LUZの熊野古道案内

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2005年 06月 30日

熊野の旅 紀勢線 紀伊井田駅

 鵜殿駅を出ると列車はみかん畑や民家の間を進んでゆきます。
 次の駅は『紀伊・井田』です。この井田(いだ)については、海岸浸食のことで少し前に取り上げました。
 三重県南牟婁郡紀宝町井田というように紀宝町に属しています。もうすぐ、鵜殿村と合併する手はずになっています。
 ここは昔から、半農半漁の集落でした。山が迫っているため水田がほとんどなく、小さな集落でしたが、近代に入り、鵜殿村の紀州製紙が出来ると共に、その住宅地として少し大きくなりました。
 この駅は単線区間の特急通過の無人駅ですし、駅舎も小さいので特急に乗っていると気が付かないままに通過するかもしれません。地元でも、通学の高校生以外はほとんど利用されていません。
 かつては、通勤や買い物にも利用され、結構賑わったものです。こうした、淋しい駅は全国のローカル線どこにでもありますね。
 このあたりから熊野市駅までの間は、車窓、手の届きそうなところにみかんがなっています。温州・甘夏・八朔・セミノール・・・実に色んなみかんが植えられています。
 気候温暖で非常に甘味の強いみかんが採れる地域です。産出量が少ないので都市部ではあまり見かけないでしょうね。
 みかんも、昔のように高値で売れるわけでもなし、『みかん御殿』などという言葉も死語になっています。
 採算の合わないみかん農家を継ぐ人もなく、地元企業や自治体に就職できた人以外は地元には残っていません。当然のこととして、急速な老齢化が進んでいます。
 これも、全国何処にでもある現象ですね。
 気候温暖ですから、老人が住むには適しているとも思われます。特に受け入れ施設があるわけではありませんが、個人的にこの南紀に土地を求めて移住してこられる方も居られるようです。都会の感覚からすると土地はやはり安いですからね。

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by je2luz | 2005-06-30 11:59 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 06月 29日

熊野の旅 紀勢線 鵜殿駅

 JR東海一番南の駅になります。
 新宮を出発するとすぐにトンネルに入り、昨日の写真の『熊野川』を渡り三重県に入ります。
 県境は鉄橋の形が変るところです。
 鉄道ですと、アーチ型の骨組みが視界を邪魔しているのが和歌山県領、何も無くなって見晴らしがよくなったら三重県領です。国道も県境の目安に形を変えています。
 東海側の最初の駅が『鵜殿駅』になります。
 鵜殿村は面積が狭いことで有名ですね。わずか2kM四方しかないので、鵜殿港の建設で海面と河口部分を埋め立て(公有水面埋め立て)したことで、村の面積が大幅に増えてしまいました。そのためか「日本一小さな村」のキャッチフレーズがいつの間にやら『港のある日本一小さな村』に変わっていました。多分、日本一ではなくなったのでしょうね。友人の村会議員が国土地理院の定期修正をすごく気にしていましたからね。
 この鵜殿村は前にも書いたように紀州製紙の城下町として栄えてきました。当然のように、この鵜殿駅も紀州製紙にパルプの原木や漂白剤を搬入し、製品のパルプを積み出すことで賑わっていました。
 今でも引込み線は国道42号線を横切って工場の構内に延びています。
 今ではチップはトラックになり、薬品の一部もトラックが運んでいます。ほんの一部の製品と薬品のタンクローリーが出入りしています。ここの踏み切りは車優先のものです。出入りする時には誘導員がゲートを下ろし列車を誘導します。
 かつては構内にトム・トキ・ワムなどと言う貨車が数珠繋ぎで待機していたものですが、今ではほんの少しの貨車とジーゼル機関車が暇そうに停まっているだけです。
 本線を貨物列車が走るのも日に上下一便ずつらしいです。
 鵜殿村には東京晴海のホテル浦島の社長さんが住んでいることになっていました。それも、鵜殿村が裕福な理由の一つでした。
 今年の秋には隣の紀宝町との合併で鵜殿村が消滅します。
 狭い村ですから気が付かないまま通り過ぎる人もいるでしょうね。
 この駅には特急列車は停まりません。

