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LUZの熊野古道案内

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2008年 12月 06日

熊野の旅 大化の改新 熊野古道の始まり

 大化の改新(大化2年・646)なんてはるか遠く、都の勢力争いとか制度の改革程度に思っていましたが、その影響はこんな田舎にも及んで居たのです。
 神話の世界では、伊勢の神と熊野の神が話し合いをしたとか言われる、『逢神峠』なんて場所の由来とかにも関わる国境の変更が行われたようです。
 この時に、独立した『熊野国』が廃止され、今の熊野市二木島町を境に東側は『志摩国』に組み込まれ、西側は『紀伊国』に組み込まれたようです。
 この国境は後にうんと北側に寄せられ、荷阪峠まで動いています。
 今は紀北町になっていますが、紀伊長島と言う地名が一番東の端になっています。
 まあ、この国替えなんてのは小さな部分では何度も繰り返されたことで、方言の形成などには影響したでしょうが、今となってはどれほどの影響があったのか分かりません。

 大化5年(649)に・・・
 『熊野参詣人道をつくる』と熊野年代記にあるようです。
 一年で出来る物ではありませんが、この頃にきちんと確立されたと言うことでしょうね。
 つまり、今の熊野古道の原型が1350年程前には確立したと言うことでしょう。
 何本もあり、複雑な熊野への道のうちでどれのことだか私は知りませんが、どっちにしても、都の方から熊野詣に来る人がたくさん居たので、参詣用の道をきちんと整備したと言うことでしょうね。
 その10年ほど後の斉明4年(658)には時の斉明天皇が『紀伊牟婁温泉に行幸』と日本書紀にあるようです。
 この頃から、暖かい、神々の住む、牟婁の地、熊野の地に都人は憧れたようです。

 『牟婁・むろ』とは『室』に通じ、暖かな場所と言う意味のようです。
 最近は使う人が少なくなりましたが、少し前まではこの辺で、蒸し暑い部屋を『むろのような・・・』と表現していました。同じように、サツマイモを発芽させたりする温床を『むろ』と呼んでいました。
 都から見れば一山裏側になる南紀は黒潮の影響もありものすごく暖かな土地だったのだと思います。

 『熊野』の方は以前にも書きましたように、『ゆうや・ゆや』とも読みます。
 能の演目には『熊野・ゆや』と言うのがあるようです。
 『ゆうや・ゆや』は『幽野』とも書けるようです。
 つまり、『幽玄の土地』と言うことですね。
 地名が出来る時点ですでに『神々の郷』だったのでしょう。

 さらには古くから温泉が発見されていましたから、熊野詣はしんどいですが、その付録に暖かな場所で温泉にまで浸かれる、来世にも現世にもご利益のあるいい場所だったのでしょうね。
 日本列島温泉だらけになった今の時代では、温泉があるだけでは客は来なくなりましたがね。
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木本町全図です

by je2luz | 2008-12-06 13:07 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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