人気ブログランキング |

LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ

<   2005年 07月 ( 31 )   > この月の画像一覧


2005年 07月 31日

熊野の旅 木本町 文字岩

 木本節にも歌われた漢詩を刻んだ岩が木本町の山手にあります。
 大きな露出した岩に深く掘りこまれたものです。なんだか中国のような雰囲気です。
 文字にいわく
 鷺去徐仙子
 深入前秦雲
 借問超逸趣
 千古誰似君


 驚き去る徐仙子 
 深く入る前秦の雲 
 借問す超逸の趣 
 千古誰か君に似たる
寛政7年(1795)伊勢久居の医師橘南谿(たちばななんけい)の詠んだ詩を刻んだものだそうです。無断でこんなものを刻んだかどで刻ませた木本の医者がお代官様にきつくしかられたそうです。200年以上経過したものとは思えない鮮明さです。
 この文字岩を含め、秦の徐福の足跡などは中国語のHPにも記載されています。
三重县

与和歌山县一河之隔的三重县,亦有众多的徐福遗迹,但大都集中在太平洋岸边的熊野市:熊野市的丸山脚下的“矢贺”海岸,传说是徐福登陆地;在熊野市丸山上,又有一座徐福墓;丸山徐福墓碑旁边有一木制小屋,内砌石台,供徐福石像,是为徐福宫;熊野市波田须町有波田须神社,奉祀的是徐福,内藏-陶磨钵,传说为徐福烧制;在丸山不远处的少林寺内有一古钟,铭文中有“秦栖”字样,指为秦人居住之地,因而可证明此地原名为秦栖,后改为波田须;熊野市木本町的成华山山坡上刻有三行草书汉字诗:“警去徐仙子,深入前秦云,借问超逸趣,千古谁似君。梅花仙子题。”歌颂徐福伟业,这就是“文字岩”。波田须乡民至今仍深信自己为“徐福先生”的子孙,有“氏神祭典”民俗,在每年11月5日举行。

在久保泉有丸山遗址,由绳文时代晚期到弥生时代前期(公元前3-5世纪)的墓地、5-6世纪的古墓群组成。绳文时代晚期到弥生时代前期的墓有支石墓、瓮棺墓、石棺麓等约130个。其中支石墓最多,发掘出100个以上。从支石墓中出来的绳文时代晚期的陶器中有着米糠的痕迹,由此可以断定从这个时期就开始了稻作。

などと書かれ、波田須の徐福の宮なども詳しく書かれていますが、この文章は読めません。波田須の徐福の宮の11月5日の祭りは分かりますが・・・


カメラは イコフレックス2a

by je2luz | 2005-07-31 03:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 07月 30日

熊野の旅 御浜小石

 かつて、日本円が安かった頃、この熊野から大量に海を渡った産物があります。
 それは七里御浜に転がっている『砂利』です。
 形がよく、傷が無く、色もきれいな物を、一つ一つ手で拾い集めたものです。
 那智黒と同じ真っ黒な石、熊野川流域でもほんの一部だけに露出している真っ白な石、茶色の石、緑がかった石・・・色んな石が集められました。
 神社の敷石になるような大きな物、庭の敷石になる中くらいの物、観賞魚の水槽に使われる小粒なもの、左官材料になるもの・・・様々なものが拾い集められました。
 これらは、一番端の木本海岸から井田海岸くらいまでの七里御浜で拾い集められました。
 夏は暑く、冬は寒い、きつい仕事ですが、お年寄りにでも出来るのでたくさんの人が従事していました。
 重いものなので、少し拾っては道のあるところまで運んで大きな袋に入れる作業の繰り返しです。
 拾い集めた砂利は元締めの砂利採取業者の工場に運ばれ、更に厳しく選別されます。大きさや色により区別され、洗浄、磨き上げられ、物によってはワックス処理されます。
 こうして出来たのが『御浜小石』と呼ばれるものです。
 1$=360円と言う、固定相場時代は、円安を武器にアメリカ向けにも大量に輸出されました。太平洋の向こう側まで流れて行ったのです。それが円の切り上げ、変動相場制導入と続き、1$=200円時代には苦しくなり、100円になり事実上輸出は不可能になりました。
 この図式はなんだか今の中国に似ていますね。
 逆に今では同じような玉砂利がフィリピンなどから輸入されるようになりました。ホームセンターなどで売られていある玉砂利のほとんどは輸入品です。
 時代の変化で、雨の日以外は七里御浜に点々と見えていた小石拾いの人影もほとんど消えてしまいました。そして、元締めの業者さんも今では輸入玉砂利を扱うようになりました。
 七里御浜の砂利自体もダムの影響で新しい砂利の流下が無くなり、どんどん磨り減って小粒の砂のようになって来ています。
 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじと五右衛門さんが言ったとか・・・
 今の世にも悪人・盗人ははびこっていますが、七里御浜の真砂は尽きようとしています。


