LUZの熊野古道案内

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2006年 02月 28日

熊野の旅 丸山棚田・・・珍しく宣伝です

 平成の大合併で熊野市になった『紀和町』ですが、その中では数少ない観光スポットでもある『丸山棚田』が『オーナー』を募集しています。
 オーナーと言っても田圃の所有権を買い取るものではありません。いうなればその年の作付け権を買い取るものです。
 1口・・・約100㎡分3万円だそうです。
 オーナになると『田植え』や『稲刈り』に参加できるそうです。
 特典として季節の野菜がもらえるほか米15kgもらえるそうです。
 子供連れなどで自然と農業を体験することが出来ることを価格に換算すると、クレジットカードのCMだと『プライスレス』だそうですから、この3万円は高くないでしょうね。安くも無いですがね。
 募集目標は140口だそうです。結構たくさん募集しますが、棚田の維持にはものすごく労力が必要です。平地でさえが農地を維持するのが大変な時代にこうした棚田を維持するには地元の老人だけでは無理なのです。
 ここの棚田も十数年前まではほとんど耕作放置されて山に戻りつつありました。その棚田を全国での棚田見直しの機運と共に三重県知事の北川さんが音頭を取って復旧に取り組んだものです。一種の文化財保護的なもので食糧生産の面から見ると全く採算は合いません。
 今ではどうなのか知りませんが、最初の頃は田植えと稲刈りには知事自ら来ていたようです。
 この北川さんはアイディアマンで熊野古道の世界遺産指定も言い出しっぺになっています。
 ???、三重県知事など知らんぞ・・・と言われそうですが、ほとんどの人が知っている人です。 国会議員を辞めて三重県知事に転進、今度は三重県知事をさっさと止めて早稲田の教授になってテレビにも登場する御仁です。国会議員に戻れば民主党の党首だとも言われるやり手ですね。
 熊野市にはこうした大きなものではありませんが棚田が一杯あります。と、言うより地形の関係で山間部は棚田ばかりです。合併で熊野市に来た旧紀和町などは全域棚田です。そして、この辺では『山田』と呼ぶ段々の小さな田圃はどんどん廃耕になって山に戻っています。この『丸山棚田』のように公金をつぎ込んで、都会に肩に助けていただける所だけがかろうじて生き延びているのです。
 大阪から200Km、名古屋から230Kmほどの山の中です。緑だけはたくさんありますし。熊野古道の脇道も通っています。温泉もあります。興味をもたれた方は『紀和町ふるさと公社』までお問い合わせください。
 紀和町ふるさと公社 05979-7-1161 または 05979-7-0640 だそうです。
 この山の向こうが紀和町です。冬は寒いですが、夏の夜は涼しくて過ごし良いところです。

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by je2luz | 2006-02-28 12:31 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 27日

熊野の旅 熊野の地名 新出町

 熊野市木本町新出町(しんでまち)が私の住んでいる町内ですが、この字名は今では通称としてしか存在しないものです。
 熊野市の戸籍・住民票などの書類では木本町全域が字名無しの通し番号の番地になっています。町中は松本峠の登り口にある『笛吹橋』のたもとを1番地にして海岸沿いに右回りで付けられてゆきぐるりと回って3000番台まででほぼカバーしているようです。
 木本と言う町はこの1番地から木本神社周辺に掛けての入り組んだ漁師町からスタートしたようです。町の形態は古くから都市計画的に作られたようです。
 浜沿いに一本の道、『本町通』と作りそれに平行な細い道と直角に交わる横道で碁盤状につ呉れれています。本当に小さな町なのに整然としています。
 町並みは整然としているのに町名を付けるのに1丁目、2丁目、3丁目と付けてきてそれから先は関船、布袋、新出と同じ本町筋なのに変わってしまいます。普通なら4丁目・・・6丁目になると思うのですがね。江戸時代には水がなくまともに民家もないので木本の町に入れていなかったのかもしれませんね。
 面白いことに真直ぐ伸びてきた本町通は新出町に入るところで折り曲げられて海岸の方へ15mほと平行移動させられています。岩山はあるのですが敢えてそこまで曲げなくて良いのに曲がっています。
 ここの部分では今は岩山を切り取った部分から鉄道沿いに井戸川方向に流れている木本の裏山からの『高城川』が行き場をなくして岩山沿いに海に流れ出ていた時代があるはずです。河口が砂利でふさがれて水はけの悪い川であったと思います。
 大昔の木本にとってはこの新出町の部分はまさに町外だったのではないかと思います。それで『新しくできた突き出した町』と言う感じで『新出町』と付けられたのではないかと私は推測しますが史実は知りません。
 おかしなことに『土地台帳』ではここを『新田町』と記載しています。木本には本当の『新田』という田圃の開発されたところがあり、木本で「しんでん」というとそちらのことです。
 『しんでまち』などという余り無い地名で電話などで「しんでまち」といっても「しんでんまち」と取られてしまう状態ですから明治時代とかに土地台帳を整備する時、えらいお役人様が聞き間違えるかどうかして『新出』が『新田』になってしまったのではないでしょうか。
 それと言うのもこの小さな町内では全域砂利でとても田圃が作れる土壌ではありません。田圃の跡もありません。この狭い木本に新田と言う地名が二つあり、片方の『新出町』の『新田町』の方はここに土地があり土地台帳を見たことのある人しか知らないと言う不思議なものです。
 土地台帳も通し番地なので200番後半から300番前半ならこの辺ですが、番地の配置を知らなければ町の反対側の本当の新田で土地を探すことになります。
 土地台帳のいい加減さは、『全く同じ字名同じ番地』の土地が離れたところで同時に存在するなどと言うふざけたこともあるのです。都会なら大変なことになりますね。