 
こんなカメラで撮りましたツァイス・イコフレックス lla
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by je2luz | 2005-06-29 05:09 | 熊野 | Trackback(1) | Comments(0)
2005年 06月 28日

熊野の旅 紀勢線 新宮駅

 紀勢線は昔、紀伊木本駅(現熊野市駅)と尾鷲駅の間が完成せず、東西に別れていました。
 その線路がつながって和歌山-亀山の間・・・紀伊半島をぐるっと廻る『紀勢本線』が完成しました。
 そして、国鉄民有化のとき、この線は再び二つに分かれました。
 この新宮駅から和歌山までは『西日本旅客鉄道』の路線になり、三重県側は『東海旅客鉄道』の路線になったのです。
 新宮駅はかつて機関区や客車区のある、巨大な駅でした。構内では入れ替えようの小型蒸気機関車が走り回り、待機中の蒸気機関車が薄い煙を上げている活気あふれるものでした。
 今では西日本側は電化され、列車も電車になり、機関区などもなくなりました。製紙工場への引込み線の廃線など、随分小さくなりましたが、紀伊半島の鉄路の拠点には変りありません。東海側の列車もここから出発しています。
 駅前にはバスターミナルがあり、その先に、先日の『徐福公園』が見えています。
 この駅からは、戦争前でも鉄路門司まで行き、連絡船で朝鮮半島経由、満州・中国へつながっていました。
 徐福さんも志なかばで、この異郷の地でなくなられたとしたら、機関車の汽笛を聞くと、『今の時代ならすぐに帰れるのにな・・』思ったかもしれません。
 彼のふるさとはカラーの良く似合う風土だったのはずです・・・この門のように・・・
 今は、石像になってふるさとのほうを見て立ちつくしています。
 新宮駅の駅弁は『めはり寿司』『さんま寿司』です。
 めはり寿司は高菜の漬物でご飯を包んだ素朴なもので、紀州全域で食べられるものです。
 さんま寿司は熊野灘でとれる油の落ちた小ぶりなさんまを使った姿寿司で、これも紀州全域で作られています。そして、その寿司用の最上のさんまは熊野市遊木町で水揚げされた棒受け網のものとされています。
 紀州全域食文化は良く似ています。駅弁には無理ですが、鮎やさんまの『なれ寿司』もあります。市内の料理屋さんで食べられる時もありますから探されては如何でしょうか。これは、発酵させた物ですから癖があり、誰でも食べられると言うものではありません。琵琶湖の鮒寿司のお好きな方ならうなる一品です。まあ、機会があればチャレンジしてみてください。


 どこと無く淋しげな徐福さんの石像と中華風の公園入り口の門。
カメラはミノルタα7700i コシナ19mm~ズーム
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by je2luz | 2005-06-28 09:56 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 06月 27日

熊野古道の周辺 武蔵坊弁慶

 今はやりの義経と言えば弁慶ですね。
 弁慶は紀州の出であることは間違いないようです。
 親父さんは田辺のえらいさんであったことも間違いないようです。
 肝心の弁慶さんの生まれ在所がはっきりしないようです。
 幼少の頃より暴れん坊であったとか・・・
 伝説が残るのなら生まれ育ったところも確定できそうなものですが、いまだに確定できていません。
 目下、田辺市と新宮市との間で本家争いをしています。
 田辺が弁慶会館とやらを作ると言えば新宮は記念碑とか・・・
 ところが・・・・この南側の生誕の地は新宮市ではなく、三重県側の今の南牟婁郡紀宝町になります。
 写真が紀伊半島の大河熊野川の河口部、新宮市側から上流対岸を眺めたものです。
 今でこそ、鉄橋があり、簡単に往来できますが、歩いて越すことの出来ない熊野川ですから、昔では大変遠い対岸です。
 御本家紀宝町ではさほど騒いでは居ません。本家を名乗ってみても一過性のブームでは村おこしにならないことを知っているからでしょうね。
 ただ、武蔵坊弁慶はやはり熊野の出であることに違いはありません。
 そして、小さい頃はこの川で遊んだと思いながら眺めてください。