カメラは ウェルタ・ペルレ

by je2luz | 2005-07-30 13:45 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 07月 29日

熊野の旅 木本節

主は鬼ヶ城 雄雄しき姿 わたしゃ焦がれて 散る女波
   ヨンヨイ ヨンヨイ フリコメサン

 木本節という民謡は昭和2年(1927)に作られました。珍しいことに、歌詞は一般公募で募り、入選作を採用しました。
 一般に公募しても、一人の人の歌詞を手直しして仕上げるものですが、木本節は入選作を全部歌詞にしたので、町内の人の合作になっています。
御浜獅子岩 松吹く風と 並みのハヤシに 神楽舞い

徐福しのんで 書きたる文字の 岩に不老の 苔が蒸す

花の窟の 松吹く風は 神代ながらの 声がする

七里御浜は 霞に暮れりゃ 沖にいさり火 主恋し

などと名勝を読み込みながら続いてゆきます。
昔は木本祭り(10月1日でした)には、きれい所が、三味の音と共に、道中踊りを披露したものでした。そして、ことあるごとに『伊勢音頭』とともに『木本節』を歌ったものです。
 今では木本節を聞くこともほとんどなくなりました。きれい所などというものは、当の昔に消えています。合併して熊野市になってからは木本町は中心とは言え、市の一部になってしまいましたからね。

 鬼ヶ城・千畳敷・・・カメラはコダック・メダリスト

by je2luz | 2005-07-29 06:14 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 07月 28日

熊野の旅 国道42号線 木本随道

 国道42号線、佐田坂を下りきったところの信号を左折すると、各駅停車で案内した海岸線を走る国道311号線になります。
直進するとすぐに『鬼ヶ城入り口』が見えてきます。トンネルの手前を左折すると鬼ヶ城に行けます。駐車場まで300mです。
 このトンネルは新しいトンネルで、入り口は見えませんがすぐ左側に古いトンネル『木本髄道』があります。
 このトンネルは熊野古道になっている松本峠を越えなくてはならない泊村と木本町を結ぶ県道として戦前に工事されたものです。このトンネルは完成後も中央部分の地盤が悪く沈下するため何時も大きな段差があるくらいのものです。位置的には松本峠の真下になります。
 この工事が着工されてまもなく、いまだに国際問題化する『木本事件』が発生しました。難航時のため、朝鮮半島からの労働者も動員されていましたが、1926年1月2日の夜に、些細なことに端を発した日本人対朝鮮人の争いが殺人事件、更には報復の暴動が起きるというようなデマが飛び、減免対決に発展し、さらに一名の朝鮮に人が殺されるという悲惨な事件になりました、関東大震災のあとと同じような、デマによる群集の狂気が引き起こした事件です。
 私はその事件について、祖父よりよく聞かされました。『殺された春山(当時の日本名)はいいやつだった・・・あんなふうな殺され方することはしていなかった・・・群集心理は怖いものだ、止めようが無かった・・・』それが当時在郷軍人であった祖父の口癖でした。戦前から戦時中にかけて起きた悲劇の一つです。
 このトンネルの入り口の見えるところに慰霊碑が建っています。
 又、木本神社のそばに、このときの若者がかわいそうだと立てたという小さな石碑をずっと地元のお年寄りが森をしていたとも聞いています。
 不幸な事件です。しかし、木の本の人間全てが鬼になった訳でもないのです。ただ、戦前から戦時にかけて日本を支配した『選民思想』がもたらした大きな汚点なのです。またぞろ、それが顔をもたげかけているようで不気味です。国際社会に通用しない島国日本人根性でしょうか。
 この美しいトンネルの影に悲しい歴史があったのです。
 今は、車は一車線のみの一方通行で、遊歩道になっています。新トンネルは歩行者通行禁止ですから、本来はこれを通る事になっていますが、木本川の入り口が鬼ヶ城から離れているので、観光客の方には分かりにくいようです。