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カメラは イコンタ522/24
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by je2luz | 2006-02-27 12:22 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 26日

熊野の旅 熊野の地名 有馬

 『有馬』と言う地名は非常に古い地名で換わらずに使われているようです。
 この『有馬』は『日本書紀』の神話部分に出てくる地名です。『イザナミ』と『イザナギ』が住んでいた地ということでしょう。『有馬の地に葬る』と言うそうですから少なくとも日本書紀の時代にはこの地名であったことは確かです。
 熊野というところはあまり和歌山県側の熊野三山以外は歴史にかををだす事のないところです。それだけに故事来歴のはっきりしたものは少ないようです。何せ、坂上田村麻呂に征伐されるほど未開の鬼が住んでいたところだそうですから・・・征伐されれば歴史は抹消されますからね。

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 これが有馬町の市街地で直線が約800mも続きます。結構古い町並みですがこの町並みではなく沼地をはさんだ山側、『産田神社』のある周辺が古代人の住んだところのようです。今では、通称『奥有馬』と呼ばれています。そこは産田川によりきれいな水が確保され水田に適した沼地が広がっていますからね。
 木本町がやはり山沿いの川のあるところから開けたのと同じだと思います。
 今でこそ井戸はほれますが、素掘りでは浜砂利だけで出来た七里御浜沿いには井戸はとても掘れません。そして、水の無いところでは集落は出来てきません。
 この道よりもう少し山寄りに細い道があります。一段下がったそこからなら沼地がすぐですから生活は出来たと思います。古代の生活の印の土器などは沼地沿いで発見されているようです。
 この『有馬』はかなり古くから『神』や『人間』が住んでいたようですが『日本書紀』以降は歴史書に出てくることもなくなったようです。神代でなくなると野蛮人しか残らなかったのでしょうかね。
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by je2luz | 2006-02-26 12:35 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 25日

熊野の旅 熊野の地名 立石

 熊野の地名に『立石』(たていし)と言うところがあります。場所は熊野市有馬町になります。
 写真のような『石』が立っているのでこの地名になっているようです。元々。この有馬の辺りは七里御浜の砂利浜の続きで大きな石など存在しないところです。この石は『道標』として立てられたものです。
 何を掘ってあるのか分からないほど風化してありますが、本宮直行コースと新宮コースに分かれ目印だったようです。
 新宮方向は七里御浜沿いにほぼ真直ぐに行けばいいのですが、本宮への道は険しい山越えになります。それにこの新宮方面行きの浜街道から分かれて今の紀和町越えの311号線への分かれ道はここだけではなく色んなところにあります。何度か選択のチャンスがあるのですが、最初の分岐点になります。

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 場所は花の窟から42号線の旧道になる有馬市街に入り昔の道にしては珍しい直線道路を約800m進んだ、道が曲がるところにあります。左に曲がると今の国道42号線に合流します。直進する細い道が右方向で山越えの本宮道になるのですが、ここの標識と今の道はどうも合致しませんね。
 真直ぐ伸びる道はそのまま延び続けて志原尻で国道と合流します。左に曲がる理由がないのです。おまけに、花の窟寄りなら山沿いの道に入れますがこの辺りに来ると沼地になって横切りにくいのです。私としてはどうも納得しにくい分岐点です。
 ただ、地名も『立石』なので古くからここに立っていたものと思われます。
 この『花の窟神社』からの有馬町以内の直線区間の途中に、以前取り上げた『郷土資料館』があります。ただ、直線過ぎて歩くには面白くない道です。
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by je2luz | 2006-02-25 12:35 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 23日

