「東京の区」みたいなものと「財産区」と言う住民共有の財産を管理する団体がありました。今回の『区』はこれらと違い「自治権」の無いものです。
 紀北町でもこの方法を使い旧町名をそのまま残しました。そのため、住所がすごく長くなりました。そもそも郡部は郡名の分、市より長くなるのですが今回で長くなったところが多いです。
 例えば紀伊長島の例では『三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区東長島○○番地○』となります。そもそも、『長島』は三重県の北のはずれに『長島スパーランド』が出来てそちらが有名になり、駅名のように『紀伊』が付いて長くなってしまった所でした。
 正式な書類で『県名から省略しないでお願いします』と言われますが、私の場合『三重県熊野市木本町○○○番地』と14文字です。これが紀北町になると『三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区東長島○○番地○』で23文字になります。結構長いですね。
 郵便番号をきちんと書いて住所を縮めないと手紙を出す気にもなりません。
 地元の地名を大切にするのはいいのですがこうして住所がやたらと長くなるのも困りものですね。根っこには『飲み込まれたくない』という意識の現われかもしれません。
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 紀北町の東の玄関・・・紀州藩の東の玄関・・・世界遺産「熊野古道」の東の玄関・・・かつての紀勢東線機関区として栄えた町・・・その象徴の『紀伊長島駅』です。駅舎と駅前広場は新しく整備され昔の面影がなくなりました。

by je2luz | 2006-03-27 10:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 03月 26日

熊野の旅 この半世紀の熊野の開発計画 10

 七里御浜の浸食は確実に進んでいます。
 熊野川が押し出した石は黒潮の枝分かれした潮流に乗って南から北へ流されてきます。その間に波にもまれてきれいな丸い砂利になります。この辺りの土地が陸地になって以来この営みは一瞬も休まずに繰り返されてきました。
 鬼ヶ城や獅子岩は海中から隆起してきたものですが、隆起する前の海岸線の砂利浜らしき砂利の層ははるか山の方まで続いています。この辺りの海岸の平らな土地は熊野川の土砂を波が運んでできた浜でできているのです。
 普通は波で海岸線は削り取られるものですが、土砂の供給が続けばこうして波が陸地を作ることもあるのです。九十九里浜なども同じようにして生まれたものです。
 ダムが出来て40年ほどの間にこの海岸線は徐々にやせ始め、近年では加速度的に浸食速度が上がってきています。
 人間の手で自然をいじって始まった異変ですが、人間の手で止めることは難しいです。ダムを壊して洪水を覚悟しても回復には半世紀も余って掛かるでしょう。小さな川の砂防ダムなども止めないと自然は戻りません。これは事実上不可能です。
 唯一つ人間の力で浸食を少なくする方法は、沖合いに人口岩礁を作ることです。以前に書いた『潜堤』と言うものです。
 水槽実験の結果この熊野灘でも施工可能だと言うことでこの10年ほど少しずつ工事はされています。それでも設計の何分の一とかのレベルまでも行きません。
 今年も基礎工事用の巨大ポットの投入が始まりました。海の静かな冬から春先しか工事が出来ないのです。
 去年までで岸よりの列を投入し終わったようで、今年は沖のほうに投入しています。この潜堤の奥行きと言うか幅と言うか沖に向かう長さは200mにも達します。これは駆け落ちの激しい木本海岸で水面下2mまでの台形の建造物を積み上げて波に耐えるのに必要な大きさなのです。愛知県の常滑で行ったものの4倍くらいの大きさだと思います。常滑方面のはここの水槽実験のデータを元に計算しなおしたものだそうです。つまり、熊野灘、木本海岸に耐えられるのが分かれば他はどこでも通用すると言うことです。
 今は浜に出る出口から大きな台船が作業している様子が見えます。
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 堤防に書かれた文字は、8月17日に行われる『熊野大花火大会』の桟敷の場所取りに以前かかれたものです。昔はこんなことを書かなくても場所割りは決まっていましたし、又、近年は間口を決めて管理者の土木の認可を毎年受けることになり、この文字も無効です。

by je2luz | 2006-03-26 12:05 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 03月 25日