カメラはイコンタ523/16・ノバー

by je2luz | 2005-07-28 07:17 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2005年 07月 27日

熊野の旅 国道42号線 4 小阪峠

 熊野市街方面から来ると、急坂の佐田坂を登りきったところで、短いトンネルがあるのですぐに分かりますが、尾鷲方面から来ると、標高300mほどの大又川流域を走ってきているので、峠の実感は無いでしょう。これから、一気に海抜10mまで下ります。荷物を積んだトラックの場合は気を許さないようにしてください。
 この小阪峠も旧・旧国道時代はこのトンネルの上、標高400mほどのところを越していました。改修前はこの地方に沢山ある、アーチ型の石の飾りがあっる一車線のトンネルでした。
 名前は『小阪髄道』です。
 今のトンネルと平行にありますが、国道からは見えなくなっています。トンネルの海側・・・下りですと、トンネルを抜けたところ。右側に広場があります。そこに車を止めて振り返ると、車止めの向うに旧トンネルが見えます。
 このトンネルと佐田坂が開通するまではもっとすごい山道を『評議峠』を越えていました。昭和28年か29年ごろに開通したと思います。
 入り口には厳重な金網の扉があります。これは、廃道になったあと、農協が借り受けて夏みかんの貯蔵庫にしていたからです。一定の温度と適当な湿度で、貯蔵と熟成に適しているようです。しかし、今では甘夏の生産量も無くあまり利用されていないようです。
 返してもらって、遊歩道にすると良いのですが、返してもらう側も、水漏れの激しいこのトンネルを改良し、照明も入れ、遊歩道化するのは巨額な費用が入るので乗り気ではないようです。
 新トンネルが車側帯が無く、ハイカーやサイクリングの自転車が危険なだけに整備して欲しいものです。東海遊歩道の一環として整備しては・・・と、思います。

カメラはコダック・レフレックス2

by je2luz | 2005-07-27 15:14 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 07月 26日

