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LUZの熊野古道案内

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2005年 08月 31日

熊野の旅 番外 吉野から熊野へ 龍神

 半月間、熊野を離れて高野山から果ては丹後の国まで成り行きで遠出してしまいました。
 帰り道には『龍神村』があります。その名の通り竜神様を祭った竜神神社があります。この神社も辺鄙な山の中にあって、異彩を放つ立派な神社です。今でこそ片田舎になっていますが、神社の宝物殿に残された品から見ても飛鳥朝から奈良時代には隆盛を極めた神社のようです。
 この神社には奉納の能を舞うための立派な総桧作りの能舞台があります。一般的な能舞台は前面に観客のための庭が用意されていますが、ここの能舞台は拝殿に取り込まれ、神殿に対面する形になっています。おそらくは神殿からの反射もありかなりの音響効果があると思われます。
 龍神村の竜神様をはじめ全国には実に沢山の水の神として竜神が祭られています。
 民話などでは『雨乞い』の話が多いですが、有史以来日本の民は暴れ川と土砂崩れに毎年泣かされてきたはずです。それ故に治水を司る神を大切にしたのでしょう。
 『水を制するもの国を制する』とか言われますが、日本でもこのように竜神を祀る司祭はかなりの権力得思ったものでしょうね。
 平安遷都に当たっては今の京都を支配していた秦氏の流れを汲む豪族が朝廷に土地を明け渡すと共に治水をも含め水を司る神社を作り今日の都の実力者になっています。上・下の『賀茂神社』がそれであり、今日まで脈々と続いています。
 龍神村には神社も向かい側に異様に大きな銀杏の木があります。小さな山尾のスバにあるのですが山をも越すのではないかと言う巨木です。
 龍神村から熊野に向かっては国道309号線で地図の上では直線的に結ばれています。しかし、途中には『行者還峠』(ぎょうじゃがえりとうげ)と言う1000mを越す難所があり冬季は通行不能です。おまけにここ数年は土砂崩れで国道が閉鎖されており、復旧は何時になるか不明だそうです。何せ行者が引き返すと言うくらいの難所なのですから・・・
 大峰山、川上村経由で熊野方面に抜けられますから差ほど遠回りでもありません。
 龍神村の道路もどんどん改良され二車線の立派なものになってきていますが、古よりの由緒ある田舎が壊されて言っている感じです。地元の人には歓迎なのでしょうが・・・道路で過疎は止まらないのは熊野も同じだと思います。
 こうして龍神村も金太郎飴になってゆくのでしょうね。
 龍神村の写真が見当たらないので清流大又川の写真を掲載します。この川は日本一雨の多い矢ノ川峠に源を発しますが、深く刻まれた河川敷でなんとか水をはかしています。竜神様を特に祭っているのではないですが、水と人がうまく住み分けてきています。
 竜神様や山の神を忘れると共に、日本人は水や山との共存やすみわけを忘れたようですね。住んではならない所に住むから・・・無理矢理水を抑えようとダムなんぞ作るから・・・
 信仰ではなく教えを忘れているのですね。


by je2luz | 2005-08-31 05:59 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 08月 30日

熊野の旅 番外 大峰山・真井御前

 とんでもないところで、又、真井御前(まないごぜん)つまり『如意尼』が再び登場してきます。
 大峰山関連の方ではこの真井御前のことはあまり出てきません。史実だとしても大峰山にとってはあまり具合のよろしくないことなのです。
 空海の弟子になってから、更に役の行者のことに興味を持った如意にははるばる吉野まで出かけてきます。元々密教を信仰する人ですから、大峰山における荒行をやりたいと思っても不思議ではないのです。
 役の行者の足跡を追ってきた如意にとしては大峰山に登ることなくしては目的を達成できません。しかし、ここは女人禁制の聖地です。
 ここで淳和天皇の妃であり空海の直弟子としての如意尼のの面目躍如たるところで、僧侶達の制止を押し切って大峰山登山を強行したのです。
 更には21日間の荒行に耐えて山を降りてきたそうです。
 それを見て感心した僧たちは役の行者と共に如意尼の像を共に祭ったといわれます。
 しかし、これは、女人禁制を一種の誇りともしてきた修行僧・修験の総本山としてはいささか具合の悪いことです。
 『真名御前』に許されて、どうして私は駄目なの?』と言う有名人の御令嬢や気の強い高貴な方の奥方様が必ず現れます。想像以上に女性の力が強かった古では当然です。
 それから1200年ほど経っていますが、相変わらず女人禁制ですから、この真井御前の快挙は美談として表に出ることは無いのです。
 近代でこの禁をはずそうとした女性では女性教師のグループなどが名を残しているようですが、その迫力はとても真井御前に及ばなかったのでしょうね。
 高野山も開放され聖地でも女人禁制のところはほとんどなくなっていますが、社会が大きく動く時以外は中々変わらないでしょうね。大相撲の土俵でさえ、スポンサーの大阪府知事が登れないのですから・・・
 『神呪寺』(かんのうじ)の鐘楼から見ると、太陽のやや左方向に大峰山系、更に左に高野山系があります。この甲山での修行では物足りず、密教の奥義を窮めたかったのでしょうね。
 丹後の国で生まれ、幼少より美麗の誉れ高き少女が、幼くして京に上り、英才としての片鱗をすぐに発揮したと言われる人です。その、意志の強さと行動力は歴史上でもトップでしょうね。
 どんなかわいい女性であったのか、一度お会いしたいものです。
 かわいくて、きれいで、聡明で、さらに少しきかん坊の悪い女・・・いいですねえ・・・
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カメラは

