LUZの熊野古道案内

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2009年 03月 03日

熊野の旅 紀勢本線も50年

 紀勢西線、紀勢東線がつながって、ようやく紀勢本線が姿を現して半世紀です。
 まだまだ鉄道が主役だった時代でしたから、この開通は大きな期待を載せたものでした。
 遠かった東京が少し近くなりました。
 材木なども関西にしか出せなかったのが、貨物列車で大市場の東京に出始めました。
 今ではうそだと言われるくらいですが、『恵比寿』に貨物駅がありました。この辺の製材が付き合うようになった材木問屋あての貨物は『恵比寿』に着けたのです。
 荷扱いは『日通』・・・『丸通』でした。
 熊野市が関西経済圏から中京経済圏に移り始めたきっかけがこの紀勢線全通でした。
 これがつながるまでは、紀勢西線終点の熊野市・紀伊木本駅から紀勢東線の乗り場の尾鷲まで国鉄バス『紀南線』で808mの矢ノ川峠を越え、42Kmの道のりを2時間40分かかっていたのです。
 今の特急だと名古屋まででも3時間40分ほどです。
 紀勢線は希望の鉄路だったのです。

 私が高校受験の時には、まだ『国鉄紀南線』の時代でした。
 高校3年で予備校の夏期講習を受けに出る時には『紀勢本線』でした
 
 もう、日本からは『ブルートレイン』が消えるとか言われますが、東京までのたびは『寝台列車』の旅でした。
 まだ、『ブルートレイン』なんて言葉はありませんでした。
 寝台車の車両が全部青くなったのはもっとあとですからね。
 昭和30年代には三等車の茶色い車両が一杯走っていましたし、寝台車も普通席車両と連結されて運行していました。
 紀伊勝浦ー東京駅は『急行那智号』でした。
 寝台車と普通席との混成編成で、最初の頃には確か一両の半分が一等車なんて車両を使ったこともあったと思います。
 この列車『那智号』は東京駅を出る時は他の列車との混成でした。
 東京駅ー伊勢市駅の『急行伊勢』と多気駅で別れます。
 その前に、名古屋駅で、東京駅ー金沢駅の『急行能登』と別れたり。東京駅ー大社駅?の『急行出雲』と別れたりしていました。
 東海道を単独で走るほど乗客が居なかったと言うことです。

 スタート時点からあまり見込みの無い線でしたから、この夜行急行列車も東京駅を出るのがやたらと早かったのです。
 もちろんこちらからも早く出ます。
 道中は着時間に合わせるため時間つぶしでのんびりゆっくり途中停車します。
 たった500KMほどを11時間かけて走ったのですからね。止まっていないと早くつきすぎるのです。
 それでも、「こちらから東京に向かうと、東京駅着が7時ごろ・・・ちょいと早すぎる時間でした。
 今のように24時間営業の店なんて無かった時代です。
 何も無い東京駅周辺で、ただ一軒、八重洲口正面左側、今のブックセンターのあたりに食堂が開いていました。
 下宿へ行くのも早すぎるし・・・そこで朝飯を食べたものです。
 東京駅駅前だのに「大衆食堂」『駅前食堂』でしたね。
 熊野市駅の前には4・5軒の駅前食堂があった時代です。
 改札を出ちゃうと、山手線の切符が改めて要るのですが、時間つぶしに高田馬場まで歩いたり・・・料金が変わらない千葉の近くまで切符を買っておいて東京駅を途中下車にしたりしましたね。

 熊野から東京に向かうのは寝台、東京から熊野に帰るのは普通席・・・懐具合を示すものですね。

 新幹線の無い時代・・・東京と紀州を結ぶのはこの列車だけでしたから、東京駅夜8時ごろ15番線に行くと見たことのある顔が散見されたものです。
 東北の人じゃないからか、わざわざ故郷訛りを聞きに行くほどホームシックにはかかりませんでしたがね。
 
 考えてみれば、たった4両ほどの列車でまかなえるほどしか東京との交流は無かったってことです。
 それが満員になるのは暮れと正月、夏休み前半くらいですからね。
 今の時代の特急が空っぽでも仕方ないですね。
 夜行も列車が無くなりうんと小さなバスになっていますが、これも中々一杯にならないようですしね。
 連休とかでなければ、思いついた時に池袋からバスに乗れば、朝には『熊野古道』を歩けますよ。
 運行は西武と三重交通です。
 往復2万円でお釣りがあります。

 『一回、来てみやんし』
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 カメラはオリンパスワイド

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-03-03 14:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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