熊野の旅 国道42号線 3 道の駅・熊野きのくに

 前にも触れた道の駅『熊野きのくに』は市営でも第三セクターでもありません。完全民営、中小企業等協同組合法に基づく組合が運営しています。
 道の駅は旧建設省の指定を受ける国道を使う旅行者のための公的休憩所です。非常に数の少なかった公衆トイレを増設することと、長時間の運転による事故を防止するために、パーキングを作るのが目的です。
 国の指定で、なおかつ原則として一自治体に一箇所しか認可しないということがあり、更には申請すれば建設費も補助金が出るという事業の性格から、自治体が第三セクターを作ってオープンするのがほとんどになります。
 ここは『鬼の国物流協同組合』という、地場産品を中心とする異業種協同組合があり、そこが計画し、熊野市に推薦してもらって指定を受けたものです。
 元々はここの敷地はスノコや縁台を桧で作るための工場と出荷倉庫のあったところです。敷地内にはそこそこの駐車場も確保できるのと、行楽客の多い日曜、祭日、お盆、正月は工場も休んでいるという好条件でスペースが有効利用できました。民間ですから流用などは自由に出来ますから・・・
 建設段階で当然建設省の補助金制度も検討しましたが、全国どこでも見られるような、ものすごい贅沢な建物や付帯工事が要求され、無駄な工事が多く、補助金をもらったて自己負担分を出すと、逆に高くつく話になりました。第三セクターや直営のように『建てること』に意義を見出す事業ではありませんから、建設省の事業か諦め、農林省管轄の事業で小さなものにしてあります。
 必ず24時間オープンしなければならないトイレに関しては、ものすごい維持費がかかりますので、折りしも。ここを流れる大又川の釣り客などのための市営公衆便所の場所探し中でしたので、土地を提供市、毎日の清掃などの管理はこちらでするということで。角地を市に寄付し、市営公衆便所を作ってもらいました。毎日、二回の清掃は組合で続けています。
 立地的には尾鷲市外と熊野市街の中間地帯の山間部で隣接民家もないので、真夜中の車の出入りに苦情がでることもありません。エンジンをかけたままの野宿も問題ありません。
 営業は朝7時から夜10時までで長くやっています。軽食のできる食堂とコンビニを併設していますからキャンパーの方にも不自由は無いと思います。
 パーキングで夜明かしの方は出来ましたら、売店なり食堂なりに一声掛けて、他のお客様の迷惑にならない場所を教えてもらってください。


by je2luz | 2005-07-26 12:06 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 07月 25日

熊野の旅 国労42号線 2

 国道42号線はいわゆる二桁国道で、最初の国道指定の時に既に国道になった主要地方国道です。三桁の国道よりは習慣的に重要視され予算配分も優先されました。もっとも、246のように三桁の200番台でも重要道路として早くから整備された物もありますが・・・
 こうした国道の番号による優先権が存在するので、この42号線は元来松阪市から和歌山市までだったのですが、御存知の方も居られるでしょうが『伊勢湾口道路』と言う、鳥羽からながーい橋を渥美半島までかけて湖西・浜松経由でまっすぐ東京へ結ぶという壮大な計画があり、そのためには重要国道が必要ということで、急遽方向転換させられ、松阪から鳥羽に向かい、海を渡った伊良子岬に上陸して渥美半島の東海岸を進み湖西市に至る路線に変更されました。道路も無い海の上で国道がつながっているという摩訶不思議なことになっています。
 以前、渥美半島赤羽根町を視察に行ったとき、向こう側の42号線をタクシーで走りました。
 『これが42号線の続きですか・・・』と、標識を見て運転手さんに尋ねますと、『そうですよ、このまま走って行けばお宅さん達の熊野に行けますよ。海の上の42号はどこか知りませんが・・・』と、冗談が帰ってきました。ともかく、浜松あたりで東名高速を降りて渥美半島のほうへ向かえば、42号線の始発点から走ってこられます。
 同じようなことが四日市追分の国道一号線の分岐点から伊勢までだった、伊勢参宮道路の国道23号線は名古屋の湾岸に道路を作るためにどんどん延長・変更され今は豊橋あたりまで行っています。
 42号線が本格的に改修されたのは昭和40年代に入ってからです。難所の矢ノ川峠峠などが出来たのは44年から45年ですね。43年式の車をもって44年に東京から帰ってくるときに、矢ノ川峠トンネルが部分開通の状態でした。熊野市内の佐田坂が改修されるまでの工事中一年ほどでサスペンションがガタガタになったので記憶にあります。その当時はまさに山岳ラリーでした。
 松阪まで120Kmを乗用車で5時間くらいかかったものです。今は半分ですね。
 写真は熊野市内の難所『佐田坂』の上り口付近のバイパス。

