LUZの熊野古道案内
2022-01-01T02:16:23+09:00
je2luz
世界遺産・熊野古道の話題を中心に書いてゆきます。
Excite Blog
2022年元旦
http://je2luz.exblog.jp/29040544/
2022-01-01T02:16:00+09:00
2022-01-01T02:16:23+09:00
2022-01-01T02:16:23+09:00
je2luz
熊野
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寺子屋・学校
http://je2luz.exblog.jp/29027093/
2021-12-21T07:00:00+09:00
2021-12-20T17:51:42+09:00
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je2luz
熊野
「あります」ではなく、「ありました」が正しくなってきているようです。
熊野市でも戦後しばらくは、「瀬戸分校」「清柳分校」「赤倉分校」「甫母分校」など一杯分校があったのです。
交通の便も悪かったですがそれで毛子供が居たのです。
つまり、子供の教育が集落の中心にあったということです。
今の熊野市では一年に生まれる子供が年間80名から60名くらいになっています、
全部で二クラス分なんです、
旧熊野市で8か町村半、旧紀和町で3か村?ですから、過疎の進行がどれほどかわかりますね、
「学校の統合」も生半可なことでは済まないことが分かりますね。
小学校で「2校」が限界でしょう。
道路状況が良くなって今市から、「交通の便」を改善すれば、教育的見地からしてもとうごうすべきだと思われます。
校舎がそこそこ新しいのでもったいないのもありますが、立地条件からして引っ越した方が良いところもあります。
中学校も二校、高等学校は一校ですね。
そこまで行うと、「集落の中心」にはならなくなります。
それが、「時代」でしょう。
それが「代官松」の切り株です。
木本にあった「奥熊野代官所」の入り口にあった松です。
昭和の中ごろまで生きていたのですが…
木本小学校の入り口に立っていましたが、校舎建て替えの時に「天理教南紀大教会」の入り口に変わってしまいました。
木本の歴史を語るものですが…
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熊野市 人口推移
http://je2luz.exblog.jp/29026754/
2021-12-20T12:52:00+09:00
2021-12-20T12:52:53+09:00
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je2luz
熊野
市になる要件の一つにじんこう3万人と言う壁がありましたからね。
昭和30年当時だと、戸数7023 人口30819 と言う数字だったのです。
その後の経過は… 昭和50年 戸数8994 人口 27026
令和元年 戸数8855 人口 16746 と言う結果です。
戸籍の関係で戸数は減っていなくても人口が減っています。
個別の集落の人口は時代とともに喧嘩していますが、若い人が家を建てて引っ越しているだけで人口の増加にはなっていません。
木本などは「ドーナツ化」を通り越して「過疎化」しています。
昭和50年 令和元年
木本 1731戸 4926人 1008戸 1784人
井戸 1337 4045 1567 3093
有馬 1737 5322 20074 4007
久生屋 120 632 703 1567
金山 213 588 342 869
飛鳥 798 2315 604 1122
五郷 586 1649 403 710
と言う具合です。
狭いところに人が住んでいるのが、「木本」です。
他は平地が少ないところですから「広い場所」に住んではいません。
飛鳥や伊佐跡の場合は「面積」は広大ですが、「山林」がほとんどです、
飛鳥などは、大又・小又・小坂・佐渡・野口・神山に分かれていますが、一つの村なのに小学校が三校・中学校が一校あったのです。
大又川沿いに細長く横たわった地形です。
真ん中に大又川が横たわり、両脇に棚田的な農地が並んでいる手計です。
田舎としてはきれいで済む良い場所ですが・・・
効率としてはあまりよろしくないです。
何が言いたいかと言うと・・・
「集落統合」などがしにくいのです。
中核の家を中心に何軒か集まる…
なんてこともできにくいのです。
集合住宅に集めるにも元の家から遠くなるし…
集落ごとにそれなりの家はあるのですが…
譲り渡してくれそうにありませんし…
新しい集合時委託を建てるほどのこともなさそうですし…
やっぱり、「不動産」と言う概念が邪魔になりそうです。
