本宮から川を下って新宮に出ると便利な熊野川も御浜街道をたどってくると、最大の難所になります。
紀伊山地に降った雨を集めた川は水量も多く流れも河口部でも早いです。人間の足で渡れる場所などありません。これは渇水期の冬場でもそうです。増水期は船でも流されて無事に対岸に渡れません。
この
『熊野川』も一時は建設省の勝手なやり方で
『新宮川』と、名前を変えられ、国土地理院の地図もそうなっていました。しかし、この川は昔から『熊野川』でした。『新宮の川』と言う呼び方はしても『新宮川』とは・・・
熊野市をはじめ近隣・流域の市町村のしつこいまでの運動でようやく『熊野川』に戻りました。 新宮側当時は下線の標識に新宮川(熊野川)とカッコつきで併記していました。新宮川では通用しないのを建設省も知っていたようです。
豊富な水量と紀伊山地の豊富な森林資源を搬出するため、昭和30年頃まで
『筏流し』が行われていました。
材木の集積地としては新宮が有名ですが、対岸の鵜殿も筏を引き込む堀と貯木場があり、製材所が立ち並んでいました。
その資源を当てにしたパルプ工場が作られ、筏がなくなった今も操業を続けています。
『日本一狭い村』のキャッチフレーズでやってきた鵜殿村ではこの
『紀州製紙』が村の一割ほどの面積を占め、その税金で潤ってきました。今でこそ地方交付税を貰っていますが昔は村民税も安く、PTA会費も要らないほど豊かでした。
この企業城下町を象徴するのがさらし粉の匂いでした。パルプの漂白に使う薬品とチップを煮る匂いで他所のものは吐き気を催すほどでした。それでも、文句を言う村民は居ませんでした。
公害対策が世の常識となった今ではこのようの吐き出されている白煙も水蒸気ばかりになり匂いもほとんどなくなっています。
パルプ産業の衰退と共に税収も落ち込み、この『鵜殿村』ももうすぐ姿を消します。