熊野の旅 平成の大合併・・・幕藩時代

 以前から三重県でも南牟婁郡から北牟婁郡はJRの駅名に残るように紀伊の国です。お隣の和歌山県と同じ国だったわけです。
 御三家だけに紀州はやたらと広いですね。しかし、昔の国わけは人間の足で行き来しよい範囲で分けたものが多かったようです。平野部はそうも行かないのですが地形が険しくなるとその傾向があります。
 明治の時の廃藩置県と県の調整で熊野川を境に紀州の一部が伊勢の方に編入されました。
 しかし、何百年もの間の交流と地形との影響で切り離されて100年を越えても、食生活、言葉、親戚関係などはまだまだ紀州・新宮方面とのつながりが強いのです。
 今回の合併で熊野市に入ってきた『紀和町』でも。『筏流し』の時代から下流の新宮との付き合いが濃いかったので、役所の入札指名業者は新宮市の法が多いくらいでした。近年道路が改良されて時間的には熊野市のほうが近いのですが、習慣上そうなっていました。合併により熊野市側のルールが適用されて徐々に新宮の業者は減ってゆくでしょうね。
 もし、南牟婁郡が和歌山県だったら、合併の構図は全く変わっていたでしょうね。
 日ごろの付き合い、職場、買い物などが新宮になっている鵜殿、紀宝、紀和は間違いまく新宮市編入を望むでしょうね。至極当たり前の話です。
 長野と岐阜の間では領地のやり取りがあったようですが中々住民の意向など通りませんからね。飛び地の和歌山県東牟婁郡北山村のようなところが熊野市と合併するようなことなら、多分和歌山県もOKを出すでしょう。しかし、県の南部が三行半を突きつけたのでは三重県はうんと言わないでしょうね。
 今言われる平成の第二次大合併でもっと広域化しろ言われて尾鷲市や紀北町と一緒になるなら熊野市までは新宮と一緒になる方が自然なのですが・・・
 そうなると、ここにある『三重県紀南県民局』なるお代官所は和歌山県に譲渡されるのですね。もっとも、大合併すればこんな郡事務所は要らないのですよね。ここの職員数200名あまり・・・合理化は出来ますが熊野の人口は200人あまりの純減になります。
 田舎では公務員の合理化削減がそのまま過疎の加速になると言う大変な状態なのです。
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 南牟婁郡御浜町・・・紀伊市木駅
 三重県側でも県境から70Kmほど先の紀伊長島駅までこのように『紀伊』が付くものが多いのです。
 カメラは バルダ・バルディックス
熊野三山と熊野の地図へ   ←←←←をクリックすると案内図が開きます。

by je2luz | 2006-03-25 13:06 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 03月 24日

熊野の旅 平成の大合併・・・御浜町は・・・

 南牟婁郡では紀和町が熊野市に、鵜殿村が紀宝町と合併しました。残りの御浜町だけがどことも合併しませんでした。
 今回の平成の大合併が動き出して当初は当然のように、旧旧南牟婁郡であった全域、つまり熊野市・御浜町・紀和町・鵜殿村・紀宝町すべてが合併する方向でスタートしました。これは至極当然のことで、元来ひとつであるべきなのです。しかし、色々やっているうちに思惑がばらばらになり、うまく行かない様相を呈しました。すると、鵜殿と紀宝と言う境目も分からないような二つが単独合併を打ち出しました。そうして残る三つで合併話を進めましたが前に進まず、何とも中途半端で合併のメリットなど無い熊野市と紀和町の合併で終わる結果になりました。
 表面では市庁舎の場所などでもめたことになっていますが、根っこには一つ厄介なものが引っかかっているのです。
 御浜町の抱える第三セクターの所有するショッピングセンター『ピネ』の問題です。
 人口の無いところに巨大な観光を兼ねたショッピングセンターを立てたのでオープン以来ずっと赤字で黒字転換は不可能に近いものです。見込み客20万人、地元人口5000人・・・核になるのがスーパー『オークワ』・・・すぐそばの新宮に本店がある紀伊半島どこにでもある大手スーパーです。と言うことは、わざわざピネに行かなくても・・・更に、観光バスなどとんと見かけられなくなった昨今では団体客など望むべくもありません。
 こんな状況の恒久的に大きな赤字を生む施設を抱えるところとはどこも合併したくないものです。儲かる見込みがあれば『財産区』を作って独立させるなり、民間企業に売るなり出来ますが引き取り手など無いものですからね。
 これが出来た理由は、国の施策で突然浮上してできてしまったと言うものです。海岸に作られた公園と一体のものです。
 これに付随した『リス公園』も『餌代を稼げば管理が楽で勝手に繁殖するから・・・』と言うものでしたが、リスだけの公園に遊びに来る人もあまり居なくて、管理費が続かず駄目になりましたね。これは合併の足を引っ張るようなものではないですがね。
 合併に際して飴を呉れるにしてもこうしたものを閉鎖する金を出してくれそうにありません。それに閉鎖すればショッピングセンターが出来て地元には焦点など無くなっていますから生活に支障が出ます。累積赤字をチャラにしてオークワさんにただ同様でもらってもらうのが一番でしょうね。今はやりの『保養施設が10万円』とかの方式でね。
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 駐車場完備のショッピングセンター・ピネが見えています。スーパーの方はそこそこですが観光部門は全く惨めな状態が続きます。