熊野の旅 この半世紀の熊野の開発計画 6

 蜜柑園『金山パイロット』と以前に取り上げた『オレンジホテル』はぴったりと隣り合わせです。パイロット農園を望む高台にホテルがあったのです。
 『オレンジホテル』を作った高島屋グループも列島改造論で描かれたばら色のリゾート計画に乗ったのでしょうね。しかし、ホテルは建設したのですが片方で『中部電力熊野原子力発電所』の計画用地にも広い土地を買うと言う不自然な動きもありました。こらは一体何?と思わせるものでした。
 ホテルが閉鎖なり取り壊された後もしばらくは高島屋系列会社の所有で放置されていましたが。『リゾート法』成立を受けた開発計画の中で金山パイロットと一体の開発計画も持ち上がり熊野市が取得しました。その時に原発用地の中核の部分も買い取って市有地にしました。この部分は市有地にすれば推進しよくもなりますが、払い下げには議会の同意が居るようになりますから、市民が反対であるうちは売却できなくなるので、大企業の所有物にしておくより安心できると言う理由もあり購入したものです。原発候補地としての熊野市は今は内容に見えていますが、中部電力の地図から消えたわけではありませんからね。
 この『金山パイロット』と『オレンジホテル跡地』をセットにした広大な土地に対する公的な開発計画は20年ほど前の『リゾート法』では『ゴルフ場+フルーツフラワーパーク+スポーツ保養施設』と言う形でした。これには三重県・熊野市で膨大なコンサルタント料を支払いました。
 これらのすべての規格はどれも採算ベースに乗る見込みがないものでした。民間資本を導入する方式のテストケースとして動いたのですが、大阪から悪路山越え200Km、名古屋から210Kmという遠方でゴルフ場を経営しようかと言う企業は地元のスーパーしかありませんでした。これとて『反対運動があれば企業イメージからもゴルフ場造成は出来ません』と言う最初からできませんと言うものでした。これが幸いして開発は消えました。ブルだけ入れて放置されるゴルフ場がどっさりあっただけに着工できなかったのは幸いです。ゴルフ場の計画にはスポーツ用品メーカーの最大手のM社がかかわり膨大なコンサルタント、外力設計料で潤いました。  当然のことのように『フルーツフラワーパーク』なども集客見込みがないので乗ってくる企業はありませんでした。しかし、それの具体的計画書の作成で東京の一流園芸店Hガーデン系列のコンサルタント会社が巨費を持って帰りました。
 この後、ゴルフ場用地はそのままにフルーツフラワーパークなどを観光拠点にしようなどという計画変更がありまたまたコンサルタント会社だけが稼ぎました。
 そして、知らない間に破産状態の金山パイロットの観光農園を含め県が借り上げていたりします。そして今度は『紀南交流拠点計画』だそうです。今回は強引にブルを入れています。蜜柑園をつぶし始めています。またまた数千万とかのコンサル料を払ったのでしょうね。何を作ってm間違いなく採算は合いません。ただ、例によって『減価償却の無い』計算方法なのでね。
 写真は閉鎖されて『監視カメラ』まで付けられた『オレンジホテル跡地』へのアクセス道路です。
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by je2luz | 2006-02-23 12:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 22日

熊野の旅 この半世紀の熊野の開発計画 5

 『金山パイロット』についてもう少し書きます。
 ここは前に書いたようにみかんの一台生産地を目指して国の事業として作られたものです。
 昭和39年(1964)に農業法人が出来ていますから、その当時の完成です。この年は東京オリンピックの年です。戦後の復興期が終わり生活に少し余裕が出来て、庶民でも果物を食べられるようになって来た頃です。
 段々畑と里山であったところを切り崩し、全域に農作業用の車両が入るように作業道を張り巡らせた近代的なものです。
 山を切り崩して造成したところだけに水はけはものすごく良いものになりました。
 かんきつ類をはじめ果実は生育期に大量の水を欲しがります。この農園は土中の有機物もほとんどない新規造成地だけに水が全く不足します。そのため、一番高い山の上に巨大な水のタンクを据え、はるか下界に広がる『山崎沼・大前池』の水をくみ上げて樹園地全域に水を供給する施設を作りました。100haを超す農地にスプリンクラーを配置しました。水の量は下の沼地であるだろうということでした。