by je2luz | 2005-08-30 02:09 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 08月 29日

熊野の旅 番外 大峰山・役の行者

 大峰山は入り口は普通の山ですが奥に進むと段段険しくなります。
 大峰山(八経ヶ岳・はっきょうがたけ1915m)、.山上ヶ岳(1719m)などの奥吉野から熊野に通じる山並み全体をさすのだそうです。
 地図の上では八経ヶ岳が大峰山となっていますが、いわゆる「大峰山」は山上ヶ岳のことだそうです。地図だけを頼りに山に入ると違う山に登ることになります。それに、この一帯の山は頂上付近が平らでも中腹に断崖絶壁のあるところが多く、先達なしで迷い込むと大変なことになります。
 こうした険しい山岳地帯にルートを開き修行道場を開設したのが「役の行者」(えんのぎょうじゃ)ですが、この大変な行者さんも人の子です。どちらかというと今流の秀才なのかもしれません。
 と、言うのも、役の行者が大峰山に入って修行する間、息子の無事を祈って、女人禁制の結界のすぐそばまで母親がついてきていたそうです。なんだか今の大学入試や学生スポーツのような感じです。女人禁制にしなかったら、どこまでついて行ったやら・・・
 『母公堂』というお堂がありますが、そこがご母堂様が無事を祈って篭っておられた所だそうです。
 日当たりの悪い、いかにも寒そうな場所です。母親の愛情というものが感じられる場所でもありますし、いかに聖人と言えども母親にとっては『子供』なのですね。一面滑稽とも取れます。
 一般に登山ルートは吉野郡川上村からのルートになりますが、この母公堂のところで道が分かれ片方は天川村方面へ、片方は大峰山の結界へと向かいます。
 大峰山も近年復活してきたようですが、一時は本当に限られた行者さんだけが入るさびれかけた時代があったようです。
 結界の入り口にはびっくりするほど大きなお墓群があります。ここに葬られればご利益があるのでしょうかね。
 結界の入り口付近は残念ながら樹齢の若い人工林です。結界の位置を変えることはできないでしょうし、伐採を止める事も出来なかったのでしょうね。都会の方ならうっそうとした・・・と思えるかもしれませんが、あと100年しないと有り難味は出ませんね。女の人にとってはここから中には入れないので、大峰山の重みがいささか削がれるような気もします。
 この女人禁制もずいぶんもめた歴史がありますね。宗教上のことなので法律の及ばないところです。参道を通らないで山に入ればどこからが結界やら・・・特に鉄条網で囲っているわけでもなく参道に小さな鳥居と石塔があるだけです。結界内にも人工林が随分ありそうですが、果たして全域男性だけで管理してきたものらや???



by je2luz | 2005-08-29 03:41 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 08月 28日

