熊野市が成立する前の三重県南牟婁郡では木本が『町制』をしいているくらいで一応待ちの形態をなしていました。
他のところは全部『村』でしたから、あまり町並みと言うものはありませんでした。
古くさかのぼれば、農地の無い木本に比べ、沼地が多いとはいえ「、水田のある『有馬』の方が豪族の住処には向いていたようです。
かなり古くから人が住み着いていたのは間違いありません。
何しろ、火の神を生んだのが奥有馬の『生田神社』で母親を祭ったのが、下の写真の背景にある山の中腹なのだそうですからね。
縄文時代土器や更に古い石器も沢山出るのだそうです。
この通りは、有馬の旧市街と言うか、昭和40年代に国道が少し海岸線に出てゆくまで国道42号線になっていた道です。
『花の窟神社』のところで90度に二回曲がってから直線に進む昔にしては珍しい道です。
次に曲がるのは『立石』と呼ばれる、『浜街道』と『本宮道』の分かれ道のところです。
もっとも、この分かれ目も江戸時代とかにきちんと整備された街道同士の『追分』のようにきちんとしたものではなく何箇所もあるようです。
大化の改新の頃に整備が始まったにしても、やはり参詣道であり、東海道、山陽道。奥州街道などとか言うような、物資の輸送、人の移動、天下獲りなどには縁の無い道なので、『ここが宿場』なんてこともきちんと定められていなかったのでしょうね。
山賊の副業でやっている民宿なんてあったのかもしれません。
この有馬は近代になると木本が狭くてどうしようもないからだったのでしょう、色んな官舎が一杯あったところです。
『電電公社』『電源開発』『国鉄』『県事務所』・・・沢山ありましたね。
木造平屋建ての官舎があちこちにあって、少し言葉の違う人と子供が居たものです。
いまでは、ほとんどの官舎が無くなり、土地も払い下げられてしまいましたね。
払い下げて一部がアパートになったりしていますが、空き地のままで放置されているところもあります。
人口は官舎が減った分減ってしまったようです。
この道筋には、薬局も2軒あり、電気屋、酒屋、米屋、散髪屋、パーマ屋、肉屋、産婦人科医院・・・何でも揃っていたのです。
いまでは、そうした店はほとんど閉店し、実に静かな町並みになっています。
同じところで90度山の方を向いた細い道の風景です。
この辺りは、町並みと言っても、やはり百姓さんの屋並だったところなので、庭があり、生垣で囲んだ家が多いのです。
結構まともな生垣の中がみかん畑だったりするのもいかにも田舎らしいものです。
このすぐ先を走る『紀勢本線』の汽車からだと、手を伸ばしたら取れそうな所に夏みかんがなっています。
ローカル線らしいです。
カメラは
オリンパス・ワイド
熊野市周辺地図です、