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by je2luz | 2005-06-27 15:27 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 06月 26日

熊野古道の周辺 熊野川総合開発 3

 熊野川総合開発の完成後しばらくすると、洪水調整機能の反作用として、下流の一部の川床が上昇始めました。
 本当は上流からの土砂の流入が停まったのですから、当然下がるはずなのですが、大きな勢いのある水の出ることが減ったので溜まりやすい場所に滞ったわけです。
 折りしも、戦後の復興期から高度成長期への建設資材不足から、和歌山県は砂利採取を無制限に近い形で認可してしまいました。
 年月がたつと共に、河口からの土砂流出が減った分、この流出土砂のうちで砂利の部分が潮流で流され打ち上げられて出来ていた七里御浜の浸食が始まりました。
 建設前の調査段階での調査・・・今で言う『環境アセス』で東京農大の教授が明治の大洪水の例を引用し、『ダムを建設すれば、後年、七里御浜の砂利の減少は避けられない』と、断言していました。
 しかし、今以上に、『作るためのお墨付き』である、調査ではそうした声は無視され、消されてしまいました。その報告書はもうすぐ無くなる『鵜殿村』に保管され忘れられていました。たまたま、30年目の更新交渉に関係した時、その文書の存在を知った私が探し回り、鵜殿村に保管されていることを突き止めたのです。当たり前のことを書いたものですが、こんなものを認めては全国のダム建設は停まってしまいますから、国としては認められませんね。
 一番端的なのは、ここ七里御浜ではなく『大井川河口』でしょうね。戦後まであった道路や鎮守の森まで海の中に消えています。大井川を『水の無い川・大井川』と、銘打った番組がありました。ここは分水によって水のほとんどが他の川に流されてしまったのですから、浸食の度合いは熊野川の比ではありません。
 しかし、後年作られた突き出し方式の『鵜殿港』の建設で拍車を掛けられ、黒潮のすぐ下流に当たる『井田海岸』の浸食は恐ろしいものです。
 少し前まではきれいな砂利浜が広がり、地引網のメッカでしたが、今では砂利浜は消失し、内側の国道と集落を守るのに汲々としています。
 人間の力では熊野灘が牙をむいたときの破壊力を止めることなど出来ません。
 大井川町のようにどんどんと人間が山のほうに逃げなくてはならないようになるでしょうね。このあたりは、逃げ代がありません。何年かすると七里御浜だったはずが『東名・由比』のあたりのようになっているかもしれません。
 七里御浜の景観を心行くまで眺められるうちに、熊野三山めぐりと熊野街道・浜街道においでください。


カメラはミノルタα7700i コシナ19mm~ズーム
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by je2luz | 2005-06-26 13:14 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 06月 25日