by je2luz | 2006-03-24 12:32 | 熊野 | Trackback(2) | Comments(0)
2006年 03月 23日

熊野の旅 平成の大合併・・・新紀宝町

 鵜殿村と紀宝町が合併した紀宝町は合併前の鵜殿村同様、『紀州製紙』の城下町です。鵜殿村が狭い(2Km四方)ので従業員の多くは紀宝町に住んでいます。
 となりの新宮市も材木と共に『巴川製紙』のおかげで栄えてきたところでした。新宮作られた『宇久井港』なる港はこの巴川製紙にチップを運ぶのを主な目的で整備されたものです。
 この頼りの「巴川製紙紀州工場」が数年前に閉鎖され大量の失業者を生みました。その跡地にはこの地方には分不相応な一大ショッピングセンターが出来ました。今までは地元に金を運んでくる企業でしたが、後に座ったのはわずかにパートの人件費を落とすだけで地域の金を運び去る企業です。今の日本の風潮をそのまま現す事態が起きています。金を生む生産をなくし、小売業などをもてはやす流れです。
 まあ、田舎は職場が無くても住民の30%はお年寄りで元々無職の人ですから・・・
 この流れに鵜殿村が危機感を抱かなかったはずはありません。かつては全国でも珍しい『地方交付税をもらわない自治体』だったのですが、少し前から、紀州製紙だけでは村の財政をまかなえなくなり『交付団体』になってしまっていました。
 もし、新宮のように製糸工場が閉鎖されれば・・・影響は新宮の非ではありません。村の面積の1割を越すような社有地が廃墟になり、従業員が解雇され、住民税は激減し、焼却資産税などもゼロになります。まさに、村の命運がパルプ向上に掛かっているわけです。
 かつては私たちもうらやむ裕福な村だったのですがね。
 昭和の大合併の頃は合併すると損ですから独立の道を選んだのですが、平成の大合併では率先した合併に応じましたね。
 それでも、今はパルプ工場も操業を続けていますから比較的楽な自治体です。
 ここにも日本の産業の空洞化が影を落としているわけです。
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 紀州製紙がなくなればこの風景も消えてしまいます。
 かつては一日中忙しく貨車の入れ替えがあり、引込み線で国道もよく閉鎖されたものです。
 カメラは
ツァイス・イコフレックス2A ・・・詳細については左をクリックしてください。

by je2luz | 2006-03-23 09:26 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 03月 22日

熊野の旅 平成の大合併はまだ・・・

 昨日、『鵜殿署』が『紀宝署』に換わったと書きましたが、たまたま昨日鵜殿のほうまで行くことがありました。
 『日本一小さな村』であった『鵜殿』に入るとすぐに会館があるのですが、その前には観光案内の立派な看板があります。多分、県が設置したものかと思われますが南牟婁郡、熊野市を含めた広域の案内板です。ステンレスの立派なものですが、当然のように『鵜殿村』の表示は残っていました。そして『日本一小さな村』の表示も残っています。
 合併から三ヶ月、無理やり合併したにしろ、そろそろこうしたものもきちんと片付けた方がいいような気もします。百万ほどかけて設置したものを取り外すには、又、予算処置が必要なのでしょうね。それにしても誇大広告?虚偽広告?になりますね。
 しかし、『ここに日本一小さな鵜殿村ありき』の標識を立ててあげたいくらいです。
 鵜殿村は『紀州製紙』の城下町です。その従業員は鵜殿村と紀宝町に住んでいましたから、今回の合併は当たり前の面もあります。しかし、一部の住民の間には『合併して鵜殿村が消えると普通の町になってしまい説明の仕様がない』と、村当時に使えた『日本一小さな』と言うキャッチフレーズが使えなくなった寂しさを感じる人がいるようです。
 あと少しすると日本中から『鵜殿村』と言う名前を知る人がほとんど居なくなるのは確かでしょうね。そのキャッチフレーズ以外何もないわけですから・・・
 しかし、『熊野市』と言う名よりましかもしれません。
 『熊野市』=『和歌山県』という受け止められ方は永久に消えないでしょうからね。
 次の合併の時にでも熊野市を含む旧南牟婁郡全部が元の紀州藩に戻って『和歌山県』に引っ越すか、市名変更して『南牟婁市』にでもすれば解決しますが・・・
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 『鵜殿駅』です。ここは名称変更されていません。これを変えると言うことは大変な作業を伴います。時刻表など全部変わりますからね。『鵜殿』が消えたわけではないですから・・・
 これは変えないで欲しいですね。

by je2luz | 2006-03-22 13:01 | 熊野 | Trackback | Comments(0)