 カメラはミノルタα7700i サクラ赤外フィルム・・販売中止になりました

by je2luz | 2005-07-25 15:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 07月 25日

熊野の旅 国道42号線 1

 名古屋方面から紀伊半島を南下するには国道42号線を走ることになります。以前は国道23号線経由松阪より42号線というルートでしたが、今では伊勢自動車道・勢和多気インターチェンジで降りれば、すぐに国道42号線に合流します。ぶつかったT字路を左折すると、後は全く一本道で紀伊半島をぐるっとまわってゆきます。
 実に単純なルートなのですが、これというのも、南伊勢から紀州の入り口までは山の中ばかり、紀州に入ると海岸と山を交互に走りますが、険しい地形で集落が一並びできるのがやっとですから、大きな脇道など出来様が無いのです。
 途中で『市』は尾鷲市だけです。後は昭和の合併で町になるのがやっとでした。平成の合併でも町がくっついて又町になるだけです。
 一本道で田舎で二車線ですからそこそこ走りよい道です。ついついスピードが出てしまいますが、田舎とはいえ、大台警察、尾鷲警察、熊野警察それぞれ、速度の出そうな直線区間でレーダーを張りますから気をつけてください。
 人の飛び出しは少ないですが、夜間は『狸』の横断に柿をつけてください。この『たぬき』は宵の口に餌場に出てくるのに道を横断します。えさ探しを終えたたぬきは夜明けの1時間前くらいに巣に帰るので又横断します。全く、左右を見ないで飛び出してきますから引かないようにしてください。42号線では『鹿』『猪』『熊』などに出会うことは少ないです。
 道の駅も『大台』『大宮町』『紀伊長島』『海山』『熊野市』『御浜町』『紀宝町』と新宮までの140Kmの間にありますから、トイレは24時間問題ないと思います。ただ、食事は遅くなると厳しくなりますから、そのつもりで走ってください。
 ちなみに『道の駅・熊野・きのくに』は熊野市の入り口にあり、夜10時までの営業です。コンビニも最近併設しました。珍しい、完全民営の道の駅です。その分、施設に金がかけられませんでした。ここは私も理事をやっていますので、少し、宣伝しておきます。
 この『きのくに』の売店前の昔ながらの赤いポストは現役です。毎日郵便屋さんが集めに来ます。

 道の駅 熊野 きのくに
カメラはイコンタ523/16 ノバー75mm

by je2luz | 2005-07-25 00:22 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2005年 07月 24日

熊野の旅 熊野へのアクセス

 今まで、新宮から紀伊長島までを各駅停車で案内させていただきましたが、今時、こんな調子で旅をすることも無いと思います。
 今様にて熊野入りする時の参考になれば、と、行程を上げておきます。
 東京方面からの熊野入りは『高速バス』が一番安くて便利です。今では寝台列車が無いので夜行バスで我慢してください。三重交通と西武鉄道の共同運航で大宮発南紀勝浦行きになっています。予約が必要ということのなっています。
下り熊野方面向き
大宮西口    池袋東口    熊野市駅前  片道      往復  
 20:50     21:35     7:20     9790円   17620円

熊野市駅前   池袋東口    大宮西口  
 20:40     6:25       7:05
このバスは焼こうが平気なら一日が有効に使えますし、JRなら15300円かかります。往復買えば割引があります。予約など詳しくは三重交通のHPへ

JRの場合新幹線名古屋乗換え、紀勢線特急『ワイドビュー南紀』などになります。名古屋から2時間50分くらいかかります。本数が少ないので気をつけないといけません。
名古屋発特急の発車時刻は 08:14  10:06 13:06 19:45 の4本だけです。たまに臨時は出ていますが・・・非常に本数が少ないです。お盆と正月以外はがら空きに近いです。予約無しでも立たされることはほとんど無いと思います。

