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LUZの熊野古道案内

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2009年 06月 09日

熊野の旅 国鉄紀南線の本が出るそうな・・・

 今年は紀勢本線全通50周年記念とかで、イベントなども計画されているようです。
 陸の孤島といわれていた紀伊木本と尾鷲の間に汽車が通るようになり、鉄道が紀伊半島を取り巻いたわけですから明るい話でしたからね。
 私も高校受験のときには連絡バスで『紀伊木本駅』から尾鷲まで42Kmを2時間40分かけて矢ノ川峠越えで行き、そこから 蒸気機関車の引っ張る「汽車」で相可口経由で亀山・名古屋と乗り継いで上京したのです。
 一体何時間掛かったのか覚えていません。
 東海道本線もまだ「急行」が主だった時代ですからね。
 田舎っぺの中学生がよく一人で行けた物です。
 で・・・受験は失敗して地元木本高校に行ったのですけどね。

 その二年半あとの高校三年の時、予備校の夏期講習で上京した時は、『紀伊木本駅』から改称した『熊野市駅』からジーゼルの引っ張る夜行列車で東京直行だったと思います。『相可口』も『多気』に変わっていましたし・・・
 熊野、新宮から東京、名古屋に向かう時には、この『紀勢本線全通』はものすごく役立ったのです。
 東京が随分近くなりました。

 昭和34年(1959)7月15日・・・これがその全通した日です。
 そして、その日が『国鉄紀南線』と言うバス路線が連絡バスとしての使命を終えた日です。
 その後も高校生に通学バスとしての役割で長年の間、熊野市の一番奥の集落、『大又大久保』までの路線は維持されていましたが、『矢ノ川峠』と言う難所を通らなくてもよくなった代わりに、小さなローカルバス路線になってしまいました。
 昭和34年7月号までの時刻表では『紀勢東線』と『紀勢西線』の間の連絡バスとしてきちんと乗っていたのですが、8月からは大きな時刻表以外には載らなくなってしまったのです。
 
 その縮小に伴い、沢山居た運転手さんや車掌さんの配置転換になりそれを機会に退職して行った人も多かったようです。
 日の当たる、『紀勢本線全通50周年』の陰になりがちな、『国鉄紀南線廃止50年』の記念行事として紀南線を偲ぶ本が出版されるようです。
 意外と残されていない紀南線の様子の一齣として、私が中学の時に矢ノ川峠峠の茶屋を撮ったスナップも使ってもらえるようです。
 紀南線を取り上げた映画『道』と言う物も上映されるようです。
 7月15日16:30開場 開演17:00 場所は熊野市民会館です。
 14~18日には資料の展示も市民会館のホールでやっているそうです。

 この路線を越えたことのあるのは、もう、老人の領域に入った人ばかりですね。
 何しろ、50年ですからね。
 そして、地元に残って居られる、元運転手さんも元車掌さんも当然のように年を召されております。
 私も半年だけは飛鳥から高校までバス通学したのです。
 制服に身を包んだ車掌さんには結構綺麗なお姉さまも居たのですけどねえ・・・
 当時はワンマンなんてのは「吉田茂首相」のニックネームでバスになんかそんなの無かったですからね。
 「都バス」でも車掌さんが居ましたからね。
 
 国鉄紀南線の様子が分かる映画は、この『道』しか無いようです。
 こんな映画はここでこうして上映される以外にはありえないでしょうから、もし、『国鉄紀南線』に思い出のある方はぜひ見に来て下さい。
熊野の旅 国鉄紀南線の本が出るそうな・・・_d0045383_11314823.jpg

 これは昭和32年秋ですね。
 熊野市立飛鳥中学校修学旅行です。
 矢ノ川峠の茶店前ですね。
 今でも、アマチュア無線の移動では「熊野市」「尾鷲市」の両方の移動運用ができるので登ります。
 広場は今も同じですが、茶店も無いし、まして後ろの『ハイヤー』なんて看板はありません。この看板は多分「尾鷲ハイヤー」なんだと思います。『タクシー」ではなく「ハイヤー」と言うのも時代を感じさせます。
 小さなバスで、尚且つ、ホイールベースをうんと短くした物です。後ろのオーバーハングがものすごく大きいですが、乗り心地よりは急カーブを曲がることが優先された車体です。
 『つばめ』のマークも今となっては懐かしい物です。

 そうそう・・・
 このまっすぐ後ろ辺りに『富士山』が見えるのです。
 年に数回くらいのことですけどね。

カメラは オリンパス35S1.9

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-06-09 11:39 | 熊野


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