人気ブログランキング |

LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ
2009年 05月 20日

熊野の旅 もうすぐ半世紀 紀勢本線全通

 昨日はがっかりしました。
 何しろ、同じものを二度と書けない方の物書きなので・・・
 一日経って、気を取り直してチャレンジします。

 昭和34年(1959)7月15日に戦前から進められていた紀伊半島をぐるっと回る『紀勢本線』が全通しました。
 この日で、『紀勢西線』『紀勢東線』な無くなって、一本の『紀勢本線』になったのです。
 そして、『国鉄紀南線』のバス路線は鉄路の無い部分の連絡バスの役割を終えたのです。
 もう一つ・・・『紀伊木本駅』が無くなって『熊野市駅』になってしまいました。

 紀勢線が全通すると同時に消えたものに、新宮から相可口までの区間で旅客列車を引っ張る『蒸気機関車』があります。
 それまでは紀勢線は東西共に蒸気機関車が客車を引っ張っていました。
 線路も細いし、鉄橋も弱いので『D51』なんて重量級の機関車は入ってきませんでした。『C』系列のものでしたね、

 その頃の旅行では、夏になると『扇子』が必需品でした。
 普通の平地を走っているときでも『煤煙』(石炭かす)が飛んできてひざに溜まるくらいですから、紀勢東線側の『尾鷲』-『大内山』区間など、トンネルが多いですから窓を閉めていても入ってきて服に積もりましたし、下手に払うとシャツなど真っ黒でしたからね。
 それに、その頃の客車には「冷房」なんてありませんでしたからまさに必需品でした。
 国鉄の技術陣も工夫して、煙突の上に蓋をつけて、トンネルと七では煙が出ないように・・・
 機関手たちも、トンネルの手前では目一杯石炭をたいて、蒸気圧を危険ゾーンのぎりぎりまで上げてトンネル内で石炭をくべないようにして・・・
 でも、トンネルの連続区間ではその対策にも限界があります。
 まして、紀伊長島から大内山に向かう区間のように、急勾配の上り坂でトンネルの連続・・・では、釜をたき続けないと止まってしまいますからね。

 その頃は客車に『一等』『二等』『三等』とありました。
 切符も「三等…赤」「二等…青」「一等…白」だったかの色分けがされていました。
 『一等』なんてのは東海道本線の特急『つばめ』『ふじ』なんてのにしか連結されていなかったものです。
 『二等車』はローカル線でも車両の半分、とかに作られたものが走っていました。
 
 私は小さな頃に祖父に連れられての家族旅行では『二等車』に乗せて貰いました。
 『三等車』は垂直な背もたれの、下手すると、背もたれが板の座席なのに対し、『二等車』は今の座席のように柔らかく、頭のところには洗ってアイロンを掛けたカバーがかかっていました。
 車掌もその列車で一番偉い『専務車掌』が白い手袋をはめて、敬語を使って応対していましたね。
 まさに、時代物に出てくる社会でした。
 
 大きくなって自分で切符を買って乗るようになってからはそんな切符は買うはずもなし・・・
 草しているうちに『三等』というイがなくなりましたね。
 全部が『二等』扱いになって、切符も『赤い切符』が消えました。
 赤い切符が無くなってからその日から車両が変わったと言うことはありません。
 ほとんど存在しない『一等』が廃止されたので、順に繰り上げになっただけです。
 そして、『差別はいかん』と、考えたのかどうかは知りませんが、階級制ではなく『グリーン車』なんてものを作り出し『区別』するようになりましたね。

 この「一等・二等・三等」の区分は今でも車両の識別富豪の中には生きていますね。
 電車のわき腹にかかれた、『モハ××』。ジーゼルの脇に書かれた『クハ○○』などの『ハ』は三等車両ということですからね。
 たしか『モハ』はモーター付き三等車両、『クハ』は駆動エンジン付き三等車両…だったように思います。
 もう半世紀も昔に覚えたものであまり定かではありません。
d0045383_10415672.jpg


カメラは

 レンズはカール・ツァイス・イエナ ゾナー135mm f4 東ドイツ

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-20 10:43 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://je2luz.exblog.jp/tb/9750978
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]


<< 熊野の旅 もうすぐ半世紀 紀勢...      熊野の旅 もうすぐ半世紀 紀勢... >>