LUZの熊野古道案内

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2009年 05月 09日

熊野の旅 町の遺産では? 木本上水道

 以前にも書きましたが、熊野市木本町はこの地方の中心として栄えました。
 熊野川河口から始まる、『七里御浜』の名前の通り、20Kmほどの緩やかな砂利浜の終わりの地点、緩やかな「浜街道」も終わるところです。
 これから伊勢までは山又山・・・海沿いも入り江と岬の繰り返す難路です。
 回路を行くにも沖に出れば黒潮に流され、ジョン万次郎になるし、岸を伝うと座礁して神武の軍勢のようになるし・・・
 旅人が難関に挑む身支度をする場所、江戸や尾張・伊勢から来た人は、ようやく平地にたどり着き一休みする場所だったのです。
 支配者にとっても、「奥熊野代官所」を置くほどですから、目の届く最後の場所でもあったのでしょう。
 霊場熊野の入り口・出口だったわけです。

 しかし、波打ち際から山すそまで数百メートルしかない狭い土地です。
 地盤は砂利浜が半分を占めます。
 山は急でまともに屋敷も畑も作れません。
 昔で言えば、『貧乏な土地』の代表みたいな条件なのです。
 大きな川もなし、井戸を掘ろうにも下が砂利なので崩れてしまいほれない・・・
 危ない目をして無事に掘っても、塩水が逆流して飲み水にならない・・・

 そんな土地に住み付いて、商いと材木と漁で生きようとしたのです。
 生きるためには『水』が要ります。
 飲み水の確保が出来ないと待ちは大きくなれません。
 木本の人は、江戸時代から、竹や木と使った樋で街中まで山水を引き。何とか生きてきたのです。
 ローマ帝国の水道みたいには行きませんが、小さな町が総力を挙げて水を引いていたのです。
 その時代の水を受けていた大きな石の水槽が何個か残されています。
 木本の歴史を語る上でぬくことの出来ない文化財です。

 この木本が近代的な町になったは「上水道」が完成したときからです。
 先日も少し書きましたが、昭和11年11月23日に供用開始された『木本上水道』です。
 水源は、古代から木本を支えた、『西郷川・にしごがわ』の最上流部です。
 最上流部といっても、鬼ヶ城東口の河口から1Kmほどしかありません。
 たったそれだけ遡るだけで、海抜数十メートルになり、自然流下方式で木本全域に給水できるほど山が急なのです。
 水量が少ないので、当初から大きな貯水池・調整池を作ったものです。
 今はそれらの池は役割を終えて、沈殿・ろ過池などは干し上げられています。

 戦前の建造物らしい、少しデザインを施された施設が山間に眠っていますが、今では誰も訪れないようです。
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 江戸時代だとか古代だとか言うと興味を持つ人が多いのですが、「昭和期」となると中途半端なのか興味を示されないことが多いですね。
 この当時の木本町は「中西駒彦町長」を先頭に、街づくり、都市計画に奔走した時代です。
 こうして作った「上水道」は県下の田舎町ではダントツに早かったものです。
 全国を見ても、大都市を含めて上水道普及率が3割の時にこんな田舎町がやったのですからね。
 さらに、木本の中心街、熊野市の中心街になった『記念通り』を計画し建設に踏み切ったのもこの時代です。
 まだ、自動車なんてほとんど無い田舎で、二車線で両側に歩道をつけた道を田んぼの真ん中に作ったのです。
 こうした先輩諸氏の意気込みを残すものはもうほんのわずかです。
 この「木本上水道」もそうしたものの一つです。
 使わないから・・・と捨て置くにはもったいないものですね。

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-05-09 11:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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