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集落…村・叢
http://je2luz.exblog.jp/29028496/
2021-12-20T08:55:00+09:00
2021-12-21T22:43:14+09:00
2021-12-21T22:43:14+09:00
je2luz
雑感
それがだんだん多いくなって「町」なんてのが出来たのでしょう。
それが時代とともに逆行始めたようです。
人口もどんどん減り始めたようですし…
田舎では「集落」の維持が出来なくなってきています。
私が子供のころには田舎では子供が一杯居て…
時代の転換期だったのでしょうね。
歌謡曲でも田舎から都会へ出てゆく歌詞が多かったです。
「リンゴ村から」「おさげと花と地蔵さんと」「哀愁列車」「ああ上野駅」…
集落が寿命を迎えるようになる時、「集落って何ぞや」と、問い直してみることも重石来かも知れません。
最初は家族・親族の塊だったでしょう。
そしてその中心には、女性であったり男性であったりして「家長」が居たのでしょう。
そのなかで生まれてきたのが「宗教」だったのかもしれえません。
「自然のこわさ」「寿命のはかなさ」「人間のこわさ」いろいろ怖いものがあり、
何かにすがりたい気持ちが生まれて当たり前でしょう。
「宗教」と言うには原始的でも世界中でそんなものが生まれていますからね。
だから、集落の中心には「宗教」があったのでしょう。
そんな中で。原始信仰・神々が生まれ、神話が生まれ、そして「仏教」なんてのが入って来、キリスト教だとかもはいいてきたのでしょう。
宗教を言うやつは厄介なものです。
修業が出来ていない連中が多いのらしく、「派閥」ができ、その派閥が恐ろしいものになりますね。
現代でもイスラムの辺りでは派閥によって殺し合いがくぉこな割れています。
その厄介なものが「集落」の中心になり、「集落維持」の役割を果たしてきたのですから…
日本では古来の「神々」を信じるのと同時に「仏教」をも信じたようです。
それがそこそこうまく行きそこそこ平和に過ごしてきたようです。
神社は数限りなく多いし、仏教の方も数限りなく多いです、
この辺では「曹洞宗」が多いようですが、「真言宗」「日蓮宗」「創価学会」「浄土宗」「浄土真宗」「天台宗」「天理教」「金光教」など限りがないほどの信者さんがおられるのだと思います。
それぞれがそれなりの信者さんが居た時代は 良かったのですが、今の時代は「寺離れ」が進んでお寺さんの維持が難しくなってきています。
この辺でも「廃寺」「統合」が始まっているようです。
お寺が集落の中心だった時代とは違っていますから…
「墓じまい」が話題になっていますが、「墓」って厄介なものです。
粗末に扱ってはいけないようですし…
「骨」って、扱いによっては「ゴミ」なんですけどねえ…
墓に収まっている分には「遺骨」なんです。
でも、墓が荒れたら…
そろそろ、法的な面でも見直さないといけない時代でしょう。
集落の見直しでも、「宗教」「墓」の見直しも必要な条件だと思います。
ちなみに…
私は「墓」「戒名」がいらない派です。
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木本町・新田・水谷茶屋・上木本/記念通り
http://je2luz.exblog.jp/29024124/
2021-12-18T09:16:00+09:00
2021-12-18T09:16:25+09:00
2021-12-18T09:16:25+09:00
je2luz
熊野
松本峠を越えて七里御浜越しに見た「熊野三山」の山並みは素敵なものだったと思います。
街道は親父町から本町通に入り海岸沿いを通っていたのです。
昭和に入り、起源2600年を記念して「記念通り」が作られ木本の中心がの駅との関係もあって、中心がずれていったのです。
元々の地形では木本の左端は「池尻」と呼ばれる沼地。」田んぼだったようです。
さすがにその時代のことは知りませんが、切立からの谷は要害山の阻まれ、おそらく、我が家の近くで海に出ていたこともあったのでしょうね。
木本では浜地ですから水の確保が大変だったようです。
新田からの水とゆで引っ張ってなんか箇所かの水受け場所に給水していたそうです。
おかげで、近代上水道の整備が三重県でもトップに行われたようです。
記念スタンプが「国会議事堂完成記念の記念切手」に押されています。
それに、紀元2600年を機会に「記念通り」を整備したのです。
戦時中に片側二車線両脇に歩道をとった立派な道を通したのです。
木本町が元気だった時代です。
戦後になってようやく世間が落ち着きかけたころになって記念通りが中忍になった行ったようです。
その頃になると、人口の都市集中が始まり、若い衆はどんどん都会に出て搗くようになり、過疎化が始まってのです。
この板塀の場所わかりますか?