熊野の旅 番外 世界遺産 大峰山

 大峰山(おおみねさん)は『役の行者』(えんのぎょうじゃ)が開いた修験道場として有名です。
 役の行者はいささか伝説の人めいたかなりのスーパーマン的な話が残っているようです。
 羽黒山や月山は都から遠いこともあり、山伏の修行と言えばここ大峰山が有名なようです。
 今でも、多くの人が修行に来られているようです。
 山伏の修行には『先達』(せんだつ)という指導者が必ずつきます。
 この先達に従って、険しい大峰山の岩場を登り、目のくらむような崖の上に立ち、身を乗り出して修行します。一歩間違えれば遭難と言うものだけに、経験豊富で道に迷うことの無い先達が必要なのです。
 一時は寂れていた大峰山も近年では修行に訪れる人も増え、更には世界遺産指定もあって一般観光客も増加しています。『金峰山寺』(きんぽうせんじ)の周りには宿坊が沢山あるといいましたが、この宿坊は元々、修験道のために出来たものです。
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 宿坊とは宿舎、宿をかねたお寺です。写真の『桜本坊』(さくらもとぼう)もその一つで、立派なお堂と大人数を収容できる部屋を備えています。
 この桜本棒は『大海人皇子』(おおあまのおうじ)が吉野に逃れてきた時、夢で満開の桜を見た後に皇位についたという話から命名されたと言う事です。この天皇は『天智天皇』です。宿坊とは言えここ吉野のように古くから開けたところです、とんでもない大物がその縁起には登場してきます。
 大峰山は気候の厳しいところですから、現代の修行は夏の間が主流になります。夏場は修行に来られる人で一杯になります。
 山伏の修行といっても、修行を体験する程度の一般の方から、本格的に修行する人まで様々なようです。それぞれ、宿坊に泊まり、チームを組んで修行をするようです。
 夏でも夜になると寒くなる吉野野山はまさに下界を離れた世界ですから、避暑がてら宿坊に泊まって、美味しい精進料理を頂き、宿坊での謹業だけにでも付き合って見るのも良い経験になるかもしれません。
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カメラはデジタルカメラのオリンパス・キャメディアC-3100です。

by je2luz | 2005-08-28 09:34 | 熊野 | Trackback(1) | Comments(0)
2005年 08月 27日

熊野の旅 番外 世界遺産 金峯山寺

 今度は高野のふもとから吉野に回ります。
 吉野といえば桜の名所として名高いところです。その中心にあるのが『金峯山寺』(きんぷせんじ)です。山伏・密教のお寺です。ここを拠点に役の行者(えんのぎょうじゃ)の開いた修験の場所『大峰山』に入ります。
 お寺は中央に大きなお堂があり、秘仏が祭られています。今年は御開帳の年でもう少しの間だけ拝観出来ると思います。秘仏という意味では今がチャンスかもしれませんが、普通の秘仏とはいささか趣の違うものです。
 密教の世界で罪障のある人が御祈祷をお願いしに来た時に参拝させたのだと思いますが、極彩色の巨大な仏様が覆いかぶさるようなポーズで祀られています。
 物見遊山気分で見ると漫画ティックな感じすらしますが、穂の暗い中で、山伏の祈祷と共に仰ぎめれば、昔の人なら肝を潰したものと思われます。
 お寺のがらんとしてはお堂の数が沢山立ち並ぶというものではないですが、修験のための宿坊が昔から沢山あります。
 ここには義経と静御前の話も残っています。今でこそ、ここ吉野山も大阪、京都から日帰りコースですが、昔はこの奥吉野は地の果てだったのです。落ち行く義経にとっては追っ手からひとまず身を隠せるほどの場所だったわけです。
 この吉野山からは秘境熊野に向かって『奥駆け』といわれる山伏専用の街道が延びていました。都に向かっても稜線伝いに山伏道があり、更には東北月山・羽黒山まで通じていたようです。
 一般街道と違い関所も無く最短距離を抜けて行ったようです。
 山伏は修行僧という顔と間諜という二つの顔を持っていたといわれます。通行手形が無くても全国を自由に動けたといわれますが、本物の修験は里道の街道はあまり使わなかったようです。
 古くより天下を動かす出来事の影には山伏の影があったようです。この最短の道と鍛え抜かれた健脚無しでは、諸国間の連絡もままならなかったのです。歴史的には忍者よりはるかに古いものです。
 吉野山を散策する分にはまさに観光地吉野の部分ばかりが目に付くと思います。しかし、その辺にある小さな祠とかの由緒書きなどを見ると、南北朝だなんだかんだの立役者のゆかりの場所が一杯あるようです。

修験の寺らしく全てがたくましく出来ています。


by je2luz | 2005-08-27 01:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 08月 26日

