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LUZの熊野古道案内

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2009年 05月 24日

熊野の旅 もうすぐ半世紀 紀勢本線全通 6

 まあ、この鉄道も日本に鉄道が敷かれ始め、「鉄道」が近代化の象徴とされた頃に構想が生まれ。、色んな鉄道会社によって手が付けられ和歌山からと松阪からとの線が延びてきたわけです。
 一部は『軽便鉄道』として建設され、おもちゃのような小さなものだったらしいです。
 
 ようやく『紀伊木本』まで線路が延びて、色んな会社も鉄道省によって統合吸収され、これから先は尾鷲に向かって難工事区間と言う時に、戦争が始まり工事が中断されていたわけです。
 戦後、世の中が落ち着いてきた頃に工事が再開され、昭和34年(1959)に全通したわけです。
 よく言われる『悲願の・・・』と言うにふさわしい物だったのです。
 それこそ、完成までに半世紀とかの時間があったわけですからね。

 南紀と名古屋、そして東京を結ぶと言うことに重要性があったと言うことは、この空白を埋めるために、海では『巡航船』をはしらせ、陸では天下の難所『矢ノ川峠』に道路を開いて、省営バス『紀南線』を就航させたことで分かります。
 私が子供の頃、その紀南線は『省営』ではなく『日本国有鉄道』になっていましたが、大人の人達は『省営バス』と、呼んでいました。
 私が東京に出た頃には、東京のお年よりは、山手線のことを『省線電車』と言っていましたからね。
 田舎だけが、戦後になって体制が変わってもそう呼んでいたわけではないようです。
 ただ・・・
 BUSが『バス』ではなくPASS「パス」になっていましたね。
 「デンワ」の「レンワ」と訛ったり・・・
 半世紀前のお年よりは不思議な訛りがあったものですね。

 この「国鉄紀南線」は列車連絡のバスですから、『紀伊木本』で列車が着いたら発車して、途中、『矢ノ川峠』の茶店でトイレ休憩をし、42KMを2時間40分で走りました。
 乗客の多いときにはバスが4台ほど動員され。それぞれが満員、ぎゅうぎゅう詰めと言うほど。客が居たものです。
 峠を越えたところの崖の上には『念仏坂』なんて呼ばれるところもありました。
 狭い砂利道の一車線道路で、対向するには退避場にバスを入れるのですが、車掌さんが降りて笛を吹いて誘導していました。
 バスが段々大きくなってくるし、バックして退避場に入れると、後ろの座席が空中に突き出すようなところもありました。
 乗客からは道路など見えません。見えるのは数百メートル下の谷底と800m下の尾鷲です。
 もちろん、『ガードレール』などありません。
 まさに、『念仏坂』だったのです。
 石垣でほぼ垂直に積み上げた路肩一杯まで使って走っていたのですが、紀南線が連絡バスとしての使命を終わるまでの間、この路線では木本町内での死亡事故以外の大きな事故はありませんでした。
 この路線の運転手は地元の人ばかりでしたが、一人を除いて、慎重でこれ以上ゆっくりは走れないと言うような運転をしていましたね。
 そして、皆さん、天下の難所を無事故で走り続けると言う使命感と誇りに満ちていました。

 『紀勢本線全通』のかげで『国鉄紀南線』が小さなローカル路線に格下げされると言う寂しい出来事があったわけです。
 でも、こんなに沢山の客が、この苦しいバスを使ってでも行き来するのだから、鉄道が通ればものすごい数の乗客が・・・と、期待もしたわけです。

 それから先は、期待通り地元の産品、『材木』『石』などを運び出し・・・ついでに一方通行で『人間』も運び出して行きました。
 そして半世紀経つと、もはや、運び出す産品もないし貨物の取り扱いもなくなりました。
 運び出し続けた『人間』も底を付き始めました。

 私も、この線路で外へ出たのですが、『返品』されてこちらに帰ってきた人間です。
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熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-24 12:01 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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