LUZの熊野古道案内

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2009年 03月 11日

熊野の旅 紀勢本線 西・東

 紀勢本線は元々東西に別れ、紀勢東線と紀勢西線でした。
 難工事区間を抱えた鉄路ではこうした例も多かったですね。磐越東線・磐越西線なんてのもあったように思います。

 紀勢東線は参宮線と相可口(おうかぐち・現多気駅)で別れて紀州をめがけて南下してきました。尾鷲までは戦前の昭和9年(1934)に開通しましたが、それから南は海岸線を走るとはいえ、リアス式海岸で路線の半分以上がトンネルと言う、その当時としてはものすごく大変な区間でもあり、戦時色が濃くなってからは中止されました。
 紀勢西線は戦前の昭和15年(1940)に和歌山ー紀伊木本(現熊野市駅)が全線開通しています。この線も終点の『紀伊木本駅』を出るとすぐにトンネルに入りまさにトンネルだらけになるので一つ目のトンネルは出来ていたように思いますがその先は中断されていました。

 昭和31年(1956)にほんの少し伸びて新鹿までになり、一部の普通列車が入るようになりました。
 その頃は東線側の三木里との間の工事が盛んだったので資材運搬も盛んに行われていましたね。
 高校の遠足で、まだ珍しかった『木本ー新鹿』の汽車に乗って行きましたが、一両かなんかしかない客車には乗れないので、国鉄公認で無蓋車(トムかトラかは覚えていません)に乗り込んだものです。
 たった、6.8Kmだそうですが、無蓋車で蒸気機関車と言う今の日本では考えられないような遠足でした。
 今のアジアや南米チリあたりの光景と変わらないことが半世紀前には日本でもあったわけです。

 全通したのが昭和34年(1959)7月15日です。
 今年の7月15日に50年を迎えます。
 その日から紀勢東線・紀勢西線が無くなって、『紀勢本線』になったわけです。
 ようやく、長年の願いがかなって一つに結ばれました。

 しかし、この『紀勢本線』は昭和62年(1987)に離縁させられることになりました。
 国鉄民営化の煽りで、またまた東西に裂かれました。
 今度は近畿と東海、三重県と和歌山県の境で東海旅客鉄道と西日本旅客鉄道の二つの会社に入るようになりました。
 分かれ目は『新宮駅』になりました。
 「新宮ー熊野市」の元・紀勢西線側も東側にくっつけられることになりました。
 
 その後、紀勢西線は電化され、東海側は電化されることはありませんでした。
 東海側は今でもジーゼル機関車と気動車です。
 でも、東海側の車両は西日本側の線路を走れます。
 『特急・南紀』な紀伊勝浦まで走ってゆきますが、『特急・くろしお』は新宮駅から数百メートル走ったら止まってしまいますから、こちらには来られません。不便な車両です。
 ・・・なんて、負け惜しみですね。
 それ以外では、ジーゼルは加速は悪いし音はうるさいし・・・なんですけどね。

 線路の写った紀州の写真では、東海側か西日本側かすぐに分かります。
 たとえ車両が無くても・・・無い方がすっきり分かります。
 だって・・・上に架線があるかないかですぐに分かりますからね。
 かくして、乗り継ぎのあまり良くない東西の紀勢線があるのです。
 西側は、『きのくに線』なる名称を使っているようですね。
 離縁して長くなると苗字まで変わったようです。
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カメラはオリンパス35C・昭和30年ごろの写真機です。

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-03-11 11:50 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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