記念通りのど真ん中です。
記念通りを通すときに中途半化に残った土地をりようして、商店が並んでいたのです。
雑貨屋さん・テイクアウトの寿司屋さん・写真屋さん・印鑑屋さん・お総菜屋さん」が並んでいたのですが、奥行きが一間ほどの店でしたが、そこそこ商売にはなっていたようです。
老朽化もあって取り壊されています。
目抜き通りからお墓が見えるなんて…
だから、無理やりみすぇを作っていたのでしょう。
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木本町 消えていった店店 3
http://je2luz.exblog.jp/29019284/
2021-12-14T10:13:00+09:00
2021-12-14T10:13:56+09:00
2021-12-14T10:13:56+09:00
je2luz
熊野
上木本に「第三相互銀行」「東映」「山下商店」「こまや百貨店」「主婦の店オークワ」「セブンストアー」などが並んだのですが、木本小学校が商店街としては邪魔でした。
町の構造からして。「木本小学校」を他へ移せませんでしたからね。
おまけにその時代の木本小学校は在校生が1000人を超す大所帯でした。
そんなこんなで記念通りは大きく育つことなしでおわりました。なっていま
映画館は無くなって「東映プラザ」として残っていますが、建物の一部だけが残されたかたちです、
権勢を誇った「山下商会」も権力が消えると同時に普通の家になってしまいました。
威容を誇っていた「こまや百貨店」も当主さんが無くなると同時に建物を取り壊しました。
時代を受けて流行っていた「スーパーオークワ」も手狭まということもあり、井戸の方に引っ越してきました。
大きなもので残されたものは「吉野熊野新聞社」だけくらいになっています。
それでも記念通りが熊野市を代表する商店街として頑張っている?様です。
「いこらい市」というイベントが続いていますからね。
と言うより、「商店街」と言うものが育ちませんでしたから…
記念通りでは「振興組合」が作られていて。一応活動はしているようですが、創設メンバーが卒業してしまったようです。
「いこらい市」とか「太鼓のフェスティバル」などが活動の中心かな?
でも、地元の商店主がほとんどいなくなっています。
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木本町 消えていった店店 2
http://je2luz.exblog.jp/29017598/
2021-12-12T21:12:00+09:00
2021-12-12T21:12:40+09:00
2021-12-12T21:12:40+09:00
je2luz
熊野
三丁目が木本町の役場もあったので町の中心部分になっていたようです、
役場は今の丸田商店の場所にあったようです。
建物は二つに割られて、残っているのは丸田商店の部分です。
三丁目
弓場洋品店・天狗屋履物店・中森ボタン屋・星山酒店・西書店(移転)・丸福文具店・今元キャンディ店・岩本キャンディ店・有本理髪店(移転)・脇本家具店・山田靴店・福田ラジオ店・木材組合・熊野警察署(移転)・百五銀行(移転)・谷本写真屋・風間薬局・長坂歯医者・
二丁目
岡田肉屋・倉本洋品店・佐々廣金物店・酒甚旅館・春風寒旅館・長嶋屋・楠原新聞店・楠原電気店・
一丁目
小島パン屋(移転)・酒屋・
二丁目や親地町に関してよくわかりません。
商店は縦の通りにも並んでいました。
職業安定所なんてのも狭い場所にありましたからね。
魚屋とか八百屋なんかは縦の通りにありました。
これらの店が並んでいたのですから立派な商店街でした。
ただ、材木商などの店なども入っていたので、一見、金持ちの家風に煮える家もありました。
(移設)と書かれていない店が消えていった店です。
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吉野郡・南牟婁郡 田舎の村々
http://je2luz.exblog.jp/29015682/
2021-12-11T09:41:00+09:00
2021-12-11T09:41:59+09:00
2021-12-11T09:41:59+09:00
je2luz
雑感
使い勝手がすごく悪いです。
なにせ使える店がすごく少ないんです。
木本のような便利なところに住んでいても使えないところが多いのです。
子供への給付金を商品券にするって…
どう考えているのでしょう?
