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LUZの熊野古道案内

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2009年 03月 17日

熊野の旅 昭和の大合併の頃

 熊野市の発足は昭和29年(1954)11月3日です。
 この時期に、市町村合併の特例法が出来て、国の方針で町村合併を促進したのです。
 たしか市になる要件は5万人位だったのを、3万まで引き下げて大量の『新市』を誕生させたのです。
 熊野市も合併準備の段階では9ヶ町村の合併を目指したのですが、合意に至ったのは8か町村でした。
    戸数 7.127  人口 31.693人 でした。
 この時代にはまだ世帯の分離が進んでいなかったこともあり、人口が今の5割り増しなのに戸数は3割も少ないです。
 これは珍しいことではなく、日本全国の田舎ではこうした傾向があります。

 この年の出来事となると、熊野市の年表でも、合併に伴う学校や組織の名前の変更が並びます。
 合併で自治体の名前が変わるとそうしたものは全部付け替えますからね。
 目に見えにくいところでは、この31.693人の住民票も全部、『南牟婁郡○○村』から『熊野市○○町』に書き直したのです。当時は手書きですから、すべて手書きで直したのです。
 更にはこれより数の多い、『戸籍』も書き直したのです。
 私が生まれたのは・・・『三重県南牟婁郡木本町』でした。   それが知らない間に『三重県熊野市木本町』で生まれたことになっていました。
 大人になってから、市長に『私は熊野市木本町生まれじゃなくって南牟婁郡木本町生まれのはずだけど・・・』と、言った事があります。
 市長も、『俺も南牟婁郡飛鳥村生まれだのに熊野市飛鳥町になっていて、違和感がある・・・』と言っていました。
 戸籍の出生地は歴史ではなく、場所を示すものなのでこうなるようです。

 合併の直前(10月)に、紀伊木本駅(現・熊野市駅)の前の沼地の埋立地が完成しています。
 旧・有井村が失業対策事業として造成したのだそうです。
 浜寄の一角に細い線路がしかれ、トロッコで浜の砂利を毎日毎日上げていたのは記憶にあります。
 詳しい時期までは覚えていませんでしたが、合併前の事業だったようです。
 この完成によって、駅前が広くなり、随分街造りが変わりました。
 この工事が無かったら、市役所の場所も全く違っていたでしょうね。
 この沼を記憶しているのは、私より年上の人ですね。
 それでも、『駅前の沼』と口に出しても、『そういやあ、確かに沼があったのう・・・』と言うような記憶ですね。
 人間の記憶って当代のことでもそんなものですから、100年も経てばほとんど消えてしまうのですね。

 合併の時・・・
 私たちの、出来立ての『熊野市立小阪小学校』でも旗行列をやりました。

   三重の県(あがた)の 南(みんなに)の
   ここ紀ノ國の み熊野の
   8つ(やつ)の町村 すべあわせ
   いま新しく 生まれたる
   熊野 熊野市 栄えあれ

 たしか、こんな歌だったと思います。
 加水かな記憶しかありません。
 なにしろ、熊野市の市歌ではなく、合併祝賀の歌ですからね、その時限りなんです。
 もっと大きな
   『金鵄輝く 日本の・・・・・・』
 なんて、日本中が覚えて歌って旗行列、ちょうちん行列をやった、『紀元は2600年』なんてのでさえ忘れられてゆくのですからね。

 ちなみに、げっぺい特例でスライド敷に市議会議員になった数は8ヶ町村分で131名でした。
 翌昭和30年2月に正式の熊野市議会議員選挙が行われ30人になりました。
 昭和の大合併の時だけではなく、平成の大合併でもこのような体育館でしか議会を開けないような事態が一次的に起きていますね。
d0045383_11491679.jpg

 この市章は合併時に公募で集まった中から選ばれたものでした。
 熊本の方の作品で・・・『ク・マ・の』を組み合わせたものだそうです。
 今の4代目市長によって、『平成の大合併』を機にデザインが少し変えられています。

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-03-17 11:43 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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