熊野の旅 番外 八百比丘尼と紀州

 八百比丘尼(やおびくに)は全国あちこちに伝説が残っていて、『八百比丘尼サミット』が開かれたとか聞いたことがあります。
 そのぜんこくにある伝説の一つが先ごろ案内いたしました『丹生都比売神社』(にぶつひめじんじゃ)にあります。
 平安時代に都に現れたと言うのですから、時代的には辻褄の合うような話です。それに、ここは高野山金剛峰寺の鎮守として空海が定めたくらい冬至としては重要な神社ですから、八百比丘尼が訪れても不思議はありません。
 この神社は神仏混合の最たるもので、出来た時から坊さんがここにいる神社でした。
 この神社の入り口にはさほど大きくない池というか沼と言うかそんなものが有り、それにきれいな太鼓橋が架かっています。その太鼓橋から眺める朱塗りの社殿が目を奪いますが、それにつられて進んでしまわないで池を覗いて見てください。
 中ほどに小さな島?があります。この島が『八百比丘尼』の伝説に繋がるのです。
 この丹生都比売神社にやってきた八百比丘尼が何時までたっても老けない己が姿を嘆き、鏡を投げ捨てた、とか、身を投じたとか言われますが、もう、その姿を見たくないと鏡を封じたのが本当のところでしょうね。
 この池をさらえた時、銅鏡が出てきました。
 『さては八百比丘尼の伝説は本物なのか?!?!』と、その鏡を鑑定に廻したところ、残念ながら江戸時代くらいに作られた新鏡であったそうです。
 ここで三角縁神獣鏡でも出ようものなら、日本の怪奇伝説がいきなり裏打ちされることになるところでした。
 民間伝説の主人公の八百比丘尼は正式にはこの神社の歴史には計上されていないのではないでしょうか。
 ただ、この神社に参拝されるなら、この八百比丘尼の方が庶民には分かりよいような気もします。
 私の案内は正統ではなく外道型ですのでお許しください。語り部ではありませんから・・・

 参道の太鼓橋です。これは社殿側からです。出口に向かうときは橋の中央左に島があります。新しい駐車場から入るとこの橋をわたらないことが多くなります。ちょいと引き返してきちんと参道を通ってください。
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朱塗りの社殿、本殿には細かい装飾が一杯施されています。
 カメラは イコンタ523/16テッサー付

by je2luz | 2005-08-26 02:36 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 08月 25日

熊野の旅 番外 若狭の国と八百比丘尼

 丹後の国の隣は若狭の国です。ここもまた古代日本ではかなり重要な国のようです。
 奈良のお水取りは若狭の国から送った水が地下のトンネルを通って湧き出るのを受ける神事だそうです。又、今でもそれが真実として信じる向きもあります。
 写真は若狭の海の写真です。この三角山の裏っ側には『原発銀座』があります。日本の歴史の始まりの一角を担ったところに無謀にも太陽をつかまえて閉じ込めてあるのです。果たして、若狭の国の竜神様をもってこの魔物を封じることが出来るのやら・・・
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 ここ若狭の国で有名なのは、見目麗しきおなご『八百比丘尼』(やおびくに)です。
 食べてはならぬ人魚の肉を喰らって、染むことも侭ならず何百年も行き続けたというおどろおどろしい伝説の人です。
 不老長寿願望から言うと夢のような話です。それも、若くきれいな18歳のままで生きながらえたのですからね。
 さすがに長生きしただけに全国あちこちに八百比丘尼の話が残っているそうです。弘法様のように60年ほどしか生きなくても四国・近畿一円はもとより全国に話が残るのですから当然でしょうね。生まれについても千葉のあたりだとか色々言われるようですが、若狭で尼さんになったことは、大体共通のようです。
 夢のような若くてきれいなままで生きてゆくことも決して愉快なことではなく周囲の人は老けて行き又死に絶えてゆく中自分一人永らえること、周りの人から怖がられること、耐えられなくなり旅を重ねたようです。
 しかし、きちんと集落もあり、国もある時代となると日本の歴史から見るとさほど長くないので何百年も生きるということと歴史に矛盾が生じてしまいます。仏教伝来が552年だとして300年生きると弘法大師がお亡くなりになったあとの話・・・800年も生きると1350年鎌倉幕府が1192???
 伝説はやはり、素直に聞いておく方が良いようです。
 SFの世界でもあるのですが、こうして永遠に生きるということは精神的にものすごい負担なのでしょうね。でも、少しうらやましいような話です。
 しかし、自分の恋人がいくらきれいでも八百比丘尼のような人だったら・・・怖いですね。
 食べたのも人魚の肉ではなく貝だったと言う所もあるようです。
 若狭の国から都へは『鯖街道』が走っています。なにせ、4トントラックに7トンもの過積載で走っていましたから、この素敵な街道をカメラに収めることも出来ませんでした。決して道は良くないですが、この鯖街道こそこれ以上改良しないで置いて欲しいものです。全く別のバイパスを作り、全線保護してもらいたい道です。80Kmほどの間で雰囲気の残されているのが30Kmほどあります。
 秋深くに取材がてら出かけてみたいところです。

by je2luz | 2005-08-25 02:42 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 08月 24日

