LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ
2009年 02月 23日

熊野の旅 50年前

 今日の朝日新聞三重版によりますと、今年9月で『伊勢湾台風』から50年になるようです。
 伊勢湾台風を知る人もほぼ全員還暦を越える年寄りばかりになってきたわけです。
 役所などからは経験者の姿が消え、残された数字だけが残るのでしょう。
 このあたりでも、以前から、海岸の防災とか河川の改修のときに引き合いに出されるのが『伊勢湾台風級の台風にも耐えられる・・・』と言うものです。
 しかし、その根拠になるデータ、参考資料は残っていないのです。
 『南海・東南海地震』に関しては、太平洋戦争末期ということもあり、軍部が日本国内の大災害を発表すると国民が動揺し、米国を利する・・・と言うことで、公表させず、記録写真なども回収・廃棄したのであまり残っていなくても当たり前なのですが、世の中が落ち着いていた『伊勢湾台風』の記録も、意外と公式には残されていないようです。
 これは、今のお役所の文書管理も大きく影響しているでしょう。
 くだらない書類を大量に作る習性から、書類の保管が大変・・・だから、古いものは捨てる・・・と言う図式を作ってあります。
 本来は、事務連絡のメモでも残っていた方が後日役に立つものもあるのです。
 残っていない方が役所にとっては都合がよい時の方が多いでしょうけどね。
 早ければ二年、大体五年もすれば焼却処分されます。
 『永久保存』とでもはんこを押さないと、決まった日にロッカーから引っ張り出されて事務的に搬出されます。
 背表紙だけを見るだけで、中身までチェックなどと言うことはありません。
 それをやったら、個人の家の大掃除みたいに前に進まなくなりますけどね。

 『伊勢湾台風』の時には私は木本に居ました。
 ニコンFの到着待ちでした。
 予約したのが伊勢のカメラ屋だったので、ものすごく心配したものです。
 手元には、オリンパス35Sがありました。

 台風のさなかには石垣に守られた裏座敷の小窓から裏の堤防に高潮が打ち寄せるのを見ていました。
 堤防に波がぶち当たると、家は衝撃で大きく揺れ、波しぶきが大きく目の前に立ち上がります。
 その波に含まれる小石が、吹きすさぶ強風、おそらく50m級の風でしょう・・・それに乗って飛来します。
 距離は今の国道と歩道をあわせただけです。
 石垣、植え込みがあるので風はずいぶん弱められては居ますが、ばらばらと音がしました。
 一部はさらに30mほど離れた母屋まで飛んでいます。
 豆粒くらいの小石ですが、速度が速かったのでしょう、薄いガラスに空気銃で撃ったときのような穴が開いていました。
 今の国道は芋畑や倉庫、平屋のアパート、平天工場などが並んでいたのですが、目の前で波が堤防を越えたとき、一発目で大きく揺れ、二発目で倒れて流れ始めました。

 こうした現場に居合わせた人間はほとんど居ないのです。
 石垣に守られているとはいえ、何がおきてもおかしくないので、海岸線の住民は避難しているか、一番海から遠い方で震えていたはずですからね。
 何しろ、まだ高校生で怖さを知らなかったので目撃したわけです。
 台風が通り過ぎてすぐに、木本町内と駅前方面を見に行きました。
 木本では本町筋、関船町辺りから馬留までは道路が瓦で舗装された状態でした。屋根瓦が無事だった家は皆無と言う惨状ですが、人的被害はありませんでした。
 駅前は、市役所脇から駅に掛けては井戸川の逆流で水浸しになり、駅前にあった製材所群から流れ出た丸太が散乱していました。
 分譲したてでぽつぽつ新築の家が建っていたのですが、一階部分はすっぽり浸かる状態でした。
 色んな垰風を経験しましたが、こうした災害の大きさはやはり『伊勢湾台風』が一番でした。

 残念ながら、こうしたものを写真に残していませんね。
 大人だったら残すのでしょうが、子供にとってはそうしたものを記録として残すと言う考えが浮かばなかったようです。
 高いフィルムを買ってまでは出来なかったのでしょうね。
 今となっては残念なことです。
 口で説明できるのはほんの一部ですからね。
 それと、実態は写真を見せてもぴんと来ないくらいの物ですから、見せるものもなしでは・・・
 
 ただ・・・
 その経験から、人間の作る堤防対台風の勝者が予測できるので、高く見える堤防も信用できません。
 少しでも木本の町を守れるように、『潜堤工事』だけは何とか取り付けておきましたが、あと何年かかるやら・・:
 目に見えない工事ですから、やっていることを知らない人の方が多いようです。まして、その効能などほぼ全員知らないのでしょうね。
 知られなくても、守れればそれで十分なのです。
 でも、自然の力の大きさだけは少しくらい理解してほしいですね。
 折り合いをつけるのがやっとで、勝つなんて出来っこないですから・・・
d0045383_1235489.jpg


カメラはツァイス・イコンタ35

熊野市周辺地図です

by je2luz | 2009-02-23 12:12 | 熊野 | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : https://je2luz.exblog.jp/tb/9378905
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Commented by 奈良熊本の若造 at 2009-02-23 22:04 x
50年前、高校生でカメラですか、ハイカラさんだったのですね。
30年前、高校生でカメラを私も買いました。
ぼんぼんのすねかじりでした (失礼私の話です)
当時、宮崎美子のコマーシャルをやっていました。
買ったのはその前のSR505ですが。
高校の修学旅行に行かずにXDも買いました。
アルバイト代で300mmや24mmも買いました。
人物写真も少々とりましたが、何気ない風景写真が好きでした。
寂れる九州の炭鉱町の写真が多かったので、
勝手ながらje2luzさんの写真に近い感じがあると思います。

大学も写真学科に進み4X5やゼンザブロニカも購入したが、
今はもうやっていません。
今は首の回らないサラリーマンです。
Commented by je2luz at 2009-02-24 00:47
 カメラを使い出したのは小学校の時ですね。親父の形見のウェルタ・ペルレを使いたかったのですが、もったいないと言うことでメイカイフレックスと言うおもちゃを与えられました。
 中学の時にオリンパス35S1.9を買ってもらって、まともな写真が取れるようになりました。
 次は、ニコンFが出るのでどうしても欲しく、小さい時からためてきたお金をはたくから足りない分を助けて・・・と、おばあちゃんに頼みました。
 こんな時はおばあちゃんが一番です。
 もちろん、ニコンFに届くはずもなし・・・私の貯金ではほんの少し足しになるくらいでしたが、おばあちゃんってありがたいです。
 伊勢湾台風の三日後、汽車が動いたので伊勢まで受け取りに行きました。

 大学は理工学部でしたが 先輩には秋庄さんが居ると言う日本最古とも言われる名門写真部に居ました。
 ノンポリでしたから 学園紛争よりは女の子のほうが・・・少しはデモの写真も撮りましたけど婦人科でしたね。
 その時代にはホースマンも使いましたね。

 林業が元気だったのでどら息子が出来たのです。
 今ならとんでもない話です。


<< 熊野の旅 5年前      熊野の旅 大正モダンの流れ >>