熊野古道の周辺 熊野川総合開発 2

 熊野川総合開発電源開発株式会社によって推進されました。
 目的通り、電力の確保を行うと共に、十津川水系から高野山系をぶち抜いて紀ノ川側に分水して紀ノ川の水量不足を解決すると言うような都市部の勝手な論法で進めました。北山川水系の水も一部全然あとでの水利用の無い尾鷲湾に落とされました。落差を稼ぐと言う意味からです。
 このように熊野川水系はダムによって細切れにされ、水までが他に吸い取られることになりました。『熊野川流域に降る雨は全て電源開発株式会社のものである』と言う『水利権の放棄』を要求され、全ての流域自治体や住民から奪ってゆきました。そして、契約に関し、補償が解決したのだから、『孫末代まで文句は言いません』式の言葉が書かれています。
 水利権も永久放棄ではなく『30年で契約更新』になっていました。せんそすぐから始まったダムの契約更改が当然のように昭和55年(1980)ごろから始まりました。当然のこととして、予測されなかった障害、予測されても無視した被害が山済みされていたのでこの作業は難航しました。手続き上判を押すのは『県知事』ですが『各自治体の長の同意』が必要だったからです。自治体の長となるとめくら版は押しにくいですからね。それに、国に騙されたと言う意識が強かったから尚更です。
 こうして、戦後すぐの分から難航し始めると、マスコミもまともに取り上げない形で法改正をしてしまいました。最初の30年目は変更できませんが、次からを50年に延長し、はんこを押すときには自治体の長は参考意見を述べるに過ぎなくしてしまいました。まるで交渉などの対象にはならなくしたのです。これほどひどい改訂でも『都会中心のマスコミ』はまともに報道もしませんでした。
 このようにして田舎は自然を犠牲にして電力の供給と『集団就職』などという大量人材供給をして日本の復興と人材供給に寄与したのです。
 下流の被害や上流の魚の被害をよそに、こうして出来たダム湖はよそから来た人達の目を楽しませているようです。しかし、自然に出来た湖とは違い、湖畔の無い不自然なたたずまいは人を寄せ付けません。立ったまま沈んだ木々・・・河童も住みたくないでしょうね。
 観光案内とは少し違いますが、これが熊野地方の近代の姿です。熊野だけでなく全国の山間部共通のことかもしれません。
 写真は『七色峡』というところですが、ダムにより水がこなくなり、どんよりした『水溜り』担っています。
 カメラはヤシカフレックスD

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by je2luz | 2005-06-25 12:23 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 06月 24日

熊野古道の周辺 熊野川総合開発 1

 『熊野川総合開発』などと言うと格好よいものに聞こえますが、紀伊半島から清流と海岸を奪う暴挙だったのです。
 戦後の復興期、日本の電力事情は非常に厳しいものでした。一般住宅でも停電が毎日のように続いていました。工場ではまだボイラーに頼る状態でしたから、国策として『水力発電所』を日本中に作る計画が持ち上がりました。
 水量豊富、急流、周囲の山が高く頑丈、人口が少ない・・・走した条件に適したところとして紀伊半島も白羽の矢が立ちました。熊野川水系の北山川・大又側・十津川全てにダムが作られてゆきました。吉野白川・熊野神川などの集落が水没して行きました。
 そもそもこの計画はアメリカ合衆国におけるテネシー川総合計画の成功をモデルにしていました。
 電力の確保と共に巨大土木事業による景気刺激、補償による巨費の投入で巻き起こる民間の建設、消費ブームなどを期待したものです。
 世界銀行の借款などを含め巨額が投じられてゆきました。この成功が『景気対策』=『公共事業』の発想と図式を作っていった一員です。
 この巨額の移転補償を目当てに、ダムの建設予定地を渡り歩いた人たちが居ます。集落の外れや山あいの人の住まない安い土地を買い、バラックを立て、池を作り鯉を放し・・・まさに全国を渡り歩いていたのです。ダム建設についてまわる建設労務者より一足先に動くわけです。
 こうして移り住んできたグループの一団が写真に見える谷あいの集落です。昭和37年ごろの熊野市五郷町ものです。この集落はダム建設に寄生する集団の存在が社会問題になってきた時期になり、それ以前のように『銭儲け』にはならず、『ダム建設が決まり、水没予定地であることを承知で購入、または借地し、建物や養殖池などを建設したものは補償の対象にならない』と、言う当たり前のことが当たり前になり、追い出されることになりました。
 子供をつれ転校させ点々と移住していた人たちはその後どうしたのでしょうか?あれから40年余りです。10歳の子でも50歳を越えていますね。高度成長にうまく乗れていれば良いのですが・・・
 自然に対する影響は次に書きます。