熊野の旅 番外 丹後の国・籠神社

 真井御前のところで触れた丹後の国とやらに足を伸ばします。
 この丹後行きは観光ではなく、他の用事で4トントラックでの道中に少し足を伸ばした形ですから、あちこち回れませんでした。
 『丹後の国』といえば『天橋立』です。この天橋立の西側の付け根に『籠神社』(このじんじゃ)があります。最近では『神道ブーム』もありかなり観光客も集まっているようです。丹後方面への道路が格段に良くなったということもあるでしょうね。
 この『籠神社』は『元伊勢』と呼ばれ、今の『伊勢神宮』の始まりといわれています。
 伊勢神宮の御神体『天照大神』を奉じて作られた『伊勢神宮』はこの場所から始まり、『ヤマトヒメ』とやら言う巫女などにより遷宮を繰り返し、その回数25回目にして『伊勢の国』にたどり着いてようやく定住の地にしたようです。
 丹後を出て以来いわゆる畿内を巡回しています。
 大和朝廷が全国制覇する時期にも重なります。
 『錦の御旗;ならぬ『伊勢の大神』をおしたてて、近畿、畿内を制覇して言ったのかもしれません。そうなると「ヤマトヒメ」はジャンヌダルクか?
 このように丹後の国は日本神道にとってはどうやら大切なところらしいですね。言うなれば『ど田舎』的な位置ですが、日本海を通じてみれば朝鮮半島も近く渡来人にとっては玄関口かもしれません。
 籠神社は伊勢神社の発祥の地だけにまさに『別格官幣大社』ですね。それだけに大鳥居など威容を誇っています。しかし、神社というものは割りと地味なものですから七堂伽藍などという雰囲気ではありません。
 今が御神体はおそらく鏡か剣でしょうが、本当の御神体はこの小高い山のようです。古代信仰よりは作為的な感じはしますが・・・
 ここの裏山に『真名井神社』があります。この真名井こそ真井御前の『まない』と同じものです。そして、一姫君が「まない」を名乗るのは異例かも知れません。この近くに真名井原というところに『真名井』という霊水が湧く井戸があるそうです。その水の霊験ならこの人一人ではないでしょうが・・・兎に角、幼少の頃より見目麗しかったそうです。
 その出所である『海部氏』は籠神社と共に絶えることなく今日まで家系が繋がる家柄です。
 籠神社には色んな神が祀られていますが『海彦』『山彦』に当たる神様だとか書かれています。こうした話もなにやら日本国成立に結びつける向きもあるようです。
 天橋立の東側には『文殊堂』が祭られています。これも。文殊菩薩は何たらの神だとか言われますが・・・
 昔話は昔話・・・神話は神話・・・無理してそのまま歴史にしなくても・・・100年前に現実あったことでも伝承のあやふやなこと・・・いかに曲げられるか・・・100年はおろか60年余り前のことでもですよね。
 気楽に『ふーん』と話を聞き、それよりは自分の感性でその『場』が居心地が良いか悪いか判断する方が大切だと思います。良い事書いてあるからありがたい・・・有名だから御利益がある・・・そんなものではないでしょう。
 神社などというものは御利益などあるはずが無いのです。清らかな場所に身を置いて自分自身の浄化力を呼び覚ます効果はあるでしょうが・・・妻に、何も考えないのが大切なのではと思います。これは全ての霊場に当てはまると思います。
 お経を唱えるのも放り気の無い庶民では心を無にする手段でしょうね。
 ここに参拝するなら、裏山に歩いて10分。是非奥宮に回ってください。

威容を誇る大鳥居です。この前に広い駐車場がありトラックでも止められます。

カメラは

by je2luz | 2005-08-24 13:39 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 08月 23日