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 一寸分かりにくいですがこの建造物は山頂の巨大タンクに水を揚げるために作られた中継タンクです。ここで中継して上に揚げました。
 しかし、下の沼地も水源は産田神社のそばを流れる小さな『産田川』です。雨が降らず渇水になると元来の水田用水さえままならないのです。沼地にたまった水を揚水したところ、『アオミドロ』などの生物が大量にくみ上げられタンク内はヘドロで一杯になります。当然のこととしてスプリンクラーは目詰まりして使えなくなりました。当たり前と言えば当たり前のことです。
 トラブル続出で何度も改修工事が行われましたがすぐに放置されました。これらもすべて補助行政です。
 更に、この辺りは豪雨地帯です。台風や集中豪雨時には造成した農地はもちろん作業道から土砂が流失します。雨のたびに補修が必要であり、測光も完備しなくてはなりません。
 みかんがまともに採算が合わなくなってもそうした補修・整備が延々と行われてきました。こうした補助金を入れた施設は使われないのは一向におとがめないのですが、用途変更などで取り壊そうとするとおおむね8年間は待ったが掛かります。
 無計画につくろい土木を繰り返していたので「リゾート法」の時も地元の「金山小学校」を建設する時もそちらからの待ったがでて手間取ったものです。
 この上のタンクに登る道が荒れているので今の私の車ではしんどいので中継タンクのところでUターンしました。三階建ての大きな建物波のタンクだったのですが・・・
 金山パイロット中に落差で水を負ける高台ですから。見晴らしの良いすばらしい場所です。
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by je2luz | 2006-02-22 13:01 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 21日

熊野の旅 この半世紀の熊野の開発計画 4

 『金山パイロット』・・・蜜柑園の開発は国家プロジェクトとして『みかん』を増産することで農業振興と地域起こしをしようというもので、割合と初期のものです。
 初期の事業でありながら地味のやせたところに植栽して生育が遅れたこともありますが、すでに民間レベルでのみかんの増産が各地で進んでいた時代です。このパイロットが出荷を始めてしばらくした頃には市場価格は暴落していました。当然のようにパイロット事業も赤字になってきました。
 国の方針は増産から減産へ180度方向転換しました。
 みかんの木を切って他の果実に変えればお金を上げるという政策です。国営パイロットとして造成されたここ金山パイロットは当然のように模範を示して転作に応じました。転作した広大な面積には『梅』が植えられました。
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 写真の草ぼうぼうに中に立つ梅の木はそのときに植えられたものです。
 梅とみかんは栽培方法にかなりの違いがあります。みかんをやりながら梅を育てるのも大変だったようですが、経営主体の協同組合は当然のこととしてどんな作業も現金で人件費を払わなくてはならない農業としては苦しい体質です。実がなって出荷できるようになるまでの年月を支える資金が足りません。みかんがよければその金を回せますがみかんが駄目で転進したのですからね。
 管理が行き届かずうまくいい品物が作れない、『くず梅』となれば収穫にかかる人件費も出ません。
 個人農家はトータルで飯が食えれば良い・・・と言う感覚で耐えられますがこうした経営体系ではそれを何年も続けられません。その結果、梅畑は放置されることになりました。
 一時は下火だった梅干もこの20年ほどは持ち直して国内の生産では足りない状態なのにその波に乗せて復旧することも出来ませんでした。
 和歌山県の南部(みなべ)に行けば『梅御殿』が一杯建っているのに、ここでは広大な梅園が放置されました。これも『国の金が入った事業はうまく行かない』の見本なのかもしれません。
 主がまともに世話してくれなくても季節が来ると生めは花を咲かせ実を結びます。
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by je2luz | 2006-02-21 11:20 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 20日

熊野の旅 この半世紀の熊野の開発計画 3

 この地域で行われた国営事業はさほどありません。ほとんどがこの地区の人口の少なさをいいことにした虫食い化計画でした。
 その中で珍しく地元の生活を考えようと言うのが『金山パイロット』です。
 これは雑木山、里山を切り開き『みかん農地』を造成しようと言うものです。
 みかん農家と言うのはどこでも個人営業の小さなところが多いものです。それを農林省の直営事業として造成し、地元に協同組合を作らせて払い下げようと言うまことにありがたいものです。
 ここの場合165.4haの広大な面積が造成されました。険しい山を削りなだらかな蜜柑園が出現しました。みかんも植栽されました。一気に理想的な蜜柑園が出来上がったはずなのです。
 このみかん園、ちっともみかんの木が大きくなりません。なり始めてもものすごく小さくてすっぱいのです。それは当たり前のことなのです。
 山を削り表層土はどこかに運び去り、残された赤土のところに岩を砕いて混ぜた農地で木が育つわけはないのです。
 あわてて、製材所から木の皮を集め、崖の上から落として下で堆肥化しようとしました。随分運んでいましたがただ落として積み上げただけでは杉や桧の皮は発酵してくれません。製材所の片隅の皮が十年経っても変化しないし、杉や桧の皮で屋根が葺けるのですから当たり前です。おまけに1m余ってある長いもので農地に広げるのも大変です。雑草を防ぐ効果はあっての肥料にはさほどなりませんでした。そもそも、こうした果樹の場合は最初に植える時に大きな壷を掘り元肥に入れなくては駄目なのですからね。
 典型的な現場知らずの机上の計画でした。
 この話は次に続きを載せます。
 下は金山パイロットが観光農園として『みかん狩り』のお客さんように立てた歓迎アーチです。