木本でさえ使い勝手が悪いのに…
周辺の店もない場所の人たちはどうするのでしょう?
吉野郡。東牟婁郡。南牟婁郡…
地域限定にされたらどこで買い物するの?
通販まで使えるようにしたら、限定をどうするの?
都会に住んでいる人だけが子供を育てているわけではないのです。
日本銀行券なら好きなところで買い物できますよね。
そもそも、大手スーパーまで外すような「買い物券」だと困りますよね。
ばかげている施策ですよね。
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木本町 消えていった店店 1
http://je2luz.exblog.jp/29013934/
2021-12-09T18:18:00+09:00
2021-12-09T18:18:43+09:00
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je2luz
熊野
飛鳥で育った僕にとっては木本の家に泊まると夜中に表通りを歩く下駄の音がうるさかったものです。
夜中になっても人通りがあったということです。
今は昼間でも人通りがほとんどありません。
それだけたくさんのお店が並んでいたのです。
記憶に残っている店を挙げてみます。
馬留・新出町20
宮本カシワ店・清玉旅館・滝本家具店(移転)・はまゆう中華料理店・太洋工業・岡本火薬店・黒田金物店・中村硝子店(移転)・中納洋品店・畑中農機具店・関西電力・葉山タース・
井本衣料品店・きよみ・餅屋・新宮信用金庫(移転)・中家酒店・みどりやクリーニング店・熊野日報・焼肉屋・
布袋町・関船町・24
島田ラムネ店(移転)
大谷自動車(移転)・ほていや履物店・前川歯医者(移転9・玉突きや・万熊酒店・泉金物店・清水時計店。速水おもちゃや・松田薬局・大畑パン屋・中日新聞・レコード店・沢田仏具展・紀南信用金庫・ささく本店・岡本家具店・えびすや・大黒屋・畑井魚店・天野屋酒店・丸福文房具店・旅館・西村洋品店・
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東南海大地震
http://je2luz.exblog.jp/29012345/
2021-12-08T14:07:00+09:00
2021-12-08T14:07:20+09:00
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je2luz
熊野
長生きしすぎてしまって次のが起きそうです。
前回の地震だと木本は大したことなかったようです。
我が家の前に展望はまだ低かった時代ですがほんの少しだけ波が越えたようです。
そのあとで展望がかさ上げされたようです。
そして、その後の「伊勢湾台風」の被害があってさらにt連坊がかさ上げされました。
その堤防がさらに改修されるときに私が大人になっていて、計画に文句が言える立場になりました。
高さが同じで位置が11m前に出るなって設計が出てきたので驚きました。
それでは高波にも津波にも弱くなります。
前に出さなくてはならない理由がはっきりしません。
と言うこちで、高さが変えられないら、「位置はそのままで…」と言う主張を遠ささせていただきました、
時の県会議員に山下さんがゆうことを聞いてくれたのです。
ちょうど一期目に市議会議員だったこともあり、展望に関しては市長も私にmかせるということになり、交渉がスムーズに行きました。
交渉と言うものはうまく運べばなんてことなく進むものですね。
堤防と言うものは「アンコ」をくるんだ形のが多いようです。
どう考えてもそんなに丈夫ではないのですが…
工事に着工すると、旧堤防の中身が大変な石垣が組まれているkとが分かりました。
計画では取り壊してコンクリートの中身をアンコで埋めることになっていたのですが、設計者もその石垣を保存して巻きたてた方が丈夫なので、「このままで良いですか?」と言う話になり、「設計変更が可能ならその方が良いでしょう」と言うことになり写真のような石垣を巻き込んだ田たちで仕上がりました。
この事実はあまり知られていません。
今の堤防は、「昭和の東海大地震」なら問題のない高さです。
ずっと開いていた「ゲート」「閉鎖されましたし…
本来なら大丈夫なはずなんですが…
想定より大きければ…
あきらめるしかないでしょう…
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木本町本町通
http://je2luz.exblog.jp/29011820/
2021-12-08T01:19:00+09:00
2021-12-08T01:19:04+09:00
2021-12-08T01:19:04+09:00
je2luz
熊野
旧制の市町村分けでは「木本町」だけが「町」でした。
旧熊野市では飛鳥町・荒坂村・新鹿村・大泊村・有井村・五郷村・神川村・金山村・などの村ばかりでした。
