先日、串本にトルコ海軍の士官たちが訪れたようです。
日本に寄港したトルコ海軍の乗組員だそうです。
明治23年(1890年)、トルコ海軍のエルトゥールル号が日本への親善訪問の帰りに潮岬沖で遭難し、殉職者587名、生存者わずかに69名という惨事が起きました。
そのときに地元の人たちが懸命の救助をし、死者を弔ったことへの返礼と殉職者への慰霊で、今でもこうして訪れるようです。
熊野灘は、『灘』と付くだけに荒れる海です。こうした遭難は大昔から起きていたようです。
古くは、伝説の世界になる神武天皇のころにも軍勢が遭難して二木島湾に逃げ込み、それを地元の漁師たちが救助したなんて話が残っています。
二木島の『舟こぎ祭り』はこれに由来するなどとも言われています。
太平洋戦争中には山の中で異国の人を拘留、強制労働させることが起きました。
紀和町の紀州入鹿鉱山での話です。
朝鮮半島からの強制連行した労働者、イギリス軍の捕虜などが坑内労働に動員され、多数の犠牲者を出しました。
戦後ずっと経ってから、イギリスの人たちは許してくれ、『イルカボーイズ』と言う名前で、異国に眠る戦友のお墓に参るようになっていたことは何回か書きました。
これも、本人たちが老齢化してしまい、昨年でその形は終わったようです。
これからは単純な国際親善事業になる感じです。
歴史上はっきりしない話になりますが、「秦の始皇帝」に不老不死の薬を探せと命じられて日本にやってきた『徐福』は、ここ熊野の地にも薬草探しにやってきたようです。
新だのもこの辺だと言う話で、あちこちに伝説が残されているようです。
ここ熊野市の波田須には『徐福の宮』があり、今でも地域の人に手厚く守られています。
この徐福に関しての国際交流の古い記録が残されているようです。
朱鳥4年(690)2月、熊野鬼ノ本に異国船二隻来る、徐福祠に詣で詩を読む・・・と、熊野年代記に書かれているようです。
おとといの熊野人道の建設が観光振興のはしりなら、この徐福の祠に中国からの訪問者があった事などは国際親善事業のはしりでしょうね。
海に面しているので、色んなものが流れ着いたでしょう。
日本海側と違い、向かいっ側に国などないので、遭難だとかで流れ着くのがほとんどだったでしょうけどね。
ちなみに・・・
徐福が探しにきたのは『天台烏薬』だと言われています。
一時期はすっかり忘れられていましたし、薬効なんて何も伝わっていませんが、近年では観光用物産として、これが植えられ、『天台烏薬茶』などとして、お土産屋さんなどで売られています。
何しろ『始皇帝』に命じられた『徐福』が探しにきた、『不老不死の妙薬』のはずです。一度試されてはいかがですか?
少しでも何かに効くのなら、地元で民間薬として伝承されてきたでしょうけどね。
アロエの医者要らず以下なのかもしれませんね。
カメラは
ウェルタ・ウェルチI テッサー50mm
熊野市周辺地図です