LUZの熊野古道案内

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2008年 11月 21日

熊野の旅 熊野の古い道

 コメントの欄に昔、『今のような新道が出来るまでは集落間の行き来はどうしていたのでしょう?』と、言う趣旨の書き込みがありました。
 昔の人にとって、意外と日本が狭かったように、かなり積極的に人の動きがあったようです。
 木本の衆がわざわざ山を越えて泊の衆と喧嘩しにいったり・・・
 殿様級ともなれば手勢を率いて地の果てまで戦をしに行ったり・・・

 紀州の中でもこの熊野市のある辺りは、都からは遠く不便極まりない場所です。
 それが証拠に、江戸時代の初め頃に代官所も『奥熊野』といわれたくらいです。
 平地も無く、米がそんなに採れないので人口も兵力も増えることも無く、大きな豪族も育った無かったようです。
 しかし、不便で隔離されては居ますが、この辺の山は比較的なだらかです。
 日本列島の背骨の方の山だと、下手に迷い込んだら断崖絶壁、集落の間の山が越せないなんてのが一杯です。
 この辺だと、独立峰的に聳えている山でも1300mがせいぜいなのです。
 海と山間部をさえぎる山も肩の部分となると400mとか500mほどしかありません。
 山間部の集落の間だと200mとか300mで済みます。
 谷川も瀞八丁や大杉谷のように命をとるようなものではありません。
 岩場もちょっと迂回すれば登れる物です。

 このような地形の所ですから、昔、人間が歩いて行き来した時代には網の目のように山の中に道がありました。
 海岸線を結んでいたのは今で言う『熊野古道』が幹線道路でした。
 飛鳥(小阪)から木本へは『評議峠道』・・・小阪峠から新田の一番奥からまっすぐ谷沿いに下りてきます。旧道よりはるかに短いです。この道を使って子供の頃に木本まで歩いて映画を見に来たくらいです。
 その道を小阪峠のすぐそばで分かれると大馬に出られます。

 新鹿ー小阪は八丁坂越え
 新鹿ー小又も直通です。
 小阪ー柳谷、碇なども直通ですね。
 井戸ー瀬戸ー神川も大峪越え直通
 五郷ー大又は池の宿経由の道もありました。
 私も知らない道がこうして一杯あったのです。

 国土地理院の地形図でもそうした道はカバーできていないようですが、集落の間の山のくびれの部分に向かって必ず道が入っていました。
 一部には石積みした部分もあるくらいでしたが、踏み固めた道は人が歩かなくなるとほぼ消えてしまっています。
 そのルートも最早知っている人が居なくなって来ています。

 山越えの道は今の人間にとって結構きついですが、徒歩時代の田舎の人間にはさほど苦にならなかったようです。
 現に私が若かった頃に山の見回りとかで老人の人と一緒に山に入ると、平地の間は遅いのでいらいらさせられていたのに、一歩山に入るとこちらがついてゆけなくなるのです。
 平地も山も同じピッチで、疲れたといわないで歩けるからです。ものすごく険しくなければ山道でも一時間1里(4Km)近く歩くと言われました。
 今の道路はトンネルなど抜いて近く見えますが、地図で見ると結構遠回りしています。
 人の道はまっすぐ山を越えて結ぶので思ったより近くて早かったのです。

 これはここだけではなく、何処の田舎でも結構あることだと思います。
 昔近かったのに新道が出来て疎遠になる集落なんてあるのです。
 昔々、間に山があるのに縁が深かったかどうかは、江戸時代から昭和のはじめくらいまでに縁戚関係のある家が何軒もあるかどうかで知ることが出来ます。
 世話をする人が行き来をしていたとかで縁結びをしていたわけですからね。
 しかし、この縁戚関係を知る人もどんどん減って来ていますね。
 これも郷土史の根っこの部分なのでしょうね。
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木本町全図です
 

by je2luz | 2008-11-21 12:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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