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by je2luz | 2006-02-20 10:13 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 19日

熊野の旅 この半世紀の熊野の開発計画 2

 日本全国、世界中で国土の開発と言うとまず第一番に計画されるのが鉄道でした。日本でも明治以来国土の隅々まで鉄路を敷こうと計画されました。この紀伊半島も海岸沿いにぐるっと回る『紀勢本線』が計画、着手されました。戦争前には大阪・天王寺から新宮へそして紀伊木本(現・熊野市駅)までが出来ました。名古屋からは関西本線の亀山から伊勢神宮に向かう参宮線が早期に整備されその途中の『相可口』(おうかぐち)から分かれて南下する形で進められ尾鷲まで完成しました。
 残された熊野ー尾鷲間は平地の全くない地形からトンネルばかりになり昔の技術では大変なものでした。この区間は矢ノ川峠808mの峠越え連絡バスで代行されました。鉄道工事は太平洋戦争の激化と共に中断されてしまい戦後落ち着くまで再開されませんでした。
 戦後、早くに計画されたのが、この東西に分断された『紀勢西線』と『紀勢東線』とつなぐことでした。
 熊野ー尾鷲の区間は6割がトンネルという難工事でしたが、当時としては最新技術の『ジャンボ掘削機』を使った『全面堀』を採用して掘り進められました。新鹿から先は頂戴トンネルの連続で国鉄の前線基地も其処に置かれ技術陣をはじめ大勢の人が駐在していたようです。
 この鉄路開通が戦後最初に地元が渇望し、国が手がけた最初のまともな開発事業でした。
 戦争で中断されるまでに作られたトンネルが木本町にはありました。そこを列車が走ったのは20年もあとになったようです。
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 紀勢線『二木島駅』・・・トンネルとトンネルの間にある小さな駅です。
 カメラは イコフレックス2A
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by je2luz | 2006-02-19 13:23 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 18日

熊野の旅 この半世紀の熊野の開発計画 1

 千年余っての昔、朝廷や貴族の寄進により発展した熊野三山はこの地方最初の開発だったのでしょうね。
 それ以来、源平から戦国時代にかけては水軍の本拠地として派兵はあったようですが、他の場所ほどわざわざ取りに来る価値のない場所らしく平穏無事で過ごしたようです。江戸時代も何事もなく開けることもなく、開国、明治になっても取り立てて港が出来るでも無し、難所の潮岬に大きな灯台が出来たくらいです。紀伊勝浦・湯川は温泉に恵まれ鉄道が引かれてからは温泉場として関西の客は集めていました。その賑わいも三重県側には及びませんでした。
 昭和に入り『国立公園』が指定されるようになるとすぐに『吉野熊野国立公園』が指定され記念切手も出されました。この国立公園は今の世界遺産同様紀伊半島の南から吉野にかけての広大なものです。私の子供の頃の地図には区域がはっきり印がつけられていたのですが、何時の間にやら国立公園が色塗りされることもなくなったようです。
 このようにちょいちょい色んなことはありました。しかし、熊野地方は遠い・平地がないと言うことで列島改造論敵開発には向かないので開発されることはありませんでした。皆さんも日本の地形図で紀伊半島の南の方を見てください。この巨大な紀伊半島がいかに大きくていかに平地がないかすぐに分かりと思います。いわゆる緑で塗った部分が糸状にあるだけです。面であるのは熊野ではなく伊勢と紀ノ川です。
 こうした開発に適さない熊野の地ゆえに自然が荒らされず残された面もあります。そして何も無い事が今の世界遺産指定につながったものかと思います。
 次からは戦後から今につながる開発計画についてしばらく書いてみます。
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吉野熊野国立公園・鬼ヶ城
カメラは コダック・メダリスト I
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by je2luz | 2006-02-18 11:37 | 熊野 | Trackback | Comments(0)