車の場合、東名高速名古屋インター・・・名古屋高速・・・東名阪・・・伊勢自動車道勢和多気インター ・・・R42勢和多気インターから熊野まで約110Kmです。普通に走っても2時間半です。事故停滞以外にはラッシュはありません。ただし、夜中の走行はガソリンスタンドの開いているところが少なく、食堂も開いていませんからそのつもりで走ってください。コンビニはそこそこあります。

大阪方面からは地元の人は近鉄線松阪経由JR紀勢線を使います。新宮経由は連絡が悪い時がありますから気をつけてください。
道路で大阪方面からは西名阪経由橿原・・169号線伯母峰峠越えになります。約180Kmです。京都からは24号線橿原経由169号線です。

どちらから来ても、道も列車も枝分かれの仕様が無いような山の中、田舎ですから迷子になることは無いと思います。


by je2luz | 2005-07-24 00:27 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
2005年 07月 21日

熊野の旅 紀勢線 紀伊長島駅 2

 昔の紀伊長島駅は、機関区があり、蒸気機関車が忙しく走り回り、給水塔や石炭サイロなどもある、大きな駅でした。大きいといっても旅客用の駅自体は町が小さいので今と変わりません。
 紀勢線全通と同時に、トンネルが多い区間と言うことで客車はディーゼル機関車で引っ張り、気動車も導入すると言うことになりました。
 ディーゼル化されると蒸気機関車に比べると準備も格段に簡単ですし。前後ろの無い機関車にな李、全ての面で人員削減になりました。ほんの一部のローカル列車の編成以外は亀山と新宮でまかなう事となり、駅周辺に立ち並んでいた国鉄官舎が空き家団地になってしまいました。
 今でも保線はここにあるようで、大型の作業車にはKIINAGASHIMAと大きく書いてあります。しかし、かつての保線区のように人員は居ないようです。
 かつての駅前は、狭い道路から少し入ったところにあり、駅の規模とは全然違う狭いものでした。私鉄・西武線の駅程度のイメージでした。
 最近、乗客も居なくなってから駅前再開発で民家や店舗の立ち退きで、広い道路と駐車場完備の駅前広場が出来ました。出来立てらしく、地元の人が感心しながら見ていました。
 今度は全国床にでもある、『気の利いた小さな駅』に変身しましたが・・・味気がなくなりましたね。
 ただ、駅の構内は幸いなことに手を加えられずに済んでいます。
 木の柱で屋根を支える昔ながらのホーム上屋が残っています。
 ここの跨線橋には屋根があります。熊野市、尾鷲・・・そして紀伊長島と、特急の停まる駅だけに屋根があります。偶然なのでしょうか?
 新宮からここまで各駅停車でお供しましたが、この先『荷坂峠』を越えるともうそこは伊勢の国です。この荷坂峠は国道もそうですが鉄道もほぼ同じ高さまで一気に上る難所です。
 かつて、蒸気機関車の頃は普通の編成で重連で登りました。少し長い編成になると更に一両後ろにつけて3台で登っていました。線路・鉄橋の関係でD51のような重いものは使っていなかったようです。
 ジーゼルになっても機関車時代はやはり一台で登れず、ディーゼルの重連でした。
 登りはあえぐようにしてのぼり、下りはブレーキの悲鳴音を立てながら駆け下っていました。気動車でも下りが怖いときがあります。
 これから先の伊勢の国は縄張り外になりますし、私の紀勢線の各駅案内はここまでにします。JR西日本側の方が紀州路なので馴染みがあります。そのうち撮影に出かけて載せるようにします。
 これからは、熊野古道周辺や吉野なども含め、行程はバラバラになると思いますが少しずつ載せてゆきます。
 列車の方は楽しい旅を続けてください。



カメラはイコフレックス2a

by je2luz | 2005-07-21 16:33 | 熊野 | Trackback | Comments(3)