そして、新熊野市になったときも、合併したのは「紀和町」でしたが、もとは村が合併したものでした。
その木本も山を除けば平野が少なく小さな町でした。
それでも、狭い街並みなので「町」らしい風情でした。
江戸時代でも紀州藩の「奥熊野代官所」が置かれていたくらいですからね。
今より狭い区画でしたが、親父町・一丁目・二丁目・三丁目・関船町・布袋町・新出町と本町はきれいな街並みでした。
その後に道が作られ、新田・寺町・傘屋町・横町・井筒町などが広がっていったようです。
それでも南北に700m、東西に500mほどの面積でした。
私の子供のころには「立派な町」でした。
近所には「新宮市」がありましたが、子供のころに新宮に出かけるなんてほとんどありませんでした。
そして、今の木本町では人口も1727名ほどですが、ピークでは6000名ほどいたのではないでしょうか、
「町の中心は動いてゆく」と言われますが、途中からは「捨てられて行く」に近いようです。
この様子では「集落統合」も木本でも行わなくてはならないでしょうね。
空き地がどんどん増えても固定資産税の評価はいまだに下がりきらないし・・・
それより、住民の固定資産への評価が下がっていませんからねえ…
買い物をする店も殆どなくなっている不便な町なのですが…
おまけに間口が狭くて建て替えも聞かない土地が多いですし…
たとえ10年たっても20年たっても様子は変わらないと思います。
土地税制が変わって、不要な土地が自治体や国に戻るようにならないと…
無理を言っているのではなく、根本から考えないとだめなんですけどねえ…
本町筋はそれなりに商店街としての形が整っていたのです。
とはいえ、この本町通にはいろいろ入れ替わりながらとは言え私が子供のころには60軒ほどの店屋さんが並んでいたのです。
一応、大都会並みだったのです。
商店のほかにはこうした町家が並んでいました。
本町筋はお金持ちの家が多かったようです。
家の中の構造はどこも同じようなものでした。
それが隙間なく並んでいたのですから、立派な町だったわけです。
要害山から眺めた景色は今もほとんど変わりがないです。
隙間が増えただけです、
そして、この通りが「熊野古道・浜通り」だったのです。
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キーボード
http://je2luz.exblog.jp/29011173/
2021-12-07T15:48:00+09:00
2021-12-07T15:48:53+09:00
2021-12-07T15:48:53+09:00
je2luz
雑感
周囲のキーが過ごしずつ違いますね。
まあ、動けばよいのですが…
テストしようにもテストすることもないし…
エレコムの一番安いやつ???.
で…
なのかを書こうと思うのですが… 去年からは花火も突然打ちあがられたりしています。
集団を作ってはいけないそうですから・・・
来年の花火もそろそろ決断しないといけないのでしょうね。
自前の予算で行えるのなら良いのですが…
寄付も大変だし、色んな団体の協力も必要だし…
さらには長年や住んでしまうと体制を組みなおすのも大変でしょうね。
最大のボランティアの「イブーサ」さんたちも休んじゃうと続けるのも大変でしょうね。
駐車場とかを請け負う消防団も年々歳をとるし…
いろんな面で大変でしょう。
地元の観客も確実に減っているし…
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広報くまの12月号
http://je2luz.exblog.jp/29009366/
2021-12-06T04:38:00+09:00
2021-12-06T04:38:03+09:00
2021-12-06T04:38:03+09:00
je2luz
熊野
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馬留
http://je2luz.exblog.jp/29008841/
2021-12-05T17:33:00+09:00
2021-12-05T17:33:37+09:00
2021-12-05T17:33:37+09:00
je2luz
熊野
旧。紀州本藩と有井藩の境目になります。
隣が井戸川になり昔は橋がなかったところです。
熊野街道で馬が渡れなかった場所ですね。
そののところに「清玉」と言われた「木賃宿」がありました。
子供のころには「薬売り」の人などが泊まっていたようです。
他の宿とそんなに違いはなかったのに、地元の人からは「木賃宿」と呼ばれていました。
使われなくなってずいぶん経っていましたが、おばあさんもなくなっていたようです。
たしか娘さんはほいうくしょの先生だったような気がします。
古い木製の看板が珍しかったです。
その家が取り壊されました。
近所の家も一緒に取り壊されたにかな?