 カメラはニコンF ニッコール105mm 当時は花形現役機種でした。


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by je2luz | 2005-06-24 12:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 06月 23日

熊野古道の周辺 飛鳥・流れ谷の里 3 大又川の河童

 大又川の上流は紀伊山地を駆け下りる急流な部分が多い川です。
 それでも、所々、淵になり緑色の深みが少し不気味に見えているところもあります。
 走した淵の一つ、飛鳥の小阪地区の平(だいら)にある蔵本の淵には河童伝説があります。
 河童伝説はどんよりした大きな淵や湖が多いですね。もぐって正体を調べられないようなところで無いと、迫力が出ませんからね。
 この淵は、確かに大又川にしては深くて大きいのですが、格好の子供の水泳場で、昔から学校の指定水泳場です。
 ここの河童伝説は少しおかしなところがあります。
 昔、この淵に、いたずら物の河童が住んでいました。お百姓さんたちが淵の下手の浅瀬を牛を連れて渡ろうとすると足を引っ張って、大切な牛を引きずり込んでしまうのです。
 そこで、困ったお百姓さんたちがお坊さんに頼んで、河童封じをしてもらいました。
 お坊さんが河童封じをすると、目の前に河童が現れました。
 お坊さん『これ、どうしてお前は悪さばかりして平の衆を苦しめるのだ』
 かっぱ『わしの願いを聞いてくれるのならいたずらはやめてやるよ』
 お坊さん『一体何が望みなのじゃ?』
 かっぱ『キュウリを作らんといて欲しいんじゃ』
 お坊さん『分かった。平衆に言って、これからはキュウリを作らせんから、もう悪さはするなよ』
 かっぱ『約束を破ってキュウリを作ったら、又、悪さをするぞ』
 
 こういい残して河童は消えて行ったそうです。
 この河童は地元で『ガロボシ』と呼ばれています。
 それ以来つい最近まで平では実際キュウリを作りませんでした。私も平らで育ったのでキュウリは他の部落で作ったのを貰って食べていました。たった十数軒の集落ですし、あえて作って食べなくてはならない作物ではないので、みんな守っていました。それに、川向こうの畑なら作ってよいのですからね。
 それは良いのですが、ガロボシが『キュウリを作るな』と言うのが面白いですね。全国的に河童の好物はキュウリですよね。『一杯作って、腹いっぱい食わせろ』なら分かるのですが・・・
 このガロボシはキュウリを食べ過ぎて、キュウリの顔を見るのも嫌だったのかも知れませんね。
 20年ほど前に農協が種キュウリの栽培をしようとして、この伝説がネックになったので、封じなおしをして今ではキュウリを作れるようになりました。
 淵の下手には立派な箸がかかり川を徒歩で渡ることもありませんし、最早、牛が一頭も居ません。
 この淵の隅から隅まで潜って魚とりをして遊びましたが、大きなくぼみが沢山あり、魚の宝庫でした『ガロボシ』には一度も出会いませんでした。



カメラはFUJI GS645S
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by je2luz | 2005-06-23 11:41 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 06月 23日