熊野の旅 番外 真井御前と神話の世界

 甲山・神呪寺(かんおうじ)と言えば御本尊は『如意輪観音』です。そして開いたのが『如意尼』です。
 世の悩み、苦しみから救ってくれる観音様、それも『意の如く』ということで、如意輪観音を祀るこの神呪寺は霊験あらたかに何でもきいて貰える場所として民間信仰的にも人気があるようです。
 さて、この真井御前については前に少し書いたようにこの時代の人にしては珍しく生まれもはっきり?しています。
 生まれは丹後の国の国作りであり、元伊勢・籠神社・・真名井神社とゆかりの深い『海部氏』の娘として生まれたとされています。ちなみにこの海部氏とは元総理大臣海部さんもこの一族と言われています。
 空海の周りには、実に様々の伝説が生まれ、場合によっては聖徳太子などと共に日本の歴史を動かした影の実力者、エスパーと考えるグループもあります。日本神道との関連でも、本来の神道を陰に隠してしまったのが聖徳太子、さらに封じたのが空海などという壮大な説まであるようです。
 しかし、空海は高野に入るとき鎮守として先ごろの『丹生都比売神社』を祀っていますし・・・
 どうも、神道復活を目指すグループの一部にあるの説には不気味なものを感じます。
 真井御前の『まない』は『真名井』であり籠神社の奥宮とも繋がり、果てはヘブライ語で旧約聖書にまで繋がると言う説が流れています。つまり、天皇渡来が旧約聖書真で遡り、本来のユダヤの民が世界に散ったとかいう説に結びつけるものです。
 このように真井御前はその門地出所から神話の世界に結びついてしまっています。
 ただ、確かなのは、御前は美しく、聡明で如意輪観音に帰依し、空海の二人といない弟子であり、生死を共にする結びつきがあったと言うことです。その他のややこしい話は余分だと思います。
 この神呪寺は何でもきいて貰えるお寺なのですが、如意輪観音様に直接お会いできるのは年に一日だけです。いかにも、関西らしいのは、本堂の外に『びんずる様』が祀ってあることです。あちこちの寺にありますが、この仏様は頭や膝をなぜながらお願いをすると聞いてもらえるという、簡単明瞭なありがたーい仏様です。当然、ここの「びんずる様」の頭もつるつるになっています。ぜひ、頭をなぜてお願いでもしてみてください。
 本堂の脇には『大師堂』があります。
 本堂の階段に腰をかけて眺めるとも無く下界に目をやると、何となく心休まる場所です。

 鐘楼・・・この鐘は撞くことが出来ます。

これが『びんずる様』なぜられてピカピカ光っています。
 カメラは共に

by je2luz | 2005-08-23 13:21 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 08月 22日

熊野の旅 番外 人間空海 真井御前

 真井御前(まないごぜん)は空海と31~32歳違いの若い、甚くかわいい女性であったようです。
 淳和天皇に見初められた後宮に入られたのが二十歳の時、寵愛を一身に集めたそうですが、宮中のやきもちやいざこざに嫌気が差して甲山に移ったのが26歳の時とされています。826年ごろですね。そして828年に空海を招いて如意輪の秘法を授かる修行を17日間にわたって行っています。更に、830年に空海は真井御前に阿ジャ利位潅頂という最高の位を授けています。そして、今でも神呪寺の秘仏として残る『如意輪観音』を作らせたといいます。空海の願いで、この観音様は如意尼いや真井御前そっくりに作られたそうです。
 そのあくる年の大殿の落成法要に訪れたのが空海と如意尼(真井御前)の最後の出会いであったそうです。その時空海は61歳還暦を越え、自分の死期を悟っていたそうです。時に真井御前は30歳くらいです。
 高僧として世の中を導かなくてはならない立場にあり、真言密教の開祖として多忙を極める中、更に高齢期の入った空海にとって、甲山への行脚はかなりの無理を押してのことかと思います。
 自分の死期を悟り、はるか海越しにかすんで見えるとは言え、甲山を降り、高野に向かう空海の胸中はいかばかりであったでしょうか。修行した高僧とは言え、人の心を持ち、命を削ってまでも甲山に足を向けた空海は人間として最高に尊敬できると思います。
 高野に帰った空海は生きながらに仏になるため地中の室に籠り入滅されました。
 如意尼(真井御前)はその一年半後に空海の後を追うがごとく33歳の若さで世を去りました。この境内から見える高野の方向に向かい如意輪観音の真言を唱えながら息を引き取ったそうです。
 ある意味では破戒坊と天皇を裏切った女性の愛かもしれませんが、日本史上最高の愛の形かもしれません。この心あってこその『弘法さん』なのではないかと思います。
 ここ西宮・甲山・神呪寺はあくまでも明るく、すがすがしいお寺です。鐘楼からは晴れていれば高野と対面できます。

かめらは ミノルタα7700i・コシナワイドズーム

by je2luz | 2005-08-22 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(2)