LUZの熊野古道案内

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2009年 05月 26日

熊野の旅 50年前・・・昭和と言う時代 2

 長かった昭和と言う時代は前の方と後ろでは随分と世の中が変わっています。
 前三分の一は戦争の時代です。
 そして、復興期をはさんで後半は、まあ、日本の繁栄期といえるものでしょう。
 明治の文明開化に匹敵するような変化も敗戦と共におきました。
 戦時体制に入った頃からの異常なまでの国粋主義の反動でそうしたものの前否定的な動きもありました。
 そして、しばらくすると、もう一度、それへの反発も起きました。
 その動きは、昭和の後半より平成に入ってからの方が強いようにも思えます。

 昭和の時代に大きな犠牲を払って学んだことが忘れられようとしているのが少しばかり怖いです。
 戦国の世にも戦場とはならず、時々起きる「一揆」が大きな戦だったこの地方でも、近代国家の戦争はお構いなく兵士狩りを行いました。
 『赤紙』と言われる『召集令状』とが来ると、全国の駅には旗を持った住民が集まって「三等車」に乗って軍服を着た人を見送ったのです。
 ここは三重県南牟婁郡でした。
 陸軍の入隊先は「久居」の『陸軍第51連隊』でした。
 ここには『歩兵30旅団司令部』も置かれて軍都の様相を呈していたようです。
 目立ちませんが、今でも『陸上自衛隊久居駐屯所』が置かれています。
 紀勢本線が津の方に繋がっていない南牟婁郡では、記録映画や戦争物の映画に出てくるような、蒸気機関車に惹かれた列車に乗った『出征風景』はありませんでした。
 木本からは『省営バス』での出征、山間部ではバスの通るところまで歩いて。海岸線では巡航船での出征だったのです。
 そして、多くが、私の父や叔父のように帰らぬ旅立ちだったのです。

 ど田舎で、軍需産業も無く、港もなく・・・日本国内の国取りにも縁がなく、日本攻略にも価値のない紀伊半島の田舎町・・・木本でも戦争末期には機銃掃射を受けています。
 新宮市はパルプ工場があったので攻撃目標になり、かなりの部分を焼かれました。
 木本はそんなものがないので、ついでにほんの少しの焼夷弾を落とし、残り物の機関銃の玉で遊び半分に撃っていったようです。
 七里御浜沿いに低空飛行する艦載機・グラマンの飛行機乗りの顔が見えたそうです。
 制空権はもちろん、防空能力も無い田舎の町まで攻撃するほど余力があったのです。
 そして、出征兵士以外にも一名の犠牲者が出たそうです。
 特に群の命令があって攻撃目標になった町でなくても民間人も殺されます。
 
 東京や名古屋のような大空襲があった街でもその記憶は消えていっているようです。
 まして、焼け野原にもならなかった木本の空襲など無かったものになっているようです。
 もし、記憶している人が居るとすれば、70歳以上で木本の本町筋真ん中辺から新宮よりに当時住んでいた住民だけですからね。
 今、残っているおばあさんの多くは「戦後」嫁に来た人ですから実体験は無いわけです。
 かく言う私も、実家に打ち込まれた機銃の跡を見たのと、祖母などの話を聞いただけです。
 それと、狭い庭に掘られた防空壕があったことだけです。

 どこから見ても、何事も無く平和に古びて行った町に見えるのですが、『木本の昭和』にはそんなこともあったのです。
 木本だけではなく、全国、津々浦々まであったはずなのですが・・・
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熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-26 10:37 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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