また、名物の家が消えました。
馬留も何軒も取り壊され、何軒も空き家のままで放置されています。
馬留と新出町との境は非常にわかりにくく、今の脇道は後に出来たらしく、本当の「国境」は三尺足らずの細い道です。
いかにも無理やり国を分けたと言う感じです。
そもそも、馬留は堤防沿いだけで、下りきった場所は「沼」だったのです。
戦後すぐに砂利屋さんが浜から線路を引いてトロッコで砂利を持ち上げて馬手てたのです。
今の丸山町がその場所です。
熊野市には平野がなかったので、昭和30年代頃かなあ…駅裏の「ふけ田」を井土の山を削って埋めたてて山の上に中学校の敷地を作り「赤坂」をつくり、対岸の田んぼを埋めて「井土」を作ったくらい敷地のない街だったのです。
有馬だって海岸沿いの浜通り以外は沼でしたから…
木本も本町通以外は土地が低く記念通り辺りは沼地だったそうです。
明治以降に発展しておきくなった町らしいですが、昭和の中ごろにはどんどん廃れていったようです。
栄枯盛衰と言うには短い期間ですね。
紀伊半島の地形はそんなところなので。「神々」は暮らせても「人間」には向かないようです、
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大相撲
http://je2luz.exblog.jp/28954963/
2021-11-09T09:59:00+09:00
2021-11-09T09:59:15+09:00
2021-11-09T09:59:15+09:00
je2luz
雑感
国内での新弟子希望者が少ないのか蒙古とかの弟子が相変わらず多いです。
それにしても、あの世界って相撲取りの数がやたらと多いですね。
選手としても寿命が短いのに・・・
張り手にかちあげなどと言った反則に近い技を一番上の力士が多用して、あまり大ぴらに注意も出来ないので場所い全体に品位が無くなって来ていたのですが、「引退」の時に、わざわざ注意してから年寄りを継がせることをしなければならないなんて・・・
力士は綺麗な体で土俵に上がらなくてななら無い・・・
と言われてきていますが、今は、包帯が勲章のように成って居ます。
「太りすぎ」が原因だと言われ出してからも一向に改善されません。
今度の一番上がその象徴のように成って居ます。
怪我は仕方ないにしても、ぼろぼろの包帯姿を晒して良い物では無いでしょう。
せめて。土俵上には格好付けたサポーターを付けて登るくらいの配慮が必要でしょう。
人気が出そうで出ない大関などは、「笑っては損」という態度です・
格闘技の世界とは言え、「無愛想」が格好良いものではないでしょう。
ぶっちぎりで強う訳でも無いし、綱渡りで大関を張っている調子ですしねえ・・・
大関になれば次々と怪我で脱落するのもんだいですね。
這い上がってくるのが美談では無く、体調管理などで力士を守ることも大事でしょう。
このままでは大相撲の人気が落ちることになるでしょう。
たまに取り上げる、大鵬関のお孫さんの「大鵬関」ですが、東十両7枚目まで修せして居るのですが、思うほどの成績にならず伸び悩んでいます。
体もそこそこ大きいし・・・
ただ、人の良さそうな所が気になります。
「十両」にまで出世すれば一人前と言われても・・・
あの世界は使い捨ての社会ですから・・・
血筋は悪く無さそうですから・・・
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