熊野古道の周辺 飛鳥・流れ谷の里 2

 ここ飛鳥は歴史的にはっきりしているのは南北朝時代に南朝の落ち武者が落ちてきたことでしょうね。
 町内、神山(こうのやま)のお寺には少し書き物が残っているようです。
 奈良とか京都から見ると、吉野でさえが片田舎、山の奥に鹿が無く位の場所です。
 そこから更に南に100Km・・・それも、鹿ではなく狼が跋扈する大台の山を越えた先など、想像も出来ない地の果て、恐ろしいところだったでしょうね。
 平家の落人も、関が原の落人も、何かあるたびに落人達はこの辺に逃れてきたのでしょうね。
 残念ながら、このあたりには『見目麗しき乙女子』は居なかったのか「ヒエ搗き節」のようなロマンティックな悲恋物語は残されていません。それとも、村の娘が惚れるほど男前の若武者が落ちてこなかったのでしょうかね。地元としては後も方が良いですね。
 ここ飛鳥から一山越えた奈良県吉野郡下北山あたりには平家の落人が一杯来たらしいですね。そちらの方が山が高く何となく落人物語には似合いそうです。それに、飛鳥では落人をしのばせる展示物や作り物が無いので、観光のお客さんが行くところが無いですね。
 大阪方面から169号線・309号線経由でこられる方は、熊野市に入ってしばらくの間の山間部の集落が昔々、落人達が落ち延びて住み着いたであろう流れ谷の里ですから、そのつもりで山々を見ればそう感じられるかもしれません。
 こうした場所もご多分に漏れず二車線の国道が出来てしまい、日本の田舎『金太郎飴』になってしまったのが残念です。
 42号線で名古屋方面から来ても熊野市に入ってすぐの集落からがこの里です。
 両方の道共に清流・大又川に沿って走っています。
 ドライブ途中の休憩にも適したきれいな川です。
 42号線沿いの『道の駅・熊野きのくに』のそばには親水公園もあり、清流を眺めながらゆっくり休憩できます。是非お立ち寄りください。
写真は親水公園から見た清流・大又川と道の駅・熊野きのくにです。

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by je2luz | 2005-06-23 02:52 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2005年 06月 21日

熊野古道の周辺 飛鳥・流れ谷の里 1

 昨日の龍門山のふもとを抜ける八丁坂を越えると海抜300mくらいを流れる『大又川』沿いの集落に出ます。ここが飛鳥町小阪、旧飛鳥村大字小阪です。
 八丁坂を越えて今の道のりで9Kmほどです。歩く道はもっと短いです。
 木本町からは以前に出てきた評議峠(ひょうげ)を越えるとやはり旧国道経由で8Kmくらいでしょうか・・・今の国道で約9Kmです。ここも、昔の歩く道の方がはるかに近いです。
 私が子供の頃には映画館のある木本まで歩いてターザンなどを見に行ったものです。時代が時代なので映画賃を出してもらうのがやっとで『省営バス』の乗るお金など出してもらえませんでした。省営バスって分かりますか?昔、山手線を省線と呼んだものですが、それと同じで『鉄道省営バス』ですね。戦後になってもしばらくはそう呼ばれましたね。
 この様に小阪と言うところは山間ではあっても一山越えれば海です。更に、ここから道は二つに別れ、北に向かえば大台ケ原経由奈良に向かいます。東に向かえば矢ノ川峠経由で尾鷲・伊勢に向かいます。国道で言えば42号線は熊野・伊勢を結ぶもので、309号(169号)は吉野と結ぶものです。
 このようにここは交通の要所です。熊野古道は海岸線沿いのものが整備され指定されていますが、そちらは峠の数がものすごく多く距離も長くなります。評議越え、矢ノ川峠越えであれば峠は二つです。本当に陸路を歩いた人はどちらを通ったのでしょうね。
 海路を利用しながら行くなら海沿いですが・・・
 海岸の要衝の新鹿からも牛車時代に飛鳥との間に道を開設したほどです。海沿いはそれほど難路です。ただ、山賊に関しては分かりませんね。
 ここの大又川は尾鷲との境の山を源流にして、硬い岩盤の山に阻まれて、どこでも海に出られず、延々と一枚の山の裏側を流れ続け最後は熊野川となって新宮にそそぎます。
 この川筋をと呼びます。この周辺については次に書きたいと思います。
『流れ谷』
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by je2luz | 2005-06-21 11:33 | 熊野